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「お疲れ様です。」
厨房での後片付けを終え、まだ更衣室で着替えている数人に、恭は声をかけた。彼らが「お疲れ」と片手を軽く挙げ、それを確認して恭は冷たい風が吹き荒れる表へと出た。大通りを歩く人は、みんな身を屈め、風に立ち向かうように歩いていている。今日の仕事は1日だった。もうすっかり夜だ。車のデジタル時計が、緑色の光の中で午後9時半過ぎを示している。
家に帰り着くと、恭はリビングに向かい、手探りでリモコンを捜して暖房をつけた。それから部屋の電気のスイッチを、悴む指で押した。誰もいないと分かっていながらも、恭は帰宅すると、いつも部屋を占めていた寂しい気配に支配されてしまう。
風呂で湯船に浸かっていると、電話が鳴るのが聞こえた。留守番設定にしているので、機械が応答していた。
「あっ、俺だけど。」
アズサだった。彼の声はハスキーで少し高めなので、すぐに分かる。その声が、ひどく焦っていた。
「いま佐倉崎から電話あって、五縞が救急車で運ばれたって。」
恭は浴槽から飛び出し、タオルを巻いただけの格好で急いで受話器を取った。
「おいっ、都姫が運ばれたって、どういうことだよ!」
いきなり本人が出てきたのに驚いたのか、アズサからの返事には何秒かの間があった。
「会社の帰りに、交通事故に遭ったって。佐倉崎はもう病院に行ってるらしいから、俺からお前に知らせとこうって思って。」
「俺も行く。どこの病院だ?!」
病院名とその場所をメモ帳に記し、電話を切ると同時に動き出した。
着替え、必要な物だけを持ち、戸締まりをして車に乗りこんだ。心臓の音が手先に、足先に、頭に伝わってくる。夜の道は比較的空いていたが、恭はスピードを上げた。信号が赤になる度、不安は募り募って恐怖に変わった。
集中治療室の外で、佐倉崎がうろうろと同じ所を行ったり来たりしていた。
「都姫は!」
恭は彼女の肩を掴み、息荒く言った。佐倉崎は驚きもせず、ほとんど泣きそうな顔で集中治療室を指差した。
何度も開くドアの隙間から、治療台に顔も身体も傷だらけになった都姫が横たわっているのが見える。医者や看護士が、その周りで忙しなく動いていた。
「どうして…」
恭のその言葉は、疑問ではなく非難だった。
どうして都姫があそこに横たわっているのか。どうして都姫はあんなに傷だらけで痛々しい姿になったのか。どうして交通事故なんかが起こってしまったのか。すべての非難が詰った「どうして」だった。
「酔っ払い運転よ。」
佐倉崎の潤んだ声が、微かに答えた。
「信号待ちしてた都姫のところに、飲酒運転の車が突っ込んできたの。」
恭は佐倉崎を見、そして集中治療室の中の都姫を見た。
佐倉崎が恭にしがみつく様にして、悔しそうに涙を流した。彼女の背中を撫でながら、彼は恐怖を心の底から身体中に染み渡るように体験していた。
「五縞都姫さんのご友人のかた。」
医者が治療室から姿を現した。佐倉崎が涙を拭いながら彼の元へ行き、恭もそのあとに続いた。
「命に別状はありません。しかし、左腕の骨に皹が入っていますし、全身にだいぶダメージを受けていますね。しばらく入院していただきます。それから、頭を強く打った虞がありますので、明日、検査をしてみます。」
本当に明日は来るのだろうか。
よろしくお願いしますと頭を下げながら、恭はそう思った。
「とりあえず乗れよ。タクシーで来たんだろ?」
佐倉崎が運転できないことを知っているので、恭は車のドアを開け、そう言った。少し離れたところで彼女は立ち止まっている。風が止み、所々にある電灯からわずかに明かりが届く駐車場は静かだった。
「病院から電話がきたの。8時くらいに。それで都姫が事故に遭ったって聞いて、私…私…」
佐倉崎は再び泣き、恭は彼女に近寄ってその背中を撫で、落ち着かせた。そうするだけで、恭も精一杯だった。
車に乗ってから、二人はしばらく黙っていた。エンジンをかけず、ただそこに座っていた。
「アズサが来られないこと、恨んだりしないであげて。」
鼻声で佐倉崎が言った。恭は分かってるよと言って窓ガラス越しに外を見た。白い壁の大きな総合病院は、電灯に囲まれて白々と浮きだっていた。あのなかで今、都姫が眠っているのかと思うと、恭はどうしようもなく悲しくなった。