第九話
開演一時間前となり、開場が始まっている。そのタイミングで隼人も帰ってきて、いよいよという感じになってきた。誠也も自分の仕事内容を全て聞き終え、あとは始まるのを待つばかり。控室でのんびりしていた。
ばたばたしていたため、あまり感じなかったのだが、割といい会場だ。スタッフも真面目できびきび仕事をしているし、相手が高校生だというのに丁寧な対応をしてくれている。よくもまあこんなところを抑えたな、と思う。もしかしたら、今回以外にもこの会場を利用しているのではないだろうか。普通の家庭・家族ではありえないことだが、もしかしたら琴吹家は普通の家庭ではないのかもしれない。あの風格、態度は並外れたと表現できる。今度聞いてみよう。
アイスコーヒーを一口飲みこむ。これもスタッフに頼んだら、無料でくれたものだ。質の高い会場である。
「お前はずいぶん余裕があるな。うらやましいよ」
誠也に話しかけてきたのは、同じく控室にいる隼人である。帰ってきてからは、割と落ち着いている。それでもこんなことを言ってくるのだ。おそらく緊張しているのだろう。
「まあな。俺は完全な脇役だ。両肩に何も背負っていない状態で、緊張も何もない」
「俺は人前に出るだけで緊張するけどな」
「俺は人前に出るわけじゃない」
誠也がやることは接客だ。どうせ誠也のことなど誰も見ていない。しかも、相手は同じ高校生だ。別に礼儀や接客態度に気を付ける必要もない。
「そうは言うが、お前が緊張しているとこなんて、見たことないぞ」
誠也だって緊張くらいするのだが、周りから見るとどんなときも自分のペースを崩さない超人だと認識しているらしい。誠也としては、あまり嬉しくないのだが、今とやかく言ってもしょうがないので、黙っておく。
今朝に比べてだいぶ顔色がよくなった隼人から視線を外し、控室内を見渡す。絵里と歩美は、この期に及んでまだ動いているらしい。準備・確認に余念がない二人は、おそらく最後の仕事をしているに違いない。ま、二人は表舞台に立たない。始まる前のほうが仕事が多いのは間違いないだろう。それに二人は完全に主催者だ。念には念を入れて、やりすぎということはない。
誠也の他には隼人がいて、そしてもう一人。絵里と歩美が主催者なら、こいつは主役である。
「う……ん……」
控室の端、ソファーの上で身じろぐ。どうやら目を覚ましたようだ。
「あ、琴吹さん。おはよう」
隼人が声をかけると、目をこすりながら、辺りを見渡した。今日の主役、琴吹亜子である。しばらくキョロキョロと控室内を見渡す。そして、隼人を見て、誠也を見た。そこでようやく状況を思い出したようで、
「今何時?」
と聞いてきた。
「今、十時だよ」
隼人が自分の腕時計を見て答える。
「そう……」
まだ完全に目が覚めていないのだろう。頭が回っていない様子で、言われたことをじっくり考えているように見える。そして、
「ってことは、あと一時間で開演ってこと?」
「そうだね。あー、緊張する」
隼人は亜子に説明しながら、自覚してしまったのだろう。しっかり自覚してもらわないと困る。隼人がきちんとこの役目を終えないと、誠也としても不安である。誠也は今日でお役御免だと思っている。しかしそれは、隼人がしっかり役目を果たし、もう一人でやっていけるだろうという、ある程度の成果を見せなければならない。そうでなければ、まだまだ誠也が補佐として必要だと考えるに違いない。是非とも万全の活躍をお願いしたい。
ところで、と思い、誠也は亜子を見る。
「…………」
亜子の体調はどうだろうか。亜子は寝る前に風邪薬を飲んでいる。そして一時間以上の睡眠をとった。これで少しはよくなっているといいのだが。
誠也はゆっくりと立ち上がると、亜子に近づいた。
「どうだ?睡眠をとって、少しはすっきりしたか?」
直接的な言葉は使わない。近くに隼人がいるのだ。体調不良を隠している亜子にとって、ここはばれるわけにはいかない。おそらくこれでも亜子には伝わるだろう。
「うーん、どうだろう」
亜子は立ち上がると、大きく伸びをした。そこで若干頭を左右に振る。
「うん。すっきりしたね。身体も軽い」
どうやら少しは回復したらしい。ま、薬が効いているだけかもしれないので、まだ油断はできないが、少なくとも悪い情報ではない。
「あれ、琴吹さんそんなに眠かったの?寝不足?」
今の二人のやり取りを見ていた隼人が目ざとく突っ込んだ。正直嬉しくない突っ込みだったが、これは答えるしかあるまい。それも、誠也ではなく亜子が。
「えっと……」
急に振られた亜子は明らかに動揺していた。寝起きということもあるし、不意を突かれたということもあるだろう。これではうっかり口を滑らせてしまいそうだ。仕方がない。少し手を差し伸べてやるか。
「どうせ緊張しすぎて眠れなかったんだろ」
