第十七話
翌朝。亜子は目が覚めた瞬間に、しまった、と思った。次の瞬間に飛び起きると、枕元に置いてある時計を見た。時刻は、
「ご、五時半……」
普段の起床時刻より一時間以上早かった。ずいぶん寝た気がしたのだが、どうやら睡眠時間の問題ではなかったようだ。
「…………」
まだまだ眠ることができる時間帯だ。だが、せっかく自然に目を覚ましたので、そのまま起きることにする。ベッドから這い出てから、大きく一伸び。そこで思い出す。そういえば熱はどうだろうか。
昨日絵里たちと別れを告げたあと、タクシーで家に帰り、そのままベッドに倒れこんでしまった。そして、次に目が覚めたのは、午後九時半。軽く食事をとり、体に負担がかからない程度に風呂に入ると、またしてもベッドに直行し泥のように眠ってしまった。考えてみれば、よく寝た気がした、というより実際よく寝たのだ。就寝した時間が早かった分、起床時刻が早まった。ただそれだけのことだった。
机の上に置いといた体温計を手に取ると、測ってみる。待つこと数秒。測定完了を告げる電子音が鳴った。果たして、体温はどうだろうか。
「……三十五度六分」
思った以上に下がっていた。寝起きだったことを考慮しても、熱があるとは言えないだろう。亜子の感覚からしても、完治した、と言っていいだろう。
家の人にも黙っていたため、かなり心配された。朝食をとっている最中も、今日は一応大事を取って休んだ方がいいのでは、と言われたが、亜子としては完治したと自信をもって言えるだけの体調に回復したと思っているので、丁重に断った。昨日の今日で休んでしまうと、せっかく大成功で終わったのに、絵里たちにいらぬ心配をかけてしまいそうだし、とりあえず今日は行くべきだ。
それでも万全を期するために暖かい恰好をして、急がないでいいように少し早めに出た。
なぜだか、久しぶりに外に出た気がする。昨日も一日中外にいたのだが、なぜそんな感覚になるのだろうか。起きたときも思ったのだが、おそらく眠りすぎたのだろう。それも、尋常じゃなく深い眠りについてしまったため、目覚めて行動するのが久しぶりだと感じてしまっているのではないか。
いろいろ考えることがあったが、玄関を出て一人になると、思考が一つの物事に固定されてしまう。
誠也とどう接したらいいのだろうか。
何も意識する必要はないはず。ただ、冷静になって考えてみると、昨日は誠也に甘え過ぎた。そもそもそんなに仲良くない。まともに話したことすら数えるくらいしかない。最近は増えていたし、二人きりでいる時間も長かった。でも、お互いのスタンスに変化はなかった。
なのに、なのにだ。昨日はなぜあそこまで誠也を頼ってしまったのだろうか。答えは簡単だ。風邪をひいていたからだ。熱が三十八度くらいあったからだ。なのに昨日はファンクラブのイベントで、重要な日で、休みたくても休めない状況だったからだ。
言い訳は完璧だ。誰が聞いても納得してくれるだろう。納得してくれないまでも、しょうがない状況だということは理解してくれるだろう。誰に話しても、特に深く追求してこないだろう。その場限りで終わる話。後を引かない話。
それでも納得いかない。誰が納得しようと、亜子自身が納得いかない。この『しょうがない状況』というのも納得いかない。何でこんなことになってしまったのか。誠也には名瀬けないところばかりを見られている気がする。しかも、誠也はそれを何でもないことのように思っていて、何も言ってこないのが、さらにいらだちを募らせる。そもそも、誠也が協力的なのがいけないのだ。何度も言っているが、誠也と亜子は大した仲じゃない。誠也自身は面倒くさがりを自称している。にもかかわらず、なぜあそこまで亜子に協力的だったのだろうか。本気で嫌なら、本気で断ればよかったのだ。そうすれば亜子もここまで甘えたりしなかっただろう。
「…………」
何を言い訳してもむなしいだけだ。とにかく昨日のことは忘れて、いや忘れるわけにはいかない。今度のことも『借り』として、返さなければならないのだ。そうだ、いずれ返すものだ。あまり気を病むことはない。気にせず、普通に接すればいいのだ。そうなのだ。
「よっ!」
ようやく自分の気持ちがまとまったところ、後ろから声をかけられる。
「ひぇっ!」
驚きすぎて変な声が出た。
「お、驚かさないでよ!」
