動きだした時間
ある休日の午後、直輝は久し振りに街へ買い物に出た。
大通りの交差点で、信号待ちをしながら、同じく向こう側で
信号待ちをしている人々をボンヤリ見ていた。
直輝は『ドクン』という心臓の音と共に呼吸をするのを忘れた。
彼の目は一人の女性に釘付けになっていた。
亜麻色の長い髪、毛先は柔らかくカールして
淡いブルーのワンピースを纏った彼女。
また彼女も、こちらを見ている様に思った。
信号が青に変わり、歩き出す二人……
どうしていいか分からず、互いにそのまま通り過ぎようとしたその時、
「待って‼︎」たまらず呼び止めたのは直輝の方だった。
「はい?」彼女は不思議そうに小首をかしげた。
振り向いた瞳は淡いブルーだった。
「少し……少しだけ、お話しできませんか?」直輝が言った。
「少しだけなら」さして悩む様子もなく彼女はOKしてくれた。
2人は、すぐ近くのカフェへ入り、窓際にある二人掛けのテーブルに
向かい合わせで腰をおろした。
直輝は何から話そうか迷っていた。
彼女の方が言った。
「あの……これってナンパですか?」
「とんでもない‼︎そいう事じゃなくて、その……つまり……
話したい事があって……」
直輝はシドロモドロに答えた。
「実は私もなんです。こんな事言ったら、おかしい女だと思うかもしれないけど……
私、あなたに会った事があるんです。それも何度か……」
彼女の言葉に直輝は驚いた。そして思わず言った。
「僕もなんです。ただ、僕の知ってる君は、人間ではなくて、
その……人魚の姿をしていて……」
初対面の女性に、とんでもない話をしていると思うと、
彼女の顔を直視できず、いつの間にか俯いたまま
小声で話している直輝がいた。
彼女が言った。
「私は空を飛んで、あなたの住むマンションのベランダに
会いに行く夢を見ました。人魚の姿で、何度も……
ただ、私は夢の中で盲目で、あなたの顔を見る事が出来なくて、
やっと、 あなたの顔を見れたと喜んだら、代わりに あなたが
視力を失っていて……
私が何かを手に入れる度、あなたがひとつずつ壊れていく。
もう、見ていられなくて、私は空へ帰った……
変な夢でしょ?」
直輝は躊躇なく彼女の顔を直視し、自分の経験した事を話した。
彼女は馬鹿にする事もなく、呆れるこ事もなく、真剣に
直輝の話に耳を傾けた。
直輝の話がひと段落すると、彼女は自分の事を話し始めた。
彼女の名前はマリア。
日本人の父とウクライナ人の母とのハーフだと言った。
マリアは突然、不思議な夢を見始め、挙句に夢の中の男性に
心惹かれてしまった自分を、おかしい人間だと思っていたらしい。
それでも人魚になる夢を見なくなり、ひどい喪失感に苛まれていたそうだ。
直輝と同じだった。
直輝とマリアは、自然に二人で過ごすようになっていった。
直輝の心の中の時計が再び時を刻み始めた。
やがて二人は結婚し、マリアは妊娠した。
直輝は天にも昇るような思いだった。
愛するマリアと共に住み、その上家族が増えるなんて……
ところがマリアは暗い顔をしている。
理由を聞くと、病院で出産したくないと言う。
確かに、直輝には分からないが、婦人科という所は
なかなかデリケートな領域だ。
マリアが、そこへ行きたがらない気持ちも何となく分かる気がする。
直輝は一大決心をし、マリアの出産を自宅で行う事にした。
日に日に大きくなっていくマリアのお腹に耳をあて、
声を掛け、直輝は その子と出会える日を心待ちにしていた。
マリアも幸福そうに微笑んでいた。
その日がやって来た。
マリアの陣痛が始まったのだ。
汗だくで、息も絶えだえに痛みと闘うマリア。
直輝は、マリアの乾いた唇に水分を与えつつ、腰を摩ったり
手を握ったりして、精一杯 介助した。
マリアからの頼みで、直輝は浴槽に 生ぬるい湯を張った。
水中出産なら母子共に
いくらか負担が軽いと聞いた事がある。
苦しむマリアを浴槽へ移動すると、彼女は少し
リラックスした様に見えた。
やがて、最後の大きな痛みの波がマリアを襲った。
彼女の両足の間から、赤ん坊の頭が露出してるのが見えた。
痛みのあまりマリアは絶叫した。
直輝はマリアの手を握って励ました。
少しずつ、少しずつ頭が出てきた。
やがて両肩が出た。もう一息だ。
下半身が水中でスルリと泳いだ。
生まれた子供は人魚だった。
「どうして……」直輝は赤ん坊を抱いたまま、その後の言葉を失なった。
マリアも驚いていた。それでも
「どんな姿をしてたって、私たちの子供に代わりはないわ」
そう言って、誇らしげに我が子を抱いているマリア。
母は強い………
子供は母譲りの亜麻色の髪に、淡いブルーの瞳をしていた。
直輝には、はっきりと分からなかったが、マリアは何故か
娘だと言い張った。
彼等は彼女に『カノン』と名付けた。
一年もすると、カノンは部屋の中を自由に舞うようになった。
油断すると外へ飛び出しかねないので、窓を閉めて用心した。
ところがカノンは、やたら あちこちへとぶつかる。
直輝とマリアの顔を見ても目が合わない。
マリアが気が付いた。
「この子、目が見えないんじゃないかしら?声も出さないし……」
直輝が言った。
「この子は人魚だから、人間とは色々、成長過程が違うのかもしれないよ。
そのうち見える様にも、話せる様にもなるさ」
ただ、直輝には別の事で気がかりな事があった。
マリアの体力が日に日に無くなっていき、目に見えて窶れ、
綺麗な亜麻色の髪は色褪せていく。
理由を聞いてもマリアは「疲れているだけ」と繰り返す。
医者へ行く様に勧めたが全く受け入れない。
直輝は不安だった。
そこから更に一年が過ぎた。
相変わらずカノンの目は見えていない様子だった。
両親の声に反応はするが、言葉は話さなかった。
髪が伸び、女の子らしい姿になってきたカノン。愛しい娘……
医者へ連れて行くわけにもいかなかった。
きっとカノンは医学会でモルモットにされてしまうだろう。
直輝もマリアも多いに悩んだ。
日を追うごとに可愛らしく成長していくカノンだったが、
やはり目は見えないまま、声も出せないまま……
普通の女の子として、幸福な生活をして欲しいと
両親は願っていた。
ある日突然マリアが切り出した。
「私、夢を見たの。空へ帰る夢………私が帰らないとカノンが危険なの」
直輝が言った。
「急に何を言い出したんだ!落ち着いて!それは夢の話だろう?
