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I'm  作者: 城ノ内 ジョウ
第一章
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第一話

 朝起きると、身体中が悲鳴を上げていた。誠也は舌打ちをした。やっぱりケンカなんてしなければよかった。特に口の中が痛い。物が食べられないし、しゃべるのも億劫になる。牛乳だけ飲むと、今日は少し早めに家を出た。案の定、いつもより時間がかかった。

 教室に行くと、みんな誠也の顔を見た。いったいどんなことを思われているのだろうか。誰も聞いてこなかったことから考えると、おそらくいいイメージはないだろう。あまり喜ばしいことじゃない。

 そこで、自分と同じようなやつを一人発見した。もちろん隼人だ。

「よう。身体の調子はどうだ?」

 誠也が話しかけると、隼人はさび付いたブリキのおもちゃみたいにゆっくり振り向いた。

「おう、絶不調だぜ。お前と似たようなもんだ」

 朝の挨拶よろしく片手を挙げる隼人だったが、その仕草も、ギギギと音が聞こえるようだった。

「しかしひどい顔だな。しばらく俺の目の前に現れないでくれ」

「黙れ、お前も大して変わらないぞ。俺のほうがケンカのあとっぽくてかっこいいぜ。お前のは中途半端すぎる」

 お互い軽いセリフを吐き、笑いあったが、すぐさま黙ってしまった。

「今日はあまりしゃべらないほうがよさそうだな」

「ああ。同感だ」

 そこで話を止め、誠也は自分の席に着いた。笑ったせいで、口の中の傷が広がってしまったような気がした。とりあえず今日は大人しくしていたほうがいいらしい。


 昼休み。亜子が弁当を広げて昼食を取ろうとしていると、歩美が何やらそわそわし始めた。

「どうしたの?ご飯食べないの?」

 亜子が聞くと、

「え?あ、ちょっと…」

 歯切れの悪い言葉が返ってきた。どうかしたのだろうか。何か用事でもあるのか。そう考えていると、絵里が近づいてきて、

「早く行かないと、いなくなっちゃうよ。学食行くかもしれないし」

「え?あ、そうだねっ」

「?」

 絵里は理解できている様子。亜子はまったく解らなかった。

「何?どこか行くの?」

 と、二人に聞くと、

「斉藤のところでしょ?昨日のお礼だって」

 亜子は全く思いつかなかった。そして、歩美は律儀だな、と他人事のように思った。

「そ、そうだ。亜子ちゃんも来ない?一人じゃちょっと…」

「え?何で?」

 思わず聞き返してしまったが、考えてみたら一番迷惑をかけたのは自分だったと、亜子は思い出した。そして当然のように絵里に突っ込まれる。

「何でじゃないでしょ。あんたのせいであいつら巻き込んだんだから。今日あいつら見かけた?」

「いや…」

「顔の傷すごかったよ。特に斉藤はかなりやばかった」

 そこで、ようやく昨日の罪悪感を思い出した。確かに謝りはしたが、結果的に隼人の優しさに甘えてしまったような感じになってしまっていた。一応、もう一度行くべきだろう。謝るか否かは置いといて、怪我の具合だけでも見に行っておこう。

