第七話 前編
当日、進行の流れや衣装の確認、会場のスタッフとの打ち合わせなどがあるので、朝七時に集合した。朝早いだけで、とても憂鬱である。やる気など皆無なのだが、今日で最後だ。誠也とて、有終の美という言葉は知っている。今日で最後なのだ。頑張って、きちんと終わらせたいところだ。
会場に到着すると、控室に向かう。すでに他の四人は来ていた。
「よう」
四人に向かって、挨拶をする。
「あ、おはよ」
「おっす」
と挨拶をしてくれたのは、歩美と絵里だけ。残る二人はというと、おそらく緊張しているのだろう。隼人は焦点が合っていないし、亜子はどこかうつむき加減でボーっとしている。
二人を指さして、
「これ、大丈夫なのか?」
聞くと、
「あー、あははは……」
歩美は笑って誤魔化し、
「大丈夫でしょ。きっと何とかなるって」
絵里は適当に楽観的なコメントをした。
何とかなればいいが。誠也はため息をつく。先ほどまで有終の美やら何やら考えていた自分がバカみたいに思えた。誠也は入れた気合が、急速に抜けていく気がした。
「じゃあみんな来たし、そろそろ動き出しますか」
「そうだね」
割とやる気のある二人は立ち上がると、緊張している二人に話しかけた。
「じゃあ表に出る二人は、あっちの係りの人について行って。マイクとか会場設備とかの説明があるから。そのあとは衣装の確認ね」
隼人はロボットのように、亜子はナマケモノのように、絵里の指示に従い動き出した。この二人が表組とは、本当に不安である。
「じゃああたしたち裏方組は、とりあえず係りの人と段取りの確認。亜子たちとは別に会場設備の確認だね。じゃあ行こう」
今回の役割は、それぞれ全く別のものになっている。亜子は、もちろん主役。場を彩るヒロインであり、中心の主人公でもある。亜子が頑張ることは特にない。ちょっとした挨拶をしたり、握手をしたり、まああとは写真撮影くらいか。挨拶は事前に考えてあるし、あとは全て受け身でいい。大変ではないが、楽ではないな。
隼人は司会進行である。表だった段取りの進行を行うのが隼人。こちらはある程度台本で行けるが、状況に応じていろいろな発言をしなければならず、進行力に加えて、アドリブ力や語彙力が必要になる。そして、今回の目玉である、幹部である自身の紹介。今回初めて亜子のファンクラブの幹部が顔を見せるのだ。ここでびしっとしなければ、最悪ファンクラブが崩壊する。隼人には荷が重い気がする。
絵里と歩美はひたすら裏方である。会場には姿を現さず、控室・準備室を走り回る。会場スタッフと連携を取り、BGMや照明を操作したり、料理のタイミングを見計らったり、タイムキーパーも行う。縁の下の力持ち、といったところか。ま、実際の黒幕は絵里であり歩美であるのだから、彼女たちは本来の仕事と変わらない。
そして、誠也である。誠也は会場に出入りする裏方。言わば、私服警察である。パーティーに参加するファンクラブの会員に紛れて、会場スタッフや裏方の絵里たちと連携を取りつつ、パーティーの進行の潤滑油になる。加えて会員の監視・観察も行う。ブラックリストのリストアップやVIPの洗い出し、亜子の人気を妬むスパイやヒットマンの潜入の検挙。ここまで必要なのかはなはだ疑問ではあるが、これが誠也の仕事である。
これは当日まで知らされていなかったのだが、どうやら誠也は会員に紛れるのではなく、会場スタッフに成りすますらしい。つまり、ウェイターに。
「だって、そのほうが動きやすいでしょ。亜子や斉藤と話していても不自然じゃないし。ウェイターなら誰とでも接触できる」
というのが、絵里の言である。
「だったら会場警備でいいだろう。その条件だったら、警備員も満たしている」
「あんたならウェイターのほうが似合うって。それに制服が借りられなかったのよ。」
用意する気があったか否かはなはだ疑問であるが、今用意されえていないのは間違いない。明らかに後付けに聞こえるが、会場スタッフのほうが動きやすい、という点に異論はない。誠也はさっそく着替えると、ウェイターについてのレクチャーを受けた。実際は物を運ぶだけだが、それでもいろいろとマニュアルがあるらしく、加えて、客からの問い合わせに対応できるよう、会場設備やメニューやサービス内容についても説明を受けた。これだけ覚えることがあるなら、事前に教えてもらいたかった。
レクチャーを終えると、誠也は控室に戻ってきた。絵里たちも隼人もおらず、亜子だけがソファーに座ってうなだれていた。
眠いのか緊張しているのか、亜子は朝からこの調子だった。
