表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東子と翔太 第一章  作者: 桃野 紅茶
1/1

若葉のころ

滝川東子(高校生)はバイトで金井翔太(大学生)と知り合う。

東子はすぐに翔太を好きになるが・・・

翔太はプレイボーイ風の自由人。

東子は、翔太とどのように関わっていく事を選ぶのか?

春の風に乗せて、東子の気持ちと翔太の心の有り様が見えてくる・・・


  滝川東子 1


  3年2組18番 滝川東子

東子は自分の名前を 確認した。

今日は始業式。下駄箱室の前は 一喜一憂の声て溢れる。

一大イベントのクラス替え発表日、でもある。

雑踏の中で、これからの一年間を思う。

気が済んだ者から、この場所から離れて、新しい自分の居場所へ進んでいく。


  3年2組38番 物部美知

よかった。親友に美知と同じクラスになれた。

去年は違うクラスだったから、寂しかった。

今年は同じクラスに美知がいる。それだけで心強い。


次に探す名前、3年3組 1番 相沢亮

隣のクラスなんだね。

東子は、亮のことを気にかけている。

彼とは同類であり、ライバルであり、同じ気持ちを共有している仲間なのだ。


「東子、同じクラスだ。」話しかけてきたのは、物部美知。

「安心したよ。美知~。うれしいーよー。」

東子は美知と抱き合って喜んだ。


美知は肩甲骨が隠れる長さの豊かな黒髪。

白い肌に、目は切れ長で、大人→綺麗なルックスをしている。

それなのに、冷たく見られないのは、美知の表情が豊かで愛嬌があるからだと思う。


そこへ、美知の彼氏(佐藤和哉)がすがすがしい顔でやってきた。

「おはよう、二人ともどうだった?」

美知と東子は腕を組んでピースサインを出した。

「よかったね。おめでとう。」和哉も嬉しそうにしている。


和哉は学科が違うので同じクラスにはならない。

普通科とは違い、元々2クラスしかないからクラス替えをしても、ほとんど変化はない。

和哉にとってはそれほど意味はないようだった。


美知と和哉の視線が自然と重なり合う。

かすかに微笑み合うふたりの間には、お互いを想う気持ちが溢れてる。

優しくて、柔らかくて、暖かくて、セクシャリティを感じる。


美知の長い髪が、風に揺れて美しくたなびく。向かいに立つ和哉が優しく微笑んで見下ろしている。

春の風が良く似合う。

まるで映画のワンシーンのよう。


東子は、この二人が作り出す甘い空気感が大好きだ。

時間にしたら一瞬の事なのに、胸に焼き付いてしまう。


そして、私たちはそれぞれの居場所へ向かって歩き出した。

           

              ・・・

          

ゴールデンウィークが明けて、いつもの日常がやってきた。

学校の表情は変わらない。

それでも、季節は進みをやめない。

それを敏感に感じた、草木達は日一日と成長しているようだった。


東子はこの季節が好きだ。春と夏の間を行ったり来たりするからだ。

肌に馴染む暖かい風は優しい春だし、強すぎる日差しは開放的な夏そのもの。

長袖を着たり、半袖を着たり、毎日気分が入れ替わる。


誰かを好きになるのと、ちょっと似てる。

相手のちょっとしたことで、うれしくなったり淋しくなったりするから。

そう、この風の匂い。

翔太を好きになった頃、こんな風が吹いていた。


 滝川東子 2


受験勉強からの解放、志望校に合格した喜び、緊張の入学式。

そして、東子の新しい生活が始まった。


受験の時、この道は色をなくした白黒写真の様に見えた。

私好みの雑貨屋もパン屋さんもまるで目に入らなかった。


新入生になってから、改めて通る道。

駅からまっすぐ伸びるメイン通りにはハナミズキが植えられ、洗練された装い。

通りに面してビルが立ち並び可愛い外観、おしゃれな飾り窓、パンの優しい香り。

この通りを歩く人々を誘惑している。

これから始まる新生活はきっと楽しくなる。そんな予感で満たされた。


まず、恋をしよう。

それから友達とお茶したり、スイーツを食べたりしながら、恋バナをする。

遊園地に行ったり、ゲーセンに行ったり、やりたいことは山ほどある。

そのためにアルバイトをしよう。

東子はカラオケボックスでバイトを始めた。


そこで知り合ったのが、大学生の金井翔太だった。

人懐っこい翔太の笑顔は、慣れないバイトで張り詰めた気持ちの、拠り所だった。

つい翔太を探してしまう。

バイト生活に慣れてきたころでも、その習慣だけはずっと残り続けている。


 滝川東子 3


この学校は4月10日から2週間、部活動勧誘週間として力を入れた勧誘活動をする。

10日は、一年生全員、強制参加の部活動説明会が体育館で行われる。

舞台の上で自分たちの部活動をアピール出来る最大のチャンスとあって、どの部活も力が入っている。

このイベントが終わると、放課後はビラを配る人や部活見学の立て看板が目立つようになる。

物珍しさから、あっちこっち見学を楽しむ子も多いが、東子はバトミントン部と決めていた。


10日の放課後には、正式なバトミントン部員になっていた。

もう一人、同じタイミングでこの部に入った人がいた。

1年3組 物部美知っと入部届に書いてあった。


私はこの人を知っている。


中三の最後の大会で、東子の学校の部長が物部美知と対戦した。

部長は県大会に行けるレベルだったのに、地区大会3戦目でかなりの苦戦を強いられた。

美知の殺気立ったような気迫、部長のプライドが激しくぶつかった試合。

はっきり言って、二人は互角だった。

結局、試合は部長が勝ったが、部長と渡り合ったこの人に心からエールを送りたい気分だった。


あの時のあの人が目の前にいる。

東子はうれしかった。あの人と今度は味方になれる。

最後の大会の話を美知にした。


「あの時、私のすべてをかけて試合したんだ。

これ以上なってくらい、バトミントンに集中してた。

でも3回戦で負けちゃった。もうちょっと行けると思ったんだけどね。」


美知の率直な感想を聞けたことがうれしかった。

クールな見た目とは違う、美知の中身を知ったような気がした。

それからだった。東子と美知が話をするようになったのは。

二人は、顔を合わせるたびに親しくなっていった。


体育館の隅っこで足を投げ出している美知に、翔太の話をした。

「バイト先にね、気になる人がいるんだ。」

「へぇ、どんな人なの?」

「まとってる空気がね、優しいって感じの人。」

「もう少し、情報くださーい。全然想像できないじゃん。」

「そうだよね、髪は短めで、身長は普通だな。顔はね、もちろんかっこいい方だと思う。

大学生なんだって、私の4つ上なんだよ。

女友達がいっぱいいるみたいなんだ。たぶんモテる人なんだと思う。」

「特定の彼女とかは、どうなの?」

「いないんじゃないかな、たぶん。彼女がいたらさ、女友達って減りそうじゃない?」

「そうだね。東子のいう通りかもね。」


バイトを始めて2週間くらいしか経ってないのに、

翔太と親しげに話をする女の人を、バイト中、何度か見かけたことがある。

毎回同じ人ってわけでもないし、会話の内容も、彼女っていうよりは友達に近い感じ。


翔太の女友達は、大人びた服、新色の口紅、流行りの香水・・・を使いこなしている人たち。

東子はそういうことに関して、少々疎い方。

リアルに、翔太の周りを囲む女性と自分との差を思い知らされている。

東子は自分に自信が持てないでいた。


翔太もそんな彼女達を、敢て選んで付き合っている可能性だってあると思う。

「住む世界が違うくらい、隔たりを感じちゃうんだよね。おそれ多いみたいな・・」

「東子でも、そんな風に感じる事があるんだね。意外だな。」

「お前みたいにダサい女とは付き合わないとか言われたら、ショックじゃん。」

「優しい空気を持つ人がそんな事、言う?東子に一つ提案があるんだけど。」

「どんな?」

「少しでも長く”同じ空気を吸う努力”をしてみるってのどうかな?。

肩の力を抜いて、気取らず、普通にね。

そしたらまた違う景色が見えてくるはずだから。元気出してこうよ。」


そうだ、美知の言う通りだ。

相手を意識せずに同じ時間を共有できれば、気後れせずに話ができるようになるかも。

まずは、そこを目指そう。


必要以上にビビってたら、前にも後ろにも行けるわけがない。

私にだってチャンスはある、かもしれなしね。

臆病風に吹かれているだけじゃつまらない。


「うん、そうしてみる。私、頑張ってみるね。」

美知と仲良くなれて本当によかったな。改めて思った。


 滝川東子 4


また少し、季節が進んだ。

ずいぶんと風通しが良くなった服は、自分の気分を軽くしてくれた。


同じ空気を吸うこと、できるだけ長く・・

美知はそう言ってくれた。

やるべきことが決まってると、気分がすっきりする。

やれることをやってみよう。それが前に進むことだと思うから。

東子はそう決心した。


そんな頃だった。

「滝川さんはさ~、東子ちゃんと呼ばれるのと滝川さんと呼ばれるのと、どっちがいい?」

バイト先の店長が話しかけてきた。

「こだわりはないので、店長が呼びやすい方で大丈夫です。」

店長はいつも気を使ってくれる。

「東子ちゃんって呼んでいい?

