第十三話
それから順調にパーティーは進んでいった。始まる前まで懸案事項が山のようにあったはずなのに、ふたを開けてみれば、誠也が気にするようなことはほとんどなかった。開始当初、隼人のテンションが異様に高かったことや、亜子の体調が不安定だったことが誠也の頭を若干悩ませたが、それだけだった。
隼人は緊張による興奮だったようで、自身が落ち着くにつれ、どんどんまともになっていったし、亜子も朝食後と昼食後に薬を飲んだせいか、体調も安定しているように見えた。構いすぎている、と忠告を受けたが、それは杞憂に終わった。お色直し後、誠也はただのウェイターになっていた。
『もうあたしに構わないでいいから』
そう言った亜子の言葉に、二言はなかった。どう考えても万全とは言えない状態だ。だが、それでも自分で言ったことを曲げなかった亜子は、やはりさすがだと思う。
配膳と片付けを行いながら、誠也は亜子を見た。
「…………」
視線の先には、緩やかな笑みを浮かべて質問に答える亜子の姿がある。当初のようなけだるそうな様子は皆無だ。
「やれやれ」
誠也は持ってきた食器をキッチンに預けると、ため息とともにいろいろなものを吐き出した。何だかとても疲れた。隼人・亜子ともにだんだんしっかりしてきて、気にする必要がなくなってきたため、誠也は気が緩んだのだろう。そのせいで急に疲労が襲ってきていた。
「よっ!お疲れ」
気安い感じで声をかけてきたのは絵里だった。
「こんなところで何をしているんだ」
「いやぁ、おかげさまでこっちは暇なんだ。モニタリングしながら、減った小腹を満たそうかと」
「そりゃうらやましい限りだな」
実際当日に至るまでの間、絵里と歩美はとてつもなく頑張っていた。それを考慮すると、当日楽をしていても問題ないのだが、何となく納得いかない。言うわけにはいかないのだが、今誠也はとてつもなく苦労している。それを少しでも肩代わりしてもらいたかった。
「何かすごく疲れてない?何かあった?」
どうやら端から見ても分かりやすく疲れているようだ。であるのであれば、もう少し誠也に気を遣ってもらいたかった。しかし、これは仕方のないことだ。誠也自身も理解しているし、どんなに大変でも逃げ出すつもりはない。今日をやりきる。これは隼人の補佐をやると決めてから、ずっと今日をやる切ると決めていた。
「慣れない仕事をしているからな。そりゃ疲れもする」
「そうだよね。ま、あと少しだから頑張って」
ため息を返事として、誠也は会場へ戻った。
会場へ戻ると、まだ質問コーナーが続いていた。亜子と隼人が何やら漫才のようなやり取りをしている。普段なら考えられないことだが、今日のような非日常ではこんなこともあるらしい。そう見ると、お似合いの二人に見えないこともない。普段を知っている誠也から見ても、とても楽しそうに見えた。亜子と隼人は付き合わないし、付き合ってもうまくいかない。そう思っていたのだが、案外うまくやっていけるかもしれない。実際付き合ってみないと分からないのかもしれないな。
誠也はそんなことを考えながら二人を眺めていると、
「では、時間も押し迫ってきたので、次で最後の質問にします」
隼人が宣言した。誠也は時計を見る。残り十五分ほどになっていた。お色直しをやってから時間の経過がずいぶん早く感じた。もうそんな時間か。誠也は客の邪魔にならないように食器を片付けながら、そんなことを考えていた。道理で疲労が蓄積しているわけだ。もうこの会場に入ってから六時間が経とうとしていた。そこでふと思い出す。そういえば、そろそろ亜子の体温を測りにいかなければならない。おそらく質問コーナーが終わった後、隼人から何かしらのアナウンスがあって、今日のパーティーが終了するはず。その辺りでタイミングを見計らって亜子のもとに行くとしよう。ここでパーティーを中止にするわけにはいかないが、一応けじめとしてやる必要があるだろう。
使い終わった食器を片付け、軽く目礼したとき、席についていた客と目が合った。そいつは数少ない女子だった。パーティーが始まってすぐに気付いたんだが、亜子のファンクラブには女子がいるのだ。男子に比べれば圧倒的に少ないが、それでも二割くらいの割合で女子がいる。女子まで虜にしてしまうなんて、どこのファッションモデルなのだ、と思ったが、誠也が理解していないだけで、亜子はそういう人物であるらしい。
