これが始まり
その少女は、父親のことが嫌いではなかった。
少女の父親は若くして武と知に富み、そして多くの人間からの人望もある。誰もが理想に思った国王の姿をそのまま表したような人間だった。
その一挙手一動は威厳に溢れ、一度戦場に出れば必ず戦果を挙げて帰ってきてくる。少女の兄も、母も、誰もが父親のことを尊敬し慕っていた。
そんな人間だから、いやそれ以前に実の父親である彼を少女も同じくらいに慕っている。ただ、その時だけを除いては。
「この槍で今回私は戦場に趣いたが、一体何人の血を吸ったかお前にわかるかな?」
少女の父親がそう言って見せつけたのは、こびりついた血でさえ今は固まってしまった大きな槍だった。
魔法で匂いこそとってはいるのかあの独特な鉄の匂いはしなかったが、使ったあとそのままなのか、槍には肉のようなものまでこびりついているのが見てとれる。
少女の顔はそれを見て僅かに曇るのだが、それにも気づかず父親は喜々としてそれを掲げた。
「十七人だ!十七人もこの槍で突き刺した!どうだ、すごいだろ?」
彼の言葉には、自身が満ち溢れていた。そこに微塵も迷いがなく、その表情には当然の反応を期待している。年若い少女はそれを分かっていて、無理やりに笑顔を引き出した。
「お父様は相変わらず勇猛ですね。ですが国王であるお父様がそんなに戦って良いのですか?」
「本来ならそうだが、決闘を申し込まれては受けねばならんだろう。何、負けなければ良いのだ!心配しなくても何も問題はない!」
胸を張って笑う父親に少女は複雑な感情を抱きながらも、またいつものように引きつった笑みを浮かべるのであった。
それから数年が経ったあと、窓の外から夕日が差す部屋の中、じっと動かず椅子の上で少女は俯いていた。
目を閉じたその少女の名前はネルコロ・カンタービレ。その姿を一目見れば、まず一番目を引くのはその長い黒髪だろう。
髪が異様に長いのか、それとも彼女が小柄なのか、その身は覆い隠すように長い黒髪に包まれていた。
春先の暖かさのせいか身につけているのは髪の色と正反対の白いワンピースのみであり、夕日に照らされて橙色になっている。
そんなネルコロが頭を傾けている先、そこには木の像が置かれていた。
机の上に鎮座するそれは製作者のネルコロいわく神様を彫ったものらしく、彼女は一日のほとんどをこの像の前で過ごしている。
現に彼女は今も、像の前で微動だにせずただ祈りを捧げていた。
不意に、戸を叩く音とともにネルコロは目を開けた。
髪の色と同じく黒い瞳はしばらく像を見つめ揺れていたが、やがて目を閉じると席を立つ。
理由は至極単純に、夕食の時間が迫っていたからだった。
ネルコロが扉を開けると、その向こうで待っていた老人が彼女を見て口を開く。
「・・・・・・ネルコロ様、夕食ができました」
「いつもありがとうイルバ。ところでどう?今日は――――――」
ネルコロに向かって不憫そうな顔をする老人の名前は、イルバ・ヌルホルネ。訳あって少女の身の回りの世話をしていた。
生きた時間が長いことを感じさせるように髪は真っ白であったが、その肉体は服の上からでもわかるほどに鍛えられている。
イルバの渋面を見て何かを悟ったのか、ネルコロは一度開けた口を閉じ、何も聞かないようにさっさとイルバの脇を通り抜けた。しかしその背中を追いかけるように、イルバの言葉が響く。
「ネルコロ様。いつも言うようですが、神に祈ったところで国々が戦争をやめることはありません」
だが何も聞かなかったかのように、ネルコロは反応もなく食卓に着いた。
いつものことならここでイルバが何も言うことなく同じように席に着き、そして静かな食事が始まるはずだったのだが、この日の彼はすぐに食卓に着くことはなかった。
向かいの席まで歩きはしたが、席には座らず背もたれを持つとネルコロと向き合う。
その視線にたまらなくなったのか、彼女はそっぽを向いた。
「ネルコロ様、もう五年です。カンタービレ王家の生き残りは、いまやおそらくあなただけでしょう」
「嫁ぐ相手を探せってこと?」
「それはネルコロ様の自由でございます。もちろんもうしばらくこの生活を続けることもできますし、私も出来る限りのことはさせていただきます。その際は作法などもお教え致しましょう。」
イルバの話が終わらぬうちに、ネルコロは料理に手を伸ばそうとした。
彼女は長い話が嫌いだった、故にこれは暗に終わりにしてくれと言っているようなものだ。
だがイルバはそれでも、彼女に向かって話すのをやめなかった。
「――――――戦争は仕方のないことです」
「仕方なくなんかないわ!」
イルバの言葉に突然ネルコロは立ち上がった。先程までのすました顔は吹き飛び、普段まずしない表情でイルバを睨みつけている。
だがその叫びに、イルバはピクリとも反応しなかった。
「戦争は個ではなく、集団で行うものです。天から下った水の一滴が川を遡ったとして、川の流れが変わったことが有りましょうか?国のことは辛いことでしたが、現実を向かれることもお考え下さい」