「もう衣装合わせは終わったのか?」
「まあね」
眠っているのかと思ったが、どうやら起きてはいる様子。
「もっとシャキッとしたらどうだ。今日は本番だぞ」
誠也が苦言を呈すると、
「うるさいわね。あんたに言われなくても分かっているわよ」
少しイライラしている様子。嫌なことがあった、というよりは、自分自身に原因があるような感じだ。単純に寝不足、というわけではなさそうだが、いったい何があったのだろうか。
言葉こそ辛辣ではあったが、迫力は皆無である。機嫌が悪いようだが、迫力がない。短い付き合いとはいえ、今まで見たことない亜子である。そこで、誠也は一つ閃く。
「もしかして、体調がよくないのか?」
「別に。ただ眠いだけ」
即座に答えたが、その答え方もイライラが垣間見える。うつむいているままの亜子。立っている誠也からはその表情が見えない。
誠也は亜子の正面に移動すると、しゃがみこんだ。
「な、何よ」
ソファーに座る亜子を下から見上げる形。表情がよく見える。分かったことは。
誠也は左手で亜子の右手を握ると、右手で亜子の額に触れた。
「ちょ、何すんのよ!」
思い切り手を払われた。ほんの一瞬のことだった。
「いきなり女子の手と顔に触れるなんて、どういうつもり?次やったら人を呼ぶわよ」
しかし、
「あんた、熱があるだろう」
それでも十分分かった。
「ほっといてよ。これがあたしの平熱なの」
どう考えても平熱ではないだろう。話す亜子は相変わらずイライラしている。そして、しゃがんだことで初めて見えた顔色は、あからさまによくない。平熱かどうかは置いといて、体調が悪いことは間違いないだろう。
「熱は測ったのか?」
「計ってない。だって、いつもどおりだもん」
おそらく、意地もあるだろう。頑として、態度を変えない亜子。だが、ここで簡単に引くわけにはいかない。誠也だって、これ以上面倒に巻き込まれたくない。
「計ってみろ。体温計借りてくるから」
「計らない。測ったって平熱だもん」
その通り。測ったところで、三十七度程度なら、平熱と言い張ることができる。それを言われると、誠也は黙らざるを得ない。
「…………」
となると、熱を計らせるのは最善の策とは言えないのかもしれない。だが、誠也は男だ。あまり亜子に対して積極的に動くことは躊躇われる。次に触ったら、人を呼ぶとも言われている。手詰まりなのかもしれない、と思ったが、
「なるほど。それはいい考えかもしれない」
「何よ。どういう意味?」
「あんたの言うとおり、人を呼ぶことにしよう」
誠也は立ち上がると、踵を返した。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どういうこと?」
「中田たちを呼んでくる。あいつらが額に触る分には問題ないだろう」
「え……」
これは意外だったか。亜子は慌てたような反応を見せる。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
いきなり立ち上がり、誠也を追いかけてくる。しかし、
「!」
貧血だろうか。倒れるように、再びソファーに座りこんだ。
「おい!大丈夫か?」
ドアに向かっていた誠也は、亜子の元に戻る。
「無理するな。今ならまだ間に合う。中田たちに話して、延期にしてもらおう」
「…………」
亜子は気持ちを落ち着けるように、大きく深呼吸をする。そして、
「それはできない。みんなの気持ちを無駄にしたくない」
これは体調不良を認める発言だ。
「周りの気持ちを考えるのはいいが、少しは自分のことを考えろ」
「あたしは大丈夫。実際そこまで体調悪いわけじゃないから」
間違いなく嘘。でなければ、もう少し明るく振る舞えるはず。ただ今日の亜子は、あからさまにいつもと違う。ソファーから動かず、うつむき加減。頭を抱えるしぐさもしばしば。本当に辛いに違いない。
「強がりはよせ。今回に限っては、余計に心配かけるだけだ」
「でも、延期なんかしたらファンクラブの運営が……」
「ファンクラブより、あんたのほうが大事だろう。準備は無駄になってしまうが、また近いうちにやればいいじゃないか」
誠也の言葉に、亜子は黙り込んだ。迷惑をかけるのも心配をかけるのも、亜子の本意ではないはず。誠也の言い分も理解しているはず。ここは引いてくれるだろう。誠也は再び踵を返し、ドアに向かった。しかし、
「延期なんて絶対できない」
亜子は頑として、態度を変えなかった。
「おい、頑固なのもいい加減にしろよ」
