玉依姫の語り伝え 〜賀茂祭と御蔭祭を結ぶ玉依姫の忘れられた由来譚〜
これは天皇の呼び名も漢風でなく、上代日本語として大きく違っていた昔の、古い伝え語りのこと。
大津篠宮に宮居を置かれていた鵜津木根君は、年を召されて賀茂仁君に天津日継を譲位され、新たな天君は糺宮に宮居を遷されました。
人事の配置と移動も整うと、鵜津木根君は義弟であり、功のあった武角身に十二の后の一人を妻として与えるという詔をしました。
後宮を護る三穂津姫は、孫にあたる内侍の、五十依姫がよく武角身に会っていた事を聞いて仲を取り持ち、武角身と五十依姫は夫婦となりました。
二人は河合の宮に別雷の神を祀りつつ、仲睦まじく過ごしました。
しかし、この二人の間には、十数年経っても子供が出来ませんでした。
この夫婦が二人で河合の宮で、子供が授かるようにと一心にお祈りしていると、夢の中で玉を授かり、後に女の子が産まれました。
玉を授かって産まれたので、その子は玉依姫と名付けられました。
玉依姫は大切に育てられ、玉のような姫に成長しました。
玉依姫が十四才になると、ご両親は相共に身罷り、祀られて河合の神(下鴨神社境内の河合神社の祭神)となられました。
残された玉依姫は、両親の四十八日の喪祭を済ませると、ただ一人、別雷の宮を守り、木綿を捧げて祈るようになりました。
そんなとき、何処からか躻居神が現われて姫に近付き、姫に問いかけました。
「たった一人で一生涯別雷の神にお仕えするつもりか」
玉依姫は驚いて答えます。
「いいえ」
また、躻居神が言いました。
「ならば世俗にまみれるか」
玉依姫は答えて、
「私を威かすおまえは何者ぞ。私は神の子ぞ。名を名乗るがいい」
と言えば、躻居神は雷を残して飛び去って行きました。
又、ある日、玉依姫が別雷の宮で、小川で一人静かに禊ぎをしていると、どこからともなく白羽の矢が飛んできて軒に刺さりました。
白羽の矢——それは母の生地では、人身御供を出す家に立てられる印でした。
そのことがあって間もなく、姫の月経が止まり、男児が生まれ出て、姫は望外のことながらも神の子と受け入れて育てられました。
その子供が丁度三才になった時のことです。その子は白羽の矢を見てそれを指差して「父」と言った瞬間、矢は天空高く登り消え去りました。
人々の間ではその矢はきっと別雷の神に違いないと噂され、玉依姫と御子の噂は国中に広がっていきました。
そんな噂が広まると、諸国の国津神から結婚の申込みが殺到しました。
しかし姫は御子と比叡山の麓の高野の森に身を隠して住まわれ、そこに別雷の神の小祠を建て、常に御蔭の山を仰ぎ(後の御蔭神社)暮らしていました。
この噂は、賀茂の糺宮にいらした賀茂仁君のお耳にも入りました。
賀茂仁君はつい先頃に中宮の八瀬姫に先立たれ、残された子の五瀬皇子の乳母を探すようお触れを出していました。
お触れを聞いたある人が、噂を言上しました。
「日枝山の西の麓に一人の美しい姫が子供と隠れ住んでおり、その姫の乳は大変滋養に富んで、隣村の痩せた子供を哀れんで姫が乳を与えたところ、たちまち肥え太って今では元気に育っております。この姫は尊い神の子孫の出生ですが、何故か深い森の中の隠れ家に子供と隠れ住んでおられます。この森の上には、いつも五色の雲が立ち登り、出雲路森と人々は呼んでおります。今まで大勢の神々がお迎えに上がりましたが、誰にも応じません。早勅使を立てられてみては如何でしょう」
賀茂仁君は岩倉を勅使として派遣しますが、すぐに姫の承諾を得られなかったとの復命がありました。それを聞いた若山咋が申し上げるには、
「勅使を出しても来ないのは訳があっての事。姫は一人で別雷の神を日夜お祀りしているため、君のところに伺うと、お祀りが出来なくなるからです。吾輩が代わりをすれば良いでしょう」
賀茂仁君は若山咋を新たに勅使として出しました。
若山咋が身をを以て祭祀を代わり、誠意を以て玉依姫をお招きすると、姫は今度は承諾し、勅使の列に従って糺宮へとやって来て、子供と共に天君に謁見しました。
賀茂仁君が姓名をお尋ねになると、姫は凜とした声で答えます。
「私の父は武角身で、母の名は五十依と申し、両親が私の名前を玉依と名付けました。波汀祇(綿津見)の孫でございます。この子は父が無く、神によって授けられた子です。父がなければ諱もできず、人は皆出雲の御子と呼んでおります」
そのお言葉は気品がにじみ出て、そのお姿は透き通る玉の如くです。
君は詔りされ、姫を内局として迎えました。そして八瀬姫の遺児の五瀬皇子を養育されることになったのです。出雲の御子には、三毛入と名を賜わりました。
その後、局となって産んだ御子の名は稲飯と申します。
玉依姫はついには中宮に登られ、その後お生まれになった御子の名こそ、神倭磐余彦(後の神武天皇)であります。
諱を名付ける時には、天種子が諱を書いた札を幾つも散らして捧げ、天君に選んでもらいました。そうして武仁と諱が付きました。
磐余彦の誕生を喜ばれた天君は、御子のために連歌を催され、そこに作って歌われました。
これ御璽 豊へる幡の つづねにぞ為せ
——古語が多く、その意味は定かにはなり難いものですが、御璽の言葉があるという事は、日継ぎの君である事を既に諭旨されていたのです。豊幡を持って集う人が、連に連なってこの子に祝うようにという様が目に浮かびます。
今でも京都の下鴨神社では毎年五月一二日に、葵祭の前祭として御蔭山中から玉依姫をお招きする御生れ祭が行われ、御蔭神社から糺の森まで続くその行装は、そんな古事の由来を偲ばせます。そして葵祭の行装の行き先は上賀茂神社で、そこには玉依姫と別雷の神が今も懇ろに祀られています。
冒頭地名に間違いがあり、訂正しました。