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猫日記  作者: 田山歴史
6/24

第六話 猫と楽しい草野球(黎明編)

 私は猫である。名前はファリエル=ナムサ=オーレリア。毛並みは青に近い黒を持つ、まごうことなき美雌猫である。



 それは、是雄の給料が出た月末のことである。

 山口家では奇妙な風習があり、給料が出た日には絶対に持ち帰りの寿司と決まっている。おこぼれをもらえたりするので私としては嬉しいのだが、なぜ寿司なのかは謎だ。

 白い老爺ろうやがますこっときゃらくたーをやっている鳥の唐揚げでもいいではないかと思わないでもないが、まぁそれはそれとして魚はいただいておこう。

 阿呆のように高額な、でりばりーのぴっつぁよりはましなわけだし。

 そんなわけで、山口家の四人は美味しい寿司を堪能していたわけだが、不意に家長(真)であるリンダが思いついたようにポツリと言った。

「あ、そういえば今度の休みに庭の草取りしなきゃ」

 リンダの一言に、是雄と冬狐が即座に顔を逸らす。まぁ、当然の判断だろう。誰だって休みの日に蚊に食われながら庭の草むしりなどしたくないに決まっている。

 そして、リンダの矛先は顔を逸らさなかった文雄に向かう。

「文雄はやってくれるよね?」

「あ、ごめん。その日は用事があるから家の手伝いはできない」

「用事って……あ、もしかしてぇ、デ〜トですかなァ?」

 その言葉とほぼ同時に虫程度なら蒸発できそうな激烈な殺気が冬孤から放たれる。

 普通ならその尋常ならざる気配に気づくはずなのだが、リンダは気づいた素振りすら見せない。分かってて無視しているのだとしたら相当の大物なのだが。

 が、文雄はあっさりと首を振る。

「や、友人に誘われて、学校で毎年やってる野球の大会に行くんだ。なんか、生牡蠣に当たったとかで試合前に三人ほど食中毒で倒れちゃって、急遽即戦力になりそうなメンバーを集めることになったってわけ。僕の他にも1、2人に声をかけてくれって言われた」

「兄さんのようなもやしっ子が即戦力……ですか?」

「まぁ、なんでもいいんだろ。どうせ草野球だし、人数さえ揃えば二足歩行型のロボットでも一向に構わないって言ってたし」

 草野球を愛されている方々には申し訳ないのだが、運動嫌いな男の言うことなんてこんなもんである。

 しかし、野球か……人間の遊戯としてはかなりの有名どころであるが、猫である私はやったことはない。ルールもかなりうろ覚えである。

 唯一知っているのは、『接触』とかいう野球の漫画である。双子の兄弟が一人の女をめぐってドロドロの愛憎劇を繰り広げる漫画だったような気がするが、なんか、途中で弟が死ぬらしい。やっぱり兄あたりに刺されるのだろうか? 呼吸をとめてとかなんとか、そういう歌詞があったような気もするし、大きく間違ってはいないだろう。

 と、デートじゃないと分かって安心したのか、冬孤は口元を緩めた。

「でも、草野球に誘われるなんてまるで有名な漫画の主人公みたいです。もっとも、ウチに猫型ロボットはいませんけどね」

「いない程度で丁度いいんじゃない? 本物の猫のほうが可愛いし」

「役には立ちませんけどね」

 猫なめんなよ、クソアマ。時折世界とか守ってるっちゅーねん。

 まぁ、私は大人だからそんなことは思ってもいない。人間は人間らしく、猫神は猫神らしく生きればそれでいいのである。

 冬孤もそう思っていたのか、笑いながら肩をすくめて言った。

「猫の役割は、適当に甘えて、適当にゴロゴロしていればそれでいいのです。猫嫌いの人間以外の幸せは保証されますよ。ほーら、プー。あなたの大好きなお刺身よ?」

 刺身は大好きだが、罰げーむさながらにわさびがてんこ盛りになった刺身など食えるか。刺激物が苦手な動物に対してその仕打ちはどう考えても在り得ない。お前の心は地獄製か、それとも私に対して激烈な殺意でも抱いているのか。