「解った。じゃああたしも行くよ」

「うん」

 そうして、亜子と歩美は二つとなりの隼人のクラスに赴くことにした。



「お前、よく食えるね」

 誠也が自分の席で昼食を取っていると、前の席に隼人がやってきた。どうやら隼人は全く食べる事ができないらしい。

「俺はあまり顔にくらってないからな」

 顔を殴られたのは、数える程度だった。その分、ボディーにダメージが残っている。歩くのはそれなりに大変だった。

「腹減らないのか?」

「減るに決まっているだろう。昨日から水分以外は豆腐とプリンしか食ってない。腹減りまくっているよ」

 隼人は物欲しそうな目で、誠也の弁当を見ていた。

「じろじろ見るなよ。食いにくいだろ」

「いい気味だね。お前も俺に合わせて食うな」

「食いたければ勝手に食え」

「食いたくても食えないんだよ!」

 完全にとばっちりだ。誠也だってそれなりに痛いのを我慢して食べているんだ。自分で食べないことを選択した隼人に、八つ当たりをされるのは少し納得がいかなかった。

「あ、あのー」

 誰かが遠慮がちに声をかけてきた。誠也と隼人は声のするほうへ顔を向ける。するとそこには、

「あ、琴吹さん。と、えーっと、藤堂さん」

 亜子ともう一人、小柄な女子がいた。

「昨日はありがとうございました」

 どうやら、再び昨日の礼を言いに来たらしい。本当に礼儀の知っている女子だ。隣の亜子が黙っているのが気に食わないが。

「それで、お礼にと思って、」

 小柄な女子、藤堂歩美は背中から何か包みを取り出した。察するに何か食べるものを作ってきたようだ。しかし、

「あー、ごめん。俺、今口の中が痛くて、食べ物はちょっと…」

 隼人は案の定、断った。相手の気持ちを少しは考えろ、と誠也は思った。せっかく持ってきてくれたのだ、ちょっとは食べる努力をしろよ。情けなさ過ぎる。しかし、歩美の気遣いの実力はこれからだった。

「そう思ったので、ゼリーを作ってみました。たぶん食べられると思うんですけど…」

 さすがだと思った。

「え、本当?それなら平気かも」

「ど、どうぞ。おいしくなかったら残して下さい」

 遠慮がちに隼人に手渡す歩美。そこで、誠也は若干の違和感を覚えた。もしかして、この藤堂歩美という少女…。

 さっそく中身を出して、歩美が持ってきたスプーンを手に取ると、隼人はゼリーを一口、口の中に放り込んだ。

「ど、どうかな?」

「うん、おいしいよ!」

「ほ、本当?よかったあ」

 隼人の感想を聞き、歩美は嬉しそうにつぶやいた。そして、

「はい。笹原君もどうぞ」

「ああ。どうも」

 おまけのように誠也にもゼリーを手渡した。誠也は先ほどの違和感の正体を掴んだ。間違いない。

「いやー、今腹減って参ってたんだよね。本当にありがとう」

「うん、全然いいですよ。喜んでもらえてよかったです」

 確かに、誠也は外堀から落とせと、隼人にアドバイスしたかもしれない。しかし、これでいいのだろうか。落とせとは言ったが、こんな落とし方は予想外だ。これでは話がややこしくなっていくだけだぞ。

 盛り上がっている二人を前に、空気と化してしまった誠也だったが、幸か不幸か、仲間を見つけてしまった。歩美の後ろで、まだ一言も口を開いていない亜子と目が合った。

「…………」

 今日もどこか不機嫌そうだ。というか何でこいつはここにいるのだろうか。謝りに来たのなら、いの一番に謝るはず。なぜならこいつが事の発端だからだ。

 と、誠也が亜子を見ていると、

「何見てんのよ」

 亜子が低い声で威嚇してきた。

 なぜと問われても、明確な答えを持ち合わせていない誠也は、

「別に」

 と答えるしかなかった。亜子も、

「ふーん」

 と答えるだけだった。要するに二人とも手持ち無沙汰なのだ。お互い居場所がないだけなのだ。まあ誠也は食事中なので、食事を取ればいい。歩美からの誠也に対する挨拶は終わったみたいだし、もう食事を続けてもいいはずだ。しかしそうすると、亜子の居場所が完全に消えてしまう。なぜ、誠也がここまで気を遣わなければいけないのか。そもそも誠也は亜子とあまり関わりたくないのだ。本来なら隼人が相手をしてやるべきだろう。それなのに、隼人は相変わらず歩美と楽しそうに談笑中。そのお陰で、誠也は苦手な亜子に対して、いろいろ気を回さなくてはならなくなってしまっているのだ。

