第十九話
放課後になると、亜子は誠也を探すために、荷物をまとめて教室を後にした。とりあえず誠也のクラスに立ち寄った。だがもうそこに誠也はいなかった。どうやら一足遅かったようだ。
教室には隼人がいた。誠也の行き先に心当たりがあるかもしれない。
「よう」
「あ、亜子ちゃん」
適当に挨拶を交わすと、さっそく質問。
「えっと、笹原は?」
「誠也はもう帰ったよ。何か用事だった?」
やはりすでに下校していたようだ。一応用事らしきものがあったのだが、亜子自身それほど重要視していない。
「いや、大した用事じゃないから。ありがと」
隼人に礼を言って学校を後にした。
まっすぐ家には帰らず、その足で先日のイベント会場に向かった。すでに事情は説明していたし、昨日のうちに訪問することは連絡していたので、用事はすんなり終わった。
展示は一週間である。会場のスタッフたちには迷惑をかけることになるので、一応一言言って頭を下げた。みんな心の広い人たちばかりで、不満や不服な様子を見せる人はおらず、むしろ芸能人のファンクラブ関係者になったみたいで少し楽しいなどと、無邪気な感想を抱いていた。そう言ってくれるとこちらも気が楽だった。
展示から注文の流れ、最終日の対応など簡単に話して、会場を後にした。その後、絵里に連絡を入れ、予定通り明日から展示が開始される旨、報告を入れた。
イベントは問題なく終了した。しかし、この写真展示までが一連の流れである。これが無事に終われば、しばらくファンクラブ絡みのイベントはやらなくて済む。絵里と歩美には悪いが、正直気の進むような作業ではない。迷惑かけていることは承知しているし、ファンクラブがあることで、亜子もいくらか救われているので文句もない。ただ、全く不満がないかというと、やはりそんなことはないのだ。ファンクラブによるストレスは確かに存在している。しかもそのストレスを話すことができる相手がいないのだ。
イベント会場からの帰路、そのまままっすぐ帰宅しようかと思ったのだが、そんな気分ではなかったので少しだけ寄り道をすることにした。
最寄り駅の駅ビルにやってきたのだが、特別買いたいものもなかったので、とりあえずウィンドウショッピングをして適当に時間をつぶしていた。
駅ビルに来て一時間が経過した。特にしたいことがあったわけではなかったので、そろそろ飽きてきた。帰ってやりたいことがないのだが、そろそろ帰宅しようか。一階まで降りてきたところで、入り口付近にある全国チェーンの喫茶店で、とある人物に目が留まった。
「あ、」
店の外から見える場所に、誠也がいた。どうやら一人でいるらしい。すっかり諦めていた亜子だったが、絵里たちから言われていた約束を果たすべく、誠也のもとに向かった。
「よっ」
軽い調子で声をかける。誠也が視線を上げる。そして、
「何だ、あんたか」
興味なさそうに、再び視線を下げた。
「何だ、とは何よ。失礼ね」
誠也の許可を取らずに正面に座った。四人席のテーブルについている誠也は、どうやら勉強をしていたようだ。
「何のようだ?」
誠也には珍しく、若干いらいらした様子。どうやら機嫌が悪いらしい。手に持っていたシャーペンをテーブルの上に転がし、教科書を閉じた。
「まぁそれほど重要な用事ってわけじゃないんだけど、」
あからさまに不機嫌な様子の誠也に、若干勢いをなくす。興味なさそうなのも面倒くさそうなのもいつものことだが、こんなふうにいら立っている誠也を見るのは初めてに近い。
「今日昼に絵里たちに話したんだって?」
「ああ、早い方がいいと思ってな」
「何か言われた?」
聞くと、不機嫌な雰囲気が一気に霧散。何やら困った様子に早変わりした。
「あぁ、改めてメンバーにならないかって言われた」
「へえ」
亜子の耳にはすでに入っている情報だ。しかし、誠也本人から聞くのでは、また違った趣がある。
「もしかして、ちょっと迷った?」
誠也の口調、表情には若干の戸惑いが見える。絵里たちと話した時のことを思い出していたのだろう。思わぬことを言われて、意表を突かれたのだろう。今まで見たことない様子である。しかし、
「迷いはしない。驚いただけだ」
「ちょっとは嬉しかったんじゃないの?」
「いや」
誠也が揺らいだのはほんの一瞬のことだった。すぐさまいつもの無表情、無感動に戻ってしまった。普段見ない誠也を見て、なぜだか気持ちが高揚した亜子だったが、この急変ぶりに落胆した。
「何だ、つまらないの」
「悪かったな」
ちっとも悪く思っていない雰囲気で呟くと、アイスコーヒーを一口すすった。何を言っても動揺しない。ある意味ロボットのように冷静なこの男を少しでも動揺させた絵里たちは、なかなかやるのではないか。少なくとも亜子には達成できない偉業である。
「話を戻すが、」
相変わらず自分のペースを崩さない誠也。
