運がいいところ
【久しぶり! 美雪です。そろそろ美容院行きたいなあなんて…カットをお願いしたいです。】
【いいよ。いつ? 時間も含めて】
【土曜日の午後が希望だけど、まだ大丈夫?】
【大丈夫。カラーはいいの? とりあえず、まだ何時でも空いてる】
【うん。今回はカットだけでいいかな。じゃあ、一時からでもいい?】
【おっけー。それで予約入れとく。店の場所わかる?】
【場所は大丈夫だよ。車で行こうと思ってるけど、駐車場はお店の前?】
【そう。ライン引いてあるから好きなとこ停めて】
【わかった。一応、時間より五分くらいは早く着くようにと思ってるから、そんな感じで向かうね】
【そんな心配しなくたって大丈夫だっての。面接行くんじゃなくて、髪の毛切りに来るんでしょ】
五月に入って、ゴールデンウィークもあっという間に終わってしまった。
休みのだらけた生活に身体は簡単になれてしまって、久しぶりの出勤日は憂鬱である。これが五月病か、と毎年のことながら美雪は人知れず顔をしかめた。
そうして迎えた月曜日。
美雪は久しぶりに桜庭に連絡を取ってみた。数週間前に会って以来、会うことはなかったがあのあとすぐにお礼の連絡だけはしたので、ちょこっと電子文書を行き交わせることはした。
桜庭は基本的に短文である。美雪もそれほど頻繁に友達とやり取りをしないから、女にしては素っ気ない部類かもしれない。ただ、彼女の周りにいる友人も似たり寄ったりなので、本人はあまり気にしていないが。
その桜庭の勤める美容院に客として行く、という約束はまだ有効のはずだ。
別れ際に念を押されたし、メッセージでもちゃんと来いよと添えられていた。二度ほど読み返したのでそれはたしかだ。
それで、この日桜庭へ連絡をして、土曜日の一時に行くことが決まった。返事を見てほっとし、スケジュール帳の枠の中に【美容院 一時】と書き足した。そこでちょこっとため息をこぼす。
美雪は、正直に言うと美容院は苦手である。
あのお洒落な雰囲気は、行きなれたところでないと尻込みしてしまうし、こういう髪型にしたい! という希望があるわけでないから、ええとじゃあとりあえず毛先を切って調整してもらえれば……なんて無難な依頼をするくらいだ。
そういう話を美容師にするのも緊張するし、切っている間の世間話も慣れるまでは探りあいになるから肩に力が入りっぱなしだ。人見知りには敷居が高いのである。
今回は桜庭が相手だから会話の面に心配はないが、彼は友人だけれど職場で仕事として美雪に向き合う。
他の美容師だっているから、美雪だって必要以上に馴れ馴れしくしないつもりだ。気をつけないとなあと思うと、それがまた余計に緊張させた。
そうして土曜日になって、美雪はため息をついて車を走らせた。
桜庭の勤める美容院は、美雪の知る限り例に漏れずお洒落な雰囲気である。生活観を一切感じさせない、スタイリッシュでシンプルな店の造り。そこに自分がちゃんと行けるだろうか。いらぬところで心配が募る。
美容院、というとその雰囲気に合わせたくなるのか、なんだか自分も洒落込んでいかないといけない気になるので、美雪は気に入っているミントグリーンのワンピースにネイビーのカーディガンを合わせた。
タオルやカットクロスを巻くから、ハイネックや大きく胸の開いた服などは避けるようにしている。あと、ピアスも着けたり外したりするのも面倒なので、あらかじめ着けない。
実際に美容師に言われたわけではないから、それが美容院でのTPOに則っているのかは不明だが。
隣駅となれば距離はたいしたことはない。すぐに車は店の前に美雪を運んでしまった。
【Fortunata】と流れる書体が看板に並んでいる。
六台くらいは車が停められるようだ。すでに三台埋まっている間に、美雪はベージュのラパンをゆっくりと駐車した。
サイドミラーをしまって、エンジンを切る。時計は、美雪の宣言通り予約時刻の五分前を指していた。
桜庭は、まだ他の客を対応しているのだろうか。
大きなガラス張りの店内を、ちらりと見ると鏡の前で椅子に腰掛けている客と、親しげに話す美容師の姿が見える。床をブラシで掃いているスタッフや、シャンプー台のところでタオルを出しているスタッフもいる。桜庭はどこにいるのかわからなかった。
お洒落なスタッフがいっぱいいて、もし桜庭がまだ手の空かない状況だったら、初対面の彼らと話すところから始まるはずだ。それがまた美雪を怖気づかせた。たかが美容院、されど美容院。
ただ、美雪だっていつまでも車に乗っているわけにもいかない。
こういうとき、変に小心者である自分が嫌になる。ため息をついて、車から降りた。小さいハンドバッグを持って、車に鍵をかけるとウィンカーがチカチカ光る。
店の入り口も、大きな硝子ドアだった。重たそうなそれに歩み寄ると、さっと人が入り口に近づいて中から押し開けられる。桜庭だった。
「サク」
ほっとして美雪は彼を呼んだ。
すると桜庭は呆れたように美雪をまじまじと見て、それから軽く噴き出した。
