第十二話
トイレもとい花摘みから控室に向かう道中、慌てた様子でやってきた絵里と歩美に出くわした。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「どうしたの、はこっちのセリフ!」
質問の意図が分からない亜子は、首を傾げた。すると、
「急にお色直しって、何で?そんな話なかったでしょ?」
言われて、得心した。あー、そういうことか。
「えっと、ちょっとトイレ行きたくなっちゃって……」
気の置けない友人だからと言って、直接的な表現をするのはさすがに恥ずかしかった。
「何だ、そんなことかよぉ」
どうやら無駄に心配をかけてしまったようで、がっくり肩を落としてため息を吐く絵里。歩美もほっとした様子だった。
「それで、どうするの?一応着替える?」
時間もないので、控室に向かいながら会話をする。
「うん。そうだね、結構汗もかいたし。衣装あるよね?」
「あるけど、何着る?一応候補に挙がっていた奴がいくつかあるけど」
「うーん。見てから考える」
寒い季節ではないが、まだまだ夏は遠い。室内ではあるが、亜子は風邪をひいている身だ。なるべくなら暖かい恰好をすべきだろう。スポットライトのせいで、変な汗をかいてしまったので、嫌な気分である。
「そういえば、トイレ休憩のこととか考えていなかったね」
たかだか二時間のことである。体調が万全であれば、何ら問題のない時間だ。この程度、映画でもコンサートでも普通にあり得る。
「いや、あたしも気付かなかったんだし、別にいいよ。ちょっと水飲みすぎただけ」
誰のせい、というならば、亜子のせいである。必要性を感じるのは表に立つ亜子と隼人だけ。ならば、この二人から提案がなければ、意識できないだろう。絵里や歩美のせいではない。
「でも、トイレ行くのに、お色直しとは考えたね。いい発想だと思うよ」
主役である亜子が席を立つのは、不自然である。こっそり行くことはどう考えてもできないだろう。かといって、司会がトイレ休憩を宣言するのもおかしいし、会場に来ている客たちは好きなタイミングで行けばいい。
亜子が不自然でないタイミングで席を立つには、絶好の言い訳だったと思う。ただ、これは亜子の発案ではない。
「あぁ、あれは笹原のお手柄だと思うよ」
亜子は、誠也に対して、トイレに行きたい旨をかなり迂遠な表現で伝えた。察しのいいイメージのない誠也に対して、伝わるかどうかはなはだ不安ではあったが、何とか伝わったと思う。
そして誠也は、司会である隼人に何やら口頭で伝えていた。それを聞いた隼人は少し困惑した表情を浮かべていた。それはおそらく予定にないお色直しをする、ということを突然伝えられたからだろう。その後の立ち回りは見事だったと思うが、全てをひっくるめて考えてみても、隼人があれほどの機転を利かせてくれるとは考えにくい。
「へえ、笹原が」
「ああ見えて、割と細やかな気遣いができるんだね」
ひどい言い草だったが、歩美の感想は亜子も絵里も同様だった。
今日の誠也には驚かされてばかりだ。最初は亜子の体調に気付いたところから始まり、体調不良を隠す手伝いをしてくれたり、亜子の体調が悪化しないように気遣ってくれたり、とにかく亜子に対する気遣いは半端じゃない。亜子のマネージャーじゃあるまいし、普通照明の加減とか気付かないだろう。
「確かに今日の笹原いつもと違う気がする。何かあった?」
何かあった、と問われると、かなり答えづらい。あったと言えば、あった。というか、いつもと違うのは誠也のほうなのか。亜子はいつも通りだと思われているのだろうか。
「いや、知らないけど。体調悪いとか?」
「そういうんじゃないんだよ。妙に周りに気を遣っているというか……」
どうやら絵里も感覚以上に何かをつかんでいるわけではないらしい。だが、その何となくが危険なのだ。後でチャンスがあれば、誠也に忠告しておくか。しかし、何と言えばいいのだろうか。
「…………」
ま、考えておこうか。亜子に気を遣ってくれるのは、大変ありがたいことだが、それが原因でばれてしまうのはいただけない。
「とりあえず、着替えよう。早くしないと、斉藤君が過労で倒れちゃうよ」
実に歩美らしい気遣いだが、その心配は不要である。
「あいつ、ずいぶん楽しそうだよ。あたしのこと、さりげなく『亜子ちゃん』って言っていたし」
「あ、そうなんだ。楽しそうで何よりだよ」
二人とも苦笑していた。
着替えにはほとんど時間はかからなかったが、とりあえず汗を拭いて、少しだけ休ませてもらった。時間にして十分ほどだっただろうか。それでも、他人の視線がないところで、静かにしているのは、気持ちが安らいだ。人の視線というのは、心を疲弊されるのだと、改めて自覚した。
さて。そろそろ戻るとしよう。向こうの状態も気になるし、誠也と隼人にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。とりあえず亜子が戻らないと、パーティーは進まないのだ。