 辛党というのはつくづく恐ろしいと思う今日この頃である。

「冬狐、猫はもちろん普通の人間でもそのお刺身に口をつけるのは躊躇すると思うよ。ほら、プー。こっちをお食べ」

 文雄が差し出したマグロの赤身を私は美味しくいただいた。

 うむ、やはりこの男は物事が分かっている。冬孤は味覚がおかしいし、リンダは自分のものは自分のものと主張する方なので、基本的におこぼれをいただく時は男衆を狙うのが常套手段だ。

 そして、おこぼれをもらう時はにゃーんとか言いながら甘えて擦り寄ったりするともらえる確立が高くなる。プライドはこの際捨てておこう。

 ちらりと冬狐のほうを見ると、不機嫌そうな表情をしていた。

「……死ね」

 さらりと呪詛の言葉を吐かれた。

 時々思うのだが、冬狐は本当に人間なんだろうか? 人間なら、いくらなんでも飼っているペットに嫉妬したりはせんだろう。

 と、私が無言の殺意を素知らぬ顔で受け流している最中、不意に文雄はなにかを思いついたように、ポンと手を打った。

「あ、そうだ。いっそ冬孤も草野球に参加してみたら?」

「え?」

「どうせメンバー足りてないんだし、女の子が一人入ったくらいなら大丈夫でしょ。冬狐なら僕より活躍できそうだし」

「いいんですか?」

「いいさ。たまには体を動かすのも悪くないだろ?」

「……そうですね」

 と、言いながら冬狐の口元はにやけている。あれは絶対に、なにかよからぬことを企んでいる顔だ。間違いない。

「まぁ、仕方ありません。兄さんの顔を立てるために、参加してあげましょうか。あくまで、仕方なくですけどね?」

「はいはい。帰りになにか美味しいものでも奢るよ」

「では、お寿司は今日食べてしまったので、美味しいお肉でも」

「はいはい」

 なるほど、そういうことだったか。

 つくづく悪魔的な妹である。



「プーちゃん、プーちゃん」

 その夜のことだった。いい感じに眠っているところを、起こされた。

 目を開けると、山口家主人(真)こと金髪の専業主婦失格女、山口リンダが眠っている私の顔を覗き込んでいる。

 彼女はあまつさえ私が必死こいて毛づくろいした尻尾をいじりながら、にこにこと笑っていた。尻尾に触るなと言いたいところではあったが、私は大人なので、ここは大人らしく、大人な対応をしておく。

