表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

待ちわびた時

直輝は子供の頃から、空を眺めるのが大好きな少年だった。

50階を越える超高層マンション。

しかも最上階のこの部屋は、

彼にとって分不相応な買い物だった。

それでも空に少しでも近づきたい一心で、

死に物狂いで働いてやっと手に入れたのだ。


決局、そのローンの返済のために、肝心の空を眺める暇もない程

必死で働く日々……


たまの休日、ここのベランダから時折 空を眺める事が、

直輝の唯一の精神安定剤だ。


空は、季節毎、天候毎に、様々な顔を見せてくれる。


優しく微笑みかけてくれることもあれば、

強烈な雨や雷で、叱咤激励されることもある。


どの表情も、直輝にとっては最上級の癒やしだった。


ただ、ここ最近、無性に寂しさを感じるようになっていた。

忙しさのあまり、途絶えてしまった人間関係……

友人たちの存在も、すっかり疎遠になってしまった。


気がつくと、彼の心の中を、得も言われぬ孤独感が支配するようになっていた。

そんな直輝に残されているのは、この部屋と、そこから見える景色だけだった。



久しぶりの休日の夕方、直輝はいつもの様にベランダに出て、

空を見上げていた。


秋特有の澄み切った空を、厚いウロコ雲がモコモコと覆っていた。

その隙間から差し込む太陽の光が、雲を茜色に染め、幻想的な

絵画を見ている様だった。


その美しさに彼は、うっとりと見とれていた。


ふと、雲の隙間から差す陽光に反射して何かがキラリと光った気がした。

その光の行方を、直輝は目で追いかけた。


「飛行機?」いや、明らかに違う。

そういう無機質な類いのものではない。


時折光を放ちながら、体をくねらせて、雲の隙間を縫う様に、

縦横無尽に飛ぶ何か……


直輝は自分の中の知識を総動員して、それが何であるかを突き止めようと、

必死に考えながら、その何かを見つめていた。


やがて、その何かがジワジワと自分の方に降りてきている事に気が付いた。


さっきから光っているのは尾っぽに見える。

魚?違う。


とうとう直輝の目の前まで降りてきた その姿は

息を飲む程の美しさだった……


淡いブルーの瞳。

亜麻色の長い髪は、毛先が緩やかにカールしている。

下半身は、瞳と同じブルーの尻尾……

それは光りの反射の加減で時折虹色に見える。

直輝は微動だにできなかった。

まるで魔法にかかった様に、そこから一歩も

動く事ができなかった。


「人魚……」

直輝はやっとの思いで小さく声を発した。


直輝の声に気がついたのか、人魚は彼の頬を両手の平で包む様に触れた。

恐怖感はなかった。


人魚は彼の 瞼、鼻、唇にも触れた。

彼女は盲目だった。


「僕は直輝。君は?君の名前は?」

直輝の質問に、人魚は首を横に振った。


どうやら彼女は話すこともできないらしい。

直輝は人魚を憐れに思った。


彼女と話がしたい。そう思った。

何か……何か意思の疎通の手段はないかと、

思いあぐねいていると、人魚は再びベランダから遠ざかってしまった。


「待って‼︎」直輝は慌てて呼び止めたが、人魚はそのまま

空を舞う様に、上へ上へと昇って行き、やがて雲の隙間に隠れて

見えなくなってしまった。


この日から、直輝の心と頭の中は、人魚の事でいっぱいになった。


彼は人魚に恋をした。


直輝は心のどこかで、この日を待っていた。

彼が空を愛してやまないのには理由があったのだ。


直輝がまだ子供の頃、一度だけ人魚に会った事がある。

それは傷を負った人魚の女の子だった。


公園の隅っこで数人の子供に囲まれ、木の棒で突かれたりしていた所へ

たまたま直輝が通りかかったのだ。


いじめっ子達を押しのけて彼が救ったのは、

下半身が魚の姿をした人魚だった。


鱗が所々剥げて、綺麗な白い肌に傷がつき

息も苦しそうだった。

彼はその姿に、とても驚いた。

だが、不思議と恐怖は感じなかった。

それどころか、何とか人魚を救いたいと思った。


直輝はどうしていいか分からずとにかく人魚を

そっと抱き上げた。


その瞬間、直輝の体からグングン力が抜けていき、

代わりに人魚の傷や鱗が再成して、瞬く間に直輝の腕をすり抜けて、

みるみる空へ昇って行き見えなくなってしまった。


