第弐十参話 猫とナンパと少年たち(前編)
狂おしく、その想いは胸に咲く花のように。
山口文雄がその電話を受け取ったのは、三連休の初日のことである。
電話の相手は獅子馬麻衣だった。
『やっほー、先輩。明後日ちょっとでかけませんか?』
「分かった、死んでくれ」
ブッ。
ほぼ即答で電話を切り、文雄はパソコンに向かう。
「まだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合うまだ間に合う」
ブツブツとなにかに憑かれたかのように『まだ間に合う』と呟きながら、文雄はとんでもないスピードでパソコンに文章を入力して行く。あと二十ページを今日中に仕上げなければ……担当が直接ここまで乗り込んでくる。
それだけは、なんとしてでも避けなければならない事態である。
しかし、それを遮るように再度電話が鳴った。
あからさまな舌打ちをしながら、文雄は電話に出た。
『ひどいですよ先輩ーっ! 速攻で切るなんてっ!』
「やかましい! こっちは三日ほどろくに寝てないんだよっ! ついさっきなんて緑色の怪人がハードディスクを壊していく夢をうっかり見ちゃってぐうあああああああああああああああああああっ!!」
『……先輩、もしかして……かなり切羽詰まってますか?』
「………………詰まってない」
ぶっきらぼうに言い放ちながら、文雄は地獄のような苦さのコーヒーをすする。
そして、ゆっくりと溜息をついた。
「最近、色々あってね。ちょっと原稿が手につかなかっただけだよ。断じて昨日が〆切りだったなんてことはない」
『じゃあ、明後日でかけても問題はないわけですね?』
「……僕が生きてたらね」
『かなり切羽詰まってますね〜』
「詰まってない。未だかつてないド修羅場だけど、切羽詰まってない」
文雄の思考回路は人に対する思いやりというものを忘れる程度にショート寸前である。その虚勢が全く意味のないものであることに、本人すら気づいていなかった。
「それで、今回はどんな用事なのさ?」
『いや、実はこの前コンパをしたんですけど』
「……君たち、中学生だろ」
『早熟な子は、色々とやってるみたいですよ。むしろ先輩が遅すぎるっていうか』
「……………放っておいてくれ」
『まぁ、色々と事情があるみたいですから深くは訊ねませんけど。………それで、そのコンパの席で始くんがこれ以上ないほどバッキバキに固まってしまいましてね。女の子に声をかけることもできないという有様で』
「へぇ……」
『あんまりにも酷いもんですから、今度ナンパでもして耐性をつけようかと』
「……それはスキーの初心者に上級者コースを滑らすようなもんじゃないか?」
『その通りです』
電話の向こうの声は、明らかに笑っていた。
文雄は眼鏡を外し、疲れた目をマッサージしながら言う。
「で……なんで僕も誘われたのかな?」
『いえ、なんとなく。先輩も似たようなものかな、と思いまして』
「……ま、たまにはそういうのもいいか。……後で覚えてろよ」
『本当に切羽詰まってますね〜』
「詰まってない」
三日間ほどろくに寝てないという事実は、人間から思考能力を奪う。
一刻も早く会話を切り上げたくて適当に返事をしたことを、後に文雄は思い切り後悔するのだが、この時はそんなことは考えもしていなかった。
『じゃ、明後日、駅前に集合ってことで。言っておきますけど、いつもの『ユニ〇ロ』オンリーみたいな衣装で来ないでくださいね?』
「はいはい、生きてたらね」
電話を切って、文雄は深呼吸する。
「さて………と」
そして、パソコンのモニターを親の仇のように睨みつけ、
自分の物語のクライマックスを描き始めた。
私は猫である。名前はファリエル=ナムサ=オーレリア。毛並みは青に近い黒を持つ、まごうことなき美雌猫である。
もっとも、今は霞耶猫子として山口家に呼ばれたわけだが。
客間に通された私を待っていたのは、山口家の問題児こと山口冬孤。
とはいうものの、私に紅茶を煎れたきり、じっと沈黙を保っている。
私も彼女にならって沈黙を保つ。窓の外を見ると、今日はとてもいい天気だった。こういう日は近所の散歩をするか、あるいは日光浴なんかが最高なのだが、不本意なことながら、『約束』をしてしまった。
昨日のことだ。私は縄張りを回り終え、そのまま文雄の部屋で寝ようとしていた。
しかし、そんな私を呼び止める一人の山口家主人(真)こと、山口リンダ。
「あ、ファリエルちゃん。実は相談があるんだけど」
