第弐十話 猫と少年と愛の試練(後編)
少年は独り。
ただ世界を直死する。
最初に見た時は、女の子かと思った。
綺麗な黒髪を肩まで伸ばしたその子は、滑って転んで骨折した間抜けな私とは裏腹に、とんでもない重体から回復した人だった。もうほとんど助からない状態で病院に担ぎ込まれ、奇跡的に一命を取り留めたというのだ。
ただ、なぜか目に包帯を巻いていた。見えないのかとも思ったけど、彼の両親の話を盗み聞きした感じでは、どうやらただいくじがないだけらしい。
その子は大抵の場合、病室にはいなくて、必要な時だけ何食わぬ顔をして、ひょっこりと病室に戻ってくる。医者や看護婦はその子が常に病室にいると信じて疑っていなかったし、仮にいなかったとしても大抵の場合『トイレです』で済まされるのが関の山だった。要領がいいのだろう、と私は勝手に解釈した。
でも、同じ病室にいた少年は、肩をすくめて否定した。
「違うんじゃない? あれはそう……確認作業だね」
灰白色の魂を持つ、ナチュラルに嘘をつきまくる少年の言葉を、私は最初から信じていなかったし、信じようとも思わなかった。狼少年の例にあるように、嘘を吐き続けた少年の話を、誰一人として信じなくなったように。
でも……よりにもよって一番肝心なところで本当の事を言わなくてもいいと思う。
確認作業。その言葉を、私は深く考えなかった。
ある日のことだった。
病院の屋上で、私はフェンスを乗り越えているその子を見つけてしまった。
黒髪の子は、ぼーっと空を見上げていた。
見えないはずの空を、見上げているようだった。
「なにしてんの?」
問いかけると、その子はぽつりと言った。
「……や、そろそろ死のうかと思って」
「ふーん………はぁ?」
あまりにもさりげない一言だったので、私は思わず聞き逃すところだった。
その子は、風に吹かれながら、言った。
「まァ、伏線は引いてあるんだ。目が見えない、もう駄目だ、どうしようもないってずーっと言ってきた。病院に入って意識を取り戻してから、ずっとね。だから今ここで僕が死んだとしても、ある一人を除いて誰も疑わないわけだ」
「……そんなこと、私に話していいの?」
「……おっと」
その子は、ばつが悪そうに頬を掻いた。
「ついつい人に言っちゃったね。いやぁ、失敗失敗」
「……どうせ、本気じゃないんでしょ?」
「本気さ」
風が、その子の髪を撫でていく。
私はその子に歩み寄り、フェンス越しに溜息をついてやった。
「死ぬ気があるのなら、さっさと飛び降りればいいじゃない?」
「……悩むのは人生の美徳だよ」
「意味が分からないよ。どっちにしても死ぬ気はないんでしょ? 馬鹿な子供みたいに拗ねてないで、さっさとこっち側に戻ってきたらいいじゃない。どーせ、『死ぬ』なんて格好だけのくせして」
死にたい気分は私も同じようなものだから、私は言った。
その子は少し唖然として……口許を緩めた。
「……なるほど、確かにそうだね」
「………え?」
「もう『確認』も終わったし、やることもなくなったしね」
「なに、その確認って」
「この世界の確認。とりあえず色々見たけど、なんにも変わらなかった」
その子は、ごく自然に苦笑した。
綺麗な笑顔を私に向けたまま、
「……じゃね」
何の気もなしに。
ひょい、と飛び降りた。
「っ!!?」
焦ったのは私だ。ちょっと挑発しただけのつもりだったのに、その子はあっさりと飛び降りてしまった。そして、間の悪いことに私の体は自然に動いていた。師匠に『千年に一度の逸材だ』と太鼓判を押された舞歩で瞬時にフェンスを乗り越え、地面に落下しつつあるその子に向かって、遮二無二手を伸ばした。
届かなかった。しかも、フェンスを掴みそこなった。
自由落下の浮遊感。数秒後には地面に衝突して、平たくなる自分があまりにも容易くイメージできた。
思わず、目を閉じた。
ガクン、と体が揺れる。誰かに病院服を掴まれて、私は息が詰まるのを感じた。
襟首を掴んでいたのは、髪の長いあの子だった。
どうやら、飛び降りるふりをして下の階にある私たちの病室の窓枠を掴んで、開けっ放しだった窓から器用に病室に飛び込んだらしい。
そして、上から降ってきた私をぎりぎりでキャッチした、というわけだ。
私を必死の形相で引き上げて、その子は呆れたように息を吐いた。
「なにやってんの?」
「……あなたが飛び降りたから助けようと思って……」
言葉が出てこない。助けようとして助けられたなんて、笑い話にもならない。
それでも……髪の長いその子は、口許を緩めた。
「ありがと」
「……え?」
「ありがとう、助けようとしてくれて」
その言葉に、面食らった。
恥かしいことかもしれないけど、私はそういうことを言われた経験がなかった。