「何のようだ?すでに下校している俺を探してまで来たんだ、それなりの用事があるんだろ」
そう言われると、無性に否定したくなる。確かに誠也を探して誠也のクラスに行きはしたが、探していたのはその瞬間だけだ。ここで誠也に会ったのは、偶然の産物である。
「何か特別な用事を期待したならお生憎様。大した用事じゃないよ」
「何だ?」
「さっきの続き。絵里と歩美はあんたに残ってもらいたいんだって」
その理由は非常に曖昧なので、黙っておく。
「それで、あんたを説得してくれって頼まれたの」
「言っておくが、俺は何を言われても残らないぞ」
「いいんじゃない、それで」
「……はぁ?」
あからさまに表情を崩し、呆れたような声を出した。どうやら亜子も意表をつけたようだ。
「あんた、俺を説得しに来たんじゃないのか?」
「あたしは説得を頼まれただけ。説得するつもりなんて、端からないよ」
「じゃあ何しに来たんだ」
「ま、形だけ説得しに、ね。一応頼まれたし」
誠也は大きくため息を吐き、失笑した。笑われたことに対して多少苛立ちを感じたものの、そのことに対して殊更文句を言うつもりはなかった。なぜなら、失笑した誠也が本当
に楽しそうにしていたからだ。
「友人の頼みなんだろ。ちゃんとやらなくていいのか?」
「あたしはできないと分かっていることに時間をかけるほどバカじゃないの。それとも、全力で説得してほしいの?」
「いや、それは謹んで遠慮する。あんたの言うとおり、時間と労力の無駄だ。お互いにな」
何がそんなに楽しいのか、誠也は終始穏やかな笑みを浮かべていた。かつて見たことないような穏やかな様子の誠也につられるように、亜子も自然と笑顔になっていた。
「琴吹って、本当いい性格しているよな」
「そりゃどうも」
「言っておくが、」
「誉めてないんでしょ。分かっているわよ」
皮肉の言い合いに聞こえるかもしれない。それでも、亜子は嫌な気持ちにならなかった。なぜだか古くから付き合いのある友人と話しているような、そんな楽しい会話だった。
「悪かったわね。勉強の邪魔して」
「気にするな。集中力が切れかけていたところだ」
言われてみれば、亜子がここにやってきたとき、誠也はとても集中していたように見えなかった。
ここで今朝の会話を思い出す。そういえば絵里たちが何やら話していた。誠也は勉強ができるのだろうか。絵里たちは勉強できそうと予想していたのだが。
「あんた、勉強できるの?」
「別に普通だ」
この答では実際のところが分かりかねる。
「今何やっているの?」
「数学だ」
誠也は苦虫を噛み潰したような表情をした。言葉もどこか吐き捨てるような雰囲気を感じた。そこで思い出す。亜子が誠也を発見し声をかけたとき、誠也は不機嫌な様子だった。そして、集中力が切れかけていた、という誠也の言葉。もしかして、
「あんた、数学苦手なの?」
一瞬黙り込んだ誠也は、
「……別に」
さらに一ダースほどまとめて苦虫を噛み潰したような顔をした。何とまあ分かりやすいことだろう。そんな誠也に、今度は亜子が失笑した。
「あんたって、図星つかれると誤魔化せないよね。嘘がつけないタイプ?」
亜子が楽しそうに言うと、誠也は気まずそうに再びコーヒーに口をつけた。誤魔化しているつもりだろうか。それとも流そうとしているのだろうか。どちらにしても逃がすつもりはない。
「なるほどねぁ。笹原は数学が苦手なのかぁ」
亜子が詰め寄ると、観念したようにため息を吐く。
「苦手で悪いか」
「別に悪いなんて言ってないよ」
「じゃあその態度は何なんだよ」
「そう噛み付いてくるなよ。大人げないぞ」
「確か、同い年だったよな」
「言葉の綾だよ」
いつもあまり感情を表に出さない誠也だが、今のような状況だととても分かりやすくなる。つまり、機嫌が悪い時だ。こうして感情が露わになると、どうしてもからかいたくなってしまう。
「何ならあたしが教えてあげようか」
「断る」
「何でよ、遠慮すんなって」
「えらく楽しそうだな」
「そんなことないよ、真剣」
「………………」
頑なに態度を崩さない誠也。からかわれると思っているのだろうか。確かに面白そうだと思っている自分がいるので、それは否定できない。ただ、それ以上に誠也には壁を感じる。亜子とは一定の距離を取ろうとしているような気がするのだ。それは何度か噂になったからだろうか。
「他人の心配より、自分の心配したらどうなんだ?」
「え?あぁ勉強のこと?あたしはまだやんないよ」
誠也としてはどうしても亜子に教えてもらうつもりはないらしい。ここまで拒否されると、亜子としてもムキになってしまう。
「うだうだ言ってないで、とりあえずあたしに教わりなさいよ。からかわないで、ちゃんとやるから」
「俺はそういうことを言っているわけじゃないんだが……」
「じゃあ何が問題なのよ」
半ば詰問するように問いかけると、
