ぼくの知らない灯台(上)
短編(上)(下)に分かれた作品です。
※(下)は11/25日22時頃投稿予定になります。
ドアを開けると、玄関の床に封筒がぺしゃりと貼りついていた。鍵を二つとも閉め、それからチェーンまでかけてから、その封筒を拾い上げた。図書館で借りてきた本が入ったトートバッグが重い。ずり下がるそれをかけ直しながら、靴を脱いだ。家に上がる。そしてリビングへ向かいながら、ぺらりと向きを変えて封筒の宛名を見た。
『龍ヶ崎 淳さま 第78回アートコンクール開催のお知らせ』
予想通りの名前が記載された封筒だった。そのままごみ箱へ入れてしまおうとして、躊躇う。封筒の端に指をかけて、また躊躇った。そのまま少しだけ静止して、淳は暗いリビングの机の上にぽいっと封筒を投げた。踵を返す。後ろでかさりと、小さな紙の音がして封筒が落ちてしまったことがわかったが、淳は振り返ることなく自分の部屋へと向かった。
「また出かけんの」
部屋に入るなり、後ろから声をかけられて淳は、うん、とだけ答えた。
「おばちゃんのとこ。圭太が来るから」
トートバッグを机の上に降ろして、中から本を取り出す。声をかけてきた相手の幼い手が、淳が置いた本の上を滑っていった。おれのは、と問われて「重たかったから今回はパス」と返すと、楽しみにしていたのにと子どもは文句を言った。
「だったら一緒に来ればいいのに」
「おれ、あそこ嫌いだもん」
「そうだね」
淳は部屋を出て、靴を履きながら子どもの言葉を流した。まだ何か文句を続けようとする子どもを振り返って、淳は名前を呼ぶ。
「サブロー、僕出かけるけど。行くの」
サブローと呼ばれた子どもは、ふくれっ面のままだったが、こくりと頷いた。本を借りてこなかったことを怒り続けているわけではない、と淳にはわかっていた。サブローは、いつもこんな顔なのだ。口をへの字にして引き結んで尖らせている。
四年前の自分はこんなに愛想のない子どもだっただろうか、と淳は自分を客観視してみて記憶を辿った。サブローは四年前、淳が小学校三年生の頃の姿を、そのままに映し出した存在なのだ。もう少しうまく立ち回れる人間ではなかったかと、自分ではそう思っている。
「圭太くんのかぁ。おれ、おばちゃんにポッキンもらうから」
淳に続いて家から出ながら、サブローはそう言った。言外にお前は圭太と表で過ごせ、という意味が込められているのを、淳は頷くことで受け止める。
「行こっか」
淳は家の鍵をしっかり閉めると、サブローに手を差し出した。サブローはそれを握り返す。二人を等しく見ることができるのであれば、淳とサブローは仲の良い兄弟に見えたかもしれない。だがサブローは、幼い淳の姿をした、人には見えない存在なのであった。
目的地の駄菓子屋は、初老の女性が一人で切り盛りしている小さな店だ。淳の家と、親友の圭太の家とを一直線で結んだ、丁度真ん中あたりに位置しているので、集合しやすい溜まり場になっている。
圭太は一足先に細く捻じれた棒状のゼリーをくわえ、店先のベンチで寛いでいた。いかにも運動しやすそうな裾の広がった薄手のズボンから、こげ茶の足が覗いている。小学校から続けていたサッカークラブと両立して、中学で陸上部に入部しただけあって、健康な筋肉がしっかりと浮き上がっていた。
淳の到着に気づくと圭太は、よ、と軽い調子で片手を挙げた。
「ごめん、遅くなって」
圭太の隣に腰かけながら、淳はそう謝る。圭太は棒ゼリーをくわえたまま首を横に振って「全然。部活が早く終わったから、ちょっと走ってきて、さっき着いたとこ」と答えた。部活でも散々走っているはずなのに、さらに走ってきたのか、と淳は苦笑する。この親友は、いつか風にでもなるつもりなんじゃないだろうか。
「部活にも、結構慣れたっぽいね」
そう話を進めつつ、ちらりと淳は店の中を見る。サブローは、奥に入っていったようだった。おばちゃんから、ポッキンと呼んでいる凍らせた棒ジュースを受け取っているところが見えて、後でお礼を言わないと、と考える。
「まぁ、もう六月も終わりだしな。先輩とも、だいぶ仲良くなれたし」
そっか、良かったね、と淳が目を細めると、圭太は少し照れたように笑って、残ったゼリーを吸い込んだ。空になった容器を傍らにあるごみ箱に捨てる。すっくと立ちあがった圭太のズボンのポケットから、ちゃり、と小銭の音がした。何か買うか、という圭太に続いて、淳は駄菓子屋の店内に入る。