顔を赤らめながら、一応反論しておく。
「べ、別に助けようと思ったわけじゃないわ……」
「……へんなの」
「なにが?」
男の子は不思議そうな表情を浮かべて、
「……人を助けるのに、理由なんて要るの?」
そんなことを、あっさりと言ってのけた。
絶句する。何も言えずに私は……そこであることに気づいた。
胸の光が見えない。全く見えない。いつもならそこにあるはずの『魂の輝き』がどこにも見えない。いくら目を凝らしても、なんにも見えなかった。
と、そこでようやく気がついた。
その子の包帯が取れてしまって……顔がちゃんと見えた。
その眼を、見てしまった。
「貴方……その目。もしかして、魔眼?」
「ん? ああ、そうか。なるほど……君も『同類』ってことだね」
「同類ってことは……貴方も?」
「……そうみたいだね」
実は少年だった彼は、にっこりと笑っていた。
まるで探し求めていたものを見つけたように、安堵の微笑を浮かべていた。
「僕の名前は山口文雄。……君は?」
こうして、私たちは出会った。
あれから数年が経った。退院してからも私たちはちょくちょく遊ぶようになって、それは中学校に入ってからも続いていた。私は文雄くんのことが好きだったのだけれど、彼はなにも言わず、私もなにも言わず……楽しい時間は過ぎていった。
私が『あの人』と出会ったのは文雄君が高校に入った直後。
ほんの些細な偶然から、私は出会ってしまった。
出会ってしまったから、私は壊そうと決意しようとした。
出会ってしまったから、私は自分を追い詰めることにした。
自分が間違っていると、確信を持とうとした。
私が心底願っている『世界を壊したい』という欲望よりも、私の我がままなんかよりも、もっと大切なものがあることを……思い知りたかった。
正義と愛と希望があることを、知りたかった。
正義はあった。たくさんの正義の味方がそれを証明した。
でも、愛はどうなんだろう? たくさんの人が愛を持つ。誰かを好きになる。だけれど、私が一番好きなあの人は、好きな人はいないと言った。
どんなに問い詰めても、いないと言い切った。
「……ねぇ、文雄くん。貴方は……どんな世界を見ているの?」
問いかけに意味はない。
私は、その問いかけに答えられる彼を待ち続ける。
ガソリンのなくなったバイクを乗り捨て、文雄は歩いていた。
目的地には到着している。休みの日には港から釣り舟が出る海岸。そこから少し歩いた所にある、大きな倉庫。かつて貿易が盛んだった頃に栄え、今はもう役目を果たした古びた倉庫である。手紙には、そう書いてあった。
そして……その指定された倉庫の前に、男が立っていた。
皮肉げな瞳に、いつも緩んでいる口許。黙っていればハンサムと言える顔立ちなのだが、人を食った態度のせいでそうとは感じられない。灰色のロングコートの下はYシャツにスーツのズボンという訳の分からないいでたちで、その二つともよれよれである。唯一、ロングコートだけはパリっとしていた。
にやけた笑いを浮かべながら、男は気軽そうに手を振った。
「よ、少年。どうやら素直に来てくれたみたいだな」
「……冬孤は、どこですか?」
「あっちの倉庫で気絶してる。もっとも、オレが鬼畜野郎だったらとっくの昔に傷物になってるだろうがね。運がよかったな、少年」
「………………」
文雄は、無表情だった。
安堵すらせず、ただ男を睨みつけているだけだった。
「……なんで、こんなことをするんですか?」
「ん?」
「最初はなんかの冗談かとも思いましたよ。あなたのことは師匠からよく聞かされていましたし、実際見た感じ『そのまんま』っていう印象です。……師匠、よく言ってましたよ。『夢幻惨殺は女の子には甘い』って」
「……噂じゃねぇよ。オレは女の子には無条件で甘いんだ」
男は、にやりと笑う。楽しそうに笑った。
「だから今回も、余計なお節介を焼こうと思ったのさ」
「……意味が分かりません」
「オレはいわば『愛の試練中ボス』だよ、少年。オメガや神竜みてーなもんだ」
「……それ、ラスボスより強くありませんか?」
「強いさ。だから必死こいて手加減してやるよ」
口許を緩めて笑いながら、男は真っ直ぐに文雄を見据えた。
そして、以前に文雄が星野海に問われたことを、そのまま口にする。
「……お前は誰か好きな人はいるか?」
「……分かりません」
「ああ、そりゃいけない。男は女の子を好きになってなんぼの生き物だ。それに、柔らかいしいい匂いするし、しかも最高に可愛い。オレの家には今四人ほど同居してるんだが、そこはもうなんていうか天国って感じの状況なんだが……はっきり言って地獄に近い。男一人に女四人だと肩身が狭いんだよなァ。……もちろん、オレは全員を平等に愛しているけどな」
「……