僕ね~、”トウコ”ってあだ名の子と付き合ってたんだよね~。大昔に。

だからね~、こっちの方が言いやすいんだよね~。」


それから、店長は親しみを込めて、私を「東子ちゃん」と呼ぶようになった。


気が付いたら、バイトの人達も私を「東子ちゃん」と呼ぶようになった。

もちろん、翔太も。

それからだったと思う。バイトの人達との距離が近くなった。

そのおかげで、私は”やるべき事”を実行しやすくなった。


週に3回、バイトを全力で頑張る。

親睦会にも参加したし、バイト仲間でいく食事にも、できるだけ出席した。

ちょうどゴールデンウィークだったから、そんな機会も大幅に増えていた。

共通の仲間も増えてきた。共通の話題も増えていく。


カラオケボックスで働く人達と仲間になれたことに安堵した。

その中に翔太がいる。

一か月前とはだいぶ風景が変わった。


気後れしてた気になる人と、普通に話もできる

連絡先だって交換したし、ライン上でのやり取りだって出来るようになれた。

私にしては上出来。


そして、翔太を知れば知るほど、自覚するはっきりした気持ち。

翔太が好き。好きなんだ。


 滝川東子 5


5月もあと1週間ほどで終わりを迎える。

今日は雨が降っている。

ムシムシする、土曜の夜。

もうすぐ、雨の季節が近づいている。


ここはカラオケボックスのバックヤード。

バックヤードは廊下のように細長く伸びていて、

左側にフロントカウンターの出入口、非常階段、厨房、事務所、備品置き場につながっている。

右側には更衣室、従業員控室、従業員用トイレ、タイムカード置き場、従業員用の出入口がある。

ここを抜けてごみ置き場の細い通路を抜けると外の通りに出られる。

どの部屋も手狭で、知恵を凝らした狭小住宅みたいだ。


ここで働く人は自分の荷物を従業員用控室に置いている。

バイトを終えて帰り支度を整えた東子は、荷物を取りに従業員用控室に入る。


従業員用控室には休憩中の翔太がいた。

土曜日の翔太は、16時入りで、12時まで働くシフトになっている。

一日6時間以上勤務すると一時間の休憩を取る決まりになっている。

だから翔太は2時間置きに20分の休憩を3回、入れている。


翔太が笑顔で話しかけてきた。

「東子ちゃん、明日さ。バイトの後ちょっと付き合ってくれない?

俺、めずらしく早上がりなんだよね。」

「いいですけど?」

「誕生日なんだよ。ダチがさ。何か買っとこうと思ってさ。」

「わかりました。お付き合いします。」

「じゃ、約束な。お疲れ様でした。」

そういうと、翔太は休憩を切り上げ元の持ち場へ戻っていった。


約束。二人の間で交わされた初めての約束。

体中にどんどん浸透していく、甘くて素敵な響き。

心臓の激しい鼓動が、内臓たちを一斉に動かし始める。


でも、何を着ていけばいいかな?

会話が途絶えたら、どうしたらいいのかな?

私だけこんなに浮かれてて大丈夫かな?

恥ずかしいから、クールな人になってみようかな?

嫌われないようにしたいな・・・

わくわくと不安の境界線で押し問答を始めてしまう。


冷静になろう。そうだよ、冷静にならなくちゃ。

”約束”でこんなにも舞い上がってしまう自分が可愛く思えてきて、笑ってしまう。

これが恋する私なんだな、東子は少し自分が好きになった。


それにも増して、私は翔太が好き。

この気持ちが溢れて、こぼれ落ちてしまいそうになった。

東子はバックヤードを抜けて、浮かれた気分に浸りながら駅に向かって歩き出した。


 滝川東子 6


昨日の夜、あれこれ悩んで選んだ服。

今日はこの服を着てバイトに行く。


公園で遊ぶ子供の声が、いつもより楽しげに聞こえる。

近所のおばさんが大切にしている赤い花のゼラニウムが、いつもより鮮やかに見える。

東子はウキウキしていた。


バイトは14時まで。翔太も14時まで。

バイトは5時間。早く、終わらないかなぁ。

後は約束を果たす時間が待っている。


      ・・・


やっぱり今日は日曜日だ。忙しいのは当たり前。

おかげて時間が経つのが早い。

気が付くと、14時を少し過ぎていた。

「東子ちゃん、お疲れ様ね~。翔太もだっけね~。」店長が声を掛けてくれた。


翔太と二人でバイト先のカラオケ屋を出ると、

遅い昼食を食べる為に、すぐ近くのファミレスまで歩くことにした。


ざわついた店内は、昼時のピークの余韻を残しつつ冷静さを取り戻そうとしていた。

壁側に設置された縞模様のソファーに翔太が座っている。

テーブルをはさんで真向いの椅子に東子が座っている。

二人は向かい合って、東子はカルボナーラ、翔太はハヤシ風オムライスを食べている。


「どの辺で買い物するんですか?」

「新しくできたショッピングモールに行ってみたいんだよね。

あそこの2階にスポーツ用品店があってね、あいつの好きな店なんだけど。

バスケットシューズを買おうと思ってさ。

あいつ、バスケ部だから。」


東子には”あいつ”の見当がつかないでいた。誰なんだろう?


