二十七話
その日の空は、底抜けに晴れていた。
顔を上げれば見渡す限り真っ青な空がはるか向こうにまで続き、そこには僅かな雲さえひとつもない。
ふと上を見た人々の大半は、きっと今日はいい日になる、そう思わせる程の晴れた空だった。
だがレオはそんな空を瞳に映しながらも、なぜか表情はかわいがっていた猫がゴキブリを咥えて走っているのを偶然目撃してしまったかのような、そんなどんよりとしたものだった。
恨み節さえ滲み出てくるかのようなその表情のまま、レオは仰向けに寝転がって独り言を漏らす。
「飽きた」
「お前この前もそれ言っていたよな。諦めの悪いことは美徳かもしれんが、こればっかりは仕方のないことだろ。頭もいいんだし、いい加減に腹をくくるのが一番早いってことに納得しろよ」
レオ達が乗る馬車の荷台では、以前と同じような光景が繰り返されていた。
レオはその退屈さ故に四肢を投げ出すようにして寝転がり、ローデは一人淡々と体を動かしながらレオの相手をし、そしてライクは寝巻きに丸まって横になっていた。
だがルーシャだけはこの前とは違い、普通に座り込んでローデとレオの話に加わっていた。
レオが繰り返す言葉にローデが呆れたようにして返すのを見て、ルーシャも笑顔を崩さずそれに頷いた。
「ローデさんの言うとおりですよ、レオさん。移動手段においては、こうやって荷馬車を使って移動するのが、一番体力を使わなくて済む方法じゃないですか。もちろんこれは空を飛ぶ魔法に比べたら快適さに欠けますし、馬に直接乗るのに比べたら速度で劣りますよ。でもどちらも長い距離を移動するには疲れます。レオさんだって、疲れるのは嫌でしょう?」
「そういう説教くさいこと言うところ、ホントに師匠に似たな」
「レオ、そこはせめて頷いてやれよ」
レオが息を吐くようにルーシャに返し言葉を吐くと、ローデはそれをぴしゃりと窘めた。
珍しくローデの口調は少しきつくなっていたが、レオはそれに気づきながらも、悪びれる様子すら見せることはなかった。
「せっかく外への初旅なんだ。もっと面白さを求めてもいいだろ?少なくとも俺は、これなら家にいたほうがよかったと思わない程度には楽しむべきだと思うんだ」
「一応軍属だろ、任務を最優先にしてやれよ」
ローデの言葉は、呆れのあまり力の抜けたものになっていた。
ふと、なにかの気配を感じてレオは上体を起こした。
視界の右側には座ったままのルーシャが、左側にはローデがいる。
そこまではレオもわかっていたし、そこに驚くことはなかった。
だが中央に居る、いつの間にかそこにいた存在を認めると流石に一瞬動きを止めた。
その人影はレオと目があったが、それでも動かずただじっとそこに居座り続けている。
「全くだな。所属が違うとは言え、これは帰ってから一考する必要があるだろう」
「あーあ、流石にこれは俺も擁護できないな。減給ぐらいは覚悟するべきじゃないか?」
「残念ですけど、罰を受けるべきですねレオさんは」
ローデが頷くのに呼応するようにして、ルーシャが苦笑いを浮かべていた。
二人とも何でもないかのように談笑している。
口にする言葉には気負いは感じられず、違和感なども一切ない。
ローデよりさらに奥の方にいたライクも、いつの間にか起き上がって話に加わっている。
明るく飛び交う言葉自体聞けば、違和感は一切なかった。
だが、そんな光景がレオにとっては違和感でしかなかった。不思議でしかなかった。
その感覚そのままを口に出そうとして、そしてもう一つの違和感にレオは初めて気づいた。
――――――声となるはずだった音は、わずかにかすれた音となってレオの口からこぼれ落ちるだけだった。
「どうしたんですかレオさん?もしかしてどこか具合が悪いですか?」
「そんなに焦った顔をしなくても、まだ目的地までは時間が掛かるぞ。もしかして給与が減らされるのがそんなに嫌だったか?焦らなくても全てそのまましっかり報告するから、今はゆっくりしておけ」
