2XXX年 シブヤ②
「このあと、一杯飲まない?」
「え。」
「なに。どうせ予定ないでしょ?」
「いや、ボッスから誘ってくるの、珍しいなって。」
慣れた手付きでピカソの絵画『ゲルニカ』を専用の額縁にしまいながら、ビジネスパートナーであるボッスという男はどこか遠くを見てつぶやく。それが自分に向けられた言葉だと分かるのに、少し時間を要した。前から表情に乏しく、感情の起伏も少ないボッスだが、今日はいつもに増して何を考えているか本当に分からない。
それを肯定の言葉と捉えたのか、無言でボッスが歩き出す。長身の彼は歩幅も広く、ついていくのがやっとだ。現場であるショッピングビル901からは少し離れた、シブヤアークシティの最上階にある、スタシオンカフェへ向かった。
夜にしては人(まあ、正確にはヒトではないのだが)が少なく、やけにでかい絵の入ったカバンを持っていても注目を集めないこの場所は、仕事後に祝杯をあげる、二人の常連の店になっていた。少し値は張るが、ほぼ暗い灯りと、シブヤを一望できる夜景を考えると、決して高すぎる金額ではない。
「オレ、結婚するんだよね。」
サーブされたウイスキーを乾杯する間もなく、あいかわらず無表情のまま、ボッスは言いのけたのだった。
「ぶはっ!...ついに妄想で頭いかれちまったか。お気の毒に。」
「シブヤで一番頭の弱い奴に言われると、なかなかこたえるね。式の準備とかあるから、しばらくは一緒に組めないから。」
全くこたえていない能面のような表情は、どこか悪い冗談を言っているようにしか聞こえない。結婚?この世で一番縁のない言葉じゃねーのか。
「え。仕事は、どうするんだよ。」
「サトーなら、一人でもできるでしょ?ゴキブリ並の生命力じゃん。」
「全く褒められている気、しねーんだけど。」
「お前を褒めて、オレになにか良いことがあるの?」
いつもの調子で他愛のない口喧嘩に発展しそうになるところを抑えて、彼を睨みつける、長い指でグラスを見つめる彼の瞳は闇のように深く、人形のような美しさを備えているものの、どこか近寄りがたい魅力を放っていた。
「ふーん。おめでとう。」
「ありがと。式の連絡は、またするから。」
「......さようなら。」
一気にグラスを飲み干し、その場を去ることにする。自分はこんな冷たい声色も出せたのか、と驚いた。何より、恋人でもない相手の婚約宣言に戸惑ってしまっている自分に、反吐が出る。この店も、二度と来ないだろう。あまりにも、彼と過ごした思い出が多すぎて、息が詰まってしまう。
「左様ならば」の「ば」が略されてあいさつになったと言われる、この言葉。二度と会うことのないであろう響きを感じるのは、私だけだろうか。
あばよ、は「また逢はばや(またあはばや)」が転じたものらしい。あえてこちらを使わなかったのが、せめてもの抵抗だった。そんなことを言えば「なに。サトーのくせに。」とかからかわれそうだから、絶対に教えてやらない。
ビジネスパートナーとしてボッスという男と共に過ごした3年間はあまりにも長く、恋と呼ぶには軽すぎて、愛と呼ぶにはあまりにも愚かだった。ふと、彼の長い髪は、後ろ髪をひかれるためにあるんだろうか、なんて柄にもないことを考えた。