「あんたは分かっていない。今ファンクラブの不満は飽和状態なの。少しでも不満が積もったら、爆発しちゃうギリギリの状態なの」
亜子の表情は険しいものだった。その口調も、誤魔化す嘘には見えない。
「だから、絶対に延期はできない」
今まで具合悪そうにしていた目ではない。鋭い眼光は意志の強さを表していた。
「あんたが倒れたら元も子もない。ファンクラブのことを考えるなら、それこそ中田たちを交えて話すべきだろう」
「絵里たちに話したら、間違いなくとめられる」
「だったらやめるべきなんだろう」
「でもそれはファンクラブのことは考えていないの!」
当然だろう。友人が病気だというのに、強行を指示できる人間はそうそういない。
「だから、今の状況で一番客観的な判断が下せるのはあたし。あたしは大丈夫だから、今日やるべきなのよ」
「全く客観的じゃない。個人的な感情のみの判断だろう」
「あたしが大丈夫だって言っているのよ!」
「…………」
誠也から見て、大丈夫には見えない。とてもじゃないが、誠也には強行という判断は下せそうにない。とはいえ、誠也はファンクラブの事情を知らない。やはりここは亜子とファンクラブ両方に精通している人物に判断を任せるのが得策か。
「悪いが、俺は部外者だ。説得はファンクラブの幹部相手にしてくれ。中田たちを呼んでくるからちょっと待ってろ」
隼人はどうしようか。あいつは自身の調整で精一杯だろう。あいつにはひとまず黙っておくか。
誠也は三度ドアに向かう。しかし、
「離してくれ」
今度は手を掴まれ、三度止められた。その手から、熱を感じる。やはり、熱い。
「お願い。絵里たちには言わないで」
「悪いが、できない相談だな。話し合いは内部でやってくれ」
口ではばっさり切り捨てる断りの言葉。それでも、掴まれたその手を振り払うことができていない。そこに誠也の迷いが現れていた。絵里に言えば、中止は間違いないと、誠也も理解しているのだ。
「お願い」
亜子の思いは、おそらく真剣そのもの。最終的な判断は絵里に任せると言いつつ、絵里に言うことですべてが決まってしまう。誠也が絵里に伝えてしまえば、おそらく亜子の思いは届かない。亜子の気持ちを生かすも殺すも誠也次第というわけなのだ。
とはいえ、亜子に無理をさせることはできない。亜子は大丈夫だというが、それが本当である確証はない。実は見た目以上に無理している可能性もある。ただの風邪だと甘く見るのは妥当ではない。それに、本当にただの風邪だという保証もない。これがインフルエンザだったら?それともウィルス性の病気だったら?感染する病気だったら?誠也や絵里たちはおろか、会場に来た全員に感染する可能性もある。誠也には重すぎる責任だ。しかし、安易な判断でファンクラブが崩壊したら、そちらも誠也には重すぎる。どちらも負うことはできない。どう考えても誠也は正しい判断が下せないのだ。
ただ、この間にも時間は刻一刻と過ぎていく。どうすればいいのだろうか。何が、正しい判断なのだろうか。
「ぷっ」
誠也が頭を悩ませていると、目の前から吹き出すような音。
「は?」
「あんた、どれだけ悩んでいるのよ」
亜子が笑っていた。こちらの気も知らないで、いい気なもんだ。
「悪かったな」
「いや、悪くないけど。それより、あたしが今何を考えているか、分かる?」
分かるわけがなかった。
「答えは、『あと一押しで押し切れる』でした」
このタイミングで笑顔になる亜子。誠也は亜子が何を言っているのか理解できなかった。
「あたしは大丈夫。これは強がりじゃない」
「それが信じられないんだ」
「笹原が、真剣に考えてくれているのは伝わった。だからあたしも嘘はつかない。本当に大した病気じゃないと思う。病は気からっていうでしょ」
誠也にも理解できた。確かにこれは強がりではないのだろう。それでも、
「まだ症状が出ていないだけかもしれない。これから悪くなるかもしれない。どんな病気か分からないんだ。周りに被害が出るかもしれないことを考えると、OKは出せない」
誠也の言葉は、間違いなく正論だ。ただ、これで引く亜子ではない。
「ほんと、めんどくさい男ね」
「何か言ったか」
「分かったわ。あんたが意地でも告げ口するっていうなら、あたしにも考えがある」
告げ口とはひどい言い草だ。そんなことより、誠也は亜子の行動が気になった。
「おい、何をするつもりだ」
亜子は誠也の腕にしがみつくように、両腕で掴んだ。
「どうしても行くというなら、あたしを振り払ってから行きなさい」
「はぁ?」
