五話
時を遡ること三日前、とある小屋の中でのこと。イルバは目の前に広げられた紙を、気難しい顔で睨みつけていた。
しかしその内容が家計簿ではないと知っているネルコロは、明日の朝食を聞くような気軽さでイルバに話しかける。
「どう、なにかわかった?」
「・・・・・・・・・」
それでもなかなか反応を示さないイルバにネルコロがもう一度声を掛けようとした、その寸前にやっとイルバは口を開く。
重々しい口調は、どこか彼自身にも不満があるような印象があった。
「お嬢様、本当に何もしていないんですか?」
「そうよ、あの日はいつも通りお祈りをして、ご飯を食べて、本を読んでから寝たわ。変なことなんてなんにもやっていないわよ、あなただってそんなことは知っているわよね?」
「しかし、少なくともお嬢様の体が随分と変なことになっているのは確かです」
しわを寄せたままのイルバ、その横からネルコロも紙を覗き込んだ。
びっしりと紙に敷き詰められた文字たちを目で追い―――――――申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい、これどうやってみるの?」
「少しお嬢様には難しいでしょうし、内容だけざっくりと説明しますよ。
今回試しにということで、器具にてお嬢様の力を測定させていただきました。結果から言えば、数字はどこまで以上ということはわかったのですが、正確な数字は出ませんでしたね」
器具と言われ、ネルコロは少し前に触れた初めて見た器具のことを思い出していた。
見たことのない形、見たことのない色にネルコロは興味を持っていたが、何を思い出したのか申し訳なさそうにその眉根を寄せる。
「もしかして、あの壊しちゃったやつ?」
「そう、その壊したやつです。高いものだったので壊れても数字だけは残っていかと思い調べてみましたが、そう上手くはいきませんでしたね」
「あら、そうなの。ごめんなさいね」
ネルコロは悪びれるが、イルバは反応することなく二枚、三枚と紙をめくり、最後の一枚に目を通すと深く息を吐いた。
「まあ結論、お嬢様は腕力、脚力を始め並ならぬ力を持たれたようです。人相手なら言うに及ばず、これなら人外相手であっても対等以上に力勝負が出来るでしょう」
「神様がくれた力だもの、それくらいは当然ね。じゃあ約束通り、早速行動を開始しましょうか」
ネルコロは踊る心をすこしも隠すことなく表情に出していたが、イルバはまだ何か言いたいことがあるようだった。
「お嬢様、私と手合わせされたとき、あの速さで止まって足に痛みはありませんでしたか?」
「なかったけど、それがどうしたの?」
「普通の人間、特にお嬢様のように体の細い方はあの速度から急に止まろうとしても、普通止まることはできません。もし止まることができたとしても、体がそのままなら負荷のかかった足にはそれ相応の痛みが生じたはずです。」
イルバの言葉はあたりまえのことではあったが、そんなことを感じたことのないネルコロはただただ首をかしげるだけだった。
それがただの見栄からくるものではなく本心ゆえの反応だと感じ取ったイルバは、さらに話を続ける。
「おそらく、お嬢様の力だけではなく体も頑丈になっております。それも、少なくともその人間離れした力を十分に振るえるくらいには。
私の推測ですが、おそらくは――――――」
「矢ぐらいは弾けるのではないでしょうかね、か」
つい先ほど自分の眉間に当たったはずの矢が落ちるのを見て、ネルコロはそういわれたことを思い出していた。
鋭く放たれた矢は確かに狙われたところ、正確にネルコロの頭に直撃したが、ネルコロの頭を少しぐらつかせるだけでそれ以上の効果をもたらさなかった。
一部始終を眼前で見て、驚きゆえに黙り込んでしまった兵士達にむかって、ネルコロは大きく息を吸う。
「さあ、帰りなさい!」
少女の姿をした得体の知れないものの大声は、兵士達を震え上がらせるには十分だった。
我さきにと逃げ出す兵士達に、もはや秩序はない。あるものは足音をばたつかせ、あるものは何事かを喚き散らし、あっという間に道の向こうに消えていってしまった。
しかしそれが兵士達の演技だとネルコロが知ったのはすぐ後のことだった。
ネルコロが振り返ると、いつの間にか倒れていた兵士達も姿を消していたのだ。
慌てたにしてはやけにいきなり崩れたとは思っていたが、訳を知りネルコロは自然と口元をほころばせる。
「流石に本職ね、よく分かってるわ」
「お嬢様、撤退を確認しました。これで援軍を送られるはずだった場所からも兵士達が引くことになるでしょう。望みが叶いましたね」
ネルコロが振り返ると、そこにイルバがいた。
魔法のように現れたことにネルコロは驚くが、それよりもどこか不自然、というかやけに強調された最後の言葉、その意図にどこかムッとした様子だった。
「イルバ、その言葉を聞けば私が満足すると思ったの?意外としつこいのね?」
「いえ、これは先ほど見送った時から、お嬢様に送ろうと思っていた言葉です。ところでどうです、名前の普及はうまくいったようですか?」
「どうでしょうね。一人は確かに名前を返してくれていたし、なにより誰も死んではいないから覚えてはいるはずだけど・・・・・・」
「だけど?」
聞き返すイルバに、ネルコロは申し訳なさそうに肩を落とした。
「考えてみれば、国に仕える兵士が私みたいな見た目の相手に逃げ帰ったなんていうわけ無いわね」
「その結論にはもっと早くたどり着いて欲しかったですな」
流れるようなイルバの返しに、バツが悪そうにしながらもネルコロは口を尖らせる。
そういう態度がどこか年相応に見えたのか、イルバの視線も穏やかになった。
「わかってたわね?」
「こういうことは身を持って知ることが大切なのです。特にお嬢様は頑固ですから、私はあなたが理解するのを待たなければなりません」
イルバの言葉はどこまでも淡々としていた。いや、態度もだ。
だがその裏に確かに自分のことを考えてくれているところがあると分かったネルコロは、行くあてもなく視線を中に漂わせた。
「それは・・・・・・ごめんなさい」
「お嬢様のためになったのなら、それは万事いいことです。私は気にしておりません。
ですが、これで今回お嬢様がなそうとしていることがいかに大変か理解できましたね?すべてが絵本通りに行くとは限らないのです」
イルバはそう満足そうに言うが、俯いたネルコロは次の瞬間には不敵な笑みを浮かべる。
その予想外の表情に、イルバも訳が分からず怪訝に顔を歪ませた。
「そうとも限らないわよ?すっごい大変だけど、あれをやりましょう」
未だ思い浮かばないイルバの目には、ネルコロの笑顔がやけに映えていた。