 誠也が何かと戦っていると、

「ねえ」

 亜子が話しかけてきた。

「何だ?」

「あいつ、」

 あいつとは隼人の事だろう。いきなり何を言い出すのかと思えば、

「ひどい顔だね」

 さすがにそりゃないだろうと、誠也は思った。誰のためにあんな顔になったと思っているんだ。しかし、誠也としてもかなり共感できたため、

「確かに」

 と、同意してしまった。

「あれ、痛いのかな?」

「かなり痛いだろうな」

「そっか」

 一体何の会話だろうか。はっきり言って内容がなさ過ぎる。沈黙しているのがつらいから、何でもいいから口にしてみました、という雰囲気丸出しである。

「あんたら、飯食ったの?」

 誠也もどうでもいいことが気になってしまった。隼人たちが無駄に盛り上がってしまっているので、すでに時間が押している。亜子と歩美は昼食をとったのだろうか。

「あー、まだ食べてないや」

「じゃあクラス戻ったら?」

「あー、うん。そうだね」

 適当に返事をした亜子は、クラスに戻ろうと、歩美に声をかけた。どうやらうまく誘導できたみたいだ。

「あの、昨日は本当にありがとうございました」

「うん、こちらこそおいしいものをありがとう」

 最後にそう言って、亜子と歩美は教室から出て行った。ようやく苦痛の時間が終わった。それにしても、盛り上がっていたな。一体何を話していたのだろうか。大好きな亜子を放っておいて。誠也としてはできれば、亜子と話していて欲しかった。

「盛り上がっていたが、何を話していたんだ?」

「ん?亜子ちゃんのこと」

 おいおい。もしかして、亜子の尻拭いをしにきたというのか。どこまでできた少女なんだ。誠也は普通に驚いた。確か、藤堂歩美といったか、あの少女。おそらく亜子が一切何も言わないから見かねてフォローしたということだろう。とにかくいい人みたいだな。

「でも、亜子ちゃんとも話したかったな」

「俺もそうしてもらいたかったね」

「そういえば、亜子ちゃんと何か話した?」

「別に何も」

 そこでチャイムが鳴り響き、昼休みが終わった。



「そういえば亜子ちゃん、笹原君にお礼言えた?」

 放課後に瞬間、歩美が話しかけてきた。

「あー、まだ言ってない」

 言おうと思った。でも、話しかけたところで言い出せなかった。今更という感じもあるし、あの笹原誠也という男、どこか独特の雰囲気がある。せっかく二人で話す機会があったのに。そこで気が付く。

「もしかして、そのために斉藤と話していたの?」

「ま、一応ね」

 全然気が付かなかった。むしろ逆に何で放っておくの、と疑問を持ってしまっていた。亜子は、とても申し訳ない気持ちになった。

「あんた、まだお礼言ってなかったの?情けないなあ」

 二人の会話を聞いて、絵里が入ってきた。

「絵里には関係ないでしょ」

 自分でも情けないと思っていた。でも素直にそう言えなかった。

「いつ言うのよ。もしかして、しないつもり?」

「するよ!もう何も言わないで」

 きっと善意で言ってくれている。でもそれを殊勝な気持ちで受け取れなかった。


 誠也はピンチだった。

 放課後、ホームルームが終わった瞬間、隼人は病院に行くといってさっさと帰宅してしまったため、現在一人帰路に着いていた。

 誠也は隼人と一緒に帰らない日は、結構遅くまで学校に残っている事が多く、図書室で本を読んだり、ボーっとしたりして、時間をつぶしていた。今日も相違なく、放課後ののんびり流れる時間に身を任せていたら、すでに午後六時を回っており、辺りは西日に赤く染まっていた。