亜子は意地でも離さないつもりらしい。腕に力を込める亜子。それでも誠也がその気になれば、簡単に振りほどけるだろう。亜子は女子だし、今は体調不良だ。それほど腕力に自信があるわけでもない誠也だが、これくらいはできる。
できるが、それは可能、というだけだ。実際に行動に移せるか、というと話は別。誠也は腕に力を込める。亜子は振りほどかれまいと、さらに力を入れる。その顔には汗がにじむ。表情には必死さが見える。ここで振り払ったら、亜子は倒れこむだろう。その光景が目に浮かぶ。どう考えても誠也には実現不可能だった。
「分かった。もう中田に言ったりしないから、離してくれ」
「ほんとっ!」
「本当だ」
誠也の言葉を聞いて、亜子は腕を解放する。お互いどちらもほっとした様子を見せる。
「笹原って、本当にお人好しね。簡単だわ」
「前言撤回。今から言いに行こう」
「あ、この卑怯者!」
「嘘だ。とりあえず、座れ。今無理して熱が上がったら、元も子もない」
「誰のせいで興奮したと思っているのよ」
文句を言いながらも、亜子はもといたソファーに戻った。
「今言うつもりはないが、条件がある」
「はぁ?何それ!」
「言っておくが、こっちは最大限譲歩している。これ以上は譲れない」
すでに誠也は譲ってしまっている。これ以上引けない。
「……分かったわよ。その条件って何?」
誠也の覚悟が見えたようで、亜子はしぶしぶ誠也の話を聞く。
「まず一つ。今から一時間ごとに体温を測る。三十八度を超えたら、即刻パーティーは中止。あんたには帰ってもらう」
「そんな条件、飲めるわけないじゃん!」
「でかい声を出すな。当然だろう、そこまで上がったら、大丈夫ではない」
亜子はまだ文句を言いたそうだったが、誠也は無視して進める。
「二つ目。人との接触をなるべく減らせ。まず握手会イベントは、あんたから言って、やめてもらえ。近距離で話すのも、なるべくやめろ。パーティーが始まるまで、マスクをしろ」
「…………」
先ほどと違って、亜子は黙り込んだ。これは飲まざるを得ないだろう。亜子の性格からいって、他人を巻き込むのは極端に嫌がるはず。まして、自分のわがままがきっかけで、他人に病気をうつしてしまったとなっては、悔やんでも悔やみきれないだろう。
「三つ目。今から、俺があんたのサポートに入る」
「え?何それ?」
これは誠也だってやりたくない。しかし、こうでもしないと、とても乗り切れないだろう。
「体調のことで何かあったら俺に言え。体調不良を隠す手伝いをしてやる」
当然絵里や歩美には相談できないだろう。誠也にしかできないはず。
「パーティーの最中も何かあったら、俺を呼べよ。俺はウェイターをやっているはずだから、あんたが呼んでも不自然じゃない」
「それはそうだけど、あんた、まさか着替えを手伝う、とか言うんじゃないでしょうね」
誠也は思わず、ため息をついた。こんな冗談が出てくると思わなかった。それはさておき、
「着替えとかメイクとか気をつけろよ。そこが一番危険だし、俺はフォローできないからな」
「分かっているわよ。間違ってもあんたに頼まないから」
誠也は亜子の顔をじっと見る。先ほどまでとは違って、少し生気が戻った気がする。誠也と話して、少し気が楽になったのかもしれない。精神力でカバーできているうちはまだ安心だ。問題は、精神力が底を尽きた時。
「とりあえず俺は薬を買ってくる。あんた、朝食食べたか?」
「いや、食べてない」
「じゃあそれも一緒に買ってくる。食欲は?」
「一応ある」
「了解」
誠也は今度こそドアに向かう。すると、
「笹原」
声をかけられた。いったいいつになったら、誠也はこの部屋から出れるのだろうか。
「なんだ?」
「ありがとう」
まさか亜子から礼を言われると思わなかった。
「あんた、熱でもあるのか?」
「あるわよ。じゃなきゃ、こんなこと言わないから」
間違いないね。
「礼を言うくらいなら、前言撤回して、中止にしてくれ」
「それは無理。嫌味言ってないで、さっさと行ってきなさい」
誰が制止をかけたんだよ、とは言わなかった。片手をあげて返事をし、今度こそ部屋を後にした。
控室を出ると、すぐに絵里と歩美に会った。間一髪だったようだな。誠也としては、タイミングがいいのか悪いのか、悩ましいところだ。
「あれ、笹原どこか行くの?」
「ちょっと買い物だ。何か買うものあるか?」
「うーん、特にない」
そうか、と言って、誠也は足早に会場を出た。時計を確認すると、八時半過ぎ。はたして、開いている薬局が近くにあるだろうか。誠也はケータイを取り出した。