「何、そのリアクション。こっちがびっくりするんだけど」
声をかけてきたのは、絵里だった。絵里は家が割と近い。登校中に出会うことは、割とよくあることだ。今迄もあったのだが、今日はいつもと違った。
「あぁ、ごめん。ちょっと考え事してたから」
「いったい何を考えていたんだか」
よく考えてみれば、声をかけてきたのが絵里でよかった。この相手が誠也だったら、本当にパニックに陥っていただろう。誠也が声をかけてくるかどうかは置いといて。
「昨日はお疲れ様。一応成功したってことでいいんだよね?」
「何言ってんのよ。大成功だって。ファンクラブの掲示板見てきたけど、割と好評だったよ」
ファンクラブを設立するにあたって、前々からホームページを作っていた。そこには会員同士がいろいろ交流するための掲示板があって、絵里が言っているのはそのことである、
「あぁ、そっか。そりゃよかった」
「でも握手がなくなったのはちょっと不満だったみたいだね」
「そっか。ごめんね、あたしのわがままのせいで」
「ま、それはファンの人たちに言って。あたしはどっちでもいいしね」
絵里はそう言ってくれるが、亜子のファンクラブのことで一番頭を悩ませているのは絵里と歩美である。その二人のおかげでここまでまともな形を保っているのだ。
「でさ、最後に撮った写真の配布方法だけど、どうする?」
「それなら、昨日の会場に頼んどいたよ。データだけ渡しといてもらえば、向こうで現像してくれるって」
「おぉ、仕事が早いね」
「まあね。あまり二人に任せっぱなしじゃ悪いし」
「おやおや、あたしたちじゃ信用できないかね?」
「そういう意味じゃないって。分かって言っているでしょ」
「わははは」
会場の人たちには事前に説明しておいた。最後の記念写真以外に、スタッフが会場を回り、何枚か写真を撮ってもらっていた。それらも含めて会場に一週間だけ展示する。その展示期間中に写真を見に行き、気に入った写真の番号を係りの人に注文するのだ。イベントに参加したかどうかは問わないが、ファンクラブ会員のみとしている。一応お金はもらうが、格安にしてある。
「そういえば写真チェックはしたの?」
「それはこれから。今日の昼休みにみんなでやろうよ。そしたら今日中に持っていけるし」
「そうだね」
となると、昼休みには嫌でも誠也と顔を合わせることになる。
「あ」
いや、誠也はファンクラブの関係者ではなくなったのだ。おそらくまだ絵里たちに報告してはいないが、昼休み誘いに行ったときにでも言うことになると思う。写真チェックには付き合わないだろう。
「どうかした?」
「いや、何でもない」
「ふーん。ま、楽しみにしててよ。いい写真結構あったよ。そうだっ!」
「え、何?」
「是非とも亜子に見せたい写真があったんだ。これはファンの皆には見せられないけどね」
「何それ、どんな写真?」
「それは見てのお楽しみ。よく撮れてたよ」
何だか不安になった。誠也のことも含めて、昼休みは憂鬱な時間になりそうだ。
亜子にとって、誠也は隣の隣のクラスの生徒である。なので、ちょっとしたことで遭遇する可能性があった。何にしても昼休みには顔を合わせることになるのだが、それでも偶然会ってしまうほうが抵抗がある。それに、昼休みで顔を合わせるときは周りにみんながいるが、ばったり会ってしまうと一対一で会話しなければいけない。
会いたくない。会うにしても、一対一は避けたい。なぜか割り切ることができなかった亜子は、午前中悉く絵里や歩美と行動を共にしていた。普段からだいだい一緒にいることが多いが、それでもたまには個人行動をとることはある。
少し、いやかなり気にしていた。それは絵里たちも気になったと思う。それでも何も聞かないでくれたのは、二人の心遣いなのか。
そして、いよいよ昼休み。三人連れだって、隣のクラスに向かう。
「よっ」
「こんにちは」
絵里と歩美が隼人に話しかける。
「どーも」
亜子も辺りを見渡しながら、声をかける。
「あ、昨日はお疲れ。どうしたの、三人そろって」
「あんたもね。昨日の続きで、あんたたちに仕事があるんだけど」
教室内に誠也の姿はない。どこに行ったのか。タイミング悪く席を外しているだけか。それともすでに昼食を摂りに学食にでも向かってしまったのか。
「仕事?」
「そ。で、あんたの相方は?」
「あぁ、誠也なら、」