「友達なんですよね?大学のバスケ部?なんですか?」

「えっとね。あいつは俺より4つ下で正確に言うと従弟なんだよね。

小さいころからあいつと一緒にいる事が多かったから、従弟っていうよりはダチなんだよね。」


「そうなんですね。ん、4つ下って事は私と同い年じゃないですか!」

「東子ちゃんは何組だっけ?」

「5組です。」

「東子ちゃんと同じ学校で、確かあいつは2組だったかな。相沢亮っていうんだけどさ。

同い歳の東子ちゃんに選んでもらおうと思ってさ。」


その名前に聞き覚えはなかった。

バスケ部の練習場はバトミントン部のすぐ隣だ。

その気になれば、すぐにわかる。

それに同じ学年だから、廊下ですれ違っているかもしれない。


「亮の奴、学校でもおとなしいんだな。」


翔太の口から”ダチ”だという人の話を初めて聞いた気がした。

翔太は”知り合い”という言葉をチョイスすることが多い。

顔もわからない亮という人は、どんな人なのだろうと思いを巡らせた。


 滝川東子 7


お目当ての買い物はあっけなく終わってしまった。

4種類のバスケットシューズから、せーので指を指しあった。

白っぽい布で銀のラインが入ったものが一番カッコよく見えた。

ハイカットの側面の形もよかった。


翔太も東子と同意見だった。

心が繋がったような気がしてしまう。

と同時に、役目を終えた新聞?のような気持ちにもなる。

甘いような酸っぱいような割り切れない複雑な気持ちだった。


もう少し。

もう少しだけでいいから、この時間の続きをください。

心が祈っていた。


「どうする?映画でも観てから帰ろうか?」優しい顔をした翔太が言った。

「はい。」東子の心は春色に塗りつぶされ、花が咲き乱れた。


映画館を出ると、あたりはうす暗くなっていた。

そこを吹き抜ける風は、気温が下がったせいで重く感じられた。

「だいぶ、寒くなってきたね。」

「そうですね。」

まだまだ、春なのだと実感する。


東子と翔太は駅までの道をゆっくり歩いている。

東子の最寄駅はここから、7つ下ったところにある。

翔太の最寄駅は3下ったところ。

電車に乗ったら、気分も気持ちも関係なく流れ作業のように離れていくんだな。

と心に浮かんできてしまった。


そんなんじゃダメだよね。

昨日、誘ってもらってからずっと、楽しかった。

今もすごく楽しい。

東子はこのまま楽しい気持ちを家まで持って帰ろうと決めた。


今まで観ていた映画の話を楽しそうにしている翔太の横顔がまぶしい。

「東子ちゃんはさ、どの部分が印象に残ってる?」

「親友と自転車で二人乗りして、山へ向かうシーン、です。」


主人公が悩んでたり落ち込んだりすると、親友が自転車でやってきて、

「乗らないか?」というシーンが何度かあるが、二人乗りするのはこの一回だけ。

この映画は最後、主人公の大好きな人が死んでしまう。

これから待ち受ける悲劇を山で表現し、親友の協力で乗り越えようとする近い未来を暗示した、

象徴的なシーンだ。

雄大で冷たい表情の山はとにかく美しい。

「へぇ~、感動するシーンは他にいくらでもあるのに、東子ちゃんはめずらしい子だね。」


駅周辺の道は、不思議とガランとしていた。

活気のない飲食店の光が暗い通りを照らしている。

駅へとつながるロータリーにも車が一台止まっているだけだ。街灯もどこか頼りない。


改札を通り抜けて下りのホームを目指す。

あと2分で電車が来る。電光掲示板がせわしい点滅で知らせている。

「ナイスタイミング!」と叫んだ翔太のしぐさが、少年のように見えた。

そして東子の手を取って走りだした。その手は温かい。


ホームには電車が運んでくる強い風が、一足先に到着していた。

その風を受けながら、ホームに電車が着くのを見守る。翔太と二人で。

自然と離れ離れになった手で髪の毛を直してから、電車に乗り込む。


この車両には、東子と翔太の他に5人いた。

東子はいつも思う。人の少ない車両は贅沢な空間だな。

そして目の前に翔太が立っている。その距離はいつもより近い。


翔太の匂い。柑橘系のさわやかさの中でムスク系の匂いが深みを与えている。

翔太の体臭もかすかに混ざり、野性的な印象を与える。

それでいて残り香は甘さを残す。

この匂いも好き。


ふいに、翔太が私の真後ろの手すりをつかみ、少し前かがみになった。

東子の心臓がドキンと体を震わした。

左耳近くに翔太の顔を感じる。

その態勢のまま、翔太は話し出した。


「お前を抱きたいな。今だよ。今すぐだよ。」


東子は自分の中で何か熱いものが体を駆け出したのを感じた。

翔太に求められている。うれしいだけど、気恥ずかしい。

このくすぐったいような感覚はなんだろう。


ドロッとした熱い感覚に支配されて、下半身の中心が熱を帯びる。

体全部がその中心に吸い込まれていくようだった。

もう何も考えられない・・


「でも今日はこのまま帰してあげる。考えてよね。」

翔太は体をゆっくり元の位置まで戻すと、黙って車窓に視線をずらした。

東子は、催眠術にかかったように一点を見つめたまま、動けずにいた。


「今日はありがとうな。気を付けてね。東子ちゃん。」手を挙げた。

翔太の最寄り駅に到着ていた。

東子ちゃんと言った声で、我に返った。

やっとの思いで、手を振り返した。

電車から降りた翔太は、いつもの笑顔だった。


 滝川東子 8


次、翔太と顔を合わすのは水曜日だ。

どんな顔で接したらいいんだろう。


家に戻った東子は、自分の薄暗い部屋でぼんやりと考えていた。

つい数時間前の出来事が、遠く感じられる。


翔太に”帰してあげる”と言われなかったら・・。

誘われるまま、行きつくところまで行っていたと思う。


初めてのSEXは考えに考えた上で、凄い勇気と強い気持ちを手に入れてから、

やっと超えられるような高い壁だと信じていた。

初めてを超える壁は、こんなにも低かったんだ。


翔太を拒むバリアはない。

翔太にならすべてをあげたってかまわない。


でも・・が頭に浮かぶ。何かが引っかかっている。

それが何なのか、わかる前に私は翔太を受け入れてしまうかもしれない。


なんだか怖い。

そう、思いながらベットに体を預けた。


・・・


バイト先のカラオケボックスは、いつにもまして大盛況だった。

今日は水曜日なのに、こんな事は珍しい。

近くで特別なイベント事があったのかもしれない。

注文の電話がバンバンかかってくる。

バイト時間はあっという間に過ぎていく。


今の東子にはありがたい。暇だとまた、変な事を考えてしまいそうだ。

寝不足な体にズシリとくる疲れが、程よかった。


翔太はいつもの翔太のままだった。

あれは夢。と思えてくる。

そうだよね、きっとそうだよね。

自分を納得させていた。


「東子ちゃん、お疲れ様でした。もう時間だから上がっていいよ。」

後ろから翔太の声がする。

「はい、お疲れさまでした。お先に失礼します。

あ、金井さん。日曜日ありがとうございました。お昼もごちそうになっちゃったし、楽しかったです。」

「ラインでも言ったけど、気にしないでよ。誘ったのは俺の方だしさ。」


なんだか、よそよそしくなってしまった。

それでも翔太は気にしていないようだった。


バイト先を出ると、やっと息がまともに吸えたような気がした。

ああ、疲れた~。

バイト帰りの夜風は、やけに生温かかった。


 相沢亮 1(回想) 


亮の父は腕利きのエンジニアだ。給料だっていい。

母は亮が小学校3年生の時に亡くなった。


このころの亮には母がすべてだった。

母の死を受け入れられずにいた。

何も手につかなくなった。


それまで夢中で読んでいた本も、少年ジャンプも、天体観測も。

どうでもよくなった。

母との思い出を反復する日々だった。


母はシンプルでセンスのいい服を着ている人。

いつもきれいな顔で、高級そうなバラと石鹸をブレンドしたような匂いを引き連れている人だ。


亮の好きな小説を手に取った母が、「私もこれを読んだわ。懐かしい。」

その手があまりにも細くて白かった。


初めてベットを買ってもらった日、宇宙柄のシーツと布団カバーも一緒に買ってもらった。

その時、母は嬉しそうに「亮はやっぱり、こういうのが好きなのね。」

やさしい声で言った。


父の部屋にあった天体観測用の望遠鏡を譲ってもらったとき、

母が星の図鑑と写真集をプレゼントしてくれた。

「すごく綺麗だったから、思わず買っちゃったわ。亮にあげるわね。」

星には興味のない母が、わざわざ買っておいてくれたものだ。

その気遣いがうれしかった。

今でも大切な宝物だ。


ゆったりとした空気をまとう優しい母が本当に大好きだった。


それでも少しずつ、日常生活を取り戻していった。

それと引き換えに、母を思い出す時間も減っていく。

このまま母を思い出せなくなってしまうのではないか。

そんな不安だけが、亮の気持ちを掻き立てた。


たぶん、父も同じ気持ちだったのかも知れない。

泣きながら、深酒をするのが父の習慣になっていたからだ。

このままだと心だけじゃなく、体も病んでしまう。


そんな父も、ほどなく再婚を決めてきた。

前に進む決心をしたんだと思う。

父自身のために。そして、僕のために。


小学校6年生になったころ、女が家に引っ越してきた。


新しい父の妻は、化粧もせず地味で古風な女だった。

母とは全然似ていなかった。

ただ、もともと持っている隠しきれない美しさが、やけになまめかしく見えた。


 相沢亮 2


亮が高校に進学して1週間後、父の長期出張が決まった。

9月から三か月間ベトナムへ行く。

父の新しい妻と二人きりになってしまう。


この家は広いから、会わないように生活することも出来ると思う。

それでも彼女は僕のためだけに、今まで通りごはんを作ってくれようとするだろう。

父がいない食卓を、この人と二人でどんな風に囲めばいいのだろ?

考えるだけでも、気が重い。


そもそも彼女の好意を素直に受ける気がしない。

彼女に懐いてしまうことで、実の母を忘れていくのが嫌だった。


亮の抵抗は、癖となって今でも残り続けている。

そんな亮のために必要以上に気を使ってしまう彼女の態度にも、

正直イライラしてしまう。


今日は言うと決めていた。

父に相談するのに、一か月以上もかかってしまった。


二階の廊下を進む。一番奥の部屋。父の書斎のドアの前に立つ。

あの人は、今頃一階のキッチンで茶わんを洗っているはずだ。


ノックをした。父の返事が中から聞こえる。

中に入ると、父が机の上にあるライトだけで、パソコンを操作していた。

机の上のライトとパソコンの画面のライトが立体的に父を照らし、暗がりの父が浮き上がって見えた。


「あのさ、お父さんが日本にいない間、翔太のところに行ってもいいかな?

学校も近いし、居たたまれなくなりそうだから。」

正直な気持ちだった。これが精いっぱい・・・


父は少し困った顔をした後、こう言った。

「ここはお前の家なのになぁ。困った事があったら杏子に遠慮なくいいなさい。

俺から言っておくから。好きにすればいい。」

亮は安堵で溜息をついた。


部屋に戻った亮は、ベランダに出て星を見上げた。

「ずいぶん久しぶりだな。」

5月の夜風が優しく撫でていった。


 金井翔太 1


バイトが終わった。

平日なのにな。忙しかったな。疲れたな・・・

最近、疲れが取れない。どんどん体に積み重なっていく。

そのうち息が出来なくなるんじゃないか?

