第十四話
とうとう最後まで来た。この時間が終われば、任務完了である。今のところ誰かに感づかれている気配はない。最後の体温計測もぎりぎり回避した。いくつか危ない場面もあったが、どうにか耐え抜いた。
会場では写真撮影の準備が進んでいる。あとはこの目の前の撮影会を耐えきれば終了だ。後々体調不良を隠していたことがばれたとしても、それはしょうがない。とにかく本番を耐えきれば、勝ちだ。
亜子は会場を見渡す。そこには食器を片づけているウェイターたちがいる。その中の一人に自然と目が向いた。笹原誠也。こいつがいなければここまでできなかったと素直に思う。今考えてみると、誠也の協力が必要不可欠だった。誠也にばれたことは想定外だったが、結果的によかったのだろう。普段他者を認めない亜子だったが、この時ばかりはそう思わざるを得なかった。
「………………」
ただ、誠也に心を許したわけではない。以前誠也と、隼人の話になったときにも言ったが、人が人を助けるにはわけがあると思う。隼人は他人に尽くす性格、ということでお茶を濁されたが、誠也はどう考えてもそんなタイプではない。面倒事が苦手で、他人と付き合うことを嫌う。亜子にはそう見える。そんな誠也がなぜここまで協力してくれるのか。そこが全く分からない。誠也は隼人のためだ、と言っていた。ただ、亜子の体調不良を隠すことが隼人のためになるとは思えない。
おそらく何か理由があるのだと思う。それが分からなければ、誠也を信用することなどできやしない。
当の誠也は、食器を片付けている最中に、女子三人に話しかけられていた。見ていると、話しかけている女子は何だかとても興奮している様子だった。もしかして、ナンパだろうか。誠也がどこの誰にナンパされていようとも全く興味ないのだが、それにしても亜子のファンクラブでナンパが行われるのはいかがなものか。女子にしてもそうだ。一体誰に会うためにここに来ているのだろうか。
女子のほうはやたら興奮していたが、誠也は特に何も感じなかったようで、適当にあしらっていた。それはそれで何となく納得がいかなかった。
「亜子ちゃん、そろそろ……」
声をかけてきたのは隼人だ。亜子がぼーっとしている間に準備が終わったらしい。亜子は小さくため息を吐いた。何だか妙なものに気を取られてしまった。自分の体調以外に目が行くようになったということは、体調がよくなっている証拠だろうか。少なくとも当初のような変な緊張感はなくなっていた。
「あんた、その呼び方……」
「あ、その、ごめん。つい、調子に乗っちゃって……」
あまり気持ちのいいものではなかったが、この先隼人とも仲良くやっていかなければならない。そのことを考えると、いつまでも堅苦しい呼び方をするのはあまり好ましくない。何だかやたら腰が低い隼人だが、こちらがお願いしている立場だ。亜子は呼び捨て、隼人はさん付けで、しかもこのやり取りを見れば明らかに対等ではない。どう見ても上下関係だ。外交的にも内政的にも、隼人の好きなように呼ばせた方がいいか。だいたい上下関係に見えてしまう理由は隼人にある。あまりに腰が低すぎるのだ。
「別に好きに呼んでいいよ。あと、もっと楽にしゃべってよ。あたしももっと気を付けるから」
気を付けると言いつつ、何だか棘のある言い方をしてしまった。しかし、
「あ、うん。分かった」
と言って、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう」
だから、それを止めてもらいたいのだ。なぜこんな対応でそこまで嬉しそうにできる。隼人という人間は嫌悪という感情がないのかもしれない。亜子にとって、それは喜ばしいことでも何でもなかった。
「で、段取りは?」
「あ、えーっと、今セッティングしたけど、真ん中に亜子ちゃんが座って、あとは周りを囲む。写真は二枚撮ったらどんどん交代。写真が終わった人から解散。外に出て行ってもらって、パーティーは終了」
