第三話
この話で今日の投稿を終了します。
避けて斬るか、走って斬るか、それだけだった。
巨大ゴブリンは足こそ傷で動かないが、上半身は活発に暴れている。空紀の足と同じで、止まらない猛攻。
斧の風が肌を過ぎるだけで、その危険度が推し量れた。当たればまず死ぬ。掠っても、それまでの時間がわずかに延びるだけ。
だが前に出なければ、結果は変わらない。そもそも持久戦なんて相手の思う壺だ。
「あ、ぶなっ!?」
握力が弱まって鉈が滑り、斧で弾かれた石に当たりかける。耳元を飛んでいった石の塊が後コンマ数秒速ければ、空紀の右耳を爆散させていたかもしれない。
体力と気力の底が鮮明になってきた。落ちそうな膝に力を入れ、なんとか鉈を持てている状態だ。
ここ幾度かの応酬で、空紀は一度も攻撃出来ていない。距離を取り、久しぶりの停止。自分のやれそうな事を確認する。
手が鉈から離れない、今はそれでいい。足が棒のように硬いが、まだ走れる。怒りは全て、気力に変えた。
鉈を後ろに構え、その瞬間までぶら下げる。腕や肩に力が入らない分、下半身を意識した。残り少ない勢いを持って鉈を急所に届かせなければ、空紀は死ぬ。
「来いや、この……クソやろーが!!!」
まさか異世界でこんな言葉を吐くことになろうとは。罵声といえど、大声は気持ちを昂らせる。根性論だが結果が付いてくるなら、この叫びも捨てたものではない。
捨てるべきはこの思考。
何でこんなことをしているのか、何でこんな所にいるのか、数分後の空紀は異世界に居るのか。
答えてくれる者などいない。未来が不安なんて、至極真っ当な考えだ。
正面から一直線に走った。すでに空紀の心臓は、最上級の危機に臨界半歩前だ。
巨大ゴブリンが叫びながら、斧を持ち上げる。踏み込む足が動かない以上、どれだけ溜めてもそれは全力じゃない。が、力任せの上段は喰らえば十二分に挽き肉コース。人間の立場から見れば、違いは肉片になるか斧の錆となるかだけだ。
空紀は一つ目の賭けに勝った。
逆上している巨大ゴブリンは、無防備に突っ込む空紀との相対に、横斬りより力が乗る縦斬りを選ぶと予想したのだ。
ずっと横に避け速度を殺すしかなかった上段を、加速し懐に入ることで躱した。必殺の余波が、強く空紀の背を押す。
麻痺していた嗅覚が、巨大ゴブリンに近づいたことで痛みを訴えた。奴自身から漂う臭いは、鼻が機能していなくても鼻腔にダメージを与えてくる。生理的に流れる涙をこぼしながら、山のようにそびえる巨大ゴブリンの腹に向かって跳ねた。
時間の緩やかさを感じつつ、汚い緑の胴体を足場に助走を始める。うっとうし気な身動ぎを根性で耐え、空紀は上へと今の全力で跳んだ。
広く白い部屋を見渡し、巨大ゴブリンを見下ろした。予想より大きく飛距離が稼げている。
初めの虐殺返しから違和感はあった。メタボの子供並みに重い鉈を正確に振り回し、それを可能にする身体能力。運動神経が鈍かったとは思わないが、それでもここまでではなかった。五メートルはある巨大ゴブリンに傷を負わせつつ、猛攻を避け続けられる程では。
軽い。
鉈と言う重りがなければ、滞空時間は伸びていたかもと勘違いしてしまうくらいに。自分の体重が一桁台になったように感じる。体重計に乗ってみたいと思った。
原因不明の状態の長所に喜び、短所を実感する。落下速度の計算が狂い、巨大ゴブリンの追撃が整いつつあった。強化された動体視力で見る世界は危険の前兆をより鮮やかにし、恐怖を煽る。ゆっくり迫る手の平は、空紀を小枝より容易く折り潰すだろう。
二つ目の賭けに出た。三桁に届きそうな反復動作で鉈を振り回し、勢いを利用する遠心力運動。鉈の力で軽くなった自分の体を操作、手の上から指の上へと移動する。大きい手が壁になり、真上から少しずれた空紀に気づいた様子は無い。
回転は速度を上げ、目標の障害物を切断した。突然の指の欠損に膠着する巨大ゴブリン。興奮がアドレナリンを産んだのか、痛みで暴れるまで少しの余裕がある。
それだけで十分だった。
「くたばれ―――!!!」
眉間あたりの少し上、髪の無い頭部はデコの範囲が分かりにくい。深く、可能ならより深く刺さるように、鉈を振り下ろした。正しく渾身の一撃。
空気が叫声に揺れる。生命の際に発せられた悲鳴は、その巨体が仰向けに倒れるまで消えなかった。手応えはあるが、確信が無い。投げ出された体を鉈と片膝で支え、顔を上げる。
天井から光が漏れた。
「上っ!!」
柱に転がした男がこんな声だった。光から伸びるツルを見ながら、そんな事を考える。ツルは二・三メートル成長し、倒れる巨大に一番近い所から水々しい葉を生やした。
あれはダメだと、足をみっともなく振るわせながら立ち上がる。
男のわめきがうるさい。内容は聞き取れないが、そんなに騒ぐなら自分でやれと言いたい。
鼓動がうるさい。血液の巡る音が鼓膜に反射して、体内に響き渡る。
記憶がうるさい。空紀の中の残りカスに等しい思い出が、脳裏で再上映されている。
巨大ゴブリンの輪郭が、涙と混ざっていく。なんとなくの方向と高さで空紀は跳び、葉から滴る一滴を全身に受けた。
目から耳から口から鼻から、入る水がうるさい。
それでも空紀は巨大ゴブリンの息がまだあることを知る。
水と涙に濡れた目を開け、鉈を振り上げる。渾身にはほど遠いが、あの時と同じように血が噴き出した。皮膚にへばりつく血を溶かす水へ、より新しい血が混入する。
今さら気にすることもない。空紀は手を休めず、巨大ゴブリンの頭を耕し続けた。
母は実家の手伝いと家事で忙しい人だった、高校生になって手伝えることが増えた。父は家にあまりいない人だった、仕事や上司との付き合いで帰ってきたらすぐだらけていた。■とは別段仲は悪くなかった、と思う。手伝いを頼めば、苦い顔でも手を貸してくれた。
最後に家族全員で出掛けたのはいつだったろう。中二の時、父の遠出に便乗した時か。来年には中学生の■が迷子放送されたのは憶えて
あれ
とっくに血は勢いを無くし、鉈が頭蓋骨との戦いで刃こぼれを増やしている。
あれ
■、てだれだっけ。
閲覧有難う御座いました。