第五話
翌日。誠也は少し早い時間に登校していた。学校の最寄り駅に着いたとき、見知った顔に出くわした。琴吹亜子である。
初めて会ったときは、とんでもなく常識はずれな女がいたもんだ、と思った誠也だったが、最近ではそんな感覚は薄れてきている。嫌々とはいえ、それなりに同じ時間を過ごしただけのことはある。
とんでもないやつだが、悪いやつではない。一応相手を思う気持ちもあるし、気遣いもできる。悪いと思ったら謝るし、素直ではないが礼も言う。考えてみれば当然のことだが、それでも誠也は少しずつ亜子のことを見直していた。
と同時に、誠也にはある種の不安が頭をよぎっていた。
「あ、笹原」
考え事に没頭していたら、亜子から声をかけられた。これも出会った時からは想像もできないようなことである。
「何、眉間にしわ寄せてんのよ。考え事?」
「まあな」
「ふーん。何か似合わないわね」
「ほっとけ。これでも俺は苦労人なんだよ」
「あ、そう」
全く友好的ではない挨拶を終えると、誠也と亜子は連れ立って学校に向かう。
「ってことは、あんた、」
「あ?」
「何か悩んでいるってこと?」
悩んでいる、といえばそうなるのかもしれない。
「そうなるな」
「あたしでよければ、相談に乗るけど」
「は?」
驚天動地である。まさか、あの琴吹亜子からこのような言葉が、しかも誠也相手に聞けるとは思いもよらなかった。
「正気か?」
「何よ、その言い草は。あたしだって別にあんたの悩みなんて興味ないわよ。でも、一応あんたには借りがあるし、最近はファンクラブの手伝いもしてもらっているから」
借り、とは携帯電話の件だろうか。そういえばそんなこともあったな。誠也は忘れていたのだが、亜子は覚えていたようだ。意外と義理堅いのかもしれない。いや、ただ他人に借りを作りたくないだけかもしれないな。
「相談に乗る、と言われてもな」
それは間違っても亜子には相談できない悩みだ。とりあえず、隼人と話をつけてから、絵里や歩美を巻き込むのが適当だろう。
「あたしじゃ役者が不足しているっていうわけ?」
「不足している、とは言わないが、不適当だな」
「…………」
そもそも誠也は他人に悩みを打ち明けようとは思わない。今回の件は、主に隼人の悩みだ。これが誠也自身の悩みだったら、おそらく誰にも相談しないだろう。亜子だろうと、隼人だろうと、断っていたに違いない。なので、亜子がどうとか、そういう問題ではないのだが、断られたほうはそうは思わないだろう。
「悪いな。せっかく気を遣ってもらったのに、応えられてなくて」
「別に気を遣ったわけじゃないわよ。あんたに恩を売ろうと思っただけ」
「気持ちだけ受け取っておく」
「止めてよ、気持ち悪い」
前言撤回。謝ったこっちがバカみたいだ。
「あんた、本当にいい性格しているよな」
「それはどうもありがと」
「言っておくが、誉めていないぞ」
「分かっているわよ。あんたも相当いい性格しているわ」
「そいつはどーも」
適当に会話を紡ぎながら、一路学校を目指した。
校門を通り抜け、昇降口に向かう。そこで、誠也は違和感を覚えた。
何か、視線が集中しているような……。
以前も同じようなことがあった。確か、あの時も昇降口で……。
「ねえ、何かざわついてない?」
そういえば、その時も隣に亜子がいた。ということは、つまり、
「おい、ファンクラブの連中いたか?」
「え?分かんない」
おそらく、注目を集めているのは亜子。そして、周囲がざわついているのは、あの琴吹亜子が男子と一緒に登校している、という事実。
誠也は頭を抱えた。考えてはいたことだが、どこかで後回しにしてしまった。昨日のコンビニでも何かを感じたが、その違和感の正体はこれで間違いないだろう。曰く、誠也は今、多くの生徒から誤解を受けているらしいということ。
「何、どうかしたの?」