イルバの目は春の日の小川のようだった。だがそんな目が気に食わなかったのか、ネルコロの視線はさらに険しくなる。
「神様に祈ることがそんなにいけないことなの?」
「悪いわけではございませんが、無意味なのは確かです。現にこの五年間、神に祈り続けて何がかわりましたか?」
ネルコロはイルバの言葉に答えることはなかった。
だが根の方で気が強いネルコロは、負けじと視線をそらさない。
変な意地を通す彼女がいつまでもそうしていると、ついに根負けしたのかイルバはため息をついた。
「すみません、過ぎた言葉でしたね。さあ食べましょう、今日はいい肉がもらえましたから、きっと気に入られると思いますよ?」
イルバがそういう頃には、ネルコロはとっくに食事を始めていた。
そのあとはいつもと変わらぬ食事が続いたのだが、二人の間にはずっと変な空気が流れ続ける。
ネルコロは食べ終わると食器を片付け、さっさと部屋に戻っていってしまう。
残った部屋からは、しばらくすると食器を洗う音だけが流れ聞こえていた。
ネルコロにとって、イルバの言葉は的を居たものだった。そもそも彼女は、的ハズレなことを言われたからというよりは、図星を突かれたことに怒ったのだ。
そしてそれはネルコロ自身も、うすうすと自覚しつつあることでもあった。
それを払うかのようにネルコロは祈りに没頭したが、頭からそれが離れないことには変わりがなく、そのうち彼女は諦めて閉じていた目を開ける。
「ああ、もう」
唸るようにしてそうつぶやいたネルコロは、立ち上がり机の方へ向かう。彼女の数少ない趣味である読書は、彼女が毎晩寝る前に欠かせない日課ともなっていた。
無理を言ってイルバに持ってきてもらっているため数こそ少ないが、五年もすればその量はすでにそこそこのものとなっている。
特に、少女は今読んでいる本が好きだった。
それは戦争をする世界に魔王が現れるお話、そしてそれを勇者が倒すお話だった。
勇者はまだこの巻には出ていないが、続きものらしくこの巻では魔王と国の争いが描かれていた。
名前だけで登場すらしていない勇者、そしてその先について、ネルコロはここのところ毎晩思いを馳せている。
「この本みたいになればいいのにな。大変なことはたくさんあるけど、みんな幸せになれるのに。でも私は勇者にはなれないし――――――どこかに魔王さまが現れないかな?そしたら勇者様が現れて、この世界を平和にしてくれるのに」
ネルコロは年若かったが、幼いというほどではない。だから、このお話の結末にもだいたい検討が付いていた。
少女が読んだお話は、これまで見たどのお話も、例外なく皆が幸せになって終わっていた。だからこそ、このお話も戦争がなくなり最後には平和になるだろうとネルコロは信じている。
ネルコロにとってそれは当たり前であり、そしてそれが一番期待する未来でもあった。
ネルコロは、気づけば時間が来ていたことに気づいた。就寝する前、彼女はいつものように像に一礼し、そして寝床の中に入る。
まどろみ始める現実の中、確かに彼女はそんな夢物語が現実になる事を祈っていた。
「イルバ! おはよう!」
「おやお嬢様、今日は珍しく自分からおいでになられましたね。何かいい夢でも見たのですか?」
「これなーんだ?」
翌朝、部屋から飛び出たネルコロは出会い頭、イルバにあるものを見せる。
ネルコロが手に持つそれは、彼女がよく祈りを捧げていた神の像、その上半身がなくなったものだった。
綺麗な断面を残し消え去った以前の像の姿を思い出しながら、イルバは複雑そうに顔を歪める。
「これは・・・・・・お祈りをやめたのですか。それにしてもこの像はいい出来でしたのに、壊すとはもったいないですね。これは魔法かなにかで?」
「流石に分からないか、いいわ見てて」
ネルコロはそう言うと、手のひらの上に乗っけた像を握った。
誰にでもできる、ただそれだけの行動。だがそのすぐ後に起きたことにイルバは目を見開く。
続いて軽い音とともに地面を跳ねた像は、ネルコロが握った形にその姿をえぐり取られ、消え去っていた。
特別なことをやった様子もなく、しかし目の前でその現象は確かに起きている。
突然のことにイルバが言葉を失っていると、ネルコロはその胸を張った。
「分かったわイルバ、やっとわかったの! 私この力を使って今日から魔王になる! 魔王になって、あの絵本の再現をすれば、世界は平和になるわ! もう戦争を眺めているだけなんてことにはならないの! ――――――手伝ってくれるわよね、イルバ?」
人目につかない山奥の、小さな建物の中でのできごと。ひっそりと人目につかぬように立つ場所の中で、ネルコロはこれまでの人生の中で五本の指に入るような笑顔をイルバに向けていた。
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