第八話
フロントに問い合わせたところ、マスクは置いていないと言われた。さすがに空調をどうにかしようとすると、周囲に影響が大きすぎるし、別に暑くも寒くもないので、やめておいた。
控室に戻る前に、亜子はトイレに行った。そこで鏡を見る。確かに顔色はあまりよくない。ただ、あからさまに悪いわけではない。これなら問題ないだろう。自分の表情を確認した亜子は、とりあえず安心した。そこで、ふと気づく。
誠也はなぜ気づいたのだろう。
普段から亜子をよく知っている絵里や歩美ならいざ知らず、なぜ一番最初に誠也が亜子の異変に気付いたのだろうか。そもそも絵里や歩美はまだ亜子の異変に気づいていない。それなのに、この中で一番関係の薄い誠也が……。
考えながら歩いているうちに、控室にたどり着いてしまった。もちろん答えは出ていない。ま、今は置いておこう。さして重要な問題でもないし、今は他に考えなくてはいけないものが山ほどある。
亜子は、一つ大きく息をつくと、ドアを開けて控室に入った。
「あ、帰ってきた」
時間にして、およそ十分程度だろうか。とりあえずまだみんな控室にいたらしい。
「どうだった?マスクあった?」
「いや、やっぱりないって」
「そっか。どうする?空調頼んでくる?」
そこまでしてもらう必要はない。何せ、空気が乾燥している、というのは嘘なのだから。
「いいよ。できるだけ水分摂るようにするから」
亜子は先ほどまでいたソファーに戻る。少し疲れた。ばれないように演技するのは大切だが、頑張りすぎて本番前に悪化させては元も子もない。少し休憩しよう。
亜子はソファーに座ると、一息ついた。
「水あるけど、飲む?」
ペットボトルの水を手渡してくれたのは歩美である。
「ありがと」
礼を言って受け取ると、ゆっくり味わうように少しずつ体に入れる。
「亜子ちゃん、もしかして緊張してる?なんか、いつもと様子が違うけど」
含んだ水を吐き出しそうになった。
「そ、そうかな」
驚いたのとむせたので、思わずどもってしまった。
「うん。なんか変に静かというか無理矢理落ち着こうとしているというか。何となくだけど、違和感があるなって」
歩美は、変なところで鋭い。優しい表情とゆっくりとしたしゃべり方から油断しがちだが、ちょくちょくと鋭い突っ込みを入れてくる少女なのだ。いつもは笑って終わりだったが、今日に関しては、黙って笑っているわけにはいかない。
「なんであたしが緊張するのよ。あたしはいつものことだから、別に緊張なんてしないよ」
「いや、どうかなぁ。言われてみれば、あんたちょっと変だよね。緊張しているなら、そう言えよ。別にバカにしたりしないからさ」
これでおそらく誤魔化せただろう。実は緊張している。そして、それを隠している。それでいつも違って、挙動がおかしくなっている。きっとそう思ってくれたに違いない。
「だから、緊張してないって」
そう言って、亜子は眼を閉じた。そんな亜子の反応に、絵里はため息を吐いた。
「あんた、もしかして緊張しすぎて、昨日寝てないとかじゃないよね」
これには答えなくていいだろう。
「ま、亜子のことだから大丈夫だと思うけど。問題は斉藤だね」
絵里は、視線を亜子から隼人に移す。亜子も目を開け、隼人を見る。
「あんた、大丈夫なの?」
声をかけられている隼人は一向に反応しない。
「ちょっと聞いている?」
「え、あ、何?」
ここでようやく自分が話しかけられていると分かったようで、返事をした。
「少しは落ち着いたの?」
「え?ああ、まあ」
亜子から見て、まったく落ち着いているようには見えない。どう考えても、亜子よりも具合が悪そうだ。まさか、こいつも風邪を患っているのではないか。だとしたら、今日のパーティーはとんでもなくひどいパーティーになりかねない。
「斉藤くん、ちょっと散歩でもしてきたらどうかな?少しは気分晴れると思うよ」
バカにするでもなく、あきれるでもなく、全うなアドバイスをする歩美。おそらく、それがいいだろう。このままでは打ち合わせも段取りも、頭に入って来やしないだろう。
「ちょっと出かけてきな。というか行け」
と言って、絵里は強硬手段に出た。それほど今の隼人は重症であるらしい。下手したら亜子もこうなりかねないので、口を出さずにいた。隼人には悪いが、亜子は自分のことで精いっぱいなのだ。
「分かったよ。お言葉に甘えて、ちょっと出てくる」
隼人は案外素直に従った。おそらくこのままではまずい、と自覚しているに違いない。
「OK。とりあえず一時間前には帰ってきてね。ケータイは持って行ってよ」
「りょーかい」
隼人は怪しい足取りで、控室を後にした。本当に大丈夫なんだろうか。
