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「もう、ギプスをはずしても良いでしょう。でも、あまり激しく動かしたりはしないでくださいね。」
昨日の夕方病院へ行くと、笑顔がすてきな若い医師が言った。都姫は嬉しくて、帰り道、今は桜葉が輝いているあの並木の道を思わずスキップをしてしまった。
アパートにつくと、高校の教師をしているという隣人に珍しく出会った。彼女は都姫に気付くと、ギプスのことに触れた。
「知ってたんですか?」
都姫が目を丸くすると、まだ三十歳と若い彼女は優しい笑みを浮かべ、もちろんよ、とおっとりした口調で言った。
「瀬朶さんという方が、あなたが入院している間にあなたの部屋にいらっしゃって、声を掛けたらそのことをおっしゃっていたの。」
彼女は何か意味ありげに微笑み、「よかったわね」と言って部屋に入っていった。
都姫は、鈍った左腕を少しずつ戻していくために、部屋中を大掃除することにした。少し掃除をしなかっただけで、いつも清潔な彼女の部屋にはあらゆる所に埃がたまっていた。
「つ〜き〜っ!」
リビングを掃除していると、玄関の方から女の人の叫ぶ声が聞こえた。都姫は慌てて掃除機のスイッチをオフにして、玄関の方に顔を上げた。この部屋から真っ直ぐに通じる玄関に、芳杜と茉里が立っていた。
「ごめんごめん、掃除機かけてて…」
小走りで二人に近寄りながら都姫はそう言った。二人は顔を見合わせ、呆れたように微笑んだ。
「ギプスはずしたてなんでしょ?そんなことしていいの?」
茉里が上がり込んで部屋を見渡した。後から芳杜がおじゃましま〜すと言って入った。都姫が彼の後に続く。
「病院の先生は激しく動かさないでくださいって言ってたから…そうしなかったら良いのかなと思って…」
都姫がしゅんとしてしまうと、彼らは笑った。
「相変わらずだ、五縞は。」
「ほんと。」
「何がよ〜。」
それから三人は、都姫が急いで出した紅茶を飲みながら話をして過ごした。
「都姫」
茉里がティーカップを置き、都姫を見た。都姫も彼女を見返す。芳杜は少しフアンそうな顔をしていた。
「私ね、聞いたの。恭くんのことなんだけど…」
都姫の心臓が強く鼓動した。
「恭くん、今の仕事場を辞めるらしいの。」
「えっ…?!」
都姫は持っていたカップを危うく落としそうになった。芳杜が間一髪でそれを支える。都姫は彼にお礼を言ってから、もう一度茉里を見つめた。真剣な彼女の表情に、嘘はなかった。
そんな……
「それでね、彼のお母さんがいるイギリスに行くことになったの。」
静まり返った部屋に、鳥の鳴き声が聞えてきた。芳杜が困ったような顔で都姫の恐怖と不安が入り交じった眼を見る。
相手の目を見て話すというルールみたいなものを、四人は学生時代に決め、彼らはずっとそれを実行している。
「俺もこのあいだ聞いてびっくりした。でも、マジらしいんだ。それで、出発が明日だってい…う…」
芳杜は口を閉じた。都姫がフラフラと立ち上がり、玄関へと向かったからだ。
茉里がすばやく立ち上がり、都姫の細い腕を掴む。
「都姫?」
都姫はドアの方を向いたまま、息をしているのかしていないのか分らないほど静かに静止した。芳杜も廊下に出て来て、茉里と顔を見合わせる。
「…いかなきゃ」
都姫の声とも息ともつかない音に、茉里が固まる。
「行かなきゃ。行かなきゃ。そんなの…やだよ…」
「つ――」
「そんな、急にそんなこと言うなんて。明日だなんて…嘘だよね、芳杜くん?」
都姫は振返らず、そのままの姿勢で訊いた。芳杜は首を横に振り、都姫が彼を見ているわけでもないのに、彼は都姫の目から目を逸らす様に顔を背けた。
「どうして答えてくれないの?私、嘘は嫌いだよ。」
茉里が都姫を後ろから抱きしめた。そして、彼女は都姫の肩に額を当てた。
「ごめんね。本当は、一週間前に決まってたことなの。都姫…」
ごめんね。ごめんね。ごめんね……
茉里がその言葉を口にする度、都姫の肩に熱がこもる。都姫はその時初めて振返った。涙はなかった。表情というものを忘れているようだった。
「ありがとう。二人とも。」
都姫が玄関で靴を履き、扉を開けると、赤い夕暮れの光が全てを光らせ、都姫は思わず目を覆った。
「五縞」
芳杜の声に、都姫は光の届かない廊下へと視線を戻した。彼はポケットに手を入れ、小さな長方形の小銭入れのような物を投げてよこした。中には行きだけのバス代が入っている。
「恭は、駅前の公園にいるよ。」
都姫は微笑みを向け、しっかりと長方形の入れ物を握りしめて駆け出した。