誠也が言うと、
「誰が!何であたしがこの程度で緊張しなきゃいけないのよ」
「じゃあ何でそんなに眠そうなんだよ」
「そ、それは……」
再び亜子が言い淀むと、
「ま、まあまあ二人とも落ち着いて。とりあえず琴吹さんがスッキリしたならよかったよ」
これで、これ以上追及してこないだろう。誠也としては十分な仕事に満足していたのだが、
「…………」
代わりに亜子の機嫌を損ねてしまったらしい。本当に扱いが難しいやつである。
「ところで、絵里と歩美は?」
「あー、二人は最終確認に行っているよ」
「あたしはまだここにいていいの?」
「いいと思うよ。時間が来れば、呼ばれると思うから」
亜子は隼人と話すことで、だんだんといつもの調子を取り戻していた。隼人は誰かと話すことによって、緊張をほぐしているようだった。さすがというべきか。
亜子の機嫌に関してはどうでもいいのだが、体調が回復したというのは喜ぶべきところだった。誠也としては具体的な確証がほしい。とりあえず体温を測らせたい。
「何にせよ、その寝起き丸出しの顔を何とかしてきたらどうだ?それだとさすがにファンはがっかりするだろう」
言って、スタッフから借りたタオルを渡した。
「大きなお世話よ。あんたに心配されるほど落ちぶれちゃいないわ」
大層な返事をして受け取ると、表情が変わる。おそらくタオルの中に、何か忍ばせていることに気づいたのだろう。
「そんな顔で凄んでも怖くないぞ。さっさと行って来い」
誠也は亜子の目を見て言う。亜子も誠也から目を離さなかった。おそらくこれで何かを読み取ったのだろう。亜子はゆっくり視線を外すと、ソファーから立ち上がった。
「別にあんたに言われてなくても顔くらい洗うわよ。あたしに指図しないで」
全く口の減らない女である。誠也はため息をついて、亜子を見送った。とりあえず熱は測ってくれるだろう。一応約束はした。誠也の言うことを聞いてくれないのなら、誠也も協力しないだけだ。
「誠也」
亜子が控室を出ていくと、隼人が話しかけてきた。
「何だ?」
「お前、亜子ちゃんと何かあった?」
この一言にはさすがに驚いた。なぜそう思ったのか。
「…………」
何にせよ、おそらく確証があるわけではあるまい。何となく、雰囲気を感じたのだろう。ここは誤魔化すに限る。幸い、妙なリアクションは取らなかった。
「何かってなんだよ」
「何って言われると困るんだけど……」
と言って、思案顔になった。
「いつもより亜子ちゃんに話しかけてない?」
誉めてもいいくらい、鋭い。誠也をよく知っていて、亜子をよく見ている。今は誉めるタイミングではないのだが。
「そうか?俺はあまり意識していないが」
隼人本人もいまいち自信がないようなので、誠也が誤魔化すのは簡単だろう。ただ、今後は気を付けなければいけないだろう。気を付けるにしても、いったいどうすればいいのだろうか。全く話しかけないわけにもいかないし。ある程度は亜子に気を回す必要のある誠也としては、相当難しいところである。
「それに、何となくだけど亜子ちゃんも少しおかしい気がする」
それはどっちの意味だ?病気のせいか。それとも病気を隠して、誠也と結託しているせいか。どちらにしても今日の亜子は少しおかしいだろう。隼人の感覚は間違っていない。
「本人に聞いてみたらどうだ?少なくとも、俺には分からなかったが」
「そうか。また気になったら聞いてみようかな」
一番危険なのは絵里だと思っていたが、どうやら隼人も気を付けなければいけなかった。はっきり言って甘く見ていた。自分のことでいっぱいいっぱいだと思っていた。落ち着いた途端、こうなるとは思わなかった。
誠也としては、ばれてしまったほうがいいのかもしれない。そうすれば、余計な面倒事に巻き込まれずに済むし、パーティーも強制的に終了だろう。楽、という意味では、そっちのほうが断然に楽だろう。何しろ、ここまで頑張っても誠也に得はない。
ただ、やはり約束は守るべきだろう。誠也から言い出すことはできない。隼人や絵里たちが気付いてくれれば、それが最高だ。
しかし、と誠也は思う。隼人たちが亜子の異変に気付いてしまった場合、おそらくパーティーは中止になるだろう。そうなると、亜子の思いはどうなる。一生懸命作り上げたパーティーの計画。ここまでの努力。そして、絵里たちの時間や思い。亜子は、これらを全て背負っている。延期になり、後日行ったパーティーが成功を収めれば、まだいい。しかし、成功しなかったら?亜子の言うとおり、手遅れになってしまったら?全ては水泡に帰すだろう。
ならば、このまま亜子の病気を全力で隠し、パーティーを終えるのが正解なのか。無事に終えれば、最高だろう。しかし、無事に終えなかったら?亜子の病状が悪化したら?会場の客に感染したら?