カノンが危険って、どういう事なんだ?それに、なぜ君が空へ
帰らなきゃならないんだ。さっぱり分からないよ!」
マリアは大きくかぶりを振った。
「違う。違うの!私があなたと会ったのは夢なんかじゃなくて……
私は天空に住む人魚だったの。子供の頃にも一度会ってるわ。
禁じられていたのに、人間の男性を愛してしまった。人間として
あなたと過ごしたいと思った私はやっぱり間違っていた。ごめんなさい……
それに、地上で人間の姿を保つには、とても力が必要なの。あなたに
触れる事で少しづつ力を分けてもらっていたんだけど、もう限界みたい」
マリアは涙を流した。涙は真珠の様に美しかった。
マリアの話しによると、彼女がまだ飛ぶ事に熟達していなかった子供の頃
周りに止められれば止められる程、地上へ行ってみたいと思いは募り、とうとう
降りてきてしまった。
ところが、地上へ近づくにつれ体の力が抜けてしまい、人間の子供に見つかって
傷つけられていた所を、直輝に救われ、命からがら天空へ逃げ帰ったと言うのだ。
その後もマリアは直輝を探し続けていた。
直輝に会ってお礼を言いたかった。
何よりも会いたい気持ちでいっぱいだった。
やっとの思いで直輝を見つけ時は、もう自分を止めることが出来なかった。
再び地上へ近付こうとした。
それは天空の掟で禁じられていたため
彼女は視力を奪われ、二度と直輝を見られない様にされたのだった。
それでも直輝のもとへ下ろうとするマリアは、会話をできなくするため、
声を奪われた。
唯一残された天空を舞う力を使って、マリアは直輝の元へやって来たのだ。
天空の使者から追われる身となったにもかかわらず、人間の姿になり、
人間の男と結婚し、子供まで生んでしまった。
これは、とんでもない大罪なのだと彼女は言った。
今度、天空へ戻ったら、全ての力を奪われ、囚われの身として
天空の牢獄へ閉じ込められるだろうと……
しかも、人魚の姿でいるカノンは地上にいるのは相応しくない、
人間と人魚が共に住むのは良くないとしている掟により、カノンも
天空へ連れ去られそうになっていると……
やがてマリアが言った。「私、空へ帰るわ……」
直輝が言った。「このまま3人で居られる方法はないの?」
「ごめんなさい……」とマリアは言った。
どうしていいか分からず、直輝はマリアを抱きしめて
涙で濡れた唇に口づけをした。
彼女の髪は美しい亜麻色を取り戻した。
代わりに直輝は自分から力が抜けていくのを感じた。
「気が付いてたよ。君が少しずつ僕から力を奪ってる事……
自分の体だもの。でも、そんなこと平気だよ。
僕は君の……君達のためなら、何を失なったって平気だ」
そう言うと、直輝は願った。まずは一番目立つカノンの下半身が普通になる様に……
カノンの下半身は人と同じになり、そこら中を走り回った。
代わりに直輝は歩く力を失なった。
「なんて事を……」マリアが言った。
そしてマリアが泣きながらカノンの瞼に口づけした。
カノンの目に光が宿り、マリアは光を失なった。
ところが二人がどんなに願っても、カノンは声を出す事が出来なかった。
それでもカノンは、直輝の方を見て嬉しそうに笑った。
マリアの方を見て同じ様に微笑んだ。
両親は涙をこぼした。
マリアはカノンを抱きしめた。
その姿は、直輝が初めて見た時と同じ 人魚の姿だった。
やがてマリアはベランダから、空へ向かって舞う様に泳ぎ始めた。
「カノンをお願いします」マリアが言った。
「行かないでくれ‼︎」直輝は泣きながらマリアを止めたが、
彼女は名残惜しそうに、何度もクルクルと二人の上辺りを
旋回しながら、やがて雲の隙間へ消えて行った。