「なんだ?」
「明日、『霞耶猫子さん』として家まで来てくれない?」
「……嫌だ。面倒くさい」
「冬孤ちゃんが二人きりで話したいことがあるんだって」
「……なお嫌だ。面倒くさい」
「ていっ」
ばふっ、となにかの粉末が舞う。
「明日、『霞耶猫子さん』として家まで来てくれない?」
「うん。分かったよっ! どーんと任せちゃってっ!」
混濁した意識のまま、私は快活に返事を返していた。
以上、回想終了。
………またたびは卑怯だ。アレは猫にとっては酒に等しい。
ついでに、私は酒に強くない。
まぁ、卑怯は卑怯だが、約束は約束。
猫にとって約束は果たされなければならないものである。
お互いになにも言わずに十分が経過した。そろそろ、沈黙にも飽きた。
「で、用件とはなんだ? 私も暇ではないのだがな」
「………………」
私の正面に座っている冬孤は、俯きながら紅茶を一口飲んだ。
そして、決意を固めたかのように、私の目を真正面から見返す。
「………話は二つあるんですけど、いいですか?」
「ああ、別にかまわないさ。今日は本当は暇なんでな」
「知ってます。母さんが言ってましたから」
一瞬、テーブルをひっくり返してやりたい衝動にかられたが我慢する。
そう、私は大人なのだ。私を頼って冬孤が『相談』などという稀有なことをしようとしているのだから大人的に我慢しなくてはいけない。いや、むかついてなんていない。暇は暇なんだけど猫の暇と人間の暇は質が違う。暇そうに見えても猫だってあくせく働いているのだ。そこのところを勘違いしてもらっては困る。
……とりあえず、リンダを後で殴ろう。子供には我慢する必要があるが、大人には我慢する必要はないはずだ。この『約束』だってまたたびで酩酊したところで無理矢理取り付けられたわけだし。人間の法律だって酩酊状態での約束事は破棄できると定めてあるじゃないか。猫の法だってそうなっている……じゃ、ないか。
「どうしたんですか? いきなり苦虫を噛み潰したような顔になって」
「いや、なんでもない」
すっかり忘れていた。酩酊状態での約束は破棄できるんだった。間抜けといえば、そう言われても仕方ない。忘れていた私が悪い。
仕方なく……私は呼吸を整えて、冬孤が口を開くのを待つ。
冬孤は、真剣な顔で、深刻な口調で言った。
「兄さんの様子が……ちょっとおかしいんです」
一瞬でピンときた。
とうとう文雄もそういうことに目覚めたか。
「……あぁ、それはアレだ。思春期特有の行動というか、男の子には誰しもそういう時期があるから、家族は温かい目で見守ってやらなきゃならんぞ。少なくとも『エロ』の類があっても動揺してはいけない」
「そういうのとは違いますっ!」
ダンッ! と冬孤は思い切りテーブルを叩きつけた。二つのティーカップが一瞬宙に浮き上がり、少しばかり派手な音が響いた。
自分でやっておいてその音に驚いたのか、冬孤は顔を引きつらせる。
気を取り直すように、こほん、と咳払いをして話を続けた。
「その……なんていうか、そわそわしてるんです」
「そわそわ?」
「昨日、原稿が〆切りだったみたいなんですけど、校了を出して一眠りしてからなんか様子がおかしいんです。いきなり皮のジャケットを買ったり、財布を新調したり、お洒落なズボンを買ったり、ファッション雑誌みたいなのを買ってるのも見たし……。いつもなら分厚い専門書を買ってきたりするのに」
「……正常な健康的男子の姿に戻ったってことじゃないか?」
「そんなの駄目ですっ! 兄さんらしくありませんっ!」
なにが駄目でどういうのが文雄らしいのか、詳しく聞いてみたい気分ではあったが、それをやると話がこじれた上に進まなくなるので自粛する。
代わりに、聞いてみた。
「前々から思っていたが……。冬孤、お前文雄のどこがいいんだ?」
「え?」
「いや、ただの興味だ。お前が文雄のことを好きなのは分かっているが、なんであんな朴訥な男に惚れたのかな……と少し気になったものだからな」
私がそう言うと、冬孤はかなり難しそうな顔をして腕組をした。
「……私のことを特別扱いしないから、かな」
「ん〜……確かにアイツは優しいし厳しいけど、誰にだってそうだと思うぞ。人間関係に関しては、抜群に距離の取り方が上手い。まぁ、家族に対しては少しだけ歩み寄っているが、それでもまだ距離を開けている気がする」
言いながら、私は苦笑する。