誠也のジレンマはとどまるところを知らなかった。終わることのない葛藤。答えなんて出せるはずがない。誠也にはこのパーティーの価値が分からない。病を押してまで、やりきらなけばいけないものなのか。理解できない。そして、ようやくたどり着く。自分で言った通り、誠也は部外者なのだ。だから、判断ができない。
誠也は自ら部外者を押し通してきた。深くかかわる気などなかった。しかし、ここにきてそれが仇になったと言っていいだろう。
「どうした、誠也」
誠也の挙動に妙なところを感じたのか、隼人が声をかけてくる。
「いや、何でもない」
誠也まで隼人に心配されてどうする。ただでさえ隼人は自身のことで精いっぱいなのだ。
「どうやら俺も柄になく緊張しているようだ。ちょっと外に出てくる」
「おいおい、さっきの威勢はどうした?」
「さあな。一応言っておくが、俺だって緊張することくらいあるんだよ。それより、お前は自分のことに集中しろ。今日がお前の進退を決定する日だと思え」
「ちょ、お前、何で緊張を煽るようなことを言うんだよ。あー、この野郎、心臓が口から飛び出そうだ」
そういう隼人を見て、誠也は微笑む。
「せいぜい緊張しろ。必ず成功させろよ、俺のためにもな」
「あぁ、すまんな。頑張るよ」
誠也は宣言通り、控室を出た。結局結論は出ていない。何をやればいいのか。誠也は何に尽力を注ぐべきなのか。それとも注がないべきなのか。とにかく、頭を整理すべきだろう。誠也はまっすぐエントランスに向かう。
「わ、」
その道中、亜子と会った。
「何だ、あんたか。あれ、どっか行くの?」
飄々とした態度。見るからに回復している。このまま治ってくれればいいのだが、さすがにそれは楽観視しすぎだろう。
「ちょっと、出てくる」
「そう。いってらっしゃい」
と言った直後、
「何かあった?」
「…………」
隼人といい、亜子といい、どうして他人の心配ばかりするのだろうか。今に関して言えば、二人とも自分のことで精いっぱいのはず。
「別に何もない。あんたは自分の心配をしろ」
誠也は当然の主張をした。すると、
「だったら心配しないような顔しないさいよ」
「何だと?」
誠也には意味の分からない言葉だった。
「あんた、今何か辛そうな顔しているわよ。何か悩んでる?それとも困っている?」
辛いか、と問われれば、答えは否だが、悩んでいる・困っているは正解だ。だが、そんなことを言うわけにはいかないので、隼人のとき同様適当に誤魔化す。
「気のせいだ」
「気のせいじゃないわよ。いいから、理由を話しなさい」
この発言に、誠也は驚いた。
「何よ、その顔」
不機嫌そうに亜子が言う。今自分がどんな顔をしているか分からないが、誠也は理由を答える。
「あんた、意外とおせっかいなんだな」
「……悪い?」
別に悪くはないが、これは意外だと誠也は思った。
「別に本気で心配しているわけじゃないわよ。ただ、借りを返すチャンスだな、って思っただけ。深い意味はないわよ」
慌てて言うと、実に言い訳臭くなる。
「大声出すな。身体に障るぞ」
「……あんたって本当に嫌なやつね。誰のせいで大声張っていると思っているのよ」
それは誠也のせいなのだろうか。よく分からないが、その問題は脇に置くことにする。
「残念だが、あんたに借りを返すチャンスはない。別に俺は困っていない。ただ、ちょっと考え事をしているだけだ」
「本当に?それならいいけど……」
微妙に納得していない様子の亜子。亜子の立場を考えれば当然と言えるが、ここは黙らざるを得ない。
「ところで、隼人が若干あんたの異変に気付き始めているぞ」
「え?本当に?あんた、何か変なこと言ってないでしょうね」
言おうかと思った。というか、隠すのをやめようかと思ったが、それは保留にしてある。
「何も言っていない。あいつはあれで、細やかな気遣いができる男だ。ばれたくなけば、気を付けるんだな」
誠也は会話を終わらせて、外に向かおうとしたのだが、
「一応言っておくけど、」
という亜子の言葉で、再び振り返る。
「何だ?」
「あたしは、誰かのために今のパーティーをやっているつもりはないから」
「は?」
いまいち理解できない。
「だから、誰が犠牲になろうと、今日はやり遂げる。そう決めたから」
何が言いたいのか分からない。しかし、誠也が問いかけるより先に、亜子は控室に向かって歩き出してしまった。
亜子を引き留めることができなかった誠也は、もやもやした気持ちを抱えて、今朝方行ったコンビニへと足を運んだ。