02
「翻訳? 父さん、英語なんかできたっけ?」
「バカにするんじゃねえ! カタコトなら英語くらい話せらあ」
「カタコトって……」
そんな人間に翻訳の仕事を頼むバカはいない。
「それに俺が翻訳するのはフランス語だ」
だったら余計に――。だが父は、僕の懸念など意に介するでもなく、誇らしげに胸を張る。
「来てみろ」
連れて行かれたのは、父が『書斎』と称するプレハブだった。僕がこの家を出る二年前まで、亡くなった祖父が暮らしていた部屋だ。父の後について入るとタバコの臭いがした。
「まだ、タバコ止めてなかったのか?」
「うるっせえな、いちいち」
「父さんのためを思って言ってるんじゃないか」
「俺はな」父はジーンズのポケットから古ぼけたジッポーを取り出すと、これ見よがしにタバコを咥えて言った。「このライターで火を点けたタバコを吸い続け、いつか肺癌で死ぬのが望みなんだ。――ったく、こいつだけは何度なくしても戻ってきやがる」
こういった勝手な思い込みは父の専売特許なので、今更、驚くには当たらない。きっと父に恨みを抱く女性からの贈り物なのだろうと解釈した。
父はパソコンを起動すると、あるサイトを開く。検索エンジンで有名なソフトウェア会社が運営する翻訳サイトだった。
「どうだ」
俺には強い味方がついているんだぞ、とでも言いたげに父はにんまり笑った。輸入工具のマニュアル解読のため、僕も何度か使ったことはある。確かに直訳や慣用句に関してはある程度は役に立つが、専門用語や口語表現となるとお手上げに近い。もっとも無料サイトなので文句を言える筋合いでもないのだが。
「これでかい? 無茶だよ、だって――」
「おまえの言いたいことはわかってる」父は皆まで言うなとばかりに掌を僕に向け、そして言った。「俺は考えた。フランス語に精通するにはフランス語に身を置く必要がある、とな」
「それで?」
嫌な予感がした。
「うん。そこで俺は近くに住むフランス人と友だちになることにした」
「どうやって?」
「おまえ、SNSって知ってるか? これがそこで知り合ったソフィーだ」
父は携帯電話を取り出して僕に見せる。待ち受け画面には、白いロングスカートにGジャン姿の若い外国人女性が映っている。隣には締まりのない顔で女性の腰を抱き寄せる髭面のアラブ人……って、これは父じゃないか!
「彼女は日本文学を学びに来ている大学生でな、フランス語を教えてくれたら大学じゃ学べない文豪の秘話を教えてやるって交換条件を申し入れた。そしたら、おまえ――」
大学生ということは妹、つまり父の娘である恵より若いことになる。僕は続きを聞くのが怖くなった。
「ふたつ返事で交渉成立ってわけよ」
訊くだけ無駄だとは思うが――。「歴代文豪の秘話なんて、なんで父さんが知ってんだよ」
「目下の愛読書は芥川龍之介全集だからな」
会話だけでひとに徒労感を与えるのができるのも父ぐらいのものだろう。だが、思い立ったら、どんな手段に訴えてでも貫徹するところは、我が実父ながら驚嘆に値する。
「いつも楽しそうで良かったね。それでいったい」僕は言った。「何を翻訳しているんだい?」
「これだ」
父はパソコンに一枚の光学ディスクを入れる。オープニングクレジットもそこそこに流れ出した映像は、見るからにいかがわしいものだった。
「ポルノじゃないか!」
「そうとも言うな」
いや、そうとしか言わない。これならソフィーとの●●●で充分、語学力もたいして必要ではないだろう。なにしろ、ほぼ全編に渡って意味不明なBGMが流れているのだから。それにしても、どこでこんな仕事を請け負ってくるのやら……。
良きにつけ悪しきにつけ、父は何事にも手抜きをしない。なればこそ離婚の原因となった女性との関係を〝本気だ〟と言わしめたのだ。