「あー、一人で出すべきじゃなかったかも。笹原あたりを一緒に行かせるべきだったかな」
「確かに。逃げ出すとは思わないけど、どっかで倒れる可能性はあるかも」
とはいっても、まだ誠也は帰ってきていないのだが。
「ま、こういうときは一人のほうがいいでしょ。とりあえず一時間前までは大目に見て、それで帰ってこなかったら、考えよう」
ひとまず隼人に関する問題は棚上げすることにした。果たして、今日のパーティーは無事に終わるのだろうか。そういう亜子自身の体調も、かなり不安なのだが。
亜子は大きくため息を吐くと、ソファーに座り直し、目を閉じた。
隼人が控室を出てから、十分くらい経過しただろうか。ようやく誠也が帰ってきた。
「お、笹原おかえり。亜子のパシリご苦労様」
「誰がパシリだ」
控室に入ってくると、絵里と軽口を交わす。
「隼人は?」
部屋の中を見渡し、全員に問いかける。
「あー、何かやたら緊張しているみたいだったから、少し外に行かせたよ」
「なるほど。あいつ、ああ見えて、プレッシャーに弱いタイプなんだ。少し放っておいてくれ」
少しは心配するかと思ったが、そこは付き合いの長さでカバーしたらしい。それを聞くと、そこはかとなく不安になる亜子だった。
「これ」
ようやく亜子のもとにたどり着く誠也。
「遅いわよ」
「悪かったな」
全然悪く思っていない様子で、袋を手渡してくる。中を見ると、
「ヨーグルトとバナナ」
他には菓子パンが一つ。あとは、マスクと風邪薬と頭痛薬が入っていた。
「あと、これはみんなに差し入れ」
もう一つ持っていた袋からはペットボトルが出てきた。
「お、気が利くね。ありがと」
「ありがとうございます」
絵里と歩美は誠也に礼を言って受け取った。そして、再び亜子に振り返り、
「あんたにもやる」
と言って手渡してきたのは、スポーツドリンクだった。
「あ、ありがと」
今度は素直に礼を言って受け取る。どれも亜子の身を案じて選んでくれたものだろう。そして、おそらくこれほど時間がかかったのは、薬局を探していたからではないだろうか。こんな朝早くからやっている薬局はそう多くない。少なくとも、最寄りの駅までは行ったのではないだろうか。
「笹原、あんた本当にいいやつだね。いくら亜子に頼まれたからって、買い物なんて行かないぞ。完全にパシリ扱いじゃん」
そういえば、亜子が頼んで買い物に行ってもらった、というのは、亜子が適当に言った出任せである。当然、誠也とはそんな話していない。これはまずいと思った亜子は、
「べ、別に無理矢理行かせたわけじゃ、」
と言い訳じみた発言をしたのだが、
「別に喜んで行ったわけじゃない。こいつがやかましいから、嫌々行っただけだ」
誠也に対して、フォローは必要なかった。
「そういう風に言われると、亜子がかなりのわがまま娘に聞こえるわね」
「違うのか?」
「ま、ある意味そうだけど。お嬢様だし」
「ちょっとあんた、何様のつもりなのよ。絵里まで何を言うのよ」
疑われずに済んだのはよかったが、それにしてもひどい言い様である。さすがに頭にくる。
「でかい声を出すな。頭に響く」
誠也は間違いなく亜子の体調を考えてくれている。おそらく今の発言もそういう意味が含まれているのだろう。しかし、その言い方が気に入らない。いつもの不満をここで発散しているようにしか感じられないのだ。
「あんた、あとで覚えていなさいよ」
「何のことだ?」
あくまで白を切るつもりか。どうせ理解しているくせに。
「とにかく、亜子はさっさと食べちゃいなさい。歩美はあたしと段取りの確認。スタッフの人も交えて、もう一度やりましょ。笹原も確認しといて」
「分かった」
「あと、あんたは表に出るんだから、亜子と斉藤のフォローも頭に入れといてよ」
「善処する」
誠也の言葉には、感情が込められていないような気がするのは、気のせいだろうか。
「じゃ、あとよろしく。亜子はあんまりわがまま言わないように」
「分かってるわよ。子供じゃあるまいし」
「一応言っておくけど、笹原だってそこそこ忙しいんだからね」
そう言ってかわいくウィンクすると、絵里は控室から出て行った。
「亜子ちゃん、ゆっくりしててね」
絵里に続いて、歩美も退場。こうして、またしても誠也と二人になった。
亜子はため息を吐いて、ヨーグルトのふたを開ける。そして、考え事。絵里は誠也の肩を持つ発言が多い気がする。これも気のせいだろうか。亜子は、自分の機嫌が悪くなっているのを感じた。これも病気のせいだろうか。今日は機嫌が安定しない。
「どうした?さっさと食え」
病気のせいもあるが、こいつのせいもある気がする。
「あんた、わざとあたしのこと挑発してない?」