亜子は、今日誠也を一度も見ていない。それに、亜子はできれば誠也に会いたくなかった。自分の中で、うまく整理できていなかったからだ。亜子がもう少し冷静ならば、この可能性にたどり着くことができていたかもしれない。
「今日は休みだよ」
「え?」
絵里や歩美たちも同様だが、亜子はさらに正確な情報を持っていたのだから。
「休み?笹原、どうかしたの?」
「体調不良。風邪ひいたらしいよ。今朝メールが来た」
「……………」
亜子は今さらながら、自分の間抜けさに気づいた。昨日、誠也は一番近くにいた。一番長く一緒にいた。風邪をひいている自分と一緒にいた誠也がどうなるか。一切考えなかった。ファンクラブの会員たちに移るかもしれない、と考慮して、あまり近寄らないようにした。にもかかわらず、誠也はずっと近くにいた。
「あぁ、そういえば笹原体調悪そうだったもんね」
「そうだね。帰り間際、ソファーで寝ちゃってたもんね」
それもそうだ。イベント終盤から終幕、誠也はやたら疲れた表情をしていた。あげくソファーで眠ってしまっていた。去り際、体調不良と言って打ち上げを拒否していた。あれは断る口実、または亜子が帰りやすくするためのブラフかと思っていた。
なんということだ。一気に体調がよくなったかと思ったら、誠也に移していたのだ。道理で治りが早いわけだ。
本当に自分のことをしか考えていなかった。情けない。あれだけ頼りきりだった誠也の心配など、露ほどもしていなかったのだ。あげく、会いたくない、などと学校にいない相手から逃げ回るなど、愚の骨頂である。
「どうしようか、亜子」
「あ、え、何が?」
「だから、写真のチェック。四人でやる?」
「あぁ、そっか」
「笹原休みみたいだけど、これはやらないといけないし。ここで立ち尽くしててもしょうがないでしょ」
確かに、絵里の言うとおりだ。ここで落ち込んでいてもしょうがない。済んでしまったことだ。悔やんでいても何も変わらない。とりあえずやることをやろう。で、誠也には謝るか何かしよう。
「斉藤は今時間ある?昨日のことで少し手伝ってほしいことがあるんだけど」
「え?あぁ、別に構わないよ」
「じゃあ、とりあえず食堂にでも行こうか」
やらねばならないことを、まずやろう。
写真チェックは順調に進んでいた。写りのいいもの悪いもの、渡せるもの渡せないもの。数は多いが、それほどしっかりした基準はない。あくまで選ぶのは相手だ。相手がほしくなければ買わなければいい。アイドルの写真集と違って、全ての写真を公開する。素人だしクオリティが低くてもさほど問題はない。
「あと何枚くらいあるの?」
「もう半分は過ぎたよ」
さっさと食事を済ませると、亜子たちは仕事に取り掛かっていた。時間にして三十分ほど。それぞれがそれぞれ基準で選び、選定された写真を最終的に亜子がもう一度チェックする。
「そういえば、さっき見せたいものがある、とか言ってなかった?」
「あぁ、そうそう。えーとまだ出てきてないかな?チェックしているうちに誰かが見つけると思ったんだけど……」
どうやら忘れていた様子。だが、その内容は写真。であるならば、忘れていても問題はないか。亜子はさほど興味を持っていなかった。しかし、その写真の内容次第では、表に出してはいけないものもある。一応見ておく必要があるだろう。
「えーっと……」
まだ仕分けられていない写真を次々と見ていく絵里。見つかれば教えてくれるだろうと、自分の作業に戻った瞬間、
「あ、あった!これよ、これ」
わずかに興奮した様子で一枚の写真を取り出す絵里。まず隣にいた歩美が覗き見る。
「どれどれ……。へぇー!すっごくきれい!」
「でしょー!何というか、画になるよね」
「うん。映画のワンシーンみたい!」
いったい何の話だろうか。昨日のイベントで映画のワンシーンになるような場面はなかったはず。
「ちょっと見せて」
「うん」
絵里から写真を受け取る。するとそこには、
「ちょ、こ、これって……」
そこに写っていたのは、亜子と誠也である。何で二人のツーショットがあるのだろうか。いや、まあそれは百歩譲っていいだろう。問題は二人のポーズである。亜子は椅子に座っている。その脇に誠也が片膝をつけてしゃがみこんでいる。そして、誠也は亜子の手を取り、二人は見つめ合っているのだ。
「な、なにこれ!」
