第十六話
目を開けると、見慣れない天井が見えた。ここはどこだろうか。今はいつだろうか。一瞬前後不覚に陥った。その後周りの景色が見えてくると、すぐに現在の状況を思い出した。そうだ、ファンクラブイベントが無事に終わり、控室に戻ってきたところだ。ソファーに座って少し目を閉じたところまでは覚えているが、いつの間にやら横になって、すっかり眠っていたらしい。
時計を確認すると、あれから三十分ほどしか経っていない。時刻から考えるに、今は後片付けと言ったところか。
誠也はソファーから立ち上がると、大きく伸びをした。すると、すぐさま立ちくらみ。強制的にソファーに逆戻り。やれやれ。よほど体が疲れているらしい。普段はこんなこと気にしないが、座った状態で少し目を閉じる。立ちくらみがなくなってから、今度はゆっくり立ち上がった。
「お、笹原、お目覚めかい?」
後ろから声をかけられる。振り返ると、そこには誠也とともにパーティーを主催した三人がいた。どうやら控室の片づけを行っていたらしい。
「どう?疲れはとれた?」
正直言って、体はまだ重い。気分も良好とは言えない。しかし、
「ああ。寝不足気味だったんだ」
おそらく帰ってくるなり眠ってしまった誠也を気遣ってくれたのだろう。起こさず先に片付けを始めててくれたみんなに対して、本音を言うことはできなかった。
「すまなかったな。ちょっと休憩するだけのつもりだったんだけど、すっかり眠りこけてしまった」
「いや、気にしないでいいよ。まだ始めてから十五分くらいだし」
「うん。笹原君には割と大役を任せちゃったし。何ならもう少し休んでてもいいよ」
それはとても魅力的な提案だし、その心遣いはかなり痛み入るのだが、
「中田さん、向こうで会場の人が呼んでたよ」
一番の大役である隼人が普通に働いているし、
「了解。ちょっと行ってくるわ。歩美あとお願い」
「はーい」
裏方とはいえ、人一倍動き回り気を遣い続けていた絵里と歩美が、こうして場を仕切っているし、そして何より、
「ねえ、ごみはまとめて控室に置いとけばいいんだっけ?」
体調不良を押してパーティーを行い、最後の最後まで誰にも気づかれることなく、大成功に導いた今回の主役である亜子がまだ働いているのだ。ここでこれ以上休んでいたら、仕事をやりきったとは言えないだろう。ここで有終の美を飾ってこそ、誠也は胸を張って手を引くことができるのだ。
「何よ」
何気なく亜子のことを見ていると、とても不機嫌そうな顔で不機嫌そうに話しかけられた。誠也は黙って近づくと、小声で話しかけた。
「あんた、まだ帰ってなかったのか」
「悪い?」
「片付けなんてやってないで、さっさと帰れ。今日うまく切り抜けたとしても、明日学校を休んだら、そこで気付かれるぞ」
誠也は正論を言ったつもりだったのだが、そこで亜子は思わぬ反論をしてきた。
「誰かさんが眠りこけて、手伝ってくれないから帰れなかったのよ」
「は?俺のせいなのか?」
意表を突かれた誠也は、思わず聞き返してしまった。
「そ。あんたが眠りこけてたせいで、ただでさえ労働力が一人分減っちゃってたの。そんな中で『ちょっと用事できたから帰るわ』なんて言えるわけないでしょ」
「なるほど」
一理ある。確かに他の三人に負担が増えるのは間違いないだろう。それは間違いないのだが、それ以前に反論したいところがある。
「俺を起こせばよかっただろう。そうすれば、帰れたんじゃないのか?」
「……それは、」
亜子はどことなく言いにくそうにしている。誠也は何となく理解していた。
「あんた、帰らない理由を探していたんじゃないのか?」
「はあ?」
「違うのか?」
「…………」
亜子は何も言わない。肯定したわけじゃないが、ここで何も言わないのは図星だから、で間違いないだろう。
「あんた、ここに来てまだそんなわがまま言うのかよ」
「わがままって言うな!そもそもあんたが寝てるのが悪いんでしょ!」
ここで誠也のせいにされてしまうのはとても納得がいかない。ただ、亜子に言い訳のネタを与えてしまったのは、誠也が隙を見せてしまったせいだと言える。誠也はため息を吐く。やれやれ。今日は本当に疲れる。
「誠也」
不意に声をかけられる。当然声を分かるのだが、この呼び方をするのは一人だけだ。
「何だ、隼人」
「起きたなら手伝ってくれ。まだやることはあるんだ」
「おう。何をすればいいんだ?」
「自分で考えろ」
「?」
そこでようやく気付いた。
「何か怒っているのか?」
