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ここ最近、恭はずっとアズサと連絡をとっていない。
アズサは報道局の制作部で仕事をしているらしいのだが、恭にとって、それがどんな仕事であるかはまったく謎だ。
そんなことをぼんやりと考えていると、恭は、昔よくアズサの家に泊まりに行ったことを突然に思い出した。
彼の父親はイタリア人で、とても日本語が上手だった。そして、恭をとても可愛がってくれた。恭には父親がいなかったこともあり、彼にとってアズサの父親は頼れる存在だった。よくいろいろな話を聞かせてくれたし、彼自慢のいろいろな種類の料理をご馳走してくれた。
その料理が恭が今の職に就くきっかけとなったのだが、たぶんそんな事を思い返すために彼を思い出したのではない。彼が言っていたことを思い出したいのだ。その言葉は、たぶん恭の不安定な考えを矯正してくれる。
と、その時、ソファの上に置いたあの黒いポーチから、携帯の着信音が聞こえた。
食器を棚に戻していた恭はソファに近づくと、外ポケットから携帯を取り出した。画面には、アズサの名前があった。
『恭、久しぶり!悪ぃな、しばらく連絡できなくて。』
「ずいぶん忙しかったんだな。」
恭は電波の届き難い室内を出て、ベランダに立った。温い空気が周りを鈍らせているような、少し水色っぽい景色だった。
『今日さ、家行っていいか?久しぶりに恭のメシ食いたいし。』
「もちろん。で、どこにいるんだ?迎えに行ってやるよ。」
電気音が流れるだけで、返事がない。
「…?アズサ?」
『いま、あなたのうしろにいるの。』
声を変えたのか、高く掠れたアズサの声が聞こえてきた。
「は?!」
恭がまさかと後ろを振り向くと、部屋の中にはアズサが立っていて、携帯を片手に微笑みながら窓越しに手を振っていた。
「恭、鍵くらいかけとけよ。危ないだろ。最近物騒なんだからさぁ。」
料理を運ぶ恭を手伝いながら、アズサが言った。
「勝手に入ってきた奴が言うか?ったく毎回毎回、心臓に悪いぜ。」
二人は席につき、近況を話し合いながら『恭のメシ』を食べた。
アズサはついこの間、見合いをさせられたという。
「見合い?!」
「そーなんだよ。母さんが五月蝿くてさ。早く結婚して私を安心させてちょうだい、なんてお決まりの台詞で俺を脅してくるわけ。それで、今好きな人がいるわけでもないしって言ったら、見合いを強行されたんだ。」
恭はなぜかショックのようなものを受けた。ずっと中学生の時から仲良くやってきた親友が結婚するだなんて、不思議な感じというよりも、なんだか不安だった。
それで…と恭が先を促すと、アズサは首を振った。
「あっちの子も結婚する気はないって言ってたから、とりあえず独身を通すよ。」
それを聞き、恭は思わず安堵の息をついてしまった。
アズサはにやりと笑い、麦茶を飲んだ。
「俺だって、恭が結婚するって聞いた時は、ショックだったんだぜ?」
恭が驚いて顔を上げると、まだにやにやと笑っていたアズサがごちそうさまと言って、食器持って台所に立った。恭は、そんなつもりはなかったのにと、顔を赤くした。でも、内心ほっとしていた。
結婚という言葉は、本当はそういうものではないのだろうが、もう彼にとって別れの意味を含める恐怖に近い要素となっていた。
どうしても、戻れないのだろうか。都姫は、もう俺を好きではないのだろうか?そもそも、別れようと言い出したのはどちらだったのだろう…
「恭、聞いてるか?」
「えっ……ごめん。聞いてない。」
アズサが両手に缶ビールを持って、椅子に座ったまま固まっている恭を見下ろしていた。彼は目でソファに座ろうと言い、移動した。
二人は並んで座り、黙ってビールを飲んだ。冷たい液体が喉を流れるが、恭はどちらかと言うとチューハイやワインが好きだ。
アズサが足の短いガラスのテーブルに缶を置くと、足を組んで背に凭れた。
「恭も、独身のままか?」
アズサの真剣な声が恭の心にグサグサと刺さる。
「…分からない。俺、自分でもどうしたいのか分らないんだ。このままじゃいけないのか、このままでも良いのか…。」
アズサが長く息を吐く。またも静寂が部屋を満たす。
「今日、泊まっていって良いか?」
アズサが同じ調子で言った。恭が斜め後ろを振返ると、前を向いていた彼が恭の顔を見て微笑んだ。アズサの笑みを見ると、彼のイタリア人の父親を思い出す。そして今度は同時に、あの言葉も字幕が流れるように頭の中に蘇った。
『選択っていうのは、後悔しないように選ぶことじゃないんだよ。』
恭は安心しきった子供のように微笑み、「もちろん」と言った。




