阿部のミクス
―――――side阿部in相模
俺は冷蔵庫を開けて絶句した。
なぜ絶句したかというと……2ドアのそこそこデカい冷蔵庫の中身が、すべて十秒飯という謳い文句のなんちゃらインゼリーだったからだ。
一つや二つではない。軽く二百は越えるぐらいあった。
「なんだよこれ……すごく怖いんだが」
卸売りの問屋でもない限り、この数の市販されている経口補水液っぽい物を見ることはないだろう。
明らかに異質。明らかに異常。いや、キチ〇イといっても過言ではなかろう。
二十秒ほど俺は冷蔵庫の前で止まってしまっていた。
冷蔵庫の扉を開け放していることを忠告する電子音で、ようやく俺は自我を取り戻した。
あの変人阿部のことだ。こういうことをしているのを見ると、やはり本当にあいつは変人だということを再確認できる。
こんなことで参っていては奴に一発、顔面パンチをお見舞いすることなど不可能だろう。
俺はそう思って気合いを入れなおし、狂気のゼリー群を全力で見なかったことにした。
端的に言えば、ゼリーには手を付けずに思いっきり冷蔵庫のドアを閉めたのだ。
――もういい、学校へ行こう。
そう思い俺は玄関へと向かった。
他の場所と同じく、玄関も清潔に保たれている。埃一つない。
そして、外履きが一足ど真ん中に置かれている。
やはり阿部は綺麗好きなのだろうか。俺とは大違いだ。
他人の靴を履くのは、水虫だらけの靴に足を突っ込むような気がして少し戸惑ったが、これも仕方のないことだと思い、振り切る。
どうせ体は阿部のものなのだ。
そうして、ようやく俺は阿部の家から出ようと扉に手を掛けた――。
「……おはよう」
はずだった。
俺の目の前には、日本人ではありえないような白い肌の若いロシア人が、流暢に日本語であいさつをしている。
清楚系外人キャラなのだろうか? 静かに挨拶しているあたりこの人は無口設定なのか?
突然の出来事に俺の頭はパニックを起こして、正常に機能するのをあきらめている。
変な考えばかりが頭に浮かんできた。
なんだ? 阿部の知り合いか? とか、いや、あんな阿部にこんな美人のロシア人っぽい美少女――蒼眼でパツキン――の知り合いが居てたまるか。とか、あぁ目の前の美少女さん微妙に俯いたまま上目遣いでこちらを見ないでください。とか、そそられちゃうじゃないですか。いや、俺はあなたなんか知りません。とか。
そこまで思考することたっぷり一秒弱。
「お、おは……よう、ございます?」
ようやくひねり出した言葉はその一言だけだった。
上出来ではなかろうか。この突飛な事象に対してきちんと挨拶を返したのだ。ほめてくれ。
俺が挨拶を返したのを見て、わずかにビックリしたような雰囲気を醸し出す少女。
だが呆気にとられるわけでもなく、彼女は平然と挨拶を続けるようで――
「……初めまして、私、あなたのサポート役に選ばれました【世界機関】のアレクサンドラといいます。【サーシャ】、と気軽にお呼びください」
「ちょっとまってくれ。ぜんっぜん話が見えないんだが」
理解不能に過ぎる。
わーるどえーじぇんと? サポート役?
疑問符ばかりだ。
「当たり前です。あなたと私は初対面ですし、何の通達もなく現れたんですから」
なんだこいつ。
なんだよこいつ!!
おっと、一度落ち着かなければ。
相手は美少女だ。頭が――その、イカれちまってるのかもしれない。
話を合わせないと、怖い目に遭いそうだ。
あはは、そうなんだーてっきり俺が忘れてるだけかと思っちゃったよー……で返しは完璧だな!
よし!
「お引き取りください。奇人変人の類は阿部一人で十分ですので」
何言ってんだ俺ぇえええええええ! 思わず本音がぁ!!
「嫌です。私も任務ですので、あなたの特殊能力を世界に関して有効に使っていただけるように説得しに来たのですから」
お前も何言ってんだこのサイコめ!