「……………」
誠也は黙り込んでしまった。おそらく何か理由はあるのだろう。でもそれを亜子に言うことができない。そんな雰囲気を感じる。何となくだが、それは亜子に対する距離感と直結する問題のように感じた。
「大丈夫よ。ここはうちの学校から距離あるし、誰も来ないから」
亜子が想像できる中で一番可能性の高いものを選らんで、口に出してみる。すると、
「本当か?現にあんたがここに来ているじゃないか」
おそらくビンゴだった。
「あたしはたまたま。近くで用事があったから」
「そんなやつたくさんいる気がするが」
「ちっちゃいことばっかり気にするなよ」
「俺にとっては小さいことじゃない」
亜子も多少は気になる。ファンクラブを抱えている身だし、それを抜きにしても事実じゃないことを事実のように噂されるのは、確かに気持ちのいいことじゃない。それを考慮しても、確実に亜子より気にしているだろう。ひょっとして、
「ひょっとしてあんた、あたしのこと嫌い?」
「…………」
亜子は、誠也との噂を気にしてはいるが、そこまで意識していない。ではその相手がもし、嫌いで嫌いで仕方ない相手だったらどうだろうか。おそらく声を荒らげて拒絶するだろう。そんなわけないと。あり得ないと。
今の誠也が、そんな心境だったら。そう考えると、少し理解できる。そして、もし本当に誠也が亜子のことを嫌いだったら。
戦々恐々として返事を待つ亜子だったが、
「…………」
誠也は黙ってため息を吐いた。そして、
「嫌いじゃない」
自分から問いかけといて、この答にはほっとした。
「本当でしょうね」
「嘘」
「えっ?」
その分この返しには必要以上に驚いてしまった。
「あんたなぁ、どんな返答を期待してんだよ」
誠也は呆れた様子で口を開いた。確かに直接本人に向かって『嫌い』とは言いづらいだろう。誠也なら言いそうではあるのだが。
イエスと言われてもノーと言われても、本当かどうか聞き返してしまう。誠也の言うとおり、亜子はどんな返答を期待して質問したのだろうか。
「で、どうなのよ。本音で言いなさいよ」
とはいえ、ここで取り下げることはできない。亜子が再び返事を促すと、誠也はもう一つため息を吐き、
「分かった」
「分かった、て何が?」
「俺に勉強を教えてくれ」
どうやらお手上げの様子。そっちの方向に根を上げたようだ。
「あたしの質問には答えないわけ?」
「問題の根本を解決したんだ。問題ないだろ」
「何か納得いかないんだけど」
「俺も不本意だが、背に腹は代えられん」
お互い納得いかない状態で勉強会をしなければいけないのはなぜだろうか。
「あんた、それ教わる側の態度?」
「俺は頼んでない」
言われてみればそうだ。このままでは何だが妙なテンションになってきそうなので、さっそく始めてみることにする。
「で、今何やってんの?」
教科書を開き、内容を確認する。その後、よくある形だけの勉強会とは違って、がっつり二時間勉強した。誠也は苦手だと公言していたものの、基礎は理解していたため、勉強はどんどんはかどった。
「あんた、時間はいいのか?」
「あぁ、もうこんな時間か……。じゃあ今日はこれくらいにしておくか」
「今日は、って……。まあいいや、とりあえず助かった。一応礼は言っておくよ」
始めた当初こそ、不本意そうな雰囲気を引きづってはいたが、亜子の講義そのものはきちんと聞いていた。生徒として模範的な態度だった。
「中途半端な礼ね。ま、あたしも一応受け取っておくわ。これで一つ借りを返せたわね」
「おいおい、押し売りみたいに始めたこの勉強会で、借りを返したことになるのか?」
「何よ、文句あるの?」
これは意外に思えた。貸し借りに関しては、誠也は基本的に無関心だった。そんな誠也が貸し借りの基準に文句をつけてくるとは思わなかったのだ。
「いや文句はないが、ずいぶん適当だな」
「足りないっていうの?じゃあテストの結果が出たらでいいよ。数学の点数伸びたら借金一つ返済ってことで」
「はいはい。お好きにどうぞ。俺としてはさっさと返済してもらいたいんだが」
「そういうなら、そっちからあたしに何か頼みなさいよ」
誠也はテーブルの上を片付けて立ち上がる。
「遠慮する。そもそも貸し借りの話をするのはあんただけだ。とはいえ、俺とあんたの関係を一番正確に表現すると、それだけっていうのは間違ってないが」
その言葉を聞いて、亜子は一瞬固まった。それはつまり、誠也はさっさと亜子と無関係になりたがっているということだろうか。
「ま、俺個人的にはそれだけじゃないんだけど」
亜子の頭が誠也の発言を正しく分析する前に、誠也が独り言をつぶやく。それもまた、亜子が理解できないつぶやきだった。
「おい、大丈夫か?帰るぞ」
誠也はトレーを持ちあげた。
「あぁ、うん」
そして、亜子の気持ちが落ち着く前に、二人は解散した。