事の重大さを理解していない亜子。自分のことだ、いくらファンクラブがあるとはいえ、そこまで自覚するのは難しい。しかし、この自覚のなさは、勘弁してもらいたかった。
「あんたと一緒に行動するのは、リスクが高いな」
「は?どういうこと?」
今後、二人で行動するのは避けるとしよう。とはいえ、今日は偶然なのだが。それでもこれ以上噂の種になってしまうのは、いささか問題がある。本音を言えば、その他大勢の生徒の噂など、とるに足らない。噂に巻き込まれるのは面倒だが、無視を決め込めばそれほどの被害はあるまい。ただ、一人だけ、誠也と大いにかかわっているやつが、この噂に関して誤解するのはいただけない。
「説明することが増えてしまったな」
やれやれ、とため息をつく誠也。すっかり無視されて、亜子の機嫌を損ねてしまっていることに気づいていなかった。
「亜子ちゃん、何か不機嫌だね」
教室にたどり着いたとき、真っ先に歩美に話しかけられた。
「そう見える?」
「うん。とーっても」
何を隠そう、亜子は不機嫌だった。いや、不機嫌と呼べる感情ではない。不快、でもなく、単純に気持ちが悪いだけだ。
「朝っぱらから嫌な出来事があって。あー、いや、嫌っていうか訳が分からない、って感じかな」
「ふーん」
「それって、笹原がらみ?」
席に着くと、今度は絵里が会話に参加してくる。相変わらず勘が鋭い。
「何でそう思うわけ?」
「あんた、相変わらず自覚が足りないよ。琴吹亜子は、うちの学校の有名人なの。あんたの噂を集めるの簡単なんだから」
「噂、ね」
さしずめ、男子と一緒に登校してきた、とかそういうことだろうか。何でそんなことで一々噂されなきゃいけないんだか。
「あ、」
と思って、そこで閃く。今朝の昇降口でのざわめき、もしかしてそれが原因なのか?
「その噂の出所って、うちのファンクラブ?」
「いやぁ、違うね。一般生徒の噂だよ」
ひとまず安心。ファンクラブの噂イコール、クレームと言える。亜子に単独で近づく男子生徒は、それだけでクレーム対象なのだ。
「なるほど、不用意に声もかけられないわけね」
ただ見かけたから、挨拶をしただけ。それ以上の理由はないのだが、理由なんてどうでもいいのだろう。亜子が男子生徒と登校した。それだけが全てなのだ。
「ま、普通の男子なら、何の問題もなかったんだろうけど」
「何それ?」
「相手が悪かったね。あー、よかったのかな?」
どっちでもいいけど、笹原誠也がどうかしたのだろうか。あいつは普通の男子じゃないのか?
「だから、どういうこと?」
「リアルってことだよ」
答えてもらってもよく分からない。
「はっきり言って、全く分からないんだけど」
「噛み砕いていうと、琴吹亜子と普通の男子が一緒に登校しても、それは姫と従者にしか見えないわけ」
「はあ……」
「でも、」
「それが亜子ちゃんと笹原君になると、お姫様と王子様になっちゃうわけ!」
「はあ?」
「つまり、お似合いってこと。付き合っていても不思議じゃない。だから、噂に信憑性が増すわけよ」
誠也と亜子がお似合い?周りから見ると、そう感じるのか。正直自分では納得しがたいところではあるけど、二人が言うならそういうことなのだろう。
「なるほどね……」
以前絵里と歩美が言っていたが、笹原誠也という人物は、それなりに有名人らしい。お互い、有名人だという自覚が乏しいのが災いしているということだ。
「ところで、」
話題を変える絵里。
「ん、何?」
「さっきの話の中で、気になるワードがあったんだけど」
「何それ?」
「今日、亜子から笹原に声をかけたの?」
あ、と思う。余計なことを口走ってしまったようだ。そもそも二人に向かっていったわけではなく、ただの独り言だったのだが、ばっちり聞かれていたようだ。
「まあね。ちょうど駅で見かけて。別に声かける必要なかったけど、ファンクラブのこともあるし、今以上に気まずくなったらやりづらいと思ってね」
「ふーん」
にやにやと、嫌な笑みを浮かべる絵里。これは本心なのだが、もしかしたら言い訳にしか聞こえないかもしれない。
