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どこをどれだけいじってやがる――父にとって幸運だったのは、濃密な視線を浴びせる紀子の顔に、別の種類の緊張感を見出せたことだ。低いサイドボードがテレビ台に使われていたのも父に味方した。スクリーンに映る三枝老人が振りかぶった日本刀を振り下ろすより早く父は身を翻した。
「あぶねえじゃねえか! なにしやがんでえ、このじじいは。怪我でもしたらどうしてくれる」
怪我どころかその刃には殺意さえこもっていた。だが老人は兜割りの奥義を習得してなかったらしく、狙いを外した刀身はガラス製のテーブルトップでまっぷたつに折れる。勢い余って転倒する老人の背中を父の膝が押さえつけた。
「召し取ったりい」
言ってる場合か……。ショルダーバッグから結束バンドを取り出した父は老人を後ろ手に縛り上げる。更に両足首を締めると手首を縛ったバンドに結わえ付ける。
「そう言えば海老の老の字は老人の老だったな。腰も伸びていいストレッチになるだろうさ」
父が鼻の頭を掻きながら言う言葉は論拠に乏しい。畳に広がる染みは座卓の角に顔をぶつけた三枝老人の鼻血と小便だった。
「さあて、きりきりと白状してもらおうじゃねえか」
時代劇の主人公にでもなったつもりか、全身をがくがくと震わす紀子に啖呵を切る父はもろ肌脱ぎそうな勢いだ。だけど彼の背中には桜吹雪どころか筋彫りもない。
「紀子! なにも言ってはならんぞ」
「うるせえじじいだな」
父は片方の靴下を脱ぐと三枝老人の口に突っ込んだ。そしてまた結束バンドで縛る。老人が窒息死しないのを祈るばかりだ。
「どうあっても言わねえつもりか? だったらしょうがねえ。たったいま殺されかけました、と警察に届けるまでだ。この歳で監獄暮らしはキツイだろうな」
白状しろと言ってから、まだ一分と経ってないのに父は気が短い。
「おっ、お金なら差し上げます」
スマートフォンに手を伸ばす父に紀子が言った。
「わかんねえおばはんだな。俺が訊いてんのは、なんで庄司が死ななきゃならなかったか、だ。――ったく、この俺が強請りたかりにでも見えるのってのかよ」見ようによってはもっと悪党にも見える父が続ける。「証拠らしい証拠もねえんだ。あんたが正直に話してさえくれりゃ警察にも言わねえよ」
労組設立の件があり。事を公にできないのは父も同じだった。
「……本当ですか」
紀子がおそるおそる顔を上げる。形勢は完全に逆転していた。
「男に二言はないっ! なっ、じいさん。おっと、死んじゃいねえよな」
結束バンドが切れそうもないことに気づいたのか、あるいは酸欠状態だったのか、ぐったりと身体を横たえる三枝老人の猿ぐつわを、父は愛用の爪切りで切ってやる。
「無礼者っ、これも外さんかっ!」
「そんだけ元気がありゃ大丈夫だ。自由にして包丁でも持ってこられると困るんでな。俺が帰る時に切ってやるからそれまで我慢しろ。さあ、話してもらおうか」
眼で問いかける紀子に、三枝老人は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「里佳子は」紀子が重い口を開く。「若い頃のわたくしとよく似ています」
「せ……、へーえ」
思わず発しかけた『整形前のか?』を、なんとか父は誤魔化した。
「着任の挨拶の時、里佳子を見た藤澤にピンとくるものがあったのでしょう。それから間もなくして彼はわたくしを訪ねてきました。主人の仕事を知った上で、平日の昼間に」
「確か三十九銀行の副頭取だったよな。藤澤は小遣いでもせびろうとしたのか?」
いいえ、と言うように紀子は左右に首を振る。「厚労省と製薬会社から二度の退職金を受け取っていた藤澤です。お金には不自由してなかったことでしょう。昔話に来ただけだ、最初、彼はそう言ってました。それが……」
「なにかを要求してきた。だけど、それが金品じゃないとなると……、げっ! あのおっさん、六十を超えてんだろう。どれだけ元気なんだよ」
紀子は顔を赤らめて俯いた。
「まさか、あんた……」
「断ったに決まってるじゃないですか! 誰があんな男と撚りを戻したりするもんですか。そうしたらあいつは……」
「そこから先は儂が話そう」三枝老人が声を上げた。「息ができん、身体を横に向けてくれ」
「よしきた」
父は海老反り状態の三枝老人を転がし、敷いていた座布団を頭の下に入れてやった。
「藤澤は、言うことを聞かないと婚家に過去をばらすと言った。途方に暮れたこいつは儂のところに相談にやって来た」
「きったねえ野郎だな」
「現在の紀子の生活を守るにはあれしか方法がなかった。明を利用するよう、これに言ったのは儂じゃよ」
「そしてじいさんは家名を、か……。なんて言って庄司を言いくるめたんだ?」
父が訊ねる。
「そんな写真が送られてくる以前から、里佳子と明がおかしなことになっているのは気づいておったわ」
「お父さん!」
「この男は――」聞きとがめる紀子を制するように三枝老人が声を張った。「なにもかも知った上でここに来ている。下手に隠し立てすれば追い帰すのに手間取るだけじゃ。違うかな?」
「さすが年の功、よくわかってるらっしゃる」
持ち上げられた父は、三枝親子が小さく交わす目配せに気づけずにいた。