 学校を出てしばらく歩いているうちに、いつの間にか日は沈み、すっかり人気も失せていた。

 そして、今。誠也はピンチだった。

「昨日はよくもやってくれたな」

 どうやら待ち伏せられていたようだ。目の前にいるのは昨日のナンパ野郎。それも二人じゃない。五人はいるだろう。こりゃ困ったね。よくある少年誌系のバトル漫画みたいに、五人だろうが、六人だろうが、簡単になぎ倒す。みたいな展開は現実的にはまずない。何とかなるのは二人まで。三人いたら勝てないだろう。そして今は五人。もう逃げ出すしかない。しかし、足に蓄積したダメージが逃げ出すことすらままならないような雰囲気をかもし出していた。

 誠也は小さく舌打ちをした。昨日訪れた不幸は今日まで及ぶらしい。しかも今日は一人。相手は五人。昨日以上に不幸である。

「大人げないにもほどがあるぞ。高校生一人に、五人も人を集めるなよ」

「悪かったな」

「もう二度とやらないから見逃してくれ」

「残念ながらその選択肢はない」

 何とか突破口を見出そうと、適当に話をしながら策を練る誠也だったが、状況はかなり厳しい。この辺に特別詳しいわけでもない。走って逃げ切れるような足の状態でもない。何か武器になるようなものも見当たらない。

 誠也はもう一度舌打ちをする。何で俺だけなんだよ。昨日のは隼人のせいだぞ。隼人はなんでスルーしたんだよ。明日になったら隼人にいろいろ文句を言ってやる。誠也はそう誓った。ここを無事抜け出せればの話だが。笑うしかない状況だな。冗談も冗談に聞こえない。笑って誤魔化すしかない。絶体絶命とはこのことだ。誰か助けてくれ。ヒーローはこういうときに来てくれるもんだろ。もはや現実逃避に走るしかなくなった誠也だったが、

「おまわりさん、こっち!」

 ヒーローかどうか解らないが、一筋の光が差し込んだ。目の前のナンパ野郎どもが若干怯む。その隙を見て、誠也はきびすを返し、走り出した。

「おい!逃げたぞ!」

「追え!逃がすな!」

 ナンパ野郎がすぐさま気付き、誠也を追いかけ始めた。誠也は路地に入る。逃げ道は相手を撒くこと。それ以外にない。誠也は適当に路地の中を駆け巡り、自分がどこに向かっているのか解らなくなるほど、角を曲がりまくった。

 

 もうどれほど走っただろうか。人気も明かりもない路地で、誠也は膝を折った。昨日蹴られた右膝が限界だった。大したダメージでなくても、やはり全力疾走をするにはつらいものがあった。なれないことはするものじゃないな。右膝を庇って走っていたせいか、左足を痛めてしまっている。あとは連中が諦めるのを待つしかない。もう隠れるしかない。見つかったら最後、ただ一方的に殴られるだけだ。ケンカとは呼べないだろう。

 誠也はうずくまったまま、息を潜めてあたりの様子を探っていた。しばらくはばたばたと走る足音が行ったり来たりしていて、その度に誠也は戦々恐々としていたのだが、幸運なことに見つからずにすんだ。

 そして息を潜めて隠れること数分。もしかしたら数十分。もう時間の感覚は失せていたので、実際の時間は解らないのだが、そのときはやって来た。

 迫る足音。確実にこっちに向かってきていた。誠也は今までのように息を潜める。だが、誠也はすでに疲労困憊。度重なる緊張に疲労がピークを迎えている。息を潜めようと努力するのだが、呼吸は乱れる一方。そして。

「!」

 顔は見えないのだが、おそらく相手はこちらに振り返った。どうやら見つかってしまったようだ。ここで万事休すか。このあとの展開は、仲間を呼ばれてたこ殴り。殺されることはないだろうが、財布は取られるだろう。最悪身包みはがされる。あー、発見が遅れたら、死んでしまうかもな。誠也は他人事のようにそう思った。しかし、誠也の予想はいきなり外れた。