「ちゃんと店の前に駐車場あっただろ? そんな心配そうにしなくても、取って食ったりしないって。――いらっしゃい」
最後に店員としての一言を添えた桜庭は、自信なさそうな顔をしている美雪の心境を正確に理解したようである。
そんなに入りにくいかなあ、と小さく呟いたのが聞こえて美雪の顔は恥ずかしさで真っ赤だ。
いらっしゃいませ、と明るい声が美容師たちからかけられる中、美雪はぺこぺこと頭を下げながら桜庭についていく。荷物を預けて、入り口近くにあるソファーを示された。おずおずと腰掛けると、手板に紙が挟まれていて、それに簡単でいいから答えてと渡される。アンケートのようだ。
名前と連絡先、年齢や職業など簡単な情報を書き込む。店側が客を登録する情報だろう。こうして先に無言で尋ねられれば、歳や職業を自分で言う状況にもならないからありがたかった。
ああ、でも担当は桜庭だからそんな心配はいらないんだったなと、アレルギーの有無まで書き終えて美雪は苦笑する。
できました、と渡したものを桜庭は受け取ってフロントに控えていたスタッフにお願いしますと差し出した。そして、美雪を振り返って鏡張りの前にある椅子を示す。
「髪型の希望は?」
よいしょと腰掛けた美雪の髪を、櫛でとかしながら鏡越しに桜庭は美雪を見た。
それになんだか慣れなくてむずむずして、美雪はまだ少し赤みの残る顔に困惑を浮かべる。わずかに口が尖っている。
「いつも、とくにこれといってなくて……毛先切ってもらって、量が増えてきたからすいてもらうんだけど」
「伸ばすつもりとか、そういうのは?」
「うーん、今のところは肩につかないくらいが楽チンかなあと思ってるんだけど。――美容院、ちょっと苦手で、緊張するから、あんまり担当さんと深く話さないでいたの。今日はサクだからまた違うけど」
「ホント、変なとこで気ぃ遣うというか、心配性というか。美容師としては、いろいろ言ってもらえるほうがイメージも掴みやすいし、合わせやすいと思うんだけど」
「それは、まあ、わかってるつもりだけどさあ。前髪がぱっくり割れるから、それが気になるくらいで、あとは似合えば嬉しいなあとか、それくらいしか思いつかないんだってば。その、似合う髪型っていうのも正直わかんないから」
だんだんと声が尻すぼみになっていくのに、桜庭は苦笑しながら櫛を動かす。
頭の形を確認したり、美雪が言った前髪を覗き込むようにして首をかしげた。
「前髪はさ、ここんとこだろ? 割れちゃうのは生え方がそういうふうになってるからだな。スタイリングでなんとかするのもいいけど、いっそのこと伸ばす方がしっくりきそう。似合うとも思うし。全体はもうちょっと伸ばして、ゆるくパーマしてもいいかな。今の時点だと、レイヤーをもうちょっと入れて軽めにしてもいい」
桜庭は櫛を置いて雑誌を手に取った。美雪の前に置かれたなかの一冊だ。
後ろではなく、椅子の横に立ってぱらぱらと捲ると、美雪に見えるように屈みこむ。
モデルの写真が並んでいるのを指差した。
「これの、ちょっと短めのイメージかな。前髪は、こっちの人みたいに横に流すようにする」
「おお……」
今の美雪はちょっと長めのボブだ。
毛先を揃えてもらっていたから、今桜庭が示したような髪型よりも重たい印象。雑誌のモデルは毛先をふわふわとさせてやわらかいイメージを与えた。
「これはまあ、ワックスもつけてるからカットだけでこうはならないけどな。――どう?」
「うん、なんかわくわくした」
「じゃあちょっと髪の毛濡らそうか」
ようやく笑みをこぼした美雪の、その感想を聞いて桜庭はくくっと喉の奥で笑った。美雪の椅子を回して、シャンプー台の方へ向ける。
お願いします、と桜庭が声をかけると、控えていた女性スタッフが、ご案内いたしますと微笑んで半歩前を歩いた。
すみません、お願いします。美雪は頭を下げて彼女についてく。シャンプー台を示されるとよいしょと腰掛け、ずりずりと位置を合わせた。
倒しますね。はい、すみません。お湯は熱くないですか? はい、大丈夫です。
それほど大きくない声だけれど、腰の低いそれは桜庭にも他のスタッフにも聞こえている。雑誌を整えて、腰にあるシザーケースの道具を確認した桜庭は、届いてくる美雪の声に思わず口許を緩ませた。
ブラシやピンを乗せたワゴンに、お客の髪質や頭の形などを書き込む用紙があって、それに桜庭は先ほど確認した美雪の情報を書き込んでいく。そうしている間に、美雪の方も準備ができたようだ。
お疲れ様です、起こしますね。はい、すみません。さきほどご案内した席のほうへお願いします。はい、すみません、ありがとうございました。
ぺこぺこしながらこちらへ歩いてくるのに、さすがに桜庭は噴き出した。無愛想にされるよりはよっぽどいいが、どうにも気を遣いすぎている様子だ。小動物が必死に動き回っているように見えて、肩が震える。
そんな桜庭のことはちっとも目に入らないらしく、美雪はようやく席にたどり着くと、桜庭が椅子を向けたのにぺこりと頭を下げて腰を下ろした。
はあ、と大きなため息がこぼれたのに遠慮なく桜庭は笑った。