具体性のない危機感みたいなものが、目の前をチラチラする。


家に向かって自転車を漕いでいた。

コンビニに寄ろうな?早く帰って寝た方がいいかな?

迷っていた。

翔太の携帯が鳴っている。やっぱり寄っていこう。

電話は亮からだった。


「もしもし、めずらしいな、電話なんてさ。」

亮から電話がかかってくるときはだいたい、ヤバイ時だ。

「親父が、出張で3か月いなくなるんだ。」

「ふうん、いつから?」

「9月から。」

「そっか、それで?」

「三か月間、そこに泊めて。」

まだ4か月も先の話なのに、亮はだいぶ弱っている。

「いいよ。」

「ありがとう、それじゃぁ、また。」


亮の声のトーンが一段上がった。

わかりやすい奴。きっと今頃ホッとしてるんだろうな。あいつ。


亮の母親と俺の母は姉妹。

従兄弟の関係だが、亮の家も俺の家も一人っ子だったし、

お互いの家もすぐ近くだったから、よく一緒に遊んだ。


俺が中学生になった頃、亮のお母さんが亡くなった。

その頃から、亮は変わった。

笑わなくなったし、しゃべらなくなった。


亮はもともと、結構なマザコンだったし、思いつめるタイプだから無理もない。

いつもぼんやりしていたし、進んで何かをやることもなくなった。

淡々と日常生活をやり過ごしているようだった。


だから、俺は亮をよく外に連れ出した。

プールだったり、遊園地だったり、買い物に行ったり、ゲーセンだったり、

そこには俺の知り合いがいることも多かったが、あいつは大体ついてきた。


俺が高校に進学するころ、亮の家に新しい母親がやってきた。

俺はその新しい母親に興味深々だったが、亮は違った。

いつも他人事みたいな顔で、その新しい母親をあしらっていた。


亮の態度で、その新しい母親を傷つけていると思っていた。

亮と新しい母親との同居が二年目を迎えた頃、案外そうでもない事に気が付いた。


亮はご飯の時間はきちんと守るし、俺の家でご飯を食べる時は必ず家に電話を入れている。

それに彼女が忙しい時などは、使った食器を洗ったりする。


いつだか、「あの人は僕に気を使いすぎてイライラする。」と言っていたが、

亮は亮なりに、用心深くその新しい母親を大事にしている。

彼女もそれを感じているんだろうな。


その距離の取り方が、亮らしい。

素直に甘えてしまえばいいのに。


そうしたら、こんな事で思いつめる必要なんてないはずだ。

変に気を使っているのは、新しい母親じゃなくて亮の方だ。


 滝川東子 9


今日の第二体育館は蒸し風呂だった。少し動くと汗が噴き出す。

ここは東子が所属するバトミントン部の練習場。

バトミントン部は窓が開けられない。

風が入ると、シャトルが風に流されてしまうからだ。

とんでもなく、暑い・・。


それでも、夏の大会まであと2か月。

みんな黙々と練習している。


この学校のバトミントン部はそれほど強くない。

県大会には出たことはないみたいだし、いつもあと一歩のところで負けてしまうそうだ。

県大会出場はこの部の悲願。

団体戦では2チーム編成され、そこに選ばれるためにみんなは練習をしているのだ。


東子はそんなにうまくもないけれど、中学校の時に完全燃焼していたので、

高校では楽しめる程度でいいと密かに思っている。


体育館の熱気に追い出され、東子と美知は外の風に当てっている。

ここは校舎と体育館の狭間。

いい風が抜ける。

急に気温が上がったせいで、暑さを持て余していた。

湿度が高い。体に堪えてくる。


「美知の彼氏は何部なの?」

「帰宅部だよ。」

美知の彼氏は、すっきり顔のさわやかなイケメン。親受けしそうな好青年だ。

気さくだし身長も高い。

彼氏の肩より少し高いくらいの美知の身長が、ちょうどいいバランス。

見た目にもケチのつけようがない、ベストカップルだ。

美知は中学生の頃から付き合っているのだそうだ。


「美知はさ、もうしたの?彼氏と。」

美知はあまり驚きもしないで、普通に答えた。

「そうだね。」

「最初はいつ?」

「中3の春、だったかな~」

「どうだった?」

「うーん、どうって言われても・・少し痛かったかな。あっけなかった。こんなもんかって思った。」

「そうなんだ。」

意外だった。美知はもう経験済みだった。


「なんか、あった?東子が直球勝負なんてめずらしい。」

日曜日の翔太とのこと、昨日のバイトで普通の翔太に拍子抜けしたことを話した。

展開の速さに、美知も驚いたようだった。


「えっ、そんな事があったんだ。展開早すぎるよね。私なら警戒しちゃうな。」

そんな美知の様子に、不安がこみ上げる。


「どうしたらいいのかな?わかんなくなってきちゃった。」

だからと言って、翔太が好きなのを止められるとは思えない。

”不安”っていう理由だけで、すんなり鞘に納められるだろうか?


美知が決心したように言った。

「やっぱり、ちゃんと付き合うことになってからするべきだと思う。

それが誠意だと思うから。

でも、その前にそんなことになっても、私は東子を責めない。気持ちはわかるし。」

真剣な美知の気持ちがうれしかった。


美知に相談してよかった。

シャトルを我武者羅に追いかけたくなった。

「よし、がんっばろう。」


滝川東子 10


東子は、美知と話した後、ずっと練習に没頭していた。

こんなに集中したのは久しぶりだった。


部活時間が終わっても、まだ練習場にいた。

急に静かだな・・・。

誰もいなくなったコートは、子供が帰った後の公園みたいだな。

シューズの音、ラケットの音、話し声、さっきまでの音がすべてやんで、私の足音だけが響いた。


今日は美知とコートの掃除当番だったが、先に帰ってもらった。

一人になりたかった。

作業的には、床にモップをかけるだけでいい。

一人でも5分で終わってしまう。


静かなコートで、一人になると考え事がはかどる。

昔からそうだった。

コートは不思議と落ち着くし、冷静になれる。


端からモップがけをしながら、今までの事を思い返す。

考えてもしょうがない事だらけだ。


翔太は気まぐれで言っただけかもしれないし、からかっただけかもしれない。

真に受けて恥ずかしって事になるかもしれない。

そもそも、翔太は私を少しでも好きだと思ってくれているのだろうか。


ん、視線を感じる。目を向けてみる。

えっ、あっ、金井さん?、えっ、あっ、違う。

翔太のことで頭がいっぱいだったせいか、思わす見間違えてしまった。


男子が一人、出入口に立っている。

「すいません、モップ終わったら貸してくれませんか?」


遠慮がちに言ってきた。

あ”~びっくりさせないでよ。心の中でつぶやく。


「はい!どうぞ、だいたい終わったので。」

そのまま使っていたモップを渡した。

まだ、心臓がバクバクしている。


「バスケ部のモップ、そっちに交じってませんか。

見当たらなくて、困ってたんです。調べてもらえませんか?」

「わかりました。」

調べたが、バスケ部のモップは交じっていなかった。


色が白くてひょろっとしているその男子は、バスケ部のイメージとは合わない。

剣道部とか弓道部とかが似合いそうな、”静”のような張り詰めた空気をまとっている。


その人は小走りでコートにモップをかけているが、もう少し時間がかかりそう。

終わったら用具入れに戻しておいてとは言いづらい。

しょうがなく終わるまで待つことにした。


バトミントン部とバスケ部は隣同士。

元は一個の体育館だったようだが、今は壁で仕切られている。

独立した空間にそれそれバスケ部とバトミントン部の練習場があるのだ。


個々に出入口がついていて、その先から天井が低くなっている。

ちょっとしたスペースとエントランスホールと陸上部の倉庫などがあって、

ここの二階部分に、卓球場と柔道場を完備している。


そういえば、バスケ部に相沢亮という人がいるんだっけな。

翔太が”ダチだ”と呼んでいる人。


日曜日に翔太が買ってたバスケシューズを、もう履いているんだろうか?

