遠い距離と銀の毛並み 3
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窓枠の下で、うずくまること数分。
微かにドアを叩く音がして、エレナはようやく火照りが治まってきた顔を上げる。
ノックの音は続いているけれど、その位置に違和感がある。
(下の方から聞こえてくる?)
ノロノロとエレナは立ち上がり、ドアについた、覗き穴から様子を伺うけれど、そこには誰もいなかった。
「開けてください。エレナ殿っ」
聞こえてきたのは、ジャンの声だった。
「えっと、リドニック卿?」
「はい、ジャン・リドニックです」
「良かった! 無事だったんですね?!」
エレナは、慌ててドアを開く。
やっぱり目の前に、ジャンの姿はなかった。
「あ……」
「この通り、無事ですよ」
目線を下げると、ようやく視界にジャンの赤みを帯びた毛並みが見えた。
「…………毛並み」
「もう、ある程度予想してましたよね?」
「ええ、まあ。予想してなくもなかったですよ?」
「どっちですか」
(狼の姿になるのか、聞いてみようとは、思っていたけれど、まさかその姿のまま現れるとまでは予想していなかったわ)
レイよりも、小柄な体格。たぶん、狼と言っても種類が違うのだろう。
赤みを帯びた薄茶色の毛は、今すぐに撫でてみたいと思うほど、艶やかだ。
そして、毛と同じ色をした、透明な輝きの瞳は、エレナをまっすぐに見つめている。
だが、残念なことに、その毛並みは、一部焼け焦げてしまっている。
「私を庇った時に、怪我をしたんですか?」
エレナは、ジャンを部屋に招き入れる。ジャンは、傍に置いてあった小瓶を咥えて入ってくる。
ジャンが完全に部屋の中に入ると、ドアを閉め、両膝をついた。
焦げてしまった毛を掻き分けるように探すが、特に傷がないことがわかると、ホッと息を吐く。
「良かった。怪我……してないみたいですね」
「エレナ殿の魔法薬で治りましたよ。その代わり、今魔力が枯渇しているので、この姿から戻れないですけどね」
「あの非常用の魔法薬を、使ったんですか」
魔術師が、魔力枯渇を起こしたら、それは死を意味する。でも、騎士なら、傷が治る効果が、通常よりも高いなら魔力が枯渇しても使うだろうと相場より値引きして納品した覚えはある。
(でも、リドニック卿は、魔法剣士に近い戦い方をする。魔力が枯渇する商品を納入するのは、良くなかったわ)
エレナの作る魔法薬は、性能が高い代わりに、少し変わった副作用があるのだ。それ自体が、命に関わるほどではないにしろ、時と場合によっては、副作用は命取りになる。
「よく効きました。エレナ殿は、二度も助けて下さった、俺の命の恩人です!」
「えっ? 助けられたのは、私の方」
「いえ、エレナ殿が来てくれなければ、今回も騎士団の隊員は多数、犠牲になったでしょう。そこには、俺も、団長も含まれていたはずです」
エレナは、そんな大したことをした覚えがない。
ただ、自分に出来ることを、必死になってしてみただけで。
でも、これ以上否定したところで、おそらくジャンは譲らない気もした。
ペロッと、ジャンがエレナの指先を舐める。
「痛そうですね。せっかく綺麗な手をしているのに」
そのまま、ジャンは、切なげにエレナの手を見上げた。確かに、紫に染まった爪と、赤く腫れて水膨れが出来た手は、痛々しい。
「こんなの、魔法薬を使えば、治る傷ですから。……それに、見た目ほど痛くないですよ」
腫れてしまった手は、水疱ができているけれど、魔法薬をかければ、すぐに良くなるだろう。
とりあえず、可愛い姿のジャンが悲しげに尻尾を垂れているのは、エレナとしても身につまされる。
「これを使って下さい!」
「え?」
目の前に置かれたのは、おそらく回復の魔法薬だ。今回の騒動で、品薄のはずなのに。
「あと、俺は自分が無謀だという自覚がありましたが、それよりも無茶をする人を初めて見ました」
「え? 誰ですか、それ」
(リドニック卿より無茶をするなんて、相当だわ)
獲物を前にしたように、二人は視線を逸らすことなく見つめ合う。
「俺は、エレナ殿のこと、守りたい」
「えっ、ありがとうございます」
魔法薬を使い、エレナの手は元の白くて艶やかな姿を取り戻す。紫に染まった爪も、ようやく薄れてきた。
「やっぱり綺麗な手ですね!」
ニカッと、狼の口なのに、ジャンは笑ったようにしか見えなかった。
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