その生き方は、苦しい生き方をあえて選んだ文雄の選択だ。誰にでも優しく、厳しく、それでいてある一定以上には踏み込まないし、踏み込ませない。
あんなことがあったにも関わらず、文雄は変わっていない。
いや、変わっていないのではない。変わろうとしている。
しかしその変化の方向に……『誰かと一緒にいる』という選択はない。
優しく、厳しいからこそ、あいつは最も厳しい道を選ぶ。
自分以外の誰かのために。
ゆっくりと息を吐いて、私は悩み続ける冬孤を見つめる。
「昔な……文雄みたいな男を見たことがある」
「え?」
「朴訥で鈍感で、それでいて頑なだった。いつも前を向いているように見えて、いつも後ろを向いているような馬鹿だった。私はいつもそいつを見ては心配をしていたけれど……ある日、心配しなくてもよくなった」
「どうしてですか?」
「その馬鹿に惚れて、無理矢理押し倒した女がいたからさ」
「…………へ?」
唖然とした冬孤を見つめながら、私は口許を緩める。
「参考までに覚えておけ。最終手段だが、最適手段でもある。男はいつの世も『既成事実』には絶対に勝てん」
「き、きき既成事実ってっ!?」
「覚えておく程度でいい。真面目に考えるなよ? ただ、あの手の『受身』な男は基本的に強硬手段に弱い。人と距離を取っているようなヤツは、なおさらな」
にやにやと笑いながら、私は真っ赤になった冬孤を観察する。
そう……息子を婿にくれと言い放ったあの女も確かこんな感じだった。お互いに好き合っていたのに、一歩が踏み出せないから最後の手段に出ると言った、あの馬鹿息子を兄のように慕ってくれた、白くて鼻の頭だけが黒い猫。
今はどこでなにをしているのかは分からないが、多分元気でやっているだろう。
あの女を息子に紹介したのは……私の猫生の中でもそれなりにいい結果だと思える。昔は最悪だと信じて疑っていなかったけれど。
笑いながら、私は言葉を続ける。
「まぁ、好きなら好きでいいんじゃないか? お前は『文雄のどこが好きなんだ?』と言われた時に、真剣になって考えたじゃないか。それは別に好きなところが見つからなかったんじゃなくて、『どんなふうに好き』なのか真剣に考えただけだろ?」
「……まぁ、そうですけど、ね」
思考を見透かされて恥かしいのか、それとも腑に落ちていないだけか、冬孤は少しむくれながら私を見つめる。
私は、笑顔を返した。
「理屈じゃない。常識や指標なんて関係ない。一生懸命考えて生きたのなら、もしも間違っていたとしてもそれは誇るべき生き方だ。賢くなくて頭が悪くても、必要なことを必要な時に最速でできる人間は、それだけで無敵になれるのさ」
「……意味分かんないですよ」
冬孤はそう言いながらも、口許を緩めていた。
柄にないことを言ったかもしれないな。まぁ……たまにはこんなのもいい。
「話は逸れたが……文雄がそわそわしていると言っていたが、どんなふうにだ?」
「えっと、なんか珍しく『面倒そう』な顔してるんです。嫌々っていうか……柄にないことをやらされてるって感じで。普段ならなんとも思わないんですけど、最近はちょっと色々あって……それで、またトラブルに巻き込まれてないか心配で」
なるほど、そういう事情か。
さてさてどうしたものか。文雄が友人にナンパしようとに誘われて、思考能力が足りなくなっている時にうっかり頷いてしまったのを私はばっちり見ていたわけだが。
冬孤は俯きながら、複雑そうな表情を浮かべた。
「前までは、私が勝手に嫉妬してただけなんですけど……なんか、兄さんってやたらと変な女の子にもてるんですよね。この前はそれで色々あったみたいで……」
「だから心配か?」
「……そうです。余計なお世話だし、いらない心配だと思うんですけど」
いや、その予感はこの上なく正しい。文雄は優しく厳しい態度が相手の目にどう映っているのか分かっていない。
ごく自然に当たり前。そういうものに惚れてしまう奴もいるというのに。
「それで、冬孤。お前はどうしたい?」
「……兄さんが変なことに巻き込まれてるんだったら、全力で阻止します」
真っ直ぐ見返すその瞳には、揺るがぬ決意。
やれやれ……恋する乙女もここまで来れば上等だ。ただ、色々とまずいような気がしないでもないが、それはまぁ本人たちの問題なので私には関係ないし。
猫ってことなかれ主義だしな。
どーせ冬孤が文雄を押し倒す度胸もないだろうし。逆もまた然り。
「……なんか、失礼なこと考えてません?」
「いや、全然。……まぁ、それはそれとして、もう一つの相談ってなんなんだ?」