「大丈夫?」

 は?幻聴だろうか。疲労のせいで聞き間違えたのだろうか。結果はどちらも違った。

「立てる?」

 そう言って、相手は誠也を立ち上がらせると、路地から外に出た。そのあと、車に乗せられた。

 おいおい。拉致かよ。ナンパ邪魔したくらいでここまでするのか。そう考えたところで、誠也の意識はなくなった。


 気が付くとそこは暖かい部屋の中だった。眩しさに顔をしかめながら、誠也は目を開けた。するとそこには、

「大丈夫?」

 琴吹亜子がいた。なぜ?

「ここはどこだ?」

「あたしの家」

 なるほど。納得した。そりゃ亜子がいるはずだ。じゃあなんで自分はここにいるのだろうか。誠也は全く頭が働かなかった。

「どういうこと?」

 誠也は聞いたのだが、亜子は答えなかった。それどころか、何も言わずに、ふらっと立ち上がると、部屋から出て行ってしまった。

「………」

 誠也はゆっくり考えてみることにした。最後に記憶を辿ると、一つ思い出す。誰か自分のもとにやってきて、そのまま車に乗せた。この状況から察するに、その人物は亜子だったようだ。なぜ亜子があんなところにいたのか。そういえば、逃げ出す直前、誰かが警官を呼んでいたな。結局警官なんて出てこなかったな。あれは嘘だったのか?すると、あれが亜子だったのか?もしそうだとすると、亜子があの路地に現れたのは納得できるのだが、亜子が自分を助けてくれたと考えるのはいささか都合がよすぎる解釈であるような気がした。まあ後で聞いてみよう。それより今は眠い。亜子には悪いと思いながら、誠也はゆっくりまぶたを閉じた。



「…………」

 亜子は部屋を出て、少し考えていた。誠也は新たに殴られたりしていなかった。なのにあの疲れ様。昨日のケンカがよほど大変なものだったに違いない。どうやら亜子は簡単に考えすぎていたようだ。

今日の放課後、誠也に謝ろうと決意してよかった。結局まだ謝れていないし、あとをつけていただけでストーカーみたいだったけど、結果的にそれがいい方向に働いた。ストーカーまがいのことをした甲斐があった。そのおかげで誠也を助ける事ができたのだ。



 あれからどれくらい経ったのだろう。誠也はあたりを見渡した。真っ暗である。とにかく真っ暗なのだが、ここに来たとき、すでに外は暗かったので、時刻を知る手がかりにはならない。

再び目が覚めたとき、周りには誰もいなかった。誠也は困っていた。さすがに動き回るのはよくないだろう。しかし、おそらく結構いい時間だ。帰宅したほうがいいだろう。休むにしても家に帰ったほうがいい。誰かタイミングよく来ないだろうか。考えていると、ドアがノックされる。すると、誠也が返事をする前にドアが開けられた。

「あ、起きてた?」

 相手は琴吹亜子だった。

「具合は?大丈夫?」

「ああ」

 亜子は誠也が横になっているベッドの脇に来て、その場に座った。

「………」

「………」

 そして二人は無言になる。何を言えばいいのか。きっとお互いにそう思っているに違いない。黙っていても仕方がない。誠也は言うことを言っておこうと、口を開いた。

「とりあえず礼を言っておく。助かった」

 すると亜子は誠也のほうを見ずに、

「うん」

 と言った。何やらとても気まずそうである。誠也としてはそれでも構わない。とりあえず言うことは言った。誠也の用はこれで済んだ。さて帰ろう。誠也は掛け布団をはがし、ベッドから立ち上がった。