ここでふと思う。どうやって戻ったらいいのだろうか。あれほど、大仰な見送られ方をしたのだ、こっそり入るわけにはいかないだろう。いや、亜子としてはそれでいいが、そんなことをしたら、このお色直しが予定外の物であるとばれてしまう。それはいただけないだろう。
何とかして、中の二人と連絡を取りたい。しかし、どうしたものか。二人との連絡手段は用意していない。ケータイはおそらく二人とも持っていると思うが、この状況で鳴らすわけにはいかないし、おそらく出ることができないだろう。となると、誠也が外に出てくることに期待するしかない。誠也は隼人と違って、中と外を行き来する仕事についている。さほど時間をかけずに出てくるだろう。加えて、このお色直しを提案してきたのは誠也である。ならば、着替えが終わるころを見計らって、亜子を迎えに来てくれるのではないか。というより、それくらいのことは最初から理解して、すでに待っていてくれているかもしれない。
とりあえず、亜子は会場の出入り口に向かった。
亜子が到着したとき、残念なことにそこに誠也はいなかった。亜子は思わずため息を吐いた。
そこでふと気付く。なぜこうも当たり前のように誠也に期待しているのだろうか。しかも、誠也がそこにいないことを残念に思わなければいけないのだろうか。考えてみれば、今日の亜子は誠也を信頼しすぎているような気がする。確かに亜子は体調が悪く、一人でこなせることが少ない。今日のパーティーを台無しにするわけにはいかないし、そのためには誰かに力を借りなければいけない。絵里と歩美は会場の外だし、それ以前に体調不良を知らない。隼人は頼る気にならないし、絵里たち同様亜子の体調不良を知らない。こうなると当然頼りになるのは誠也しかいない。誠也を頼るのは、当たり前なのかもしれない。ただ、他人に頼りすぎることを良しとしない亜子が、こうも簡単に他人に頼っているという、状況が信じられなかった。
「おう。着替えは終わったようだな」
会場の入り口が開くと、誠也が出てきた。タイミングは悪くない。それでも、
「遅いわよ。どんだけ待たせんのよ」
思わず嫌味を口にしてしまった。
「悪い」
誠也は躊躇うことなく謝罪の言葉を口にした。本当にそう思っているのかはなはだ疑問だが、それでも誠也は亜子に対して、嫌な感情を抱いているようには見えなかった。
「今準備するから、ちょっと待ってろ」
言うと、通りすがりの会場スタッフを呼び止め、一言二言会話を交わす。やはり誠也はある程度段取りを作っていたようだ。おそらく会場スタッフにもいくつか指示が通っているに違いない。
「じゃあ隼人に伝えてくる。隼人からアナウンスがあったら、スタッフがドア開けてくれるから、ゆっくり入ってくれ。スポットライトが来ると思うけど、しばらく我慢してくれ」
きびきびと段取りを説明する誠也は、絵里や歩美と同じくらいこのパーティーのことを考えてくれているのではないか。このお色直しは、当初の段取りに組まれていない。誠也が指示をしたのだから、誠也が責任を持つのは当然のことだが、会場スタッフとの連携・隼人に対する指示、そして亜子に対する気遣い。この数分で全てをこなすのは、正直アドリブの域を超えている。
なおかつ、
「あぁ、さっきの衣装も似合っていたが、こっちもすこぶる似合っているぞ」
付け足すようにこんなことを言うのだ。とんでもないやつだと思う。風邪をひき、メンタルがやや弱っている状態で、これは厳しい。これでは亜子でなくとも、頼りたくなってしまうだろう。それ以上に心が揺さぶられていることに気付いてしまった。
ただ、気付いてしまった今、亜子は自分を律しなければいけない。
「だから、あたしに指図しないで」
頼りになるからと言って、無制限に頼ってしまっては、琴吹亜子の名に傷がつく。今まで絵里や歩美と三人でやってきていたのだ。このファンクラブに誠也が必須などとは思いたくない。
一回深呼吸をして、気合を入れる。
「絵里が何か勘付いている」
「本当か?」
「本当。あたしじゃなくて、あんたが周りに気遣いすぎだって」
言われて、誠也は何だか表現しづらい表情をした。
「だから、もうあたしに構わないでいいから」
誠也に言い放つ。今日はもうすでにだいぶ世話になっている。亜子がこうして会場の外にいるのも、誠也のおかげだ。だからこそ、もう頼ってはいけない気がした。しかし、
「そうはいくか。俺は別にあんたのためにやっているわけじゃない。俺は俺のためにやっているんだ。今日が大成功で終わるために、な」
「え?」
さすがに絶句した。ここまでファンクラブのことを考えてくれているとは思わなかった。てっきり惰性で言われるがまま動いているのかと……。
「とはいえ、怪しまれるのはいただけないな。ま、あと半分だ。そこまで言い切るんだから、気力で乗り切って見せろ」
あっけにとられる亜子を放っておいて、こんなことを言った。これは立派な挑発だ。これに乗らない亜子ではない。
「当然でしょ。あたしを誰だと思っているのよ」
亜子は胸を張って言い切る。すると、同時に会場の入り口が徐々に開き始め、中から強烈なスポットライト、みんなの歓声が聞こえる。
思わず目と耳をふさぎたくなるが、
「それでこそ、琴吹亜子だ」
誠也にそんなことを言われて、引くに引けなかった。