その人のおかげで、恋の真っ只中に放り込まれた。

よかったのか、悪かったのか?ちょっとわからなくなってしまっている。

今の東子には、自分から相沢亮という人を探す気は失せていた。


バスケ部の人がモップを返しにきたので、バスケ部のモップは交じっていなかったと伝えた。

なんとなく、シューズに目を向ける。

青色に黄色い靴ひものバスケットシューズ。

「わかった、ありがとう。」

その人はそう言って、練習場を後にした。


 物部美知 1


美知は自転車を漕いでいた。

彼氏の和哉に合わせて、自転車で通学することにしたのだ。

強めに吹き抜ける風が心地いい。


今日は部活の掃除当番だったが、東子から先に帰ってほしいと頼まれた。

東子を待っていてもよかったが、一人で気持ちの整理をしたいのかもしれない。

そっとしてあげることにした。

急に物事が動き出したんだから、無理もないと思う。


東子とは、高校からの付き合い。

まだ、出会って2か月くらいだ。

日は浅いが、美知はすごく親近感を感じていた。


裏表がなくて、すごく素直。

それに人を悪く思わないらしく、彼女の口から人の批判を聞いたことがない。

安心して付き合える人は初めてだと思った。


それに、東子の感性がすこし独特で話していて楽しいし、

少女チックな部分やしぐさも可愛いらしい。

もし私が男だったら、彼女したいのは東子。そんな風に思える女の子。


そんな東子が、気になる人の話をしていたのはゴールデンウィークに入る前くらいだった。

相手は女友達が多い大学生だと言っていた。


今は5月の終わりだから、たったの一か月で東子を手中に収めようとしている。

しかも、あの鮮やかなやり口。

映画の世界から飛び出してきたような遊びなれた男。


少女チックな東子のことだから、きっともうメロメロだろう。

そんな男が誠実だとは思えない。東子にはつらい恋になると思う。


傷ついた東子を見たくない、私に何ができるだろう?

美知は心配でたまらなかった。


和哉に会ったら相談してみよう。美知は強くペダルを踏みこんだ。


 佐藤和哉 1


和哉はコンビニと本屋で掛け持ちのバイトをしている。

火・土・金がコンビニで、月・水・日が本屋だ。

唯一、木曜日だけが休みなのだ。


美知が和哉の家に来るのは、木曜日とバイトが終わった日曜日の午後と決まっている。

和哉の家は母子家庭。市営団地の3階に部屋がある。


玄関に入ると薄暗い。

廊下の先のガラスの埋め込まれたドアを開けると、正面が一面掃き出し窓の明るいリビング付きのキッチンがある。

数が多い観葉植物と冷蔵庫、ちいさな食器棚、テレビと小さなソファー、その前に低いテーブルが置かれている。この部屋の左手には引き戸があり、母の部屋に繋がる。

トイレとお風呂は廊下の右側でその真向いが和哉の部屋になっている。


母との二人暮らしにはちょうどいい。

母は昼から仕事に出かけていき、帰りは夜中の2時をこえる。

だから、デートは和哉の家なのだ。


部屋を掃除して、洗濯物を取り込んでたたむ。

これが和哉の日課になっている。

美知がくるまでの時間、やりかけの参考書の続きを始めている。


「ピン、ポ~ン。」

何度聞いても、ポ~ンの音がしっくりこない。

和哉はインターホンが鳴るたびに、そう思ってしまう。


美知がやってきた。玄関を開けるとすぐに抱き着いてきた。

「やっとたどり着いたよ!」

「待ってたよ。」

美知の顔が無邪気に笑う。この顔が好きだ。


玄関ドアの閉まる重い音が響き渡る。

ガァッシャン。外の世界と完全に隔離した音。

この音を合図に僕たちはキスをする。


美知はいつも、僕の部屋のクローゼットから僕のお古のスウェットのズボンと

懐かしいミッキーの絵がつたTシャツに着替えるのだが、

「今日は暑かったらからシャワーを借りるね。」といって風呂場に消えていった。


立ち上るいい匂いの湯気。一気に部屋全体に広がっていく。


僕は、洗面所に美知が脱いだ制服を取りに行く。

皺が気になって、すぐハンガーに掛けないと落ち着かない。

シャワーの音が聞こえる。

バスタオルを準備して、洗面のドアをそっと閉めた。


確かに暑かったな、美知の制服は湿っている。

美知の制服をハンガーに掛け、風通しのいい、居間のカーテンレールに引っ掛けた。

風が美知の制服を揺らし、観葉植物も一緒に揺れている。


和哉は居間にあるソファーに腰を下ろしていることが多い。

オレンジ色のソファーはこの部屋に明るい印象をもたらしている。


風呂から出た美知が、和哉の隣に座る。

「いい風だね。」

「うん、いい匂いだね。」


和哉が美知のシャツの中に手を入れて、直接背中を抱きよせながらキスをする。

二人の吐息が部屋の中にこだましていく。


 佐藤和哉 2


美知は僕の膝の上で、向かい合わせに座っている。

僕の胸に寄りかかりながら、美知が帰らなきゃいけない時間までいつもこうしている。


美知は、東子という友達の話をしている。

美知と学校で話しているときに、何度か会ったことがある子だ。

美知が友達の話をするのはめずらしい。


高校に入ってからまだ日が浅いのに、

人見知りの美知がすぐに仲良くなれる子なんて、かなり貴重だと思う。

その子の好きな人が、遊んでそうな大学生だから心配しているようだった。


「冷たいようだけど、美知には何もできないと思うよ。

相手の大学生だって、結局何もしないで家に帰したんだろう?

もしかしたら、悪い人じゃないかもしれないし。」

「そうなんだけどね。」

「周りがどうこう言おうが、走りだした気持ちは止められないしね。当人同士の問題だから。」

「うーん。そうだよね。」

「万が一、東子ちゃんがひどく傷ついてしまったら、その時が、美知の出番じゃないのかな。」

「うん、わかった。私、黙って見守る事にする。」

「僕と美知の時間を、少しぐらいなら分けてあげてもいいよ。美知の友達のために。」


美知はうるんだ目でまっすぐ和哉を見上げた。

そして僕たちはまた、キスをする。


美知の手が直接和哉のシャツの中に入ってきて直接背中ごと抱きしめる。

「わたし、和哉が好き。」

「知ってるよ。僕も美知が好き。気付いてた?」

「もっと、気づきたいな。」

「欲しがり屋さんだな。美知は。」

「こんなシーン、テレビで見たよ。意識した?」

「うん、カップルが通る道だよ。」

そして僕たちはまたキスをする。


美知は満足そうに立ち上がって、

「もうそろそろ帰るね。名残惜しくなっちゃう前に。」


身支度を済ませた美知を自転車のとこまで送っていく。

「家まで送っていこうか?」

「いいよ、自転車に乗っちゃえば5分だし。お父さんに見られたら厄介だし。」

「うん。わかった。明日また学校でね。」

別れのキスをする。

美知は嬉しそうにうなずくと、きれいな髪をなびかせながら自転車を走らせた。


 金井翔太 2


翔太は、カラオケ屋の近くで一人暮らしをしている。


築18年のアパートで、小さなエントランスを抜けていくと二階建てで、

コの字に配置された扉が12個並んでいる。


エントランスに入る入口付近には大きな木が植えられ、外から入口が見えずらくなっている。

アパート全体が観光地にある小規模な美術館のように、

古さの中に趣きが感じられるこの建物が、翔太は気に入っている。


エントランスから入って、正面の二階の右側が翔太の部屋、205号室だ。


大学生って結構忙しんだな・・二年生なってから、急に感じはじめた。

体が重いな。

そう思いながら部屋を目指す。


家に入るとすぐ、さっきコンビニで買った飲み物を冷蔵庫にしまう。

大学は朝から夕方までみっちり講義で埋まっている。

それなのに課題、課題といわれて、心底うんざりしている。


1DKのこの部屋は玄関を入るとすぐ冷蔵庫とキッチンがある。

キッチンの真向いにトイレと風呂が別々についている。

作りは古いが、圧迫感がないのがいい。

キッチンを抜けると8畳の洋間があり、左側の壁が全面クローゼットになっている。


翔太はソファーに体を預ける。

これからバイトに行かなければならない。面倒くさいな・・

親からの仕送りは10万円。

俺は恵まれている方だ。節約すれば毎月2万円は残る。


大学と家との往復だけじゃつまらない。だからバイトを始めた。

今日は木曜日、東子がいない日。


店長に相談してシフトを減らそうかな。

店長のガッカリした顔が浮かんでくる。


翔太の電話が着信を知らせている。

「もしもし、どうした?」

電話の相手は同じ人文学科で一緒の真紀からだった。


「もしもし、翔太?あのね、彼氏に振られた。」

真紀は何かあるとすぐに電話をかけてくる。

「そっか。しょうがないよな。」

「翔太さ、これから彼氏と別れた記念に打ち上げしない?」

「ごめん、これからバイトなんだよね。」

「翔太さ、私としたくない?