おばちゃんに挨拶をすると、レジ奥にある部屋へと上がり込んでポッキンをかじっているサブローが見えた。圭太にサブローは見えないので、怪しまれないよう、淳はこっそりとおばちゃんに頭を下げる。
おばちゃんにもサブローが見えていた。いわゆる、霊感があるというやつだ。おばちゃんも小さい頃からずっと、幽霊のようなものを見ていたらしい。サブローの名づけ親も、おばちゃんであった。初めは黒いもやだったサブローが淳の背後について回る姿を、おばちゃんが昔飼っていた猫と間違えて「サブロー」と呼んだのが由来である。今ではすっかり人型――淳と瓜二つであるが、サブローですっかり定着してしまっていた。
おばちゃんは、気にしないで、と目を細めて手をひらひらと振った。その後ろでサブローがばたんとひっくり返っては、ごろごろと転がっている。淳は小さくため息をついて、肩を落とした。
「俺はやっぱこれにしよ。パウダーのアメ」
黄色の小さなビニールの袋を摘まんで、圭太はしゃかしゃかと振った。袋の中に飴とコーラの炭酸パウダーが入っていて、飴を舐めてはパウダーをつけ、それを舐めて、を繰り返す駄菓子である。圭太のお気に入りだった。
「ぼくも、やっぱりこれだな」
淳は紺色の小さな小箱を手に取る。淳の一番のお気に入りはココアシガレットであった。名前の通り、ココアパウダーを煙草の形に固めた駄菓子だ。なぜか小さい頃からこの駄菓子が好きでよく食べていた。淳の家には喫煙者はいないが、だからこそ、煙草というものに興味があったのかもしれなかった。
これでは物足りないからと、それぞれもう一品ずつ購入することにする。商品を持ってレジに行こうとすると、入口の方から聞き覚えのある声が聞こえてきて、淳と圭太は振り返った。
「おばちゃん、アイス一本なー」
水色の袋を摘まんだ少年が、店内に入ってくる。少年は、レジの前にいた淳を見るなりぴしりと動きを止めて、目を見開いた。ワンテンポ遅れて、音が鳴りそうほどに勢い良く淳を指差す。
「龍ヶ崎 淳」
名を呼ばれた淳は、亮くん、と少年の名を呼び返した。亮と呼ばれた少年は、開かれていた目を細く絞る。それから、お前、と淳に詰め寄った。
「何で春の絵画展に作品を出さなかったんだ。お前にはたっぷりと時間があっただろ」
袋ごとアイスを突きつけられて淳は瞬いた。鋭い視線とアイスの両方で迫ってくる相手――虎ノ門 亮に驚いていたのだ。彼と会うのは、年末に行われた絵画コンクールの授賞式以来で、約半年ぶりだった。
「おい、何とか言えよ」
亮は淳が黙っていることへの苛立ちを隠さず、突きつけたアイスをさらにぐっと寄せた。意識がアイスの方に引き寄せられた淳は「……早く食べないと、溶けちゃうよ?」と言う。その答えに眉をぴくりと震わせ、不満そうに舌を打った亮は、淳を押し退けてレジに向かった。表に来い、と会計を済ませてから淳に命じる。
「話がある」
そう言ってすたすたと店から出て行く亮に、何だあいつ、と眉をひそめたのは圭太だった。
「急に来て偉そうに……。何なんだよ」
説明を求めるような圭太の視線を受けて、淳は苦笑した。圭太は、通っていた小学校が違う彼のことを知らないのだ。
「彼は、虎ノ門 亮くんだよ」
そう言うと、圭太ははっとしたような表情を見せた。さすがに名前は知っていたようであった。淳と亮は、新聞でよく名前を並べていたのだ。大体は、淳が先に。そのすぐ後ろに亮の名前は刻まれていた。
亮とはコンクールを通して、絵を描くことを通して出会ったのだ。淳が絵を描いて賞を取ってきたことを知っている圭太は、新聞で亮の名を見たことがあるはずであった。
圭太は表に出て行った亮の方を見て、淳に視線を戻す。その目には、先ほどのような不満の色はなくなっていた。
「ちょっと行ってくるね」
そう言って、淳は会計を済ませて亮の後を追った。
表に出ると、亮は小さな男の子とともにベンチにどっかりと腰かけていた。小さな男の子の方は、サブローと同じくらいの年齢に見えた。名前は確か、パンサーだったはず、と淳は記憶を辿る。ニックネームらしきその名を、亮が呼んでいたのを覚えていた。パンサーと言うだけあって、豹のつもりなのか、パンサーは黒い猫の帽子を被っていた。だが、名を聞かねばまったく連想できないほどに可愛らしい品である。
