日焼け止めクリーム
剣志が体ならし程度に泳ぎに海へと向かってほどなく、紺之崎がふらふらとどこかへ歩き出した。
海で泳ぐ剣志をシートに体育座りで眺める冬花に、胡坐で座っていた藤田は話しかける。
「影雪」
「……え、なんですか?」
不意に話しかけられて、はっとしたように冬花は藤田に向く。
「何、見てるんだ?」
「え、ええと」
視線を逸らし少し肩をすぼめるが、すぐに平然と答える。
「海を見てたんです」
「海、何故だ?」
「な、何故って、特にわけはないですけど」
「そうか」
藤田は冬花の答えには興味なく、立ち上がった。
「俺もその辺、ぶらぶらしてくるわ」
「は、はい」
わざわざ知らせなくてもいいのに、と冬花は思った。
ひと泳ぎして俺達のプライベートスペースのパラソルまで戻ってくると、冬那がぽつんと海の方を見つめて座っていた。
俺に気付いて、顔を上げる。
「どうだった、気持ちよかった?」
「ああ、温かすぎず冷たすぎず。すごい気持ちいい」
簡単に感想を言うと、冬花はそうかぁ、とうっとりした表情で、
「私も泳ごうかなぁ」
「おお、海に来たなら泳がないと損だぞ」
「うん、そうしましょ」
冬花は笑顔で頷くと、パーカーの襟口のチャックに手をかけた。
すっとチャックを下まで降ろすと、前を開き、艶美な肩が現れ、パーカーがシートの上に落ちる。
「どうしたの、剣志?」
パーカーを脱いで赤のビキニ姿になった冬花が、不思議そうに俺の顔を窺い見る。
座っているからわかりにくいが、バランスの取れた理想的な肢体だ。
俺は思わず見惚れていたことに気付き、気恥ずかしく口と鼻を手で覆って顔を背けた。
「私の水着姿には興味ないの?」
「そういうわけじゃないけどよ、突然脱ぐから」
「突然かなぁ?」
「突然だ」
「いつなら突然じゃないの?」
「……さあ?」
とっさに思いつかない。
俺が黙ったのを気にする風もなく、冬花は何やらごそごそと自分のバッグをまさぐっている。
「まだ日焼け止め塗ってないんだよね」
取り出した日焼け止めクリームを右手に数滴落とすと、なめらかに左腕に塗り広げた。 その後上半身を大方塗り終わると、次に脚にも同様にクリームを塗る。
「なんで……」
冬花が塗り終えた脚をシートの上につけたところで、こちらを見ずに喋り出す。
「なんで、さっきからジロジロ見てくるの?」
「えっ!」
俺は身に覚えがなく、頓狂に叫んだ。
「ジロジロ見てた、俺が?」
「そうだよ、ずっと塗る手の動きを目で追ってたよ」
「そんなはずはない」
断固として否定した。
俺の否定をどう受け取ったのか、冬花は悪戯っぽく笑んで、
「もしかして見惚れてた?」
「い、いや……」
なんとかして誤魔化しの台詞を絞り出そうと、脳をフル回転させる。
最も見合った台詞を思い付いた。
「日焼け止めクリームの塗り方、上手だなって」
「塗り方が上手、私が?」
俺はしかと頷いた。
理解し難そうに見つめ返してきていたが、次第に目が据わってくる。
「剣志、誰か他の女の子と海に来たの?」
「なぜ、そうなる?」
どういう思考を経て、その疑問に行きついた?
去年も一昨日もそのまた前の年も、日焼け止めクリームを塗る場面に巡り合った覚えはない。
「どうなの?」
さらに冬花の目は剣呑さを増して、俺を睨みつける。
俺は必死に首を横に振った。
「来てない来てない、神に誓って来てない」
「じゃあなんで、上手とか言うわけ。私が上手ってことは下手な子がいるってことでしょ?」
「ほんとに来てないって、誰かと比べたわけじゃないんだ」
「ほんと?」
「ああ、神に誓える」
「やおよろずの神に誓える?」
「もちろんだ」
俺は強く頷いた。
はあ、と冬花は溜息をつき据わっていた目をもとに戻す。
「やおよろずの神に誓えるなら、信じてもいいってことね」
ようやく信じてもらえた。そこで俺はそもそもの疑問を抱く。
「でも冬花、俺が女の子と度々海に来れるほど色気がある男に見えるか?」
純粋な興味で訊いてみたのだが、冬花は何故か癇に障ったようで再び目が据わる。
「このニブチン」
そう言い放って、冬花はシートの外へ出て海に歩いていった。
海水浴場から外れた沿岸部の切り立った磯に男女の二人組が不審な行動をしていた。
女の方は短く切り揃えた髪の下の端整な顔を無表情に、高価そうな一眼レフカメラを腹ばいで覗き込んでいる。
男の方は携帯しているのを察知されない小型通信機を口に近くし、何者かかと交信していた。
女の方が男に言う。
「観察対象エフ、共有地帯を脱し砂浜を進行中」
「ケーの動きはどうだ?」
男の方が訊き返す。
「共有地帯に停留、そのまま臥する」
「作戦通りには運ばないか」
遺憾を露に顔を顰め、男は通信機で交信相手に報告する。
「現在のエフとケーの心の距離では、作戦の続行はできない。よって工作員アールを拠点に引き返させろ」
交信相手はやむを得んと嘆息し、
「了解した。それで君達はせっかくの海だ、たっぷり遊んで来るといいさ」
「わかった、俺達も作戦を中断し共有地帯に戻る」
男は通信を切った。
そしてカメラで海浜の映像を撮り続ける女に向いて、
「作戦の運びはできない。ビーチに戻るぞ」
「ちょっと待って」
女は男の指示に、片手の掌を向けて言った。
「面白いショットが撮れた」
向けていた掌がサムズアップに変わる。
男は呆れたように太く息を吐いて、
「無駄な写真を撮るなよ、さあ帰るぞ」
女の首の裏で結ばれた水着の紐を上へ引っ張った。
「胸が締め付けられるからやめて」
「いいから戻るぞ」
男は紐を手から離して歩き出した。
女は起き上がりカメラを抱きかかえ、男の後についていった。