声色は普通だ。表情にも特別怒りの感情も垣間見えない。ただ、
「別に」
愛想がいい隼人にしては珍しい。無表情に近い顔を見ると、なぜか怒っているように見える。
「そうだな」
何となく理不尽さを感じなくもなかったのだが、隼人の言っていることはもっともなので、とりあえず反論せず言われた通り適当に片付けを始めようとすると。
「あんたはあたしの仕事手伝ってよ」
普通に隼人の手伝いをしようと思っていたのだが、言われて気づいた。ここは亜子を手伝うべきなのだろう。ただでさえ亜子は体調不良なわけだし、亜子のサポートをするという約束は今でも有効なのではないか。
「ああ。分かった。何するんだ?」
「えーっと、会場にいって片付けの手伝いかな」
「そんなこともやるのか?」
「やるの」
などと話しつつ亜子に続き、会場に向かった。その後ろで、隼人が二人のことをじっと見つめていた。
「ところで、」
会場の中を回り、忘れ物やごみなどを確認した。会場はスタッフの手によってだいぶ片付けられている。ここは人手が足りているように見える。
「体調のほうはどうなんだ?」
「あぁ、朝に比べてだいぶ楽。もう治っちゃったんじゃないかな」
傍から見てもそんな感じである。朝のように嘘を吐いている可能性もあるが、今の亜子を見る限り、この言葉は信頼できそうだ。だが、
「油断するなよ。病気は治りかけが一番危ないんだ」
誠也の立場からすれば、ここは戒めたほうがいいだろう。すると、
「あんたはあたしの母親かっての」
亜子には、全く効果がなかった。
「そもそも何であんたはそんなにあたしのこと心配しているのよ」
不意に亜子は誠也に向き直る。その表情は真剣そのもの。どうやら本気で聞いているようだ。
「昨日言ってたよね。あんたが頑張っているのは斉藤の為だって。これも、斉藤のためにやっているの?」
「そうだ。あんたの様子がおかしいと、隼人に影響が出るからな」
少し言い訳臭くなってしまった。おそらく亜子も気付いているだろう。だが、亜子の立場から言って、完全に否定することはできないだろう。その証拠に、
「確かにあたしが体調不良だと分かったら、斉藤は取り乱しそうだけど、」
憮然とした表情をしているが、直接誠也の言葉を否定しない。だが、
「でも、今は違うじゃん。もうパーティーは終わったんだし、今気づかれたって、あんたは損しないでしょ」
その通りだ。パーティーは大成功で終わったという事実は消えない。ただ、これは誠也の個人的な気持ちの問題だ。
「損はしないが、ここまで誰にも気づかれずに来たんだ。最後まで隠し通したいと思うのはおかしくないだろう」
誠也の言葉に、亜子は一瞬考え込むような表情をして、
「確かに、あんたの言うとおりね」
得心したようにうなずいた。
「でも、ちょっと意外。そういう細かいところに執着しないと思ってた。結構気にするのね」
なぜそう思っていたのか。少し気になったが、当たらずとも遠からず、と言ったところなので、深く追求しない。
「今回は特別だ」
「特別?何が?」
「ま、一つのけじめのつけ方だと思ってくれ」
亜子は、頭の上に疑問符を浮かべている。どうやら、誠也が何を言っているのか分からないらしい。ま、当然だろう。話の展開が急すぎる。
「どういう意味?全然意味分からないんだけど」
どうしようかと思っていたのだが、ここは一つのタイミングなのだと思う。
「あんたのファンクラブに関わるのは、今日で最後だ。俺は抜けさせてもらう」
「え?」
驚いた表情で言葉をなくした。どうやら予想だにしなかったらしい。
「俺はもともと関わるつもりはなかったし、最初から隼人に全部任せるつもりだった。だが、予想以上に隼人が使えなかった。だから紹介した責任もあるし、あいつが一人前になるまで補佐しようと思った」
あくまで補佐。真剣に関わるつもりはなかった。それでも、ここまで真面目にやったのは、ある意味亜子や絵里・歩美たちに対する礼儀だろう。彼女たちが真剣だったから、その真剣さに対する礼儀として、誠也も真剣にやった。たとえ補佐だろうとなんだろうと。
ただ、それでも補佐は補佐。
「今日の隼人はどうだった?十分一人前だっただろう。予想以上だっただろう」
「……まあ、確かに驚いたけど」
完璧とは言わない。テンションが上がりすぎていたような気がしないでもない。それでも、補佐が必要ないくらい十分な働きをしていた。今日だけじゃない。準備の段階でも、徐々にその片りんを見せ始めていた。絵里や歩美とは、普通にコミュニケーションが取れる。憧れの人である亜子とも、ある程度会話することができるようになってきた。