「……死んでしまえ、クソ女」

「さらりと死ねとか言わないでほしいなー。冬狐ちゃんじゃないんだからさぁ」

「なんの用だ? 私は呼吸と睡眠で多忙だ。用事なら他を当たれ」

「んー……そうしておきたいんだけどね、ちょっと相談がありましてね」

「相談?」

「相談というか、頼み事かな」

 リンダは少し言いづらそうにしながら、自嘲気味に苦笑した。

「文雄ちゃんたちが行く週末の野球大会ってやつさ、ファリエルちゃんも一緒に行ってやってくれない?」

「一緒に行くって……私は猫だぞ?」

「人に化ければ簡単でしょ? 私の友人ってことで、なんとかならない?」

「なんとかなるとは思うが……。その頼みごとに意味はあるのか?」

「意味はあるようなないような。……まぁ、ちょっと不安なのかな、うん」

 リンダらしくない曖昧な言い方で、それを本人も自覚しているようだった。。

 私は少し考えて、結局溜息を吐くだけに止めておいた。

「たかが野球の試合だろう? なにをそんなに心配する?」

「分かっちゃいるけどね……私が付いて行くわけにもいかないし、かといって私の友達に頼むんじゃ不自然だし。冬孤ちゃんがいるなら大丈夫だろうとも思うんだけどね」

「…………ったく」

 言い方が曖昧すぎる。別に怒りはしないのだから、正直に言えばいいだろうに。

 まぁ、気持ちは分からないでもない。

 文雄が押入れにしまいこんである品を見れば……なんとなく、なにがあったか程度は察することができるのだから。

「……ばか親だな、お前は」

「うん……そうだね」

「一つだけ条件がある」

「条件?」

 リンダが不思議そうな顔をすると同時に、私は猫の姿から人へと転化する。

 もちろん、服は着ていないので素っ裸だが別に気にしなければどうってことはないし、気になるなら空気中に舞っている繊維から作り直せばいいだけのこと。

 窓からちらりと外を見ると、空には綺麗な満月が浮かんでいる。

 今日は良い月だ。友達の烏と殺し合ったことを少しだけ忘れるには、丁度良い。

「確か、是雄が趣味で集めたワインの中にいいものがあったろう? あれが飲みたい」

「えっと……さすがにそれは後が怖いかなー。是雄ちゃん、仕事終わりに一口だけ飲むワインが唯一の楽しみみたいなもんだし」

「なに、こっちもとっておきを出すさ。半分ずつ飲んで残りを渡せばいい」

「……まぁ、それならいいかな」

「了解、交渉成立だ」

 腑に落ちないリンダとは対照的に、私はにやりと口元を緩める。

 さてさて……それじゃあ久しぶりに、美味い酒に酔うとしようか。



 山口文雄は小説家である。出版した本は現実的でもなく、かといって異世界の物語でもなく、恋愛でもなく、話題性もなく、ハードカバーでもなく、ぶっちゃけて言えば『そこそこ』以上の面白さもない本ばかりだが、売り上げが安定しているおかげで小説を書き続けられるのはありがたいことだった。

「……ふあぁ」

 欠伸をしながら、文雄は不意に時計を見て顔をしかめる。

「うお……もう一日が終わるじゃん。そろそろ寝ないとまずいな」

 パソコンに向かったのが、夕飯が終わった直後。その後はずっと執筆活動に勤しんでいた文雄は、目元を揉みほぐしながらゆっくりと息を吐く。

「やれやれ……野球大会、か」

 ほんの少しだけ昔のことを思い出して、さらに溜息を追加する。

 文学少年がスポーツ少年だった頃があった。

 今では仕方の無いことだと割り切っているが、そのきっかけになった出来事を思い出すと色々と考えてしまう。

 出会いがあって、生き方が変わってしまった。

 世界が変わって、その中でも変わらないものがあった。

『良かったじゃねぇかよ、親友。お前は無事に生き延びた。五体満足で生きてるじゃないか。……それだけで、お前は幸運なんだよ』

 変わらないものの一つは、真っ赤な少年はそう言って笑っていた。

 文雄はとてもじゃないが笑えなかった。

 今は……その時の自分が、いかに馬鹿だったのかよく分かる気がする。

「……風呂入って寝よう」

 色々と考えてしまうと思考が悪い方向に向かうことは分かっていたので、文雄は思考を打ち切って席を立つ。

 部屋を出て一階にある風呂場に向かう。山口家の人間は全員が綺麗好きの風呂好きではあるが、夜の9時までには全員が入浴を終えることが大半だ。

 お湯は冷めているかもしれないが、沸かし直せばいいだろうと思いながら、文雄はいつも通りに脱衣所の扉を開けた。


「………………へ?」


 全裸の美女が、少しだけ驚いた表情で文雄を見つめていた。

 文雄はなにが起こったのか一瞬分からなくなり、次の瞬間には扉を閉めた。

 脳裏に焼きついた光景は、それはそれは扇情的かつ魅力的なものだったが、それよりも在り得ない事態に頭の方がオーバーヒートを起こしそうになる。

(な……ちょ、どういうことだっ!?)

 見も知らない他人が、自分の家の風呂場を我が物顔で使用中。

 胸は大きい。髪は綺麗。目は大きい。年齢は20歳前半くらい。可愛い。

(違う! そうじゃない! そうだけどそうじゃない! 落ち着け自分!)

 パニックに陥りそうになっている自分自身を鼓舞し、ゆっくりと息を吸う。

 女性の裸を見るのは初めてだがそれはどうでもいい。男性の部分の自分は全然どーでもよくないですぅと言っているがそれはそれでどうでもいい。問題なのは、赤の他人が風呂場を勝手に使用しているという事実の方で……。

