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僕の回想は固定電話の鳴り響く音に破られた。
「はい、柘植です」
――えっ、誰?
間違い電話かと思ったが、そうでもなさそうだ。
「誰……って、柘植ですが」
――兄さんじゃ……ないわよね?
「あれ、もしかして叔母さん?」
――そう言うあんたはタクちゃん? そんなとこでなにしてるの?
そんなところと言われてもここは僕の生家で、父の妹でもある叔母にとってもそうなはずだ。
「ちょっと父さんに相談があってね」
――ふうん。あのちゃんらんぽらんな兄さんに相談ねえ……
「いまは出かけているんだけど――。叔母さん、父さんになにか用があったんじゃないの?」
――あっ! そうそう。
脱線は柘植家の宿痾なのだろうか。父にせよ叔母にせよ、誰かが常に話題を監視していないとすぐに本題から逸れてしまう。
――兄さんに伝えておいてくれない。明日、行くからって。
「叔母さんも父さんに相談でも?」
――まさか! 兄さんに相談するくらいならテリーにでも話すわよ。
テリーは叔母さん家の飼い犬の名前だったはず。随分な言われようだ。
――おばあちゃんがああでは、独りになっちゃった兄さんはどこにも出掛けられないじゃない。週に一度、わたしが面倒を見に行ってるのよ。
その時間を利用してソフィーとうまいことやっているだろうことは武士の情けで黙っててやるとしよう。
「助かります。明日ですね?」
――うん。お昼も用意していくからね。
「お願いします」
今一度、過ぎ去りし日の温もりを――受話器を置いた僕は、再びインクの香りに身を委ねる。だけどその切なる願いに幸の幻影が応えてくれることはなかった。
裏口の閉まる音に続いて、父のがっしりした体躯が台所に現れる。
「おかえり。早かったんだね」
以前、勤務していた頃の父は陽のあるうちに帰ってきたためしがない。それがこの日は七時を少し回ったばかりだ。
「おう」
「新所長さんの初日はどうだった?」
「それがな、矢貫の野郎、ミーティングもそこそこにあちこち引っ張り回しやがって――。まあそんなこたあ、どうでもいい。なにかわかったか」
「そうだ、大変なんだ。父さんが話してた警部さん、覚えているかい?」
「たった一日で忘れるほどボケちゃいねえぞ。あいつがどうしたんだ」
「亡くなったみたいなんだよ」
「なんだと、それを早く言え!」
「ごめん、それで――」
僕は食中毒騒ぎの原因が蚊媒介性ウイルスではないかとの可能性を父に語った。
「蚊かあ……」
「でも、それで数時間の潜伏期間なんて感染症はなかったんだよね――あっ! そうだ」
僕はもうひとつ重大なことを思い出した。
「なんだ、でけえ声なんか出して」
「父さんも首筋を刺されてたじゃないか。なんともないの?」
「そうだったか?」
「うん、大麻さんを送る車のなかでぽりぽり掻いてたじゃないか」
「そう言われてみれば、昨夜は少し熱っぽかったな。いまはなんともないぞ」
「大麻さんはどうだった? 会社に出てたのかい?」
「それが……」父が表情を歪める。「入院したらしい。だけどそんなのあり得ねえだろう。俺はなんともないんだぞ」
いや、この父ならあり得る。彼の人生に於いて病気や怪我による入院経験は一度もなくインフルエンザにもかかったことがない。学生時代にバイクで事故を起こした時も5メートルほど撥ね飛ばされた後でむくりと起き上がり、事故の相手に食ってかかっていったと父の友人から聞いたことがある。野菜嫌いのくせに花粉症やアトピーとも無縁。規格外は彼の考えや振る舞いだけに止まってなかった。
こんなこともあった。小学生の頃、学校で人間の歯について学んだ僕は、大きな口を開けて居眠りをしていた父の歯を妹と一緒に数えて驚いた。なんと父は、その頑丈そうな顎の内側に、古代人のように十八対三十六本の歯を持っていたのだ。
「なんだ、その顔は」
「な、なんでもないよ」
思わず父をバケモノでも見るような眼で眺めていたようだ。この地球上に父を屈服させられるウイルスなどないのかもしれない。