「何よ、言っとくけど、事実だから」
「別に信じない、なんて言ってないでしょ」
「ふーん。ならいいけど」
「でも、亜子ちゃん、たとえ本当にそう思っていたとしても、今までなら話しかけなかったと思うな」
「うっ」
痛いところを突かれた。歩美は見かけによらず、結構毒を吐くし、図星をついてきたりする。
「別に隠すことでも悪いことでもないと思うよ。亜子ちゃんにとって、笹原君は話しかけやすいってことだよね」
「そう、なのかな……」
認めたくない、という気持ちもある。からかわれるから言いたくなかった気持ちもある。だがそれ以上に、亜子自身がこの気持ちについて整理しきれていないのだ。笹原誠也という人間に対して、自分はどういう風に思っているのか、分析できていないのだ。
友人と呼ぶほど仲良くない。ただ、話しかけることはできるし、会話することは無難にできる。
まあそれはさておき。
「一応対策は立てておく必要があるな」
警戒するに越したことはない。誠也だって、おそらく気づいていると思うし、協力してくれるだろう。ただ、誤解のないようにしないと。
誠也が教室に着くと、一瞬ざわめいた。思わずため息。しかし、琴吹亜子の影響力というものは凄まじいものがある。この短時間で、これだけ噂が蔓延しているのだ。ひとえに亜子の影響力のせいだろう。
「おい、誠也」
焦った様子で話しかけてきたのは、もちろん隼人だ。
「お前、亜子ちゃんと一緒に登校してきたんだって?」
前回は隼人の耳に届かなかったようだが、今回はそうもいかなかったようだ。
「ああ。と言っても、駅でたまたま会ったからここまで来ただけだ。別に逢引したわけじゃない」
「まあそうだと思っていたけど」
と言いつつ、言葉ははっきりしない。ここ最近、誠也は亜子との行動が増えている。それを鑑みて、いろいろ邪推しているに違いない。誰に誤解されても別に構わないが、隼人に誤解されるのだけは勘弁願いたかった。
「ここではっきりさせておくが、俺はあのじゃじゃ馬のことを何とも思っていない。今だってお前がわがまま言うから付き合ってやっているだけだ。何なら、今ここで辞表を出してやっても構わないぞ」
「そ、そうだよな。分かっているよ、誠也。だからそんなことを言うな。俺にはお前が必要なんだよ」
気持ちの悪いことを言う。だが、これで誠也の誠意は伝わったはずだ。ひとまず誤解は解けたと考えていいだろう。ただ、それは現時点の話だ。これから同じような状況が続けば、再び誤解が生じる可能性もある。今の時点では誠也に対する信頼だけが支えだ。これでは心もとない。隼人に今以上の誠意を示すためにも、他に手を講じる必要がある。
となると、誠也一人ではできない。これは亜子と口裏を合わせなければならないのだが……。
「あ?」
突然スラックスのポケットで携帯電話が振動した。メールを受信したらしい。送信者を確認すると、そこには『琴吹亜子』と書いてあった。
「考えることは同じなようだな」
中を開くと、こんなことが書いてあった。
『しばらく二人で会うのは控えたほうがいいかも』
確かに。それが一番簡単で効果的な手段かもしれないな。誠也はこの考えに、素直に賛成した。しかし、この言い回し、いまいちしっくりこないな。というか、これではさらに誤解を生むような気がする。曰く、
『これだとちょくちょく二人で逢引していたような雰囲気があるぞ』
亜子に向けて送信すると、返事はすぐに返ってきた。
『変なこと言わないで。言っとくけど、あんたにも非があるんだからね』
いったい誠也に何の非があるというのか。悪いのは全て亜子の有名具合によるものだと思うのだが。ま、これ以上言い返しても無駄だと思うので、返事を出すのは止めておいた。あとはファンクラブ主催のパーティーを無難にこなせば、誠也にも再び平穏が訪れる。あともう少しの辛抱だと、誠也は自分に言い聞かせた。