「とにかく世話になった。俺はもう帰るよ」

「………」

 返事はない。だが聞こえたはずだ。誠也は片手を挙げて、別れの挨拶とし、部屋から出ようとした。さて、玄関はどちらだろう。しかしでかい家だな。方向感覚が全くない。

 廊下に出て左右どちらに行こうか逡巡していると、亜子が後ろから追ってきた。

「玄関は、」

 どっちだ?と聞こうとして口を開いたのだが、誠也の口から言葉は出てこなかった。

 目の前にある亜子の顔は、怒っているような、困っているような表情だった。誠也は若干気圧されて、一歩後ずさろうとしたのだが、すぐ後ろは壁だったのでこれ以上下がれなかった。

 誠也がそんなことをしている間も、亜子は口を真一文字に結んだまま、口を開く様子がない。ここは自分が口を開く番なのだろうか?と誠也が考えていると、亜子が顔を伏せた。そして、

「何で、」

「は?」

 何でとは?一体何に対して説明を求めているか、誠也には理解できなかった。行動に対する説明を求めたいのは誠也のほうだった。

「何でって何が?」

 逆に問いかけると、亜子は再び顔を上げ、さっきより鋭い眼光で、誠也をにらみつけ、

「何であんたが先にお礼を言っちゃうのよ!」

「は?」

 誠也はまたしても間抜けな声を出した。何でって、

「礼を言うのは当然だろ」

「だから!あたしがお礼言いたかったのに、あんたが先に言っちゃったら言い出しにくいじゃない!」

「はあ…」

 相変わらず理解できない。

「よく解らないんだが、最初から説明してくれないか?」

「だから!あたしはあんたにお礼を言いたかったの!」

「お礼って何の?」

「昨日のことに決まっているでしょ!」

 誠也は、そこでようやく理解できた。ああ、そういうことか。そういえば、昨日のことに対して、亜子からはお礼を言われていなかった。

「じゃあ今日のことでチャラってことでいいじゃないか」

「あんたはお礼言っちゃってるじゃん」

「そうか」

 正直誠也にしてみればどうでもいい話だった。誠也は亜子を助けるためにケンカに参戦したわけではない。どちらかというと隼人を守るためだった。だからこうして妙に力の入った状態でお礼を言われるのは、逆に申し訳ない気がした。

「別にお礼なんて言わなくていい。その分隼人に言ってやれ」

「それじゃあたしの気が済まないの」

 面倒なやつだ。誠也がいいと言っているんだ。じゃあいいや、と割り切って欲しい。しかし、亜子の性格が捻じ曲がっているのはすでに学習済み。ここで誠也が妥協案を提示するのが懸命だ。

「じゃあ一つ頼みごとがあるんだが、」

「何?」

「玄関の場所を教えてくれ」



 亜子は頭を悩ませていた。気まずい。話す事がない。どうしよう。

 現在、タクシーの中である。当然一人で乗っているわけではない。同乗者は二人いる。一人はこのタクシーを操っている運転手。亜子の家は一つのタクシー会社と個人的に契約を交わしており、曰く呼べばいつでもどこでも配車してくれるのである。料金は月末にまとめて使った分だけ支払われている。今回も亜子が家に配車を依頼したのである。当然気まずい相手は運転手ではない。亜子が呼ぶと毎回同じ女性のドライバーが来てくれ、同性なだけもあって今ではすっかり仲良くなった。

 つまりもう一人の同乗者が亜子を気まずくさせているのだ。その相手は誰か。話の流れを見れば一目瞭然。亜子が連れてきた同学年の男子、笹原誠也だ。

 玄関の場所を教えるだけではさすがに申し訳ないので、家まで送ることにしたまではよかったのだが、自分が同乗するところまでは考えていなかった。失態だった。とても気まずい。一応これで昨日のことについては貸し借りなしということになったのだが、もとより誠也とは知り合いではないのだ。会話も何もない。何も思い浮かばない。

