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夕飯と風呂が済むと祖母はハナレに、父は書斎へと引き込むものだから母屋は空っぽになる。首都圏とは比べるべくもないが、ここだって政令指定都市だ。不用心だと思うのだが、ふたりとも居を移すつもりは――ただ面倒だという理由で――ない。だったら間借り人でも探したらどうかと僕が提案すると、祖母と父は口を揃えて『そんな物騒なことはできない』と返してくる。泥棒にでも入られて痛い目に遭わなければ、ふたりが物騒のなんたるかを知ることはないのだろう。僕は書斎のガラス戸を叩く。
「父さん、少しいい?」
「おう、入れ」
ソファにはたくさんの書籍が開かれたまま散乱し、パソコンは二台とも起動している。特にタイトルなど見なくとも、なにを調べていたのかは明白だ。
「進展はあったかい?」
「医者でも細菌学者でもねえ俺だ、調べるにも限界ってもんがあるさ」
「そうだね」
それでもいくつか候補を拾い出していたようで、レポート用紙にはミミズがのたくったような字でなにか書かれていた。母屋の応接間には毛筆四段の免状が掛けられておりあながち嘘とばかりも思えないのだが、父の走り書きは息子である僕にも判読不能だ。「精神統一して書けば俺の硬筆も捨てたもんじゃないんだけどな」と嘯くが、そもそも父が一意専心するなど滅多にない。現にいまも『大型ラジコンヘリ』の文字がブラウザのタブにある。大方、検索中に興味を惹かれたバナーでも開いておいたのではなかろうか。
「なんか用があったんじゃねえのか?」
「そうだった。庄司さんってのはどんなひと?」
「庄司か……」父はタバコに火を点けると深く吸い込んだ。「優秀なメカニックだったよ、優秀過ぎるほどにな」
その時、父が見せた表情は、例えるならアンドリュー・ワイエス描く『コールド・スプリング』に怒りのタッシュを加えたような複雑なものだった。
「庄司明は去年の四月に鏡野店から移ってきたフロントマンだ。ハイブリッド車全盛の今日、自動車の制御システムは高度にネットワーク化され、旧態依然の整備士では太刀打ちできないトラブルに遭遇することもある。コンピューターオタク的なところはあったが、その点で庄司は、新技術の申し子のような男だった」
「右を見ても左を見てもベータだらけのこの時代、コンピューターに強いフロントマンならどこでも歓迎されそうだね」
「だったらなにも起こりゃしなかったさ」
「どういう意味?」
「庄司は自殺したんだよ。城北店のミーティングルームで首を縊ってな」
「えっ! なんでまた……」
「あまり気乗りはしねえが、話してやるか」父は二本目のタバコに火を点ける。「現場で工具を握ってるだけならいいが、フロントマンともなれば業務の殆どが接客になる。ところが庄司はそれが苦手でな。『それは故障じゃなくてあんたの使い方が悪い』って言われたお客はどう感じる?」
「そりゃあ、面白くはないだろうね」
「悪気はないんだが庄司はそういう奴だ。一言、『お客様の思い違いではありませんか?』とつけ加えておけばなんてことねえ話なんだが、言葉を飾れないとでも言うのかな。フロントマンになって二期と同じ営業所で勤めた試しがねえのはそこいらに理由があったんだと思う。当然、客の苦情は担当セールスに向かう。セールスは庄司直属の上司である俺んとこに、なんとかしてくれと泣きついてきた」
「なんで、庄司さんに直接言わないのかな」
「言ったらしい。そうしたら庄司は、携帯電話とは訳が違う。扱いを誤れば凶器にもなり得る自動車だ。オーナーズマニュアルに書いてあるのにそれを読まない客が悪い。いっそ、あんたが客に読み聞かせてやったらどうだ、とセールスを遣り込めた」
「なんだか情けないセールスさんだね。父さんは庄司さんに注意したんだよね」
「おう。おまえの言うことは間違ってないが相手は客だ。言い方に気をつけろ、とな。そして、客をまごつかせたのはおまえの説明不足だとセールスも叱っておいた。そいつが、昨日死んだ近藤だ」
「そうだったんだ……」
これで庄司さんが生きていれば、またしても復讐劇を疑わねばならない展開だ。しかし誰にせよ、病院でさえ原因を突き止められないような毒物や病原体を簡単に入手できるとも思えない。
「収まらねえ近藤は、話を脇原んとこに持って行った。自動車ディーラーってのは車を売ってナンボ。サービスマンや業務は、所詮、裏方でしかない。所長すべてが営業出身者なのを見れば子どもにだってわかる。企業にとって可愛いのは正論を吐く雄鶏じゃなく、たくさん卵を産む雌鶏、つまりセールスマンたちってことだ。弁の立つ脇原は、それを『お客様あってのディーラー』とすり替えて説教した。それで庄司も一度は納得し、近藤に謝罪した」
「一度は、か……。なにか含みがありそうだね」
「信念に基づいて語られる言葉でなきゃすぐにメッキは剥がれ落ちるってことさ。ある日のことだ。客の要望でベータを試乗した庄司は、車速やエンジン回転によってブレーキフィーリングが変化することに気づいた。そこで〝おかしいんじゃないか?〟と本社のサービス本部に情報を上げるのが普通のフロントマン、庄司はブレーキ制御プログラムの解析にかかる。あいつは、たった二日でプログラムの問題点とアキュムレータ取り付け部位の強度不足を発見した」