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「でも、制御プログラムならメーカーにとっても秘中の秘じゃないの? 簡単に抽出できるようものでもないだろうに――」
「庄司曰く『ディーラーコードが入ったスキャンツールなら、インターネットのファイアウォールを突破するより遥かに楽に制御システムに侵入できる。複数の開発者が携われるよう、プログラム言語もオーソドックスなものを使うのだから、解析もたいして難しくはなかった』だとよ」
僕の勤務先でもスキャンツールの開発が行われていたため父との会話は成立していたが、庄司さんが車に施した細工を理解してもらうため、少し解説を付け加えておこう。
車両マネージメントを電子制御に依存する現代、勘やノウハウに頼った整備技術は通用しなくなっている。自動車への搭載が標準化された車両自己診断システム『OBD―2』は、制御回路内に異常を検知するとそれを車両コンピューターに記憶させ、メーターパネル内にある警告灯を点灯させることによって故障を運転者に知らせてくれる。勿論、それだけではどこに異常があるのかわからない。そこでスキャンツールの登場となる。車両側端子と接続してアルファベットと数字で示される異常コードを読み出すのだ。父の言う『ディーラーコードの入ったもの』はメーカーから支給される専用機で、市販品より深い階層へのアクセスが可能となっている。つまり、制御プログラムの書き換えやセキュリティに関する設定変更も行えるということだ。
「凄いひとだね」
「俺も驚かされたよ。庄司から報告を受けた俺は、脇原とサービス本部にそれを伝えた。自動車メーカーには、リコールや改善対策に該当しない商品性や品質などの改善項目をユーザーに通知して修理・改修するサービスキャンペーンという制度がある。それが出るものだとばかり思ってたんだが、いつまで経ってなんの連絡もない」
「どういうこと?」
「その時点でベータには二百台以上のバックオーダー(繰越注文)があった。井ノ口サンライズだけで、だぞ。庄司の発見をメーカーに知らせてみろ。生産途中の全車に手を加えなきゃいけなくなる。結果、客への納車が遅れ、会社にカネが入ってこなくなる」
「まさか……」
「その、まさか、だ。庄司の報告は握りつぶされた。サービス本部も脇原も認めやしねえがな」
「お客様あってこその自動車ディーラー云々は、信念に基づいての講釈じゃなかったんだ」
「そういうことだな」
「庄司さんはどうしたの?」
「そりゃあメーカーに直接話すと意気込んださ。だがな、脇原、サービス本部、西村専務のラインから圧力がかかった。一フロントマン風情にメーカーが開発したプログラムの良否などがわかるのか。ブレーキの不具合による事故の報告も受けてない。余計なことを言って車の完成が遅れた場合、おまえにその損失を埋める力があるのか、とな」
「狡いなあ」
「だが、それが企業ってものでもある。庄司だってあの言葉、『一フロントマン風情』がなければ大人しく会社の方針に従ったろうさ」
「と言うことは、庄司さん、やはりメーカーに報告しちゃったんだ」
「違う。庄司は、自らの主張が間違いでないことを、脇原に身を以って知ってもらうことにした。営業所の開店準備は七時にセールスが出てきて始めることになっている。掃き掃除にガラス拭き、カタログ整理にテーブル拭きまでをセールスが全員でやるんだ。掃除が終わる頃にサービスや業務の連中が出社してくるって具合だ」そこで父はくすりと思い出し笑いをした。「そして前夜、サービス工場に仕舞い込んだ試乗車を出してきて展示スペースに並べる。最後に脇原が試乗車のベータを置いて開店準備完了ってのが慣例になっていた」
「それで?」
「脇原には妙に神経質なところがあって、サービス工場から出した試乗車を停めるまでの動作が毎回同じでないと気に入らない。ベータを置く予定のスペースから車一台分だけ行き過ぎて停止、それからハンドルを左にロックするまで回して後退する、それが上手くいかないと一日不機嫌でいやがる」
「うわぁ、部下は堪んないね。いま笑ったのはそれを思い出したのかい?」
「いや、それを知っていた庄司は、その一連の動作をすることでブレーキが効かなくなるような細工を試乗車に施した。哀れ、脇原はショールームのガラスをブチ破るまで何度もブレーキペダルを蹴りつけながら――、微速なんだから駐車ブレーキを踏めば止まるのに、それにも気が回らねえほどパニクってやがった。あの時のヤツの顔ったらなかったぜ」
「庄司さんがやったって証拠はないんだろう?」
「あいつ以外の誰にそんな真似ができる? 騒動を見ていた全員が顔を引き攣らせてるのに、庄司だけは薄笑いを浮かべていた。俺はあいつの腕を掴んでまだ誰もいないサービス工場に連れていった。誰にも言わねえから正直に答えろ。おまえがやったのか? って訊いたらあっさり白状したよ。やり過ぎだ、と叱る俺に庄司は涼しい顔で言った。その気になれば任意の地点でブレーキやハンドルを効かなくすることだって可能だ。一フロントマン風情がどこまでできるか、所長に教えてあげたんです。ショールームの建物も試乗車のベータも保険に入っている。例の件を考え直してもらういい機会になったでしょう、とな。サービス本部で止まっていた情報はメーカーに流れることになった」
「空恐ろしいひとだね、庄司さんって」
「プログラムひとつでどうにでもなっちまう車作りにも問題があるだろう。勝手にエンジンが止まって、ブレーキも自動的にかかる。挙句の果てにハンドルまで車が切るときてやがる。そんなのに乗ってて楽しいか? そのうちレールの上を走るだけのマイカーになっちまうぞ。そんなの一人乗りの電車とどこが違う」