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 死者がふたりも出ていたせいか国営放送でも昨日の一件は取り上げられていた。だけど僕が見たかったのは番組枠最後に放送される地方局からのニュースだった。

『井ノ口市鵜飼町から大房町にかけて発生した集団食中毒の被害者は――』

 半袖のワイシャツ姿で河川敷から中継するリポーターが映っている。ハイビジョン映像の鮮明さは彼の腕に止まった蚊までも……、あっ!

 僕は父の書斎へ走った。裏庭に面した水場では、祖母が如雨露に水を汲んでいる。

「ばあちゃん、杖なしで平気なのかい?」

「杖ってなんね?」

 好きなことをさせておけば神経痛も出ないみたいでな――父の言葉が想起された。

 普段の言動を見る限り、とても文明の利器とは縁がないような父だが、パソコンだけは僕が生まれる以前より使っていたとあって常に最新型を入手している。ゲストでアクセスしブラウザを起動すると、僕は四つのキーワードを打ち込んだ。

 嘔吐、下痢、発熱、筋力低下――4ページ目に〝サルモネラ、病原性大腸菌、カンピロバクターなど)の病原性細菌の感染〟がヒットする。検索ワードを『蚊媒介性ウィルス』に変えてみる。すると、出るわ、出るわ。ウエストナイル熱、チクングニア熱、マラリア、デング熱、日本脳炎と、名前からして恐ろしげな第四類感染症の数々が列記されていた。ただ、どれも二日以上の潜伏期間が表示されており今回の症状は当て嵌らない。違ったか……。僕はパソコンをシャットダウンして深く椅子にもたれた。素人の僕にわかるものならとっくに医療機関が見当をつけているはずだ。念のため、営業スタッフのなかに最近、海外旅行にでかけたひとがいないか、父が戻ったら訊いてみよう。

 意外ときれいに片付いているじゃないか――父の書斎を見回す。母がいた頃は、脱いだら脱ぎっぱなしで散乱していた衣類もそこいらには見当たらない。祖父が住む前は物置に使っていたここは六畳間を縦に並べたような、いわゆるうなぎの寝床様の作りで、奥の箪笥部屋とはカーテン一枚で仕切られている。慌ただしく出かけていったせいか、それが閉じられてなかった。

ん? 隙間から覗く眺めが見慣れたものでなく思え僕はカーテンを開いてみた。

「なんだ、これ……」

 そこは僕の記憶に残る箪笥部屋などではなく、壁一面が造り付けの書庫になっており、スライド式の本棚も二架置かれている。図書館でしか見ないようなキャスターのついた梯子まであった。

「古本屋でも始めるつもりかよ」

 例の芥川龍之介全集を手に取ってみる。街の書店にも置いてないような単行本は、相当年季が入った古びようだ。一緒に暮らしていた頃もよく本は読んでいた父だが、書庫を埋め尽くすのは学術書や科学雑誌が殆どで、なぜだか『刑事訴訟法入門』とか『証券被害者救済実務改訂版』まである。

 金融派生商品に手を出して大損し、誰かを訴えようとでもいうのか――そんな考えが一瞬、思考を過ったがすぐに打ち消す。銀行と証券会社の大嫌いな父が彼らを儲けさせるなど天地が入れ替わってもあり得ない。となれば考えられるのはひとつ。凝り性である父の興味が〝知識〟に向いたのだろう。古い紙とインクの香りが織りなす空気が僕を図書館にいるような錯覚に陥らせた。


 サムエル記を借り出そうとする僕に貸出カウンターにいた幸が言った。

「これ、半分はヘブライ語で書かれているんですよ」

 対訳だから当たり前ではあるのだが――「だから、こちらも借りていきます」僕はサムエル記の下になっていた『現代日本語・ヘブライ語辞典』を持ち上げる。疑り深い僕は、いつもこんな借り方をしていた。

「失礼ですけど、もしかしてクリスチャンですか?」

「いえ、どちらかと言えば宗教は嫌いな方でして……」

 少しの間、ぽかんとしていた幸だったが、やがてくすりと笑って言った。

「面白いかたですね」

 それがきっかけとなって僕たちが交わす言葉の数は増えた。

 ある土曜の午後だった。仕事の終わる時間を僕が訊ねると、幸は「いつもは八時までなんですけど、今日は早く上がらせてもらおうかな」と意味ありげに笑う。なにがおかしいのかと幸の視線辿ると僕の胸ポケットから映画の前売り券が飛び出していた。

「あっ……」

「それ、フィッツジェラルド作品の映画化でしょう。観たいと思っていたんです。誘っていただけるんですよね」

 自分が言うべきことのすべてを幸に言わせてしまい、僕は歓んだと同時に情けなかった。

「本当は利用者の借りる本について感想を言ったりしちゃいけないの。変な女だな、とか思わなかった?」

 お互いをファーストネームで呼び合うようになった頃、幸が言った。

「いや、あれは助かったよ。図書館はアカデミックで神聖な場所だと思っていたから、君をデートに誘っていい女性だとはなかなか思えなくてね」

「セックスするのも畏れ多いほど?」

 またしても幸に代弁させてしまったその日の夜、僕たちは結ばれた。クリスマスイブの前日のことだった。


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