「すまないな、ちょっと体を洗いたいので風呂場を借りている」

「ああ、そうなんですか……じゃねえええええええええええええええええええ!」

 文雄は外客専用の笑顔を無理矢理作ろうとして、あっさりと失敗した。

 脱衣所にいた女性は、脱衣所にいたそのままの姿で文雄の隣に立っていた。

「ちょ、服! 服を着てください!」

「服は洗濯中だ。リンダの奴が私の背中でケロリと吐いてしまったのでな。ったく……だからあれほど飲み過ぎるなと言っているのに。人の忠告を聞かない奴だ」

「いいから脱衣所に戻ってください! 服なら僕が用意しますから!」

「む、それはありがたい。いやいや、正直どうしようか途方に暮れていたところだ。下着の方は期待してないから、とりあえず大きめのものを頼む」

「じゃ、脱衣所の方で待っててください」

「心得た」

 美女は笑いながらそう言うと、素直に脱衣所に戻って行った。

 文雄は即座にきびすを返して階段を登って自分の部屋に戻る。

「……なんなんだ、一体」

 ゆっくりと息を吐く。その瞬間に脳裏に焼きついてしまった美女の姿を思い浮かべてしまうが、思い切り頭を振って煩悩を振りほどく。

 大きめのものと言われていたので、とりあえずタンスの中にあったTシャツと中学生くらいに履いていた体操着のハーフパンツを取り出して一階に向かう。

 思い切り深呼吸して脱衣所のドアをノックすると、なんの前触れもなく扉が開いた。

「うむ、思ったより早かったな。ありがたく使わせてもらう」

「…………ええ、はい。どうぞ」

 着替えを渡して扉を閉める。

 閉めてから、文雄は頭を抱えて思い切り溜息を吐いた。

(……なんで自分が裸だって分かってるのに開けちゃうのかな!)

 忘れようと思っていたのに再び脳裏に焼きついた芸術作品っぽいものを、文雄は今年最大の努力で脳の奥の方へと押しやる。

 勿体無いような気はしたが、文雄は溜息を吐くだけでその煩悩を抹殺した。

 再び脱衣所の扉が開く。そこにいたのは先程よりは刺激的ではない、服装に身を包んだ彼女だった。

「ふむ、思った以上に大きかったな。いやいや、すまんな。山口の息子」

「……あの、貴女はどこのどちら様なんですか?」

「私の名前は霞耶猫子。お前の母親の友人だ。今日はいい酒があったので久しぶりにリンダと一杯やろうと思ったんだが……。まぁ、酒は飲んでも呑まれるなということで」

「母さんはあんまりお酒強くないですからね。僕もですけど」

「私もほどほどでやめるようには言ったんだがな」

 言いながら、猫子と名乗った女は苦笑する。

 先ほどの無防備な立ち振る舞いとは裏腹に、どこか遠くを見ているような目が、文雄は少しだけ気になった。

「どうだ、山口の息子。リンダも潰れてしまったし、私の服が乾くまででいいから一献付き合わないか?」

「未成年です。……って、それ以前に僕は本当にお酒は駄目なんですよ」

「む、下戸か。それは仕方ないな」

 霞耶猫子と名乗った彼女は、少しだけ口惜しそうに唇を尖らせる。

 ほんの少しだけ溜息を吐いて、彼女は微笑んだ。

「では、今度は茶かこーひーでも自賛するとしよう。もう夜も遅いからな、そろそろ私は自宅に戻るとするよ。着替えはまた明日取りに来よう」

「あの……その薄着で帰るつもりですか?」

「別に問題はなかろう」

「大ありです!」

 文雄は思わず叫んで、またもや頭を抱える羽目になった。

「あの、女性にこんなことはあんまり言いたくないんですけど言っていいですかっていうか、霞耶さんって羞恥心とかないんですかっ!?」

「人並程度にはあるつもりだよ。……文雄こそ、女の裸を見た程度で慌てたり赤面したりと、反応がとてもとても面白いことは自覚があるかな?」

「………………」

 文雄は思わず口元を引きつらせる。

 文雄はあまり女性と縁の無い男だったが、それでも一発で理解できた。

 霞耶猫子。奇妙な名前の美女。妹とも母親ともクラスメイトとも違うタイプの女性。慎ましやかでもなく、ある程度の距離を取るわけでもなく、明け透けなように見せて、その実なにを考えているのかよく分からない……そういう、女だった。

