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01

 僕が父との再会に選んだのは、飛ばし屋になった年の落雷が身体を逸れた夏だった。この三次元宇宙でも僕のめそめそは続いており、休職中のこの時期なら多忙な父に時間を合わせることができるだろうと考えたのだった。

「おう、誰かと思ったらタクじゃねえか。生きてやがったのか」

 二年ぶりに訪ねる父は、相変わらず口も柄も悪かった。当年とって五十歳になる彼は、八年前に母と離婚しており、彼の母親――つまり僕の祖母と二人暮らしをしていた。

「死んでたら葬式の案内を出してるさ。そんなもの届いてないだろう?」

「ちげえねえ、ぎゃははは」

 五十にもなる成人男子でギャハハハと笑う人間を、僕は父以外に知らない。彼は他者評価などまったく気にしない規格外な男だった。 こんなエピソードがある。ひとまわり以上も歳の離れた女性と妻子がありながら交際していた父が、母に離婚を申し出た時のことだ。

「あんたねえ、騙されてるのがわからないの?」

「騙されてなんかねえよ、女房子どもがいることを隠してた俺が騙してたんだ。あの子は妊娠してんだ。責任とって結婚してやらねえといけねえんだよ」

「まったく……。十九、二十歳の小僧っ子じゃあるまいし、避妊もせずエッチすればどうなるかぐらいわかりそうなもんじゃない。あんたはその子にも深い傷を負わせたのよ」

「いやぁ、面目ない」

「浮気するならするで、それなりのルールってものがあるでしょうに」

「あっ! 浮気じゃねえぞ、本気も本気、大真面目だったんだ。長いこと一緒に住んでるおまえにそんな事言われるのは心外だな。俺をそんな薄情な男だと思ってやがったのかよ」

 まるで落語だ。ドア越しに父母の会話を盗み聞いていた僕は、吹き出しそうになるのを必死に堪えたものだった。少し開いた間は、きっと母の大きなため息だったに違いない。

「わかった。じゃあ慰謝料、一億円ね」

「一億って、おまえ……」

 結局、一億円を持ってなかった父は、離婚の申し出を取り下げた。しかし後日、父が交際していた女性に捨てられたことを知った母は、父が記入を済ませていた離婚届の空欄を埋めて役場に提出、僕と妹を引き取って家を出たのだった。

 その時、母は僕に言った。「仏の顔も三度までよ」。父の女癖の悪さは筋金入りだったと見える。母としてもそのくらいしてやらないと気が済まなかったのだろう。そんな父親から、僕のように慎ましやかな子どもが産まれたのが不思議でならない。

「それで、その……なんだ」父は言い難そうに語尾を濁す。「母さんたちは元気か? 松ぼっくりとやらはよくしてくれてるのか?」

「誰だよ、松ぼっくりって。どんな字を書くんだよ。松尾さんだろう」

 父が言ったのは母の再婚相手のことだ。家族のことを訊ねる時、父はいつもこうだ。恐らくは家庭を崩壊させた負い目がそうさせるのだと思う。

「おう、それそれ」

「僕は去年から家を出てる。だから最近のことはわからないけど、母さんも恵も元気にしてたよ」

「家を出ただと? あいつにいじめられたのか」

 父は見当違いに色めき立った。

「違うよ、勤務が変わったからさ。松尾さんは良識あるいいひとだよ。公務員だから収入は安定しているし、なにより浮気なんかしないひとだから」

 破天荒な父との暮らしに疲れた母が、松尾さんを選んだ理由がわかるような気がする。再婚して以来、夫婦喧嘩など見たことがない。それでも時折、母は寂しそうな顔をしていた。

「ちぇっ、おまえも真梨子と同じこと言いやがるのか。おっと、こんなところで立ち話もなんだ。急いでもねえんだろう? まあ、上がれや」

 ようやく父は、僕を玄関先に立たせたままだったことに気づいた。

「ばあちゃんは?」

 通された八疊間は、僕が多感な少年時代を過ごした時のままだった。

「先月からデイサービスに通い始めてな。だから日月はいねえんだ。なんだ、ばあさんに用があったのか?」

「いや、ただ姿が見えないから訊いてみただけだよ。どこか悪いのかい?」

「認知症が随分と進んじまってな。短期記憶がさっぱりなもんだから、物は失くすし、受けた電話は忘れるしで大変なんだぞ。だから、なるべくおおぜいのひとと接する機会を作ってやろうと思ってよ。ほら、俺じゃあ面倒くさがってちゃんと相手してやんねえだろ」

「そうなんだ」

 僕の記憶が正しければ、祖母はこの年八十四歳になる。いくら医療が進歩しようと、萎縮してしまった脳に治療法はないみたいだ。だけど、あのしっかり者だった祖母がたった二年見ないうちにそこまで――。

「足腰だって相当弱ってんだろうな。庭いじりしては、すっ転んで怪我ばかりしてやがる。やれ、あそこが折れた、どこを何針縫っただとかな。さすがにその都度、会社を抜け出すわけにもいかねえだろう? だから俺は仕事を辞めた」

 父が勤務する会社の定休日は月曜で、僕もそれに訪問日を合わせたのだが――。自動車ディーラーの整備工場に勤務していたはずの父の手がやけにきれいだった理由に合点がいった。

「辞めたって……、じゃあ、どうやって食ってくんだよ」

「少しは貯えだってあらあな。それに翻訳の仕事も始めたしな」


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