「そんなことをして、俺にどんなメリットがあるんだよ」
「それは、日ごろの鬱憤を晴らすとか」
誠也はため息を吐き、亜子の正面に腰かけた。
「どこからそんな自意識が生まれるんだ。なんだかんだ言って、割と真面目なんだな」
それはどういう発想からの発言なのだろうか。
「あたしが真面目で何が悪い」
「何も悪くないから、さっさと食え。そして、安静にしていろ」
誠也はとことん冷静だった。誠也に対して、すぐに食って掛かってしまうのは、誠也が冷静すぎるからではないだろうか。
「どうやら体調は多少改善されたようだな。さっきよりは目に生気がある。じゃじゃ馬っぷりもいつもに近い」
「あんたはいつもどおり嫌な奴に戻ってきたわね」
「憎まれ口も叩けるようになっているし」
こいつには嫌味も暖簾に腕押し状態だ。どうしたらこんなに達観できるのだろうか。同い年には見えない。
「とりあえずそいつを食べたら、薬を飲んでおけよ。あとでスタッフから体温計を借りてくるから、そしたら体温を測っておけ」
「分かっているから、命令しないで」
「悪かったな」
ヨーグルトを食べながら、誠也を見る。誠也は、控室にあった雑誌を適当に読んでいた。じっくり読むわけではなく、暇つぶし程度に読んでいるだけだろう。興味があるようには見えなかった。
亜子はため息を吐く。誠也が何かに対して、興味を抱いているところなど想像もつかない。そもそも今回のことも、なぜ誠也がここまで尽力を尽くしてくれているのか、亜子は分からないのだ。誠也は、隼人のため、というが、ならば、亜子や絵里、歩美に対して、そこまで気を遣う必要はないと思う。むしろ、隼人より亜子たちに対する気の遣いようのほうが上回っているような気がする。これは気のせいなのだろうか。
「なんだ、何か用か?」
亜子が注視していたせいか、誠也が視線に気づいた。
「別に何でもないわよ」
「気になるなら、どこか行っていようか?」
やはり亜子に気を遣っている。ここまで来ると、自分のほうが何か悪い気がしてくる。
「別にいいわよ。あんたが好きなようにすれば」
「そうか」
誠也はもう一度座り直した。
「あんた、斉藤の心配はしなくていいの?」
なんか、自分ばかり気を遣われるのは、若干気分が悪い。本来誰の補佐でここにいるのか思い出させようとしたのだが、
「心配いらないだろ。あいつはああ見えて本番に強い」
どうやら誠也は忘れていたわけではないようだ。しかし、その言い分はさすがに信じがたいものがある。
「あいつ、そんなに本番に強いの。今のところ、そんな雰囲気は全くないけど」
「ま、あんたが信じられないのも無理はないと思う。今日でその認識を改めればいいさ」
ここまで自信満々に言われると、少しだけ腹が立つ。
「そうなることを祈っているわ。無理だと思うけど」
「見てられなくなったら、手を出すよ。それまで放っておく。それより、あんたは自分の心配しろよ」
その通りなのだが、何か気に食わない。あの隼人より、亜子のほうがダメな子扱いされているような気分になってしまう。
「ほっといてよ」
「ほっとけるかよ。少なくとも、今日はな」
雑誌から顔をあげて、何でもないことのように言う誠也。これは誰かに聞かれたら、誤解されるのではないか。真剣な表情でじっと見つめてくる誠也。さすがの亜子も、これには耐えきれず、先に視線を外した。ギブアップだ。
「分かったわよ。少なくとも、今日は一日大人しくしているつもりだから」
元より今日のパーティーを台無しにするようなマネはするつもりはない。今日自身が風邪をひいてしまった時点で、大人しくしようとはしていた。だが、こんな形で誠也にばれてしまったせいで、誠也に従うような状況になってしまった。これがいただけなかった。悔しいし、腹が立つ。しかし、今日を乗り切るには、誠也の助けが必要不可欠であるように思えるのだ。
「そりゃ重畳」
そういうと、またしても雑誌に視線を戻した。この男、本当に何を考えているのか分からないな。
「今回のことも借りにしておくわ」
「またそれか。好きだね」
「好きでやっているわけじゃない!」
「でかい声を出すな。体に響くぞ」
誰が好き好んで大きな声を出していると思っているのか。
「とにかく、この前のケータイの件と今回の件、借りは二つあるから。覚えといて」
「分かった。特に利用する機会もなさそうだけどな」
この男は、本当に嫌な奴だ。亜子は改めてそう思った。これ以上誠也に借りを作らないために、少し体を休めよう。今日は無難に終えなければ、大変なことになる。そう思った亜子は食事を終え、薬を飲むと、本番までのわずかな時間、睡眠をとることにした。