と言いつつ、亜子はこの場面をしっかり覚えている。これは手を握ったときに、熱があることがばれてしまわないか、ということを検証しているところだ。お互いの立場を考慮して、誠也がしゃがみこんでいるのだが、それがあたかも王子が姫に求愛している様に見える。今にも誠也が亜子の手の甲に口づけしそうである。いや、このたとえはただ引き合いに出しただけで、特に深い意味はない。
「何これって、こっちのセリフなんだけど」
「二人は何をしていたのかな?」
何をしていたのか、というと、きちんとした理由がある。ただそれを言うわけにはいかない。それに今それを言っても信じてもらえる気がしない。ただの言い訳に聞こえるだろう。何せ亜子はこうして元気に登校していて、誠也は風邪で休んでいるのだから。
「ねえ、俺にも見せて」
亜子の隣から、隼人が静かに口を開いた。
「あぁ、うん。いいけど……」
正直見せたくないが、この場合下手に隠す方がおかしい。絵里や歩美たちには見られてしまっているので、隠す意味もないのだが。
写真を受け取ると、真剣な様子でじっと見つめ、
「確かに、よく撮れているね」
と、一言。すぐに亜子に返した。
「もっかい見せてよ」
今度は絵里が言ったので、素直に渡す。さて、何と言い訳したらいいのだろうか。
「うーん、しかしよく撮れているよねー」
しみじみ呟く絵里。歩美も賛同する。
「うん!すごくきれい。でも、これは見せられないよね」
「これは無理だねぇ……。暴動起きるでしょ。ただでさえ、噂が出ていたんだし」
見せてたまるか、と思う。ここにいる人だけでも恥ずかしいのに、他人に見せるなんて以ての外だ。しかし、何でこんな写真があるのだろうか。
「写真撮ったのって、会場のスタッフさんだよね。何でこんな写真があるのよ」
「さあね。思わず撮っちゃったんじゃない。確かに不要な写真だとは思うけど、」
「うん。でも、思わずシャッターを押したスタッフさんの気持ちも分かるなー」
「だね。まさにシャッターチャンス!って感じ。むしろここを逃す手はないでしょ」
何を言って盛り上がっているのだろうか。スタッフに任せたと言いつつ、絵里や歩美が撮ったのではないだろうか、と妙に勘ぐってしまう亜子の気持ちは分かってもらえるだろう。
「とにかく、それはアウト。対象外にして、写真チェックを続けよう」
「はいはい。しかし、二人はほんとお似合いだな」
呟きながら絵里が公開しない方の写真の山に乗せた。それを見て、すかさず亜子が回収する。
「あ、何で取るのよ」
「これはあたしが預かります」
「何で!」
このまま絵里たちに渡しておくと、いつまでもネタにされそうだ。今は何とか追及を逃れたが、いつ話を蒸し返されるか分かったもんじゃない。いつか過去の話になったとき、笑い話の一環で真実を話すとしよう。
「別にあたしの写真なんだから、あたしが管理したっていいでしょ」
「そりゃそうだけど、ファンクラブの管理はあたしがやってんだよ」
「まあまあ絵里ちゃん。渡してあげなよ」
いい笑顔でなだめる歩美。その笑顔に恐怖を覚えるのはなぜだろうか。
「でも、歩美。あんなに面白いもの逃がす手はないと思うんだけど」
「亜子ちゃんの立場になって考えてみなよ」
お?と亜子は思った。予想に反して、歩美は擁護してくれるのだろうか。
「亜子の立場?どういうこと?」
結果、そんなことはなかった。歩美はああ見えて、絵里以上に人をからかうのが好きな性格をしているのだ。もちろん本当に仲のいい人にしかやらない、好意の裏返しなのだが。
「あれだけよく映っている写真だよ。亜子ちゃんとしては、記念に取っておきたいと思うのは仕方ないよ」
「あぁ、なるほど。言われてみればそうだね」
「ちょっと、何でそんな話になるのよ!」
「じゃあ何で回収するのよ。あとでこっそり見るんでしょ」
「違うわよ。だって二人が持ってたらいつまでもからかうでしょ」
「からかわないよ~。応援するから!」
「言っている意味が分からないわ」
手帳を取り出すとそこに挟み込んでそのままカバンにしまった。
「あ~あ、取られちゃった……」
「ま、どうせデータで持っているし」
「それは言わない約束でしょ……」
その後しばらくこの話題が後を引いたが、やるべきことは昼休み中にしっかりやることができた。
さて、気になるのは誠也のことだが、どうしたものだろうか。