13
都姫は仕事を終え、ビルを出た。ネオンや車のヘッドライト等が眩しく輝き、都会の空を見上げると、細く雲のかかった満月が弱々しく光を帯びていた。
「五縞!」
バッグに定期を入れながら地下鉄への階段を降りていると、背後から誰かが呼び止めた。颯太だった。彼女の隣に並んだ彼の吐く息は荒く白く、どうやら会社からずっと走ってきたようだった。
「どうして走ったりなんかしたの。」
ビックリしたように都姫が言うと、両膝に手をついて前かがみになって息をしていた彼は、少し顔を上げて彼女を見上げた。
「間に合わないと思ったから。その…電車に、だけど。」
なぜ電車を強調するのか不思議に思いながら、ゆっくり歩き始めた彼のスピードに合わせて、都姫は階段を下りた。
都姫が乗客の少ない電車に揺られながら扉の前の吊革に掴まっていると、その扉に凭れて立っていた颯太が、自分に言い聞かせるような言い方で都姫に、今から公園に行こうと言った。
「公園って、どこの?」
「次の駅で降りて、しばらく歩いたところにあるんだ。そんなに広くないけど、静かでキレイなとこだよ。」
月見でもしよう。今日は満月だから。と彼は笑った。
「冬の月見か。それも楽しそうね。」
そう言って都姫も微笑んだ。
そうこうしている間に着いた予定の駅で、彼らは電車を降りた。
「たくさん木が植わってるのね。モミジとか、桜とか。あっちに金木犀もあるし。」
軽やかな足取りで前を行きながら、都姫は辺りを見回した。
「へえ、よく分かるね。」
分かるよ。と都姫は言い、傍にあった一本の木に近づいた。
「ほら、幹を見て。表面に色の違う筋とか、割れ目みたいな模様があるでしょ?だから、この木は桜なの。」
なるほどねと微笑み、彼は病院の中庭などにありそうなプラスチックのベンチに腰をおろした。
「じゃあ、桜が咲く季節になったら、また一緒にここにこようか。」
都姫は彼を振返り、目を細めて微かに首を傾げた。彼女の横から、街灯が照らしている。
「そうね。お弁当とか持ってきましょう。でも、二人じゃ寂しくない?もっとたくさん誘った方が――」
「いや。」
彼にしては珍しく、相手が話をしている途中で声を発した。その強い否定を意味している颯太の声に、都姫は少し怯えたような目をした。
「……怒った…の?」
その時、強く冷たい風が吹き、都姫は思わず身を縮めた。彼が立ち上がり、都姫に近づく。
「これ、貸してやるよ。」
持っていたカバンから灰色のマフラーを取り出し、都姫の首に巻いた。都姫はありがとうと小さな声で言って、彼を見上げた。
「怒ってないよ。」
彼は淋しそうに微笑み、都姫の子供のような顔をじっと見た。
「ちょっと、悲しかっただけ。」
彼は桜の木を見上げ、ポケットに手を突っ込んだ。都姫も桜の木を見上げる。枝を左右に堂々と広げた太い桜は、葉が付いていないためか、鋭い印象を与えた。
「ここの公園、今年の春に偶然見つけたんだ。桜がキレイだったから、五縞にも見せてやろうと思って。」
彼はもう一度彼女に向き直った。それに気がついた都姫は、顔だけを彼の方に向ける。
「五縞と二人で見たいんだ。大勢とじゃなくて、五縞と。」
都姫が、いまいち理解できない、そんな表情をその顔に浮かべた。
颯太は少しして、彼の薄い口は短いため息みたいに、ごめん。と言った。
「寒いから、帰ろうか。」
都姫は、何も言わずに頷いた。
きっと、この木は立派な花を咲かせるのだろう。
そう思いながら、都姫はもう一度だけ桜を見た。