黒いムートン
都会で働いていた女子が、雪の多いど田舎に失脚Uターン。いわゆる「出戻り」女子。春だというのに積雪30センチの雪。そんな日に亜后莉は・・・?
何も今頃になって降ることはないじゃないか。
3月も中旬の雪は、亜后莉のふくらはぎまで積もっていた。
キンキンと一年前の傷が痛む。
それでも、日課の早朝散歩は、吹雪や大雨、或いは雷雨でもなければ決行すると決めている。
―ーああ、眩しい。
亜后莉は、黒いムートンブーツを履き、玄関のドアを開けた。
雪の白い眩しさが好きだ。そこに優しく注ぐ太陽の光。
――ああ、たまらない。
この世で一番白いと形容しても過言ではないし、それに反論する者だっていないに違いない。
いつもの道をゆく。ムートンブーツの黒さが一際目立って、まるで靴が独り歩きしているような錯覚さえ覚える。
幼稚園の前を通ると、若い女の保育士たちが3人、駐車場の雪搔きをしていた。ちょうど向かい側にある下水路に、雪搔き用のスコップで今採掘したばかりの過冷却の水の粒のかたまりを、せっせせっせと放り投げている。
――この白いかたまりたちも、産まれた海へ戻っていくのね。
亜后莉はそんなことを考えながら、保育士たちを横目にいつもの道を進んだ。
「リョウヘイ、待ってー!」
「白くてどこがどこだかわからなーい!」
そんな掛け合いをしている、ランドセルを背負った少年たちとすれ違う。
足元に気を配りながら慎重に坂道を下っていると、足にキーンとしたものと感じた。どうやらこの寒さが悪さをしているらしい。
去年の冬のことだ。
亜后莉は、どうしても馴染めず、大学を出てから就職した会社を一年半で辞め、数か月のらりくらりとした後、地元に戻り近くの小山田ビジネス専門学校なるところに入学していた。
入学、といってもさほど大それたことをしているわけではない。一般の社会人やフリーター、はたまたニートまでもが集まって、次の就職の為に資格を取るべく、職業訓練を行っている場所に通っている、というだけのことである。
毎朝9時からの講義に間に合うよう、母親の車で送り迎えをして貰っていた。学校――といっても小さなビルのワンフロアなのだが――の近くにドラッグストアがあり、毎日そこで降ろして貰い、拾って貰う。一年勤めた会社は大都市にあったものだから、電車通勤で車の必要性もなく、免許なんて取っていなかった。在学中に取っておくべきだった、とその時になって後悔した。その所為で、この学校に通いながら自動車学校にも通う、という小忙しい平坦な日々を過ごしていたのだ。
その平坦な日々を、凸凹にする事件があった。事件、と名付けては大袈裟だが、亜后莉の人生にとっては初めての出来事である。
いつものドラッグストアで車を降り、学校へ向かう途中のことだった。
その日も、数日前に降った大雪により足元が悪く、ところによっては解けた雪が夜の間に氷になっているという最悪の事態を招いていた。
学校の入っているビルへと続く一本道。
もう既に動き出している町の中で、亜后莉は部分的に氷と化した雪道をザクザクと歩いた。ずっと向こうまで、この状況が続いているのがスッキリと見通せる。白化粧をした街並はなんてキレイなのだろうと、雪をかぶった並木を目でなぞり、そのまま空まで視線を向けた。
空の青が目に入ってきた。
ーーああ、青い。
気持ちのよい空だ、と開けた視界に、亜后莉はそこに吸い込まれるような気分でさえいた。
「大丈夫!? 大丈夫ですか?」
自分よりも上空から、声が聞こえた。