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「だいぶ治ってきましたね。この調子ならもうすぐギプスも取れるでしょう。」
退院してから七度目の通院で、医者はそう言った。
自宅までの道をてくてくと歩きながら、都姫は桜並木を見上げた。駅からアパートまで二十分ほどかかるこの道は、車は滅多に通らず、人も通らなかった。そして、道の両脇には駅から少し離れた所からアパートの近くまで、ずっと細い桜の木が続いているのだ。この道が、都姫はたまらなく好きだった。
「五縞!」
都姫は痛いほど心臓が跳ね上がった。そっと後ろを振返ると、離れた所に颯太が立っていた。都姫に手を振っている。都姫も手を振り返すと、安心したように走り寄ってきた。都姫は思わず逃げてしまいそうになった。
「よかった、会えて。」
「…うん」
颯太は微笑んでいた。その笑みに、都姫はどうしようもなく悲しくなってしまう。まだどうしていいのか分らない。でも、颯太は傷つけたくない。
「はい、クッキー。」
そう言って彼は紙袋を都姫に差し出した。都姫はそれを受け取り、小さな声でお礼を言った。
「あの…あ、歩きながら話そう…」
都姫は必死で微笑み、くるっと方向転換をした。と、後ろから都姫の右腕を、大きく温かな手が掴んだ。都姫はびくっとして、彼を振返った。
「俺、これから用事で出かけなきゃいけないんだ。だから、ここで。」
びゅっと勢いよく風が吹き抜けた。正面からの風に、都姫は思わずよろめいた。
その両肩を、颯太が支える。
抱きしめられる形になってしまっていることに気づいた都姫は、慌てて逃れようとした。しかし、左半身に上手く力が入らず、言葉で言うしかなかった。
「あ、あの、颯太…もう大丈夫だから、手を放して…」
しかし、彼は少し身体を離しただけで、手は放さなかった。
「五縞、答えて。俺をどう思ってるか。」
そこへ、珍しく車が一台通った。このあたりでは見かけない深緑色の車だった。都姫の顔はみるみるうちに赤くなり、俯いてしまった。彼はそれを見て、やっと手を放した。都姫はかろうじて彼を仰ぎみた。
「わ…私は、颯太のことすごく大切な親友だと思ってたし、これからもそうだと思ってたから…突然で……分らないよ……」
都姫は泣きそうになった。きっと彼は、都姫が答えてくれるだろうと信じていたのだ。しかし、自分はそれを裏切ってしまった。彼を傷つけた。それだけで都姫は途方もなく悲しくなった
。彼は、しかし微笑を浮かべ、都姫の頭を撫でた。都姫は涙の溜まった目で彼の表情を見る。
「そうだよな。ごめんな。」
颯太は零れ落ちた都姫の涙を指で受止めた。
「俺どうしていいか分んなくて、五縞が気持ちを知ってくれればって勝手に押しかけて、結局困らせただけだった。ごめんな。」
「颯太」
謝らないで。
心の中で、都姫は叫んだ。
「五縞の口から大切な親友って聞いて、安心した。って俺、かなり自己中だな…」
そう言って彼は照れくさそうに笑った。
「よかったら、これからも親友だって思っててくれるか?」
都姫は赤く染まった頬に涙を流しながら、何度も何度も頷いた。
今度は優しく風が吹き、どこからか花の良い香りを運んできた。
アパートに帰ると、部屋のドアの前に恭が立っていた。もしかしてと横目でとなりの空き地を見ると、いつも恭が白い軽乗用車が停まる場所に、あの深緑色の車があった。都姫の頭の中は真っ白になった。
「あ、都姫。留守みたいだったから帰ろうと思ってたんだよ。」
恭は都姫に気づくと、いつもと寸分違わない笑顔を彼女に向けた。都姫の息が苦しくなる。
恭は、俯いて立ち尽くす都姫をしばらく無表情で見ていたが、やがて微笑むと、都姫にスーパー袋を差し出した。中には、もうすでに作られた料理が入っている。
「これ、温めて食べて。」
都姫は、袋の持ち手と自分の手を見つめた。そして、どうしようもなく震えるその右腕に、一滴の雫がのった。彼が都姫を見る。都姫は鳴咽もせずに、いつもの少し目を細めた表情で、ただ涙だけを流していた。
ふいに、恭の香りがした。都姫の頭が、彼の鎖骨に当たる。後頭部に、少し筋肉質な彼の腕があるのがはっきりと分った。
「泣かなくていいんだよ。」
言い終わると同時に彼はゆっくりと都姫から離れ、頭を一度なぞる様に撫でてから、「おやすみ」ともう一度微笑んで車に乗り、静かに去った。
都姫はしばらくそこから動くことができずに、晴れ渡った空の下で真冬の夜風に吹かれた。