ルーシャとライクがレオを覗き込むが、レオはどうにかして伝えようと荷馬車の一点を指した。
だが誰も、それが見えていないかの様に振舞う。
いやそもそも、荷馬車にいるはずのない五人目の人影があるというのに、誰もそれに気づいていない。
レオは自分の背をムカデが這い上がるような感覚を感じた。
あわてて足に力を入れようと踏ん張るが、投げ出された自分の足は自分のものではないかのように言うことを聞かなく、わずかにも動くことはなかった。
明らかな異常事態、だがレオがそれに怯む姿を見せるわけには行かなかった。
レオが顔をひきつらせながらも、その人影を睨みつける。
レオにとっての精一杯の抵抗だったが、僅かなりとも影響はあったらしい。
人影はやっとその表情に笑らしきものを浮かべ――――――そして突然現れた黒い何かが、ルーシャ達三人を貫いた。
それは目を覆うような惨劇だった。
全身を黒い何かに貫かれた貫かれた三人は、全身を真っ赤に染めて突然その言葉を途切らせる。
痛みに叫び声を上げることもないということは、彼らが一瞬で絶命したことを示していた。
目の前で起きたことに、レオはしかし何をすることもできなかった。
仲間の命を目の前で奪われたにも関わらず、体は別の誰かのもののように動かず、拳を振り上げることさえできない。
ふと、レオは笑みを浮かべている人影の視線が自分の腹部に向いているのに気づいた。
ねっとりするようなその視線は、否応にもレオの背筋を凍らせる。
この状況の中で、レオにはそれがとても意味のないことと捉えることはできなかった。
レオはわずかに震える首を動かしながら、自分の体に視線を落とす。
いつのまにか黒の一本が、レオの胴体を貫いていた。
痛みに思わずレオは口を開けたが、叫び声すら音の形をとってはくれなかった。
体は動かず、悶えることもできないことにレオは表情を歪める。
耳に聞こえる鼓動の音は大きくなり、腹部から流れ出る血がゆっくりとレオの股を濡らすのが伝わった。
レオが再び顔を上げると、人影の顔がごく至近距離にあった。
音も立てずに近寄られたことにレオは驚くが、その人影の表情を見た瞬間にそんな考えは吹き飛んでいた。
人影は、なおも顔に笑みを貼り付けていた。
それも邪悪なものではなく、子供のような無邪気な笑み。自分のやったことが理解できていない、そんな印象をレオに与えていた。
その人影は、ぐっとさらに近づくとレオの耳元に口を近づけた。
痛みと、起こったことのあまりの衝撃にレオの意識が朦朧とする中、その人影は囁く。
それは、子供のように高い声だった。
「おはようございます、いい夢は見れましたか?」
レオが目を覚ませば、そこは相変わらず乗り心地の悪い荷馬車の上だった。
跳ねるようにして起き上がったレオにルーシャは笑顔で声をかけたが、レオはまだ意識がはっきりしないのはじっとルーシャの方を見たままだった。
ルーシャがレオがあまりにも長く見つめてくることに違和感を感じ眉をひそめる頃、レオの視線もやっと動く。
荷馬車の中では、ローデは相変わらず汗を流し、ライクはまた横になっている。
見覚えのない人物の姿は、どこにもなかった。
「何だ、夢か」
「お、夢を見れたか。あれだけいやいや言っていたレオも、やっと馬車に慣れたな。まあ明日でひとまず目的地につくわけだし、いい頃合だろ」
ローデの言葉にも、今のレオは対応する気がまるで起きなかった。
こわばった体をほぐすように腕を回すと、関節の鳴る音がいくつも響く。
思っていたよりも長く眠っていたようで、気づいたら日はもう少しで山の向こうに落ちようというところまで行っていた。
「レオさん、なんだかうなされていましたね。それに効きそうな魔法をかけてみましたが、効果はありましたか?」
ルーシャは心配そうに、レオの顔を覗き込んだ。
まだ若いルーシャの表情には、胸の内がありありと現れていた。
「ああ、大丈夫だ。・・・・・・・心配かけたな」
レオは、額に書いていた汗をぬぐいながらも、どこかぶっきらぼうにそう答えていた。