自暴自棄になってるかわいい女をみすみす逃そうってわけね。今の私は簡単かもよ。」

「いいよ、そんなに強がらなくても。俺さ、真紀のこと結構わかってるつもりだからさ。

一人で泣けよ。わかったか?」

「うん。」真紀は涙をこらえきれなくなっているようだった。

「明日、お昼おごるから。それまでに涙を枯らしとけ。」

「うん。」

「また明日な。」

「うん。」


真紀は少々めんどくさい。見た目はそこそこ可愛いのだが、俺とは合わない。

そんな気がする。


バイトだ。バイトに行こう。

今日は暇だといいな、そう思いながら玄関にカギを掛けた。


 金井翔太 3


カラオケボックスは低調だった。

昨日、相当忙しかったからその反動かもしれない。


「店長、今日は店も暇だし飲みに行きましょうよ。」

「なんだよ、翔太~。誘うなよ~今日はラストまで居なきゃいけないんだからさ~」


この店は深夜3:00まで営業している。

店長はレジが閉まる2:30まではここに居なければいけない。


「話があるんですよぉ、息抜きもしたいしぃ。」

「話?まさかさ~、辞めるとか言わないよな~翔太はさ、あと1年はいるんだろう?俺は泣くよ。」

「違いますよぉ。シフトを少し減らしたいんですぅ。疲れてるですよぉ。」

「えっ。すまないな、翔太。俺の休みがなくなるからさ~、それはできないな~。

俺が過労死したら嫌だろう?」

「やっぱり・・・」

「翔太。飲みにつれてってやるからさ~、機嫌直せよ。2:00までな。」


この店長には敵わない。

俺を手の平で転がせるのは、親父かここの店長しか思いつかない。

いつもうまく取り込まれてしまう。


「2時までさ~、2人だけど大丈夫だよね?すぐ隣にいるからさ~、なんかあったら電話をくれよな。」

フロントにいる主婦と専門学生に声をかけた。


俺と店長で隣のビルの二階にある焼き鳥屋へ向かう。

この店は、5時まで営業している。

暗い色の木目を基調とした店内はシックでいい。

厨房前のカウンターは6~7人くらい座れる。

四人掛けのテーブルセットが5セットくらいの小規模な店だ。


店に入ると、そこの大将が軽く手を挙げる。

そして店長も手を挙げて答える。

そして、「ビール」とだけ言った。

席に着くとすぐに生ビールが提供され、店員が「いつものでいい?」とだけいった。

店長は「とりあえず」と答える。

ここに来ると、必ず見る光景だ。


「翔太、どんどん頼んでいいぞ~。ここはツケが効くからさ~。」

俺は店長を尊敬している。この人、なぜかカッコよく見えてしまう。

着てる服は普通なのに、店長が着るとカッコよく見えてしまう。

物の見方も柔軟で、一つの事から何通りもの見方が出来る人だ。

男の感性で、これができる人は少ない。

それに、観察力、洞察力も優れている。

この50近い独り者のおっさんは徒者ただものではない、そう感じさせてくれるのだ。


「店長はさ、なんでカラオケ屋の店長をやってるの?」

「どうでもいい質問だな。もっとさ~、聞きたい事があるんじゃないの?」

「なんか、疲れちゃってさ。なんで大学になんか行ってんだったっけってさ。」

「そうか、若葉のころって感じだな。」

「若葉のころ?」

「小さな恋のメロディーっていう映画の曲だよ。」

「幼い男の子と女の子の恋は、

大人になった女の子には思い出で、大人になった男の子はいまだに進行形なんだっていう事を

5月のはじめに思い知るっていう歌。五月の憂鬱だよ。若葉のころってのは。」

「五月病ってこと?」

「明後日には6月になるんだから、きっと治るよ。男も変化を楽しめないとな。先に進めなくなる。

翔太はやりたい事とか好きな事とかないのか?」

「俺さ、店長になりたい。」

「やめた方がいいぞ、過労死寸前だぞ。カラオケ屋の店長は。

それに大学まで行かせてもらって就く職業じゃないしな。」

「そういう意味じゃない。」

「翔太さ、たまにうれしい事言ってくれるよな。俺に抱かれたいのか?それとも、そんなにバイト減らしたいのか?」

「俺はそんな趣味はないよ。ゴマ擂ってるわけでもない。本心です。」


女の子と過ごすより、やっぱり俺はこういう時間を過ごす方が楽しい。

だからなのか、積極的に女の子に行く気がしないし、彼女もいらない。

だけど、女とはやりたいんだよね。

それでも、俺だけがやりたくてするSEXはマスターペーションと同じで気持ちが乗らないし、

つまらない。

それに、誰でもいいからしたいって男にはなりたくない。

ガツガツしてて、ダサいし。

俺にだってプライドくらいある。


俺が抱きたい女の子には俺に抱かれたいと思ってほしい。

気持ちが繋がったSEXは楽しいし、頑張らないSEXでも女の子は喜んでくれる。

それに、SEXは相手をひどく傷つけてしまうリスクだってある。

だから、女の子が俺としたいと思ってくれるまでSEXはしないと決めている。


でも最初のSEXが気持ちの頂点になってしまうから、回数が増えれば興味が薄れていく。

困ったことに女の子にも、それが伝わってしまう。

せっかく心も体もつながったのに、結局、傷つけてしまうんだ。


そこで離れていく子もいれば、努力して関係をつなぎ止めようとしてくれる子もいる。

去る者は追えないが、努力してくれた子の気持ちがうれしくて、その後も何度かするものの、

結局は気持ちが萎えてしまう。

だから、俺は同じ子と何度もしなくなった。


相手が傷つけば、俺だって無傷じゃいられない。

傷が深くなる前にそっと手を引くしかない。

俺は女の子にハマりたい。心底ハマってみたい。


 金井翔太 4


「店長は結婚とかしないの?」

「そうだな、相手が居ればすぐにでもしたいな。」

「もう50年も生きてんだからさ、いくらでもチャンスあったと思うんだけど。」

「まだ、48歳。」

「店長は、モテると思う。」

「そうでもないから、まだ一人なんじゃないかな?」

店長には繰り返し何度もされてきた質問。答えが用意されている。


「一番ハマった女の人に出会ったのは、いつ頃?」

「そうだな。思い出せないほど昔だな。小学校の低学年くらいじゃないかな。」

それから、店長はポツリポツリと話し出した。


僕の父はさ。


役所勤めなのに、嫁に逃げられるような、うだつの上がらない男なんだけどね。


再婚したんだよ。子供を連れた人とさ。


再婚相手がさ、すごく綺麗な人でさ。


父と結婚したなんて信じられなかったな。


体の線が細い人でさ。体が弱いのは見た目でわかったよ。


連れてきた新しい妹も、びっくりするほど可愛くてさ。


しばらくは本当に幸せだったな。


僕もさ、母親の愛に飢えてたからさ。


可愛がってくれたよ、僕の事もさ。


家に帰ると笑顔で迎えてくれるんだよ。うれしかったな。


だけどさ、死んじゃったんだよ、その母がね。落ち込んだな。あんときは。


でも気が付いたんだよ、一番つらいのは妹だってさ。


父は引き取ると決めててね、妹を養女として籍に入れてたんだ。


たぶん、知ってたんだろうな。


僕はさ、とにかく妹が心配でさ。


ずっと見守っているうちに、好きになってたんだ。


血は繋がらなくても、兄妹だったからさ。


相当悩んだな。いろんな子と付き合ったよ。自分なりに抵抗したんだよ。


結局ダメだったな。ありきたりだろ?笑えるよ。


僕もさ、限界がきちゃってさ。妹にべったりくっつようになってた。


父も察してたみたいだったけど、何も言わなかったな。


妹もさ、嫌とは言わなかったんだよ。


僕もさ、兄のメンツを守りたかったから一線は超えなかったしね。


妹さ、どんどん綺麗になっていくんだよ。


僕にはさ、目に毒っていうかさ。


妹がどんどん大きくなっていくんだよ。僕の中でさ。


欲しくて欲しくてたまらなかった。


