居酒屋で腹ごしらえ
「遅い」
真っ暗な夜の空が広がって、店の明かりと車のライトが目に眩しい。
春と謳われる四月のはずだが、まだまだ朝晩は冷えて上着なしでは寒い日が続いている。店の中では椅子に掛けていたジャケットを羽織ると、不躾な声が投げられて美雪は踏み出した足を止めた。
「なんでサクがいるの?」
先ほど相沢との間に割ってきた同級生が、入り口から数歩離れたところに立っていた。
店の壁に背を預けて、手にしていたスマートフォンをポケットにしまった彼は軽く肩をすくめた。
「偶然。――まさか俺だって、たまたま寄ったファミレスで知り合いがマルチに勧誘されてるとか思わないし」
「……いつからいたのよ」
「美雪が安いネットショップを友達に紹介するとか、そのへん? まあいいけど。――にしても、お前本当変わってねえなあ! 自分の中で話は決まってるのに、お願いされたり押しが強かったりすると、まあいいかってなるの」
うっと言葉に詰まる。まさに先ほどの美雪はそうだったからだ。
あの話には乗らないようにしたい、と自分の意見ははっきりしていたが、結局相沢への恩義だとか、今後の人間関係とか考えてまあ一回くらいは……と首を縦に振ろうとしたわけだし。
気まずくて目を逸らすと、サクと呼ばれた男はおもしろそうにくくっと喉を鳴らして笑った。
「ちゃんと断った?」
「……うん」
「じゃあいいじゃん。――飯、行こうぜ。どうせお前、あの話延々と聞いてて何も食べてないだろ」
「それは、そうだけど」
「俺も思わず食うの忘れたし。軽く一軒行こうぜ。久しぶりじゃん会うの」
「そうだね」
軽い感じに言うのに、美雪はため息をついて笑った。肩の力が抜けていく。どうやら、それなりに気を張っていたらしい。
その辺の店でいいか。言いながら歩き出した相手に、美雪は駆けてその横に並んだ。
サク――桜庭敦は美雪と小学校からの同級生だった。
まだ男女それぞれのグループに分かれてしまう前のときから、よく遊び、よく話し、よくふざけ合った友達だ。
小学六年生のバレンタインのときに、美雪が好きだった田中くんへチョコを渡すのを手伝ってくれたのも、この桜庭だった。渡すタイミングが掴めなくて、もうダメだと半泣きになっていた美雪に、彼は呆れ顔で、それでも田中をうまいこと美雪のところへ差し向けてくれた。今思うと、いいやつじゃないか。
中学へ上がってクラスが分かれた。
新しい環境と、このころになると男女に分かれて固まることが定着してしまって、廊下で会ったときに挨拶するくらいの関係である。
高校になると初めの一年だけ同じクラスになったが、あとはまたクラスが分かれ、それほど会話した記憶もない。大学は別だったし、その後は成人式のときに居酒屋で鉢合わせたくらいの接点しかなかった。
そんな同級生と、四年ぶりに再会したのが先ほどのファミリーレストランだ。
そして、そのまま居酒屋へと二人でいくことになるなんて、一時間前の美雪はこれっぽっちも想定していなかった。偶然ってあるんだなあと感心してしまう。
「なんか、サクとご飯とか、すごく不思議な感じだね」
仲はよかったと思う。ただ、それが幼いころのことすぎて、改めてこうして向き合っていることにむずむずした。
生ビールと、小鉢に盛られたお通しのカルパッチョを前にして、美雪はまじまじと桜庭を眺める。手早く店員にメニューを注文して一息ついたところだ。
高校の頃よりも背は少し高くなっている気がする。アッシュ系の茶色に染められた短い髪は、ワックスで自然な流れに固められているようだ。耳あたりから襟足にかけては剃られているのかと思うほど大胆に短い。
記憶のなかの桜庭は、少し長めの前髪をぐしゃぐしゃかいていたはず。初めて見る髪型で、雰囲気も多少違って見える。
けれども、誰かすぐにわかったのだから、顔の造作は美雪の知っている彼と大して変わっていない。小学生の頃からある右頬の黒子とか、ちょっとだけつり気味の目とか、桜庭だと確認できるものはいくつもあって安心する。
ぐいっとジョッキを煽った彼は、そんな美雪に呆れたような眼差しを向けた。
「自由にこうして出かけられるようになるのって、大学入ってからだからそりゃあ当然なんじゃないの。ぜんぜん会わなかっただろ、高校卒業してから」
「そうだね。――成人式の日に、駅前の居酒屋で会ったのは覚えてる?」
「覚えてる。つーか、あれくらいだろ会ったの。それにあのとき俺はサッカー部の連中といたし、お前だってテニス部の女子といたからろくに話もしてないけどな」
「そうそう。あんな日だから、誰かしらいるだろうと思ってはいたけど、サクたちがいてびっくりしたんだよねえ」
美雪は中学、高校とテニス部に所属していた。そのときのチームメイトと成人式のあとで久しぶりの再会を喜んだのだけれど、サッカー部だった桜庭も同じ状況だった。
遠目ながらも見知った姿を見つけて、ああサクだ、と思ったけれど。仲間内でいるところを邪魔しても悪いし声をかけないでいた。そうしたら、桜庭の方が美雪に手を振ってみせたのだから驚いた覚えがある。そういう気さくなところは小学生の頃からずっと変わっていない。
「今は、なにしてるの?」
頼んだサラダを皿に取り分けながら首をかしげると、桜庭は意地悪く笑った。
「なんだと思う?」
「わからないから訊いてるのに」
適当に野菜を盛って、最後にミニトマトを乗せた皿を相手に渡す。さんきゅ、と言われた。
口を尖らせた美雪は、それでももう一度桜庭を見つめた。おもしろそうに瞳を細めた相手の、テーブルから上に見えている部分をまじまじと眺めてうーんと唸る。
「公務員ってわけじゃないよねえ? 髪の毛染めてるし。普通のサラリーマンっていうのも想像できないんだけど、ええと、事務関係?」
「違う」
「接客?」
「うん、まあそう。そういう系」
「飲食店……じゃないなあ。ううん……アパレルショップの店員さん」
「美雪にしてはまあまあってとこだな」
服装が雑誌に載っていそうなくらい決まっていたので、それほど確信があったわけではないが、搾り出したその答えに桜庭は概ね満足そうだった。
唐揚げを摘まみながら笑ったのに、美雪は恨めしそうな顔をする。
「まあまあって言うくせに教えてくれないじゃない。サクちゃん、なんの仕事してるの?」
「美容師」
「へ?」
「だから、美容師。お客さんの髪の毛切るお仕事してるの」
「えええええ」
目をまん丸にして桜庭を眺めた。
そう言われてみると、彼の髪の毛は綺麗に手入れされていたし、服装も整っているのにもうなずける。
客相手に話をする姿も自然と想像できたが、その彼が鋏を仕事道具として鏡越しに会話しているとまでは美雪は思い浮かばなかった。