「あ、はい。実はそっちが本題なんですけど……」
冬孤は佇まいを直して、真っ直ぐに私を見つめる。
その眼があまりに真剣で迫力があったので、私は思わず息を飲んだ。
これはかなり深刻な悩みかもしれん。
「実は……私、分からないんです」
「……分からない?」
「私、色々考えたんです。でも、考えれば考えるほど……兄さんの好みとか、全っ然、さっぱり、これっぽっちも分からないんですっ!」
「………………」
いや、なんていうか、本人必死なんだろうが。
そんなこと、私に言われてもかなり困る。
「こんなこと友人には相談できませんし、かといって母さんには絶対に相談したくないし……。そんなわけで、究極に不本意ですが、貴女にご足労いただいたわけです。霞耶さんはなんだか無駄に経験豊富そうですから、男心を掴むコツも知っているかと思いまして」
少しは殊勝になったかと思えば、やっぱり冬孤は冬孤だった。
しかし、人に教えを乞うその態度は褒めてもいいかと思う。
煮えくり返る内心を押さえながら、私は笑顔を浮かべて言った。
「そうだな……とりあえず下着姿で迫れば男心なんぞ軽く掴めるぞ」
「……そういうことじゃなくて、ですね」
「いやいや、私の『無駄な経験』に基づくと大体そんな感じだぞ? というか、私は男心を掴むコツなんぞこれっぽっちも分からんなァ。なんせ、夫は私にベタ惚れだったし、恋愛即結婚だったからな。あっはっはっは」
「くっ、いちいち言うことが癇に障るっ」
ギリ、と歯を噛み締めながら、冬孤は私を睨みつける。
その視線を心地良く感じながら、私は口許をにやりとつり上げた。
「大体お前、十五年ほど一緒にいて、兄貴の好みの一つも分からんのか?」
「し、仕方ないでしょうっ! ……兄さん、そういうのあんまり話さないですし」
「あんまりじゃなくて『一切』という気がしないでもないけどな。というか、家族に喜々としてそういうことを話す男が異様だ。ましてや双子の妹になんぞ絶対に話さんだろ、どう考えても」
「そりゃ……そうですけど」
「そういう意味では、お前はかなり不利だな。ゼロからというよりマイナスからのスタートだ。艱難辛苦の恋路だが、是非とも頑張ってくれ」
「うぅ…………」
「もしかしたら、そわそわしているというのはデートかなんかかもしれんし」
「デートッ!?」
悲痛に叫ぶ冬孤に、追い討ちをかける。
「ああいう朴念仁はやることだけはしっかりやってそうだしなァ。もしかしたらとっくの昔に勝ち目なんて消失してるかもしれん。はっはっは、ご愁傷様」
「…………うぅぅ」
「まぁ、あんな朴念仁と付き合おうなんて女がいるかどうかが謎だが」
「そんなことはありませんっ! 兄さんの良さが分からないのは、自分を律することすらできない駄目人間だけですっ!」
「兄貴に惚れる変態よりはましだと思うが?」
「………くっ」
悔しそうに冬孤は唇を噛み締める。
いや、実際には状況は冬孤が思っているほど酷くはないのだが、それくらい言っておいたほうがいいだろう。断じてクソミソに言われた腹いせとか、ちょっといじめてやろうなどとは考えてもいない。……ちょっと笑ってやろうとは思っているが。
「まぁ、男の好みに合わせてやろうというのはいい傾向だな。しかし、相手の好みがさっぱり分からんのでどうしたらいいのか分からない。そういうことだろ?」
「………そういうことです」
なるほどなるほど……素直に認められるようにもなったか。
確かに、相手のことが全く分からない状態で立ち向かうのは無策以外の何者でもない。敵を知り、己を知れば百戦危うからずというが、それは別に戦に限ったことではない。どんなことにだって適用できる。
それに、『仇敵』に頼みごとをするくらいに恥をかなぐり捨ててきた女に対して今さらフェアもへったくれもあるまい。
「……となれば、やることは一つだな」
「どういうことですか?」
「なに、単純なことだ」
邪悪に笑いながら、私はきっぱりと言った。
「装い、化かして、騙してやるのさ。その言葉の文字通りに」
さて、それじゃあ……。
ナンパに誘われて困ってしまうような、
かっこつけ少年の化けの皮でも剥がしてやろうか。
後編に続く。
えっと、二ヶ月ぶりの更新になります。読んでくださっている方にはかなりの辛抱を強いたことをお詫び申し上げます。そして、読んでくださっている方には最大級の感謝を。
後編はすぐに出ると思います。お楽しみに(^^)