 こうして亜子は頭を悩ませていたのだが、一方誠也はどうかというと、窓の外を見たまま沈黙を守っている。どういう気持ちでいるかは想像もつかない。

 こいつは気まずくないのか?何か話さなければ、みたいな意味不明なプレッシャーはないのだろうか。

 亜子は、自分でもよく解らない感情を誠也に向かってぶつけていた。何となく自分だけこんな気持ちになっているのが悔しかった。完全に八つ当たりなのだが、そ知らぬ顔をして外を見ている誠也に対して、無性に腹が立っていた。すると、

「なあ」

 突然誠也が話しかけてきた。

「何よ」

 亜子は不機嫌なまま返事をする。

「あんた、ファンクラブとかあるんだって?」

 本当に突然な内容だ。どういう理由で今その話題を振ってきたのだろうか。理解できない。そう思っていると、次の誠也の言葉で合点がいった。

「俺を家に入れるところとか、送っているところとか見られたらまずくないか?」

 何がまずい、と聞き返そうとして、亜子はすぐに思い当たった。亜子は別にまずくない。だが、誠也はまずいかもしれない。芸能人のスキャンダルにしても、相手のファンから嫌がらせを受けるのはいつの時代でもありうることだ。つまり誠也が気にしているのは、じぶんの身に危険があるのではないか、ということだ。

「たぶん大丈夫よ。今は結構統率取れているから」

「統率?ということはあんたのファンクラブって公式なのか?」

「まあね」

 毎日毎日いろいろな男に付きまとわれたり、告白されたり、大変だった亜子はファンクラブなるものを作って統率しようと考えたのだ。内部事情について詳しいことは知らないが、なかなか厳しい規則があるらしい。

「公式って言っても会費は取ってないよ。あたしにとってはボディーガードみたいなもの。前みたいに非常識に迫られたり告白されたりしなくなったから、あたしには十分利益あるし、向こうにもそれなりに見返りがあるみたいよ」

「イベントとかあるのか?」

「たまーにパティーみたいなものをやるだけ。あたしは挨拶したり、握手したりするだけ」

 亜子にとってはすでに日常になっているが、どうやら誠也にとっては信じなれない話らしい。亜子にとっては一年次の騒ぎを知らないほうが驚きだった。一応有名人だと自覚していたのだが、誠也は亜子のことなど全く知らなかったようだ。

「でもまた最近問題が出てきちゃって」

「ほう。何だ」

 亜子は、何でこんなことを話しているのだろうか、と思いながらもファンクラブについての愚痴をこぼしていた。

「ファンクラブの設立者と設立メンバーは極秘にして、メールだけで各隊の隊長に連絡を回していたんだけど、最近、顔を見せない設立メンバーに対して不満が募っているみたいで、下のほうの会員が騒いでいるみたいなのよ」

「設立メンバーが素性を隠している理由は?」

「素性が割れたら直接いろいろ言われるでしょ?だからその人に迷惑がかかっちゃうわけ。こっちもすでに迷惑かけているわけだから、これ以上はあまり頑張ってほしくないし」

 正体を明かしてしまうと、動きにくくなってしまうし、面倒ごとも増えてしまう。今以上に迷惑をかけるのは亜子の本意ではなかった。

「でも、結構切迫しててね。早いところいい案を考えないといけないのよ。誰か影武者を立てるのが一番いいんだけど、あたしあまり友達いなくて。できれば男がいいんだけど」

 本当に何を言っているのだろうか。昨日出会ったばかりのこの男に。正直この男にもすでに結構な迷惑をかけている。きっと誠也だって全く興味ないだろう。聞かれたこととは言え、急にこんなことを言い出してしまい、このあとどう収集させようかと考えていると、

「理解した」

 と誠也が言った。そして続けて、

「いい影武者に心当たりがある」

 と言った。

「本当に?」

「ああ」

 そこまで話したところで、ちょうど誠也の家に到着し、続きは明日ということになった。どうやら誠也とは意外と長い付き合いになるかもしれないな、と亜子は思った。



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