妹が18歳になったころかな、ガンになったんだよ、乳がんだった。


母親と同じ病気になっちゃったんだよな。


若かったからさ。転移が早くてさ。あっという間だったよ。


乳がんだってわかった時、妹がさ、言ったんだよ。


もうすぐ胸無くなるから、抱いてよってさ。


あんなに欲しくて欲しくてしょうがなかったのにな。抱いてやれなかった。


僕は妹の胸で一緒に泣くことしか出来なかったんだ。


弱虫だよな。自分でも情けない。

店長はここまで一気に話した。


 金井翔太 5


「盛り下げちゃったかな?でもな、これだけは言っておきたいんだがな。」

「はい。」


「妹の事はもう、消化がすんでいて僕の一部になってるんだよ。

だから、恋しいとか会いたいとか好きとか、そういうことはないんだ。

これから出会うであろう僕の妻にはさ、君は君だよって言ってあげられるんだ。

君が好きだよってさ。」

「やっぱっ、店長はカッコいいと思うな。」

「翔太はさ、もっと不器用になるべきだと思うよ。

翔太の話を聞いてみたかったんだが、もうすぐ2時になっちゃうから、行くな。

今度、ゆっくり聞いてやるからな。」


店長は大将に手を挙げて、ツケといてと言って店を後にした。

大将も手を挙げて答えた。

そこへ店員がやってきた。


「店長にツケとくからさ、もう少し飲んでけば?」

「おなかがすいたから、塩焼きそばとだし巻き卵ね。あと、ハイボール一つ。」


店長の話は、すごかった。

何というか、すごく感動した。


店長は”消化”が終わるまで、気が遠くなるような時間を費やしたに違いない。

その間、妹の死は店長にとっては現在進行形の憂鬱であり続けたはずだ。

長すぎる若葉のころを、店長はどうやり過ごしたのだろう。


激しい恋は、今まで店長が生きてきた半分以上の時間を支配していたと思うと、

それはそれで怖いな。

かと言って、俺みたいに誰もきちんと愛せないのも問題じゃないか?

どっちが幸せなんだろうか?


結論は出せないけど、やっぱり俺は、店長になりたい。改めて思った。



 滝川東子 11


東子の趣味は読書。

中でも、中村航が好きだ。

彼の世界観は柔らかくて優しい。上質なタオルみたい。

彼の作品は、日常生活を題材にしている事が多くて、あまり派手な物語展開はない。


東子の心は台風並みに荒れ狂っていたから、激情な物語を読んでみたくなった。

本屋大賞を受賞したという、”人生に一度だけ訪れた、絶壁の恋。”

過激な言葉がならぶ帯をつけた本を買った。


絶壁ってことは、高い障害があって叶わないのかな?

それとも好きな気持ちが大きすぎるっていうことなのかな?

どちらにしろ、最後は悲しい結末を予想してしまう。


家族で食事を取った後、早めに自分の部屋に退散した。

東子の弟達が、ゲームの取り合いで激しい喧嘩を始めたからだ。


本屋で買った本を読み始めた。

ベットに横になって、右に行ったり左に行ったり、机に座りなおしたり、立ったりまた座ったりしながら、本を読み続ける。

一気に読んでしまった。

夜の7時くらいから読み始め、夜中に1時までかかってしまった。


この本は、私の一人称だけて描かれている。

そこにこの作者のすごさを感じる。書いた人は女性なんだろうな。


東子は本を読み終えると、この後の物語がどうなっていくのかを空想するのが、日課になっている。

だけど、この本はその先の未来まで書き込まれていた。


気持ちのこもった暖かい終わり方だった。

ひどすぎる悲劇を予想していたから、思いがけずホッとした。


この本の主人公は大学生の女性。そんなに歳は違わない。

だけど、理解できない事が多い。


この主人公はあまり自分の気持ちを人には言わない。

だから誤解されたり、気づいてもらえなかったり、事態が悪化してしまったりしている。


今、ここでこの本に出合ったのは運命。この本の主人公とは違う轍を踏みたい。

だとしたら、私は私の気持ちを全面に押し出して、私らしく行く。

東子は決心した。

明日はバイトの日。翔太と顔を合わせる日なのだから。


 滝川東子 12


今日は朝から雨が降っている。

どんよりした空が恨めしい。


東子はバイトに行く支度をしていた。

ぼちぼち家を出た方がいい時間になっている。


土曜日はだいたい、17:00~22:00のシフトである事が多い。

東子は土曜日が一番好きだ。

バイトに行くと、翔太はもう働いているからだ。


家を出ると雨は辛うじて上がっていた。

一応、傘は持っていこう。


昨日の決心を、もう一度確認する。

翔太と私的な話をする機会があったら、私の気持ちを全面にだす。


「やるべきことが見つかると心が晴れやかになるな。」

一か月前を思い出していた。美知の言葉を思い出す。

「少しでも長く”同じ空気を吸う努力”をしてみるってのどうかな?。

肩の力を抜いて、気取らず、普通にね。

そしたらまた違う景色が見えてくるはずだから。元気出してこうよ。」


すべき事が見えてたから視界がクリアになったんだっけ。あの時。

やれることをやってみよう。それが前に進むことだ。

私はそう思えたんだ。


きっと違う景色が見えてくる・・・私は前に進むんだ・・・

これで翔太に振られることになっても、それでいい。


バイト先に着くと、店長に出くわした。

「おはようごさいます。」

「東子ちゃん、おはよう!待ってたよ~東子ちゃんが来るとさ~、忙しいんだよね。

福の神みたいだよね。毎日働きに来て~。」

店長はいつも気を使ってくれる。

まなざしも優しい。

「へへ、うれしんですけど、バイトとしては少し余裕があった方がいいですけどね。」

「東子ちゃんってさ~、正直なところもいいね。」

そういうと、フロント業務にもどっていった。


東子は店長が言った”も”の部分に引っかかりを感じた。

私の決心を見透かされているような、背中を押されたような不思議な気持ちになった。


 滝川東子 13


今日のバイトはハードそのものだった。

東子はドリンク配膳係、お客様の注文を部屋に届けに行く仕事だ。

翔太は厨房にいる。


この店は料理も豊富だし、ドリンクの種類も多い。

料金体系が少し変わったらしく、ドリンク注文が大幅に増えている。

バイト時間はあっという間に過ぎていく。


9時半を過ぎてくると、やっと落ち着いてきた。

手の空いた厨房の翔太は、店長としきりに何かを話している。


「思ったよりデザートが出てないんだよね~。

デザート原価高いからさ~、廃棄したくないんだよね~。まだ大丈夫かな?」

「このままだと、廃棄になると思うよ。」

「参ったな~いくつぐらい?」

「一箱くらい行きそう。」

「毎日、東子ちゃんにバイト来てもらおうかな~。東子ちゃん来ると忙しいからさ~。」

「店長、嫌われるよ。」

「そ~だよな~。とりあえず、会員にメール配信しちゃおうかな~。10%引きで。」

「本部に怒られるんでしょ?大丈夫?」

「廃棄するよりいいだろう?あいつら何もわかってないんだからさ~。あと、POPだな。

あっ、それでさ、翔太はどんぐらい減らしたいの?」

「マジで。いいの?」

「一応、参考までに。」

「日曜日か土曜日、どっちか丸々削る感じ。」

「それは厳しいな~。まっ、考えとくよ~。

今日は帰るよ~。朝8時からここにいるんだよ~。後、よろしく。」


店長は颯爽と帰っていく。

それにしても、翔太と店長は仲がいい。


「金井さん、バイト減らすんですか?聞こえちゃったんですけど。」

東子が声を掛けた。

「俺さ、疲れてんだよね~。」店長の話し方が移っている。

「5月病?」

「そんなところかな~。ストレス?かな~。東子ちゃんはそんなとき、どうしてる?」

「運動するか、本読むかどっちかです。いい気分転換になりますよ。」


「火曜日さ~、東子ちゃんの学校の中、案内してくれない?