亮とパンサーは、仲良く二人でアイスを半分にしているらしかった。そのために棒が二本ついているソーダアイスを選んだのだろうか、と淳は亮をしげしげと見つめる。亮は不機嫌な顔で、んだよ、と淳を睨んだ。
「仲、良いんだね」
ぽつりと淳が呟くと、亮は鼻で笑った。
「まぁこいつは、俺の愛弟子だからな」
自慢げな亮に、パンサーが「はいっス、アニキ」と目を輝かせて頷いた。弟子というよりは、素直な弟、という感じだ。容姿は似ていないが、この二人の距離感の方が淳とサブローよりもよっぽど兄弟らしかった。
「だが、そんなこと今はどうでもいい」
アイスを一口しゃくりと齧ってから、亮は話を本題に戻した。淳は、亮の隣に座る。三人も座るとベンチはいっぱいいっぱいで、圭太の座れるところはなさそうだった。
「どうしてこの間の絵画展に出品しなかったんだ。お前、中学行ってないんだろ。絵に専念するんじゃねぇのかよ」
淳は、うん、と頷いた。ただの、話の相槌であった。亮からの質問になんと答えればいいのかわからないのだ。
亮は横目で淳を見ていたが、淳がなかなか答えないでいると、溶けそうになっているアイスを下から齧った。そのまま沈黙が続いて、亮はアイスを平らげてしまう。棒の表裏にあたりの表記がないことを確認して、ごみ箱にアイスの棒を投げ入れた。そこでようやく淳は口を開く。
「出品しなかったのは、絵を描いてないからだ」
亮は淳を睨んで「……そうじゃねぇよ」と低く吐き捨てる。
「何で描いてねぇんだって聞いてんだ」
次の質問には、淳はすぐに答えた。
「描けないから」
亮は苛立った様子で、何で描けない、と問いを続ける。わからない、と淳はまたもやすぐに答えた。
「わからないわけねぇだろ。自分のことじゃねぇか」
亮の声が少し大きくなる。しかし淳は前を見据えていた。辺りは薄暗くなり始め、アスファルトからは六月の湿ったにおいがする。それは夏の始まりのにおいに似ていて、どこか懐かしさを感じさせた。少し、火薬のにおいと似た高揚感がある気がする。
軽く怒鳴ったのにも関わらず、無反応な淳に調子を狂わされたのか、亮はため息を吐きながらベンチにもたれかかった。
「……花火したいなぁ」
「はぁ?」
唐突にこぼれた淳の言葉に、亮は起き上がって淳の顔を覗きこむ。淳は特に気にするわけでもなく、ぼんやりとしつつ、先ほど買ったココアシガレットの封を解いていた。小袋を破いて、シガレットを一本取り出す。それをくわえると、呆気に取られていた亮が動き出した。
「いや、意味わかんねぇよ。お前、俺の話ちゃんと聞いてたんだろうな」
掴みかからん勢いの亮に、淳からではなく、その後ろから声がかかる。
「いいな、花火。俺も久しぶりにやりてえな」
突拍子のない淳の言葉に賛同したのは圭太だった。いつの間にか入口の方まで来ていたらしかった。はあ、と再び声を荒げる亮は圭太を見て、お前誰だよと目つきを鋭くさせる。
「俺は淳の友だちだ。あんたのことも、新聞とかで知ってる」
それ聞いて、亮の瞳はいっそう鋭くなった。亮は、淳がいることでいつもコンクールで二位だったのだ。新聞には順位とともに名前が掲載される。亮は、それに拘っていた。
「淳は、今は休憩してるところなんだ。誰にでも、うまくいかない時ってあるだろ? 淳はまさに今それなんだよ。だから今は、そっとしておいてくれよ」
恐らく荒々しい亮の声を聞きつけ、心配して助け舟を出してくれたのだろうと淳は察する。圭太とは小学一年生の時からの付き合いだが、こういう時にうまく気を回してくれる相手だった。
だが亮も引く様子は見せない。
「そんなもん休憩じゃなくて逃げだ。描けなくても描かなきゃ腕は鈍るし、感性は腐ってくんだよ。関係ねえやつが口出しすんな」
亮の言うことももっともだ、と淳は両者の間に挟まれながらそう思った。スランプになんて誰でも陥るだろうし、それを抜け出すために誰もが努力をする。それは結局、そのこと自体をやり続けることでしか解決しないのだ。もちろんそんなことは、淳にもわかっている。
「……盗難事件の絵、もちろん覚えてるよな」
亮は声を低めて、淳に視線を落とした。淳はその視線を感じながらも顔を上げることはなく、地面を見つめたままで頷いた。忘れるはずがない。四年前、淳がまだ小学三年生だった頃のことだ。祖母のために描いた絵が、盗まれてしまうという事件が起こったのだ。
ぼくの知らない灯台(下)に続く
よければ、引き続きよろしくお願いいたします(о´∀`о)