「だから、そういうサイコなのはパスです。他所でやってください。特殊能力とか? ははは、そんなもん地球上にあるわけないでしょ!」
「っ――自覚症状なし、とは。仕方ありませんから今日一日尾行して……」
何か少女が呟いたが耳には届いてこない。
「ってわけで他を当たってください! さよならぁあああ!!」
言いながら、全力でマンションの廊下をダッシュし、美少女から逃げることにした。
百メートルくらいある廊下を5秒で走り抜け、高層マンションの二十階強の建物の階段を、上から下まで十段飛ばしで駆け下る。
そして、地上に着いたら一目散に路地裏に逃げ込み、ジグザグに走り抜ける。
逃げる時の鉄則だ。
相手が追ってきてもこれなら俺の位置は把握できないだろう。
数分ほど逃げ回ったのち、逃げるのをやめた。
後ろを見てもあのサイコ少女が追いかけてくる様子がなかったからだ。
さて、現在地を把握するために地図などを見たかったのだが、あの美少女のせいでそんなことをしている余裕がなくなってしまった。
端的に言うと、絶賛迷子中だ。
今日は本当に朝から災難続きだ。やってられない。
「くそっ、知らない人に話しかけるのは嫌だし……だが、学校に行かないと阿部の野郎を殴れないし……」
考えながらも俺は勘に頼って道を進む。
見たことのない道だ。当たり前だ。俺は阿部の家のある場所を知らない。
現在位置を把握することをあきらめ、しばらく路地を進むと大きい通りに出た。
交通量が多くて歩道を歩く人も多いこの道は――よく知っている高校に続くあの道だった。
一息、大きくため息をついた。
こんなに早く迷子状態から脱出できるとは、不幸中の幸いというものだ。
人ごみの中を進んでいく。
もともとの俺の通学路もこの道を通るので、いつもと変わらぬ風景だ。
少し歩き、学校手前の横断歩道のある道に出た。
信号は青の点滅。
この学校手前の信号はすぐに赤から青に変わるので焦ることはない。
遅刻寸前でも青の点滅は一回まて、と学校でも教わったのは懐かしい思い出だ。
そんなことを考えながら、呆、と立っていた。
そして――俺は、見た。
止まった俺の横を走って通り過ぎ、歩道を急いで渡る女子高生を。
歩道の青信号が点滅から赤に変わる。
――見て、しまった。
操作を誤ったのか、少女へ突っ込んでいく車が一台。
音のない時間が、数秒。
気を取り戻したとき、あたりには鮮血がまき散らされ、無残にも女子高生は先ほど居た位置よりも数百メートルは吹き飛んでいて――。
途端にどよめきだす群衆。
生々しい血の匂いが【これはリアルだ】とささやきかけてくる。
「え?」
呆けた声しかでない。
途端、割れるような頭痛がした。
【悪性因果の形成を確認。 救え 】
声ではない声が俺の頭を支配する。
【時間猶予を設定 デフォルト 四十七 秒 】
視界が一気に暗転する。
気を失ってしまったのだろうか。
いや、頭痛は続いていた。
【 正 義 執 行 】
―――――
目を開けた瞬間――俺は意味が分からなかった。
先ほど事故があったはずの場所のすぐ近くに俺は立っていた。
間違いなく、ついさっきまで歩道の前に居たはずだ。それに、少し離れた場所で、確かに高校生の少女が車に撥ねられたはずなのに。
何もなかったかのように、他の人たちは騒いでいない。
あれだけの事故だ。もっと騒々しくなっていて当然のはず。
まるで、事故がまだ起こっていないかのようじゃ無いか。
「なにが、どうなってるんだ……?」
自分の頭がおかしくなってしまったのだろうか。
きっと白昼夢でも見たのだと思い今一度横断歩道の手前で立ち止まる。
先ほどと同じタイミングで、青の点滅。
嫌な予感がした。
またしても俺の横を駆け抜ける女子高生が一人。
――瞬間、先ほどと全く同じ光景が目の前に広がった。
女子高生が、撥ねられたのだ。
同じ車に吹き飛ばされて、同じ場所に転がった。
【救済失敗】
頭痛。
【悪性因果の破壊 失敗】
ひどい、頭痛。
【救え 時間猶予 四十七 秒】
立っていられない。
【 正 義 執 行 】
―――――
目の前にはまたしても、先ほどの事故が起こっていない横断歩道が広がっていた。