「当初の懸念事項は解消された。俺は必要ないだろう」
「…………」
誠也の意見を聞いた亜子は、黙り込んでしまった。おそらく誠也の言い分は伝わったはず。亜子自身も思うところはあったはず。ただ、本人を目の前にして、『あんたはもう不要だ』とは言いづらいと思う。誠也はこの無言を肯定と受け取った。
「話を戻すが、」
辺りを見渡すと、会場の片づけはほぼ終わっていた。スタッフも数を減らしている。そろそろ控室に戻るべきだろう。
「俺にとって、今日は最後の日だった。だから、必要以上に頑張ったつもりだ。確かに俺らしくなかったかもしれないが、それはこういう理由があったからだ」
誠也は話を終わらせ、
「片付けも終わったみたいだし、そろそろ戻ろう。みんな待っているかもしれない」
踵を返すと、出入り口に向かった。亜子も大人しくついてくる。
「あんたの言い分は分かった」
しばらく黙っていた亜子だったが、ここでようやく口を開く。
「もともと協力してもらっている立場だし、あたしは影武者を求めた。あんたはそれを紹介してくれた。だから、あんたを止めるつもりはない」
何やら気になる言い回しだが、一応分かってくれたらしい。
「そうか」
「でも、あたしはあんたに借りを返してない」
「またその話か」
「またも何も、あんたとあたしの間には、結局それしかないの」
「確かにな。で、どうするんだ?」
「返す。今後あんたがファンクラブに関わらなくなったとしても、絶対に返すから。ケータイのことと、今日のこと」
今朝も言っていた。ただ、ファンクラブに関わらなくなった場合、亜子と誠也は知り合う前の関係に戻ってしまう。となると、関わる可能性はぐっと下がる。借りを返す機会なんてあるだろうか。
「そうか。ま、期待しないで待っている」
誠也としては、亜子に何かを頼んだり求めたりするつもりはない。ただ、今それを言っても、無駄に話を伸ばすだけだ。亜子の決意は、亜子の決意として受け止めることにした。本当に義理堅いやつだ。
それから二人は無言で控室に向かった。
「お、二人とも戻ってきたね」
控室に戻ってくると、完全に帰り支度を終えた絵里たちが待っていた。どうやら割と長い間待たせてしまったらしい。
「ごめん。お待たせ」
「いいや、気にしないで」
亜子と誠也も急いで帰り支度を始める。と言っても、すでにだいたい終わっているのだが。
上着を着て、荷物をまとめ、忘れ物を確認すると、帰り支度は完了。全員で控室を出て、スタッフに挨拶をした。
「亜子も笹原も今日はお疲れ」
「ああ」
「うん、みんなもお疲れ様」
「みんな疲れていると思うから、本格的な打ち上げはまた今度にするって話だったけど、この後軽くやらない?」
亜子と誠也が返ってくる前に、そんな話になっている。話しているのは絵里だが、歩美も隼人も頷いている。
「すまないが、俺はパス。慣れないことやりすぎて、疲れた。今日は早く帰って寝たい」
これは出任せではなく、本音だ。ま、先ほど控室でグーグー寝ていた誠也だ。これを嘘だと思う人はいないだろう。
「そっか。ま、仕方ないね」
「うん。今日はありがとう。助かったよ」
「ああ」
今後のことを、今この場で言おうとしたが、後回しにすることにした。絵里たちは達成感にあふれているし、そんなことを言ってしまうと、その興奮状態に水を差す羽目になってしまう。おそらくいずれ言う機会はあるだろう。誠也も疲れているし、今後に回しても問題あるまい。
「亜子はどうする?」
「え?あ、あたしは、」
と言いかけて、亜子が誠也を見た。どうするつもりか。ま、亜子が何を言おうと、誠也は止める気はなかった。しかし、
「あたしも止めておくよ。久々で疲れたし」
本当に疲れているのか。はたまた誠也の気持ちを慮ったのか。どちらにしても亜子は行かないらしい。
「そっか」
「私たちもどうしようか。主役が来ないと、打ち上げって感じじゃないけど」
「ううん。あたしのことは気にしないで、三人で行ってきて。ほら、斉藤だって、主役みたいなものじゃない」
「ま、確かにそうだけど」
「じゃあ、当初通り、三人で行きますか」
「うん。ごめんね」
「気にしないで。じゃあ今日はここで解散。みんな、本当にありがとう、お疲れ様。これからも、よろしくね」
絵里が解散宣言をして、長い長い今日という日が終わりを告げた。