「まぁ、善意は受け取っておくが、私はリンダに迷惑をかけたくない。もちろん、その息子である君にもな。君が上着を貸してくれれば薄着ということもないだろう」

「……さりげなく図々しいですね」

「そうふてくされるな。からかっていたことは謝るから」

 クスクスと楽しそうに笑う猫子に背を向けて、文雄はこっそり溜息を吐く。

 一瞬で悟る。この女性は、とても可愛く美人だが文雄にとっては鬼門に近い。

 直感的に、そう悟ってしまった。

 しかし、そんなことはお構いなしに、霞耶猫子は口元を緩めた。

「しかめっ面も悪くはないが、男は笑った方が可愛いぞ。笑ったほうが周囲も明るくなるし女にももてる。いいことづくめだ」

「……別に、女の子にもてようとは思ってませんし」

「ほう? それはそれは生意気な発言だな、小僧」

「小僧呼ばわりされる筋合いもありません」

「ふむ……まぁ、それもそうだな」

 霞耶猫子は真面目な表情で文雄を見つめ、不意に口元を緩めた。

「山口文雄」

「なんですか?」

 ちゅっ、と軽く音が響く。

 なにをされたのか一瞬では理解できず、頬に残った柔らかい感触と甘い匂いだけが印象に残っていた。

 唖然としている文雄を尻目に、彼女はにっこりと笑う。

「まぁ、小僧ではないが大人でもなかろうよ。キス一つで動揺しすぎだ」

「……な、ななななななななぁっ!?」

「ではな、文雄。今度は一緒に茶でも飲もう」

 上着は借りずに薄着のまま、霞耶猫子は軽く手を振って玄関から出て行った。

 なんとなく頬を押さえながら、文雄はその後姿を見つめることしかできなかった。

「なんなんだ、あの人は?」

 呟く言葉は空虚に響き、文雄は思い切り溜息を吐いた。

 不意に震える右腕を、左手で押さえつけ、文雄は目を細めてぽつりと呟く。

「……羨ましいとか思ってんじゃねぇぞ、山口文雄。僕は親友どもとは違うんだから」

 望んでいたことはたくさんあった。

 望んでいないことだってたくさんあった。

 文雄はゆっくりと溜息を吐く。それだけが慰めであるかのように、深呼吸のようにゆっくりと息を吸い、吐いて、それから拳を握る。

 納得なんてできなかったけれど。

 諦めることはできた。



 少しばかり悪いことをしたかもしれないと反省してみたので、私は私なりに猫らしくはないけれど、お節介を焼くことにした。

 翌週の休日。文雄曰くの野球の大会の日。私は暇潰しもかねて、文雄の学校のぐらうんどにやって来ていた。

 グラウンドでは小汚い野球の衣装、ゆにふぉーむだかなんだかに身を包んだ、青臭い小僧どもがなにやら『ばっちこーい!』などと叫びながら球を投げたり打ったり走ったりして忙しそうだ。

 うむ、学生という職業の人間は今日も楽しそうに日々を過ごしているらしい。

 点数を見ると、どうやら文雄の学校が5−0で勝っていた。

 なんだ、思ったよりも善戦しているではないか。まったく、リンダのやつも心配性というかなんというか。

 と、私が少しだけ安心しようとした瞬間、文雄のチームのベンチから凄まじい殺意が放たれた。

「答えなさい、貴方はなに? 簡単なセーフティバントを失敗してしまった貴方は一体このチームにおいてどのような存在だと思っているのかしら? 塁に出て走者を貯めるのがお仕事の1番さん。貴方が塁に出ないということは、つまり貴方は1番でもなんでもないわよね? 1番なのに塁に出れず、1番なのにバント失敗って……存在する意味とかあるのかしら」

「……お、俺は」

「ねぇ、1番さん? 言うべきことが、あるわよね?」

「す、すみません! 俺は打順が1番なのにバントを失敗したヘタクソです! 虫けらも同然です!」

 バントを失敗した選手は、号泣しながら土下座をしていた。

 ……えっと、これはなんだ? スポーツという名の拷問かなにかか?

「そうよ……あんたがどうしようもないヘタクソだからバントを失敗したのよっ!」

「げはぁっ!」

 悪鬼のような表情で選手に金属バットを振るうのは、冬孤だった。

 腹を押さえて喘いでいる選手を踏みつけ、高らかに叫ぶ。

「いい? 『負けてもいいや、どーせ親善試合だし』なんてふざけたことを考えているから舐められるのよっ! やるからには勝つっ! 勝つためには殺るのよっ! 勝てば官軍負ければ奴隷! この試合の間だけ、貴方たちは人間から虫けらに成り下がる! 虫は生きるためにはなんだってするわ……そう、どんな手段を使ってでも、生き抜くのよ!」