残された直輝はひどい脱力感で、尻もちをついたまましばらく立つことができなかった。


それでも、もう一度彼女に会いたいと思い続けていた。

その思いが今日、現実になったのだ。


それからの直輝は、早朝だろうが、夜中だろうが、

時間の許す限り、見張る様に空を見上げたが人魚は現れない。


「僕は幻を見ていたのか……」


それでも直輝の顔に触れた彼女の手の温もりを、彼はまだ覚えている。

「幻なんかじゃない」


彼は確信していた。

どうしても人魚に会いたかった。

そう。一目だけでも……


体調不良を理由に会社に、たまっていた有給休暇を申請した。

会社はしぶしぶ認めてくれた。


これで心置きなく彼女を待つことができる。


直輝の心は騒いだ。



翌朝の空は、あの日の夕方見た空の様に、厚いウロコ雲で覆われていた。

ベランダに出て、空を見上げた直輝は、心の中で願っていた。


もう一度だけ、もう一度だけ姿を見せて欲しいと……


何時間待っただろうか……

不安定な秋空は、ウロコ雲を灰色に染め始めた。

一雨来そうだ。


やがて霧の様な雨が、静かに降りはじめた。

それを合図の様に、柔らかな雨のベールを纏って、

とうとう彼女が現れた。


雨雲の隙間から、体をくねらせて天空を舞う彼女が、

ゆっくり ゆっくりと、直輝のもとへ降りて来た。


彼女の緩やかにカールした髪の毛先から、雨の雫が落ちている。

人魚は直輝の顔に触れた。


「待ってたよ。ずっと……」

直輝は静かに降り注ぐ雨に濡れながら微笑んだ。


世界中で一番優しい雨の降る中、二人は再会した。


直輝は人魚に言った。

「声を欲しいと思った事はないか?」と……

人魚は黙っていた。


「僕は君の声が聞きたいんだ」直輝がそう言うと、

人魚はコクンと頷いた。


彼はその日から声を失った。

人魚と会話はできないが、彼女が楽し気に話しかけてくれる。


とても地上に憧れていた事や、天空での暮らしぶりを話してくれた。


美しい声で歌も歌ってくれる。

直輝の知らない歌ばかりだったが、その声は心の隅々まで

染み渡り、心底癒された。


直輝は満足だった。


それから人魚は毎日の様に、直輝のもとへやって来た。

そのうちに、直輝の顔を見たいと言い始めた。


直輝は少し考えた後、大きく頷いた。

彼はその日から光を失った。


人魚は、直輝の顔に、自分が自由に飛びまわっていた空に、

その目に映る全てのものに感動していた。


直輝の生活は、ますます不自由になったが、幸福そうな

人魚の姿は、手に取るように分かった。

直輝は幸わせだった。


しばらくすると、外出しなくなった直輝のそばで、

ずっと一緒に過ごしたいと言い出した人魚。

彼女は自由に歩いてみたいと言った。


直輝は人魚に歩く力を与えたいと願った。

その日から彼の足は動かなくなった。


人魚は無邪気に喜んで走った。


ところが、ベッドの上で

見る事も、話す事も、歩く事も出来なくなった

直輝の姿を目にし、彼女は悲しくなった。


そして、自分は幸福じゃないと言い始めた。

一番大切な人が、何もかも失ってしまった。

人魚は涙を流した。

真珠の様に美しい涙を……


人魚は泣きながら「私、空へ帰る」と言った。


直輝は何度も かぶりを振った。

涙を流して無言の訴えをした。

自分がどんな姿になっても、彼女と居る事を願っていた。


人魚は、直輝の瞼に口づけをし、

唇を、そっと指で撫で、両足に触れた。


直輝の目に光が戻り、声を、歩く力を取り戻した。


急いで空を見上げると、そこには初めて見た時と同じ

人魚の姿があった。


グングン空へ舞い上がる人魚を、大声で

「待って‼︎」と呼び止める直輝……

その声は、虚しく空へ吸い込まれて消えた。


直輝には空っぽの日常が戻った。

何をする気にもなれなかった。


それでも身についた習慣は恐ろしいもので、

決まった時間に目を覚まし、決まった時間に会社へ行き、

何となく仕事をし、帰宅する。

そのルーチンワークをこなす事は出来た。


「元に戻っただけだ。何も変わっていない」

直輝は自分にそう言い聞かせて、日々を繰り返していた。


ただ、直輝の心の中の時計は、人魚が消えたあの日から

止まったままだった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