すでにパーティー自体は解散している、ということらしい。単純な流れ作業。あとは会員が何かやらかさない限り、スムーズに終わるはずだ。亜子はため息を吐く。
「あ、亜子ちゃん」
「何?」
つい不機嫌な声が出てしまう。体調不良と疲労からだ。決して隼人のせいではない。
「あ、えっと、写真撮るときは笑顔でお願いね」
残された亜子の仕事はカメラに向かって微笑むだけ。残りのエネルギーを全て使う必要もないくらい簡単な作業だ。
「りょーかい!」
隼人に体ごと向き直り、思い切り笑顔を作ってみせる。
「あ、うん。そんな感じでお願い」
「え?あれ……」
思った以上にそっけない対応だった。確かに作った笑顔だったけど、もう少しいいリアクションがほしかった。もしかして亜子に興味がないのだろうか。
「はぁ…………」
やれやれ。誠也といい隼人といい、よく分からない人間だ。
会場スタッフの一人として、会場の片付けを行っていた誠也は、だいたい片付け終わったところで一息ついた。片付けだけでだいぶ時間がかかった。それだけの人間がここにいたということだろう。改めて琴吹亜子のすごさを感じた。ただの女子高生のはず。それがこれだけの人数を集めることができるのだ。とんでもないことはいうまでもない。
今朝亜子は体調を崩していた。微熱と呼ぶことができないような熱が出ていた。それでも今回中止にしないでよかったのかもしれない。結果論だが、そう思うことができるのは亜子が最後まで耐えきったおかげだろう。大した奴だと思う。誠也にとってははた迷惑でしかないのだが。
会場ではすでに写真撮影が始まっている。写真撮った人からどんどん退場していくので人は減っているが、憧れの亜子との撮影ともあって、興奮した様子で賑わっている。
亜子に憧れている、という点では、隼人も同じなのであるが、一緒に撮影に参加している隼人は、なぜか硬い表情をしている。一体どうしたのだろうか。後で聞いてみるとしよう。
一方亜子はというと、撮影中は笑顔を作っていて、会員たちと言葉を交わすときも基本的に笑顔である。ただふとした瞬間、表情がなくなる。おそらく体調の問題だろう。だが、それでも周りに気取られていないのは、さすがだと言える。
そんなことを考えながらぼーっとしていると、亜子と目が合った。すると、途端に不機嫌な様子になり、睨みつけてきた。
一体何なのだろうか。もしかして呼び出しているのかと思い、そちらに行こうとしたのだが、亜子はすぐさま視線を外した。本当に意味が分からない。嬉しくない対応に、思わずため息を吐いた。ここまで協力してこの仕打ちでは、正直やってられない。
それでもここで終わりだ。あとわずか数分である。それを考えれば、我慢できる。我慢できるのだが、それでも本気で疲れた。食器も片付け終わったし、ひとまず裏に引っ込むとしよう。写真撮影が終わったころにもう一度出てくればいい。飲み物でも飲みに行こう。
裏方に引っ込み、関係者に挨拶しながら控室に向かう。気持ちが緩んだのか、疲れがどっと体を襲う。何だったら少し頭も重い。満身創痍である。終わったら、さっさと帰って風呂に入って寝よう。
「お疲れさま。ウェイターがだいぶ板についてきたね」
「ここでバイトさせてもらえば?」
控室に入ったところで声をかけてきたのは、このパーティーの主催者絵里と歩美である。
「冗談だろ。ここに来ることもしばらくないだろ」
誠也は自分のペットボトルを取ると、ソファーに深く腰を掛けた。
「何だかやたら疲れているね。何かあった?」
「別に何もない。ただの気疲れだ」
今振り返ってみても、かなり順調だったと思う。段取り通りに事を運ぶことができた。今回のパーティーは大成功と言っていい。ただ、絵里や歩美と比べて、気を遣うことが多かっただけだ。それも尋常じゃなく。
「ま、いいや。とりあえずあんたの仕事はこれで終わりだから、ゆっくり休んでていいよ。片付けは手伝ってもらうけど」
誠也は手を上げるだけで答えると、水を一口含み、ゆっくり目を閉じた。