「あの、冬孤? さすがにそれはやりすぎかなーって思うんだけど」

「うるさいですよ、兄さん。そもそもの問題は、このド低能どもが勝手に『勝利チームのMVPには山口(妹)のキスを進呈』なんて決めてしまうから……こんなことに、なってしまったんですよ? 悲劇は最初から始まっていたのです」

「まぁ、あっちのチームがそれで殺気立ってるのは認めるけどさ……」

 どうやら、そういうことらしい。

 確かに冬孤は内面は悪鬼羅刹だとしても、胸部バストというパーツを除けば、外面は純和風な美少女である。性格が最悪だろうとも、部活の助っ人なんかをしている悪鬼羅刹は、多分他の学校でも話題になる程度には有名なのだろう。

 ぐりぐりとバントを失敗した選手を踏みつけ、冬孤は地獄の修羅のごとき見るも恐ろしい笑顔を浮かべて叫んだ。

「つまりっ! 私自身がMVPになる以外に道はないってことなんですよっ! 分かりますかっ!? 分からなかったら殺しますけどっ!」

「理屈は分かるけどさ、そんなに意地にならなくてもいいような……」

「四の五の言ってないでさっさと守備につきさないっ!」

「はいはい……」

 苦笑しながら文雄はグローブをもって守備につく。よく見ると、文雄以外の選手は全員疲労困憊で、例外なく傷を負っている。

「ライトっ! そのフライを落としたら一生後悔させてあげます! サードぉっ! なにトンネルしてんですかっ! 母親とか兄妹に危害を加えられたくなかったらちゃんとやりなさいクソ虫っ! セカンドっ、体臭がきついから死になさいっ!」

 野球に関することから、冬孤が不快に思うことまで、ありとあらゆる罵声がナインに浴びせかけられていく。

 どうやら、全員が冬孤を恐れて、全力以上の力で野球をやっているらしい。

 しかも、攻撃の時には、

「いい? 死んでも塁に出なさいっ! どうせ相手のピッチャーは間違いなく〇〇で〇〇なんだから恐れることなどなにもないっ! しかも〇〇〇〇マニアに違いないわ。ああいうやつは××××だから、絶対にカーブしか投げてこないに決まってる!」

「……冬孤、あのね、これは一応親善試合なんだよ? ほら、向こうのピッチャーさん、冬孤の迫力にびびって完全に引いてるじゃないか。お願いだから、全部伏字にするような暴言は勘弁して。きっと、困るのは後輩たちだからっ!」

「兄さんは黙っててっ! これは、相手にスライダーを投げさせるために策略の一つなんだからっ!」

「そこで言ったら意味がないんじゃないかなぁ……」

「へいへい、ピッチャーびびってますよー! 月の無い夜には気をつけることね!」

 そりゃびびるよ。だってそれ、挑発じゃなくてただの脅迫だもん。

 まぁ、実際はすらいだーではなく、ちょっと狙いの甘い直球を投げさせるための策略だったらしい。冬孤がなにやらばったーに耳打ちしていたのがちょっと聞こえたのだがその話の中の、「……もしも打てなかったら、生きてることを後悔させてやるから、死んでも塁に出なさい」という言葉は聞かなかったほうがいいのだろうか?

 そんなこんなで、七回表が終わって、点差は12−0。圧倒的である。

 しかし……ワンサイドゲームになってしまうと、見てるこっちとしてはまるで面白くない。やってる本人たちは死に物狂いなのだろうが、もう一波乱くらいあってもよさそうなものだ。

 と、そこで天啓が閃いた。

「くっくっく。まぁ、たまにはこんなのもよかろう……」

 私は笑いながら、久しぶりの悪巧みを実行することにした。



 山口冬孤は必死だった。必死になっていた。

(兄さんの前で……キスなんて破廉恥な真似ができるもんですかっ!)