バトミントンでもしようよ。部活って何時くらいまでやってる感じ?その後でいいからさ~。」

「部活は6時までです。6時以降は体育館使えるので、それからでもいいですか?」

「6時ね。わかった。そのころ校門前で待ってればいいよね。」

「金井さん、ジャージ着てきてくださいね、普段着だと目立っちゃいますから。」


「はーい。わかりました。それでは東子ちゃん、上がっていいよ。お疲れさま。」

翔太が言った。

「ハーイ、お疲れさまでした。お先に失礼します。」

東子が元気に返事をした。


控室に歩きかけて、ふと足と止めて言った。

「金井さん、楽しみにしてますね。」

翔太は手を挙げて答えた。


 金井翔太 6


火曜日の夕方、翔太は大学を出て、自宅に向かっている。

翔太は電車通学が好きだから、大学から少し離れたあの場所に住んでいる。


駅を降りると、まっすぐ伸びるメイン通りの左側にバイトしているカラオケ屋がある。

翔太の家は、駅を右手の方に出て、

線路沿いを5分ほど歩いて、

公園の先を曲がってちょっと行った所にある。


シャワーを浴びて、ジャージに着替えて、自転車で東子の学校までいく。

学校は翔太の家から7分くらいのところにある。


翔太は東子の事を考えながら、家までの道を歩いている最中だった。

時計は5時を少し回っている。


土曜日の東子はすがすがしいほど、吹っ切れた様子だった。

もう少し、俺の事で頭をいっぱいにしてやりたかったのに、当てが外れた。


電車の中で口説いてから、明らかに東子の様子は変わってたのに。

俺の事を意識しているのは明らかだった。

一週間足らずで、俺の呪縛から抜け出したことになる。


まだ、次の手を打ってないのになあ。翔太はそう思っていた。

家に着くと、シャワーを浴びて着替えた。

時間は少し早いが、家を出る事にした。


学校に着くと、5時47分だった。

校門から、校舎の来賓用の玄関が真正面に見えた。

その右並びに、生徒用の下駄箱室が並んでいる。

この学校は校門と平行に校舎が二棟並んで建っている。


校門から一歩入るとすぐ左側には生徒用の駐輪場があり、右側には広めの駐車場。

事務室に顔を出してみようと思い立った。

中に入ると正面に、ガラスの飾り棚が見える。トロフィーだの写真だのがびっしりと飾られている。

その手前に、教職員の下駄箱並んでいる。

右側は、事務所になっていて、チケット売り場みたいな透明に板で仕切られている。


「遊びに来たんですけど、見学してもいいですか?」

事務の先生が立ち上がり、「卒業生ですよね、どうぞ」と、言った。

まあ、それも悪くないか。翔太は思った。


来賓の玄関から外に出ると、湿った風が吹き抜けた。

すぐ横に、校舎と校庭を分けるように一本道が走っている。

校舎側は奥行きのある花壇になっていて、

楓や椿、つつじやアジサイなどが混在して植わっている。

道の左側には桜の木が植えられ、春は綺麗なんだろうと想像できる。


少し進むと左側に広がる校庭で練習をするサッカー部が目に入ってくる。

みんな日焼けしてるな。黒くなっている。

サッカー部を横目で見ながら更に、先に進む。

どうやらテニスコートがあるようだ。

練習は終わっているようでコートには誰も居なかった。


右側には校舎の次に、ほどなく体育館が見えてくる。

体育館は2棟あって、行儀よく並んで建っていた。

校舎と体育館の間を抜ける風を強く感じた。


翔太は自分が高校生のころを思い出していた。

後ろから声がする。振り向くと、笑顔の東子がいた。


「早く着いたんですか?」

少しだけと答えて、「俺を案内してくれる?」と聞いた。

手を出そうとした瞬間、東子は翔太の腕をつかんで

「一年生の教室はあっち」っと言った。

東子の動きの速さに、少し笑える。

この子は俺のペースを崩すのが得意だな・・


校舎の中はひんやりとしていた。

下駄箱室から見える階段を上がり、3階へ行く。

「ここが一年生の教室なんです。」

東子が説明をする。

どの学校もあまり変わらない。教室は懐かしいもんだな・・・

笑いながら、「教室は後、みんな同じようだからもういいですよね?」と付け加える。


一階に降りながら、学校を満喫している。

なんか楽しいな。階段を下りているだけなのにな。

階段を下りきると相変わらず、俺の腕をつかんで「体育館はあっち」と言った。


「こっちが本館で、あっちが第二体育館です。本館はバレー部が使ってるんですよ。

第二は、バスケ部とバトミントン部と卓球部と柔道部が使ってます。

あと、プールと部室棟と行ったことはないけど弓道場とか剣道場もありますよ。

どこが見たいですか?」っと聞いてきた。


「お腹いっぱいだな。バトミントンでもしようか?」

「はい。」

二人は第二体育館に入っていった。


「金井さんシューズ持ってないよね。さすがにそのサイズは・・」

「いいよ、裸足に決まってんだろう。」

「じゃ、私も。」

しばらく二人でバトミントンを楽しんだ。


東子もだんだん力が入ってきて、本気を出されると、ぜんぜん敵わなかった。


 金井翔太 7


「あ”~限界。」大の字で倒れた。


「金井さん、大丈夫?」

「ジュース買ってきて。」財布ごと渡す。


「金井さん、財布ごと渡して何かあっても知りませんよ。」

「だって、東子ちゃんだろ。」っと言い返してみた。

「金井さん、ジュースは150円です。」っと言って財布を返された。

しぶしぶ、財布から300円をだす。

「東子ちゃんもなんか飲んで。」

笑顔で「はい」っと答えて、体育館を出て行った。


その時、電話がメールの着信を知らせた。

亮からだった。

「今、どこにいるの?」だった。


すぐに電話を掛けた。

「もしもし、亮の学校だよ。どこにいるんだよ。」

「やっぱり、似た人を見かけたから。駅だよ。」

「声かけてくれればよかったのに。亮に誕生日プレゼント買ったんだよ。

俺がいそうなときに取りに来てよ。」

「うん。わかった。」

「亮を見つけたら、驚かそうと思ったのにな。」

「十分驚いたよ。まさかいると思わないから。」

「下駄箱に手紙でも入れとこうか?朝、羨望のまなざしで見られるかも。」

「何バカな事言ってんだか。」

「来るとき電話な。」

「わかった。それじゃ。」

電話を切った。東子はまだ戻ってこない。


学校は特別な場所に感じるな。

もう戻る事が出来ない神聖な場所。なんか荘厳だ。

しかし、ここは暑い・・・

体育館の外の階段で待つことにした。


 金井翔太 8


ここで風に吹かれるのは新鮮だな・・・。

やっと東子が戻ってきた。

「はい、金井さん。」

「ありがとう。」スポーツドリンクを受け取る。


外の階段を見下ろすように立っている東子と夕日がちょうど重なった。

背中に夕日を従えている、女神のように見えてきた。


「金井さん?」女神が俺に言葉を授けようとしている。

「なに?」

「私、金井さんが好きです。

電車の中で”抱きたい”って言われたとき、いいかなって思っちゃいました。

でも私は、するとかしないの前にまず恋がしたいんです。

金井さんは、私の事好きじゃないでしょ?だから、私は金井さんに好きになってもらいたいんです。」

女神が至極まっとうなことを言っている。


「だから、まずそこから始めませんか?」

「そこから始めるの”そこ”とはどこ?」


女神の光は俺の邪気を払いのけて、さらに輝いている。

俺のペースにハマることもなく、そればかりか俺のペースを崩してくる。

それに、真正面からどストレートに戦いを挑んでくるんだ。

俺は、もうこの子には勝てないのだと感じた。


「今のままでいいんです。何もしないで、このままでいてもらえませんか?」

「わかった。」

女神は微笑んだ。さらに神々しく見える。神聖で特別な場所で。


「金井さん、そろそろ帰りましょう。」

座っている俺に、女神が手を差し伸べる。

女神の手を取ると、ひっぱり挙げてくれた。

夕日の中に女神と俺だけがいる世界、俺も浄化されるかな?


「部室棟に着替えがあるので、私はそっちに行きますけど、金井さんは先に帰ってください。」

「待ってるよ。下駄箱で。駅まで送るよ。」

振り返って東子を見たが、もう太陽は従えていなかった。

女神に見えたのは、あの一時だけだった。


下駄箱の前で待っていると、東子がいつもの制服でやってきた。

「便箋とかメモ用紙とか持ってない?」

「ルーズリーフぐらいしか持ってないんですけど。」

一枚もらって、大きな字を書いた。

”金井翔太 参上!!”

四つに折って、ハートマークを書く。


亮の下駄箱にそっとしまった。

「あいつ、驚くかな?」


翔太が自転車にまたがって、

「乗らないか?」と、東子に言った。

東子はクスクス笑って、「はい」と言った。


東子を乗せて長い下り坂を下って、いつものメイン通りを抜けてようやく駅に着いた。

今日は6月2日。こんなに爽快な気分は久しぶりだ。

俺はまだ、青春の真っ只中にいるのかも知れないな。そう思った。


読んでくださって、ありがとうございました。

処女らしい、つたない文章だったと思いますが、

最後まで読んでもらえて、うれしいです。

苦痛でなければ、感想をいただけませんか?

是非、よろしくお願いします。


東子と翔太の関係ですが、進展なく続くイメージで書きました。

でも、翔太にも素敵な恋をしてほしいと思っています。


美知と和哉の関係が、私は気に入ってます。

これを書き始める前は、美知と和哉は別れる方向で考えていたんだけど、

書いているうちに、この二人はこのままが良いと思えてきました。


個人的には、店長が好きす。

店長が自身の恋愛話をするくだりで、

店長よ、そんなことがあったのか?と我ながら思ってしまいました。


それでは、失礼します。ありがとうございました。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