その会場の二割ほどを占める女子のうちの一人が、誠也のことを凝視していた。若干目を見開いているところから察するに、何やら驚いているらしい。もしかして、誠也のことを知っている人物なのか、と思ったが、誠也は見覚えなかった。
どうリアクションを取っていいのか分からなかったので、もう一度会釈をして、その場を立ち去った。食器を持って会場を出ると、一斉に拍手が巻き起こった。どうやら最後の質問とやらが終わったらしい。急いで亜子のもとに向かうとしよう。
隼人が何やら話している。会場は隼人に注目している。その隙に、亜子に話しかけた。
「調子はどうだ?」
先ほど同様、亜子の前に跪く。
「普通」
傍から見る限り、確かに日常とさほど変わらないように見える。おそらく実態は違うだろう。容姿端麗で才色兼備な彼女からは想像しにくいが、亜子は恐ろしく頑固者なのだ。先ほど誠也に向かって啖呵を切った。間違っても誠也に弱音を吐いたりしないだろうし、誰に覚られるようなマネもしないだろう。その頑固を貫くために、根性も座っているらしい。
その証拠に、
「三十七度九分」
熱を測らせてみたら、条件である三十八度まであと一分足りない。
「今回もクリア。これで今日は問題なくフィナーレを迎えられるわね」
あと一分熱が上がらなかったのは、亜子の根性だろう。この女、気合とか根性とか、そういった熱い展開など全く似合わないくせに、それを地でやってのけるらしい。お飾りのお嬢様とは一線を画する存在であることに、疑問を挟む余地はなかった。
「約束は約束だ。どう考えてもこんな露出の高い恰好をして人前に出るような体調ではないが、しょうがない」
「あたしに不可能はないの」
どこか誇らしげである。どう見ても三十八度熱があるように見えない。すでに精神が肉体を凌駕しているのかもしれない。
「だが、もう一つの約束はどうした?」
「もう一つの約束?」
「忘れたのか?握手会のことだ」
このパーティーの最後は、会場に来ているファン全員と、亜子が握手をして解散することになっていた。ただ、手に触れると亜子の体温が高いことがばれてしまうし、加えて互いの距離が近づくので、風邪をうつす可能性が上がる。そう思って、誠也は事前に予定変更するよう亜子に言っていたのだが、
「あぁ、それか。止めてもらったよ。最後は写真撮影になった」
「写真撮影だと?一人ずつか?」
現在この会場には五十人ほどのファンが来ている。それら一人一人と写真撮影などしていたら、一時間近くかかってしまう。亜子の体調を考えても、そんなに時間はかけられないだろう。それを考えると、握手のほうがまだましなのかもしれない。
「うーん、単位は決めてない。好きにしてもらおうかと思っているから、グループごととかになるかな」
それならまだましか。しかしそれでも時間はかかるだろうし、ファンとの距離も近くなる。どうしたものか。
「ちょっと手を出せ」
「は?何で?」
思い切り嫌そうな顔をした。
「別に下心があるわけじゃないぞ。こんなに写真撮るくらいなら、握手のほうがいいんじゃないか?」
「別に平気よ。で、それで何で手を出せにつながるわけ?」
「握手してあんたの体温が高いことが分かるかどうか確かめるためだ」
「…………」
今度は渋面を浮かべた。どうやら誠也の発言の意図は伝わったらしい。とりあえず頭ごなしに断るような案ではなかったようだ。
「…………」
表情そのままゆっくりと手を差し出す亜子。その手を恭しく受ける誠也。
「…………」
なぜ自分は亜子に片膝ついて恭しく右手を差し出しているのだろうか。ものすごく疑問に思ったのだが、考えないようにして、右手の感覚に集中する。
「……やっぱ熱いな」
「ほんとに?あんたはあたしが熱あるって知っているからそう思うんじゃないの?」
その可能性は否定できないが、
「実際どうだ?握手するのと写真を撮るの、どっちが楽だ?」
「そうだな……、やっぱり握手はやだなぁ」
それはばれるばれないとか、辛い辛くないではなく、単純にやりたくないだけではないだろうか。でも握手するのは亜子なのだ。亜子が嫌がるなら、それはやらない方がいいだろう。
「じゃあ五人ずつくらいで回そう。麻生に伝えてくる」
「分かった。お願い」
誠也は立ち上がる。そして、隼人の話が終わったところで声をかけた。
「隼人」
「おう、何だ?また業務連絡か?」
「ああ。写真の件だが、機械的に五人ずつ回すことにする。琴吹も了承済みだ」
「あぁ、分かった。ま、時間もないしな」
今度は簡単に了承した。ただ、顔は笑っていないように感じたが、特別意識しなかった。