 だからこその、全打席ホームランに、ノーヒットノーラン。冬孤は己の全能力をフル活用して、試合に完璧に勝利するつもりだった。野球は全員でやるものであるが、今だけは違う。なるべく全員が均等に活躍するように采配し、その中で自分だけが突出するようにしなければならない。

「……強い体に産んでくれた母さんに感謝、かしらね。不本意だけど」

 と、心にもないことを呟いた、その時だった。

「そちらのちーむのえーすだけが接吻をするというのも、不本意であろう? ならばこちらも褒美というやつを用意せねばなるまい?」

 なぜか、聞き慣れた気がする声が、聞こえてきた。

 明らかに女子高生とは思えないような色気を持つ女だった。

 蒼い髪に、まるでモデルのような体型。猫のようなつり目が印象的。胸のサイズが段違いな時点で冬孤は女に殺意を抱いたのだが、彼女は気づいてもいないようで悠々と女王のように歩みを進めて、なんの躊躇もなくグラウンドに踏み込んだ。

「あ、あんた一体……」

「お前の学校の助っ人であろう? ピッチャー?」

「えっと………」

「そうであろう?」

「は、はい。その通りデス」

「うむ。よきにはからえ」

 タイムがかかり、ピッチャーが交代される。

 その美女はTシャツとGパンというラフな服装で、マウンドに立っていた。

 明らかに周囲から浮いているが、彼女は不敵に笑うだけだった。

 まるで自分がルールであるかのように、傍若無人に振舞っている。

「なんなのよ、あの変な女はっ……」

「なんか、向こうの助っ人みたいだね。それどころか、こっちのチームが勝ったら、あの人にキスをしてもらえるとかなんとか」

「はぁ!?」

「よかったじゃない。こっちが勝てばキスしなくていいんだし」

「……ちょっと待って下さい」

 立ち上がり、冬孤はタイムを取ってからマウンドに向かう。

 女はロージンバック(ピッチャーが手につける白い粉)を珍しそうに眺めていたが、冬孤の気配に気づいたらしく、振り向きながらにっこりと笑った。

「ああ、向こうのピッチャーか。なにか用か?」

「……貴女、どこのどちら様ですか?」

「助っ人だ。ついでに言えばそちらが勝利した場合の賞品でもある」

「このまま行けば、貴女は私とキスをする羽目になるんですが、もしかして同性愛の方なんでしょうか?」

「残念だが、私は男の方が好きだ。だから……この場合は好みの男と接吻できるように全力を尽くすべきだな、うん」

「………どういうことでしょう?」

「試合開始から、地味に活躍している男が一人、いるだろう?」

「っ!?」

 慌ててベンチに取って返し、選手ごとの成績が刻まれたボードを見る。

 そこそこの打率、完璧に近い防御率、いくつかの盗塁。

 それが、今日の山口文雄の成績だった。冬孤によって完璧に統制され尽くされた他の選手より、二歩ほど抜きん出ている。

「簡単なことだろう? お前を潰せば、MVPはその男になる」

「……なるほど、そういうことですか」

 金属バットを片手に、冬孤はにやりと笑う。

 それは魔女皇の笑み。障害を叩き潰す王者の笑みである。

 黒いオーラを立ち昇らせながら、冬孤はバッターボックスに立った。

「……殺してやる」

 相手を見据え、完璧に打ち返すつもりで、手に力を込めた。

 が、


 ドゴォッ!!!


 気がついた時には、ボールは轟音と共にキャッチャーミットに収まっていた。

「な……っ?」

「甘いな、山口の娘。その程度で私を止められると思うたか?」

 ニヤリ、と蒼髪の女は不敵に笑う。

「己が死ぬ程度の覚悟は見せろ。話はそれからだ」

 冬孤は、唇を噛み締めながら悟る。

 目の前の女は、これまでに見たこともないような化け物だ。

 だが負けることは許されない。負けられない。

 なによりも、女の誇りをかけて、負けられない。

「上等よ。………絶っ対に、負かしてやるっ!」

 冬孤は叫んで、蒼い髪の女を見据える。

 女は、不敵に笑った。 

と、いうわけでコメディに復帰です。なぜかマウンドに上がった猫。剛速球に苦戦する妹。そして、のんびりした兄。果たして、冬狐は兄を猫の魔の手から守ることができるのか!?

次回、猫と楽しい野球(熱風血風地獄変)を、お楽しみにっ!!



2008/6/28 修正

なんで大幅加筆修正とかやっちまったんだろう。ありえん(笑)

いい加減に美里さんエンドを書かなきゃいかんのだけど、ネタはとっくに思いついているのだけど、ティガレックスがなかなか倒せんので困っている今日この頃。

……なんで仕事忙しいのにモンハンとか始めちゃったんだろう。

と、いうわけで次は美里さんエンドになる予定……かな?

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