三話
外から帰ってきた後二人は朝食を取るため、いつものように食卓についていた。
あれだけのことがあったあとだが、その光景はいつもとそう変わりがない。
しいて何か変わっているというならば、ネルコロがいつもより気だるげにしていないところであろうか。
食事を取ろうとしたそのとき、イルバが切り出した。
「それでお嬢様のこれからの活動について、さしあたって一つお尋ねしたいことがあるのですが」
「何、まだあるの?」
「いえいえとんでもない。口約束とは言え、お嬢様は賭けに勝たれました。よってお嬢様がこれから何をなされても私はついていきます」
「じゃあ一体何?」
ネルコロは本当に思い浮かばないのか、首をかしげていた。
「お嬢様、お嬢様は魔王とかいうものになると先ほどおっしゃられておりましたが、具体的な策は既にあるのですか?多くの国を巻き込む以上、綿密な計画がなければ最悪悪化する可能性すらあります。ここは密かに同志を集め、綿密な計画を立てていかないと――――――」
「何だそんなこと?綿密な計画もなにも、私達はこれに沿って行動するだけよ。」
ネルコロがそう言って差し出したのは、イルバもよく知るものだった。というかイルバがネルコロのために手に入れてきたものだ。
ネルコロが手に持つそれを見て、冗談とでも思っていたのか暫くほうけていたが、すぐに我に帰った。
「お嬢様、正気ですか?」
「私たちはこれと同じことをするの。今は一巻しかないけどどこかにある残りも見つければ、あとは全てうまくいくはず。」
まるで疑うことのない眼差しに、イルバは思わず天を仰いでいた。一瞬口にする言葉すら忘れたといえば、その衝撃が相当のものだったと伝わるだろうか。
「まさかとは思っていましたが、本気だったとは・・・・・・まあこの際はいいでしょう。それで、最初は何をするつもりなのですか?」
「まさか忘れたの?あんなに毎日読んでくれたのに?」
「・・・・・・まさか、そっくりそのままやるつもりで?」
頭が痛むのか額に手を当てるイルバ。相対的に、ネルコロの表情は明るいままだった。
「心配しないでなんて言わないわ。でも私はもう昔のままじゃないの。大丈夫、きっとうまくいくわ」
別段ネルコロの表情は取り繕われたものではなかった。だがそのことがより一層、イルバの不安を掻き立てる。
考えを読まれないように顔を覆ったイルバの手は、やがて生暖かい息に当てられた。
「分かりました。ですがそれをする前に、せめてお嬢様の体に起こった変化について調べなくてはなりません。それからでよろしいですね?」
「いいわ。でも手短にね」
「手短にできることではないと思いますが、善処しましょう。ではこのあと早速始めましょう」
イルバはそう言って席を立った。皿を運ぶその後ろ姿をみながら、ネルコロは朝食最後の一口を運んだ。
「早いものですね。あれから一週間も経ちましたか」
しみじみとそうつぶやくイルバは、今登ったばかりの日の出に目を細めていた。山の中腹あたりからであっても朝を告げる光は神々しく、イルバは次第に満ち足りた気分となっていく。
だが、連れの一言で彼は現実に引き戻される。
名残惜しそうな視線を振り切ると、やはりそこには彼が見慣れた、ネルコロの姿があった。
極力露出を控え、さらに動きやすいようにということで長袖長ズボン姿の彼女は、長い髪を後ろでひとまとめにし、その眉間にシワを寄せている。
「本当?ひと月の間違いじゃないの?」
「・・・・・・私は日記をつけていまして、その記録によりますと確かにお嬢様と手合わせたのはちょうど一週間前でしたよ。長く感じたということは、それだけお嬢様がこの日を心待ちにしていたということでしょうね」
イルバの淡々とした言葉にネルコロはしばらくそのままだったが、不意にある音を耳にすると急に表情を変え山の下の方を覗き込んだ。
ネルコロが耳にしたのは、複数の人の声。目に映したのは、鎧を着て列をなすどこかの兵士達。
それを見て目を輝かせたネルコロには、その背後で不安そうに顔をしかめるイルバの表情は見えていなかった。
「一国の正規部隊が相手なんて、魔王の初戦として不足はないわ」
「それは良かったです、私も調べただけの甲斐がありましたよ」
心にもないイルバの言葉にも、ネルコロは全く反応しなかった。
行進していく一団をジッと見つめるその目には、いろいろな感情が垣間見える。中には不安だったり、恐怖だったり、決して負の感情がなかったわけではない。
ただ何よりも大きな、これからへの期待というのがその目を輝かせるに至っていた。
そんなネルコロの姿を背後からじっとイルバが見ていると、不意に振り向いたネルコロと目があった。
邪心を少しも感じさせないその瞳をイルバが覗き返すと、ネルコロが口を開く。
「それはともかく、ひとつ不思議に思うことがあるのだけれど」
「なんですか?」
「この部隊が先行している他の隊と合流してしまえば、今まで睨み合いだけで済んでいたところで血が流れるということは聞いたわ。私としては本来の目的に添ってくれているし、あの本に書いてあった通りの行動がとれる。文句なんてどこにもないわ」
ネルコロの言ったことは、イルバが彼女に二日前ほどに教えたことだった。
イルバは現状の確認なのかと思いそれに頷いたが、ネルコロはそれでもなおじっとイルバを見ている。
彼女が何が聞きたいのかは、すぐに彼女の口から語られることとなった。
「でもこんなこと、そう簡単に漏れるものではないわ。軍事行動の内容なんて、国の存続に関わるかも知れないもの。イルバ、これどうやって調べたの?」
ネルコロの言葉の後には、しばしの間があった。
ネルコロはイルバの逡巡も、思考も覗き込もうとはしていなかったがずっとイルバから視線をそらさない。
果たしてどんな答えが返ってくるのかとネルコロが期待している中で、その瞳に映る自分を見てイルバは不意に笑みをこぼしていた。
「そのことに関しては、今はまだお話できませんね。もちろん容易に漏らしてはならないことですし、ましてやお嬢様はこれから世界を敵に回す魔王となられるお方です。そんな方相手においそれと話すわけがないでしょう?」
イルバがネルコロを見れば、その表情はなんとも気の抜けたものであった。
思いがけない答えにネルコロは唖然とせざるを得なかったが、気を取り直すのも早い。
皮肉げな笑いは、心に余裕のある証拠だった。
「あら、よくわかってるじゃない。じゃあそれでいいわ、私はもう行くから」
「ご武運をお祈りしています」
イルバの言葉を背に、ネルコロは空に向かって大きく跳んだ。
そこにはこれから幾人の兵士と相対するという恐怖はなく、自信に満ち溢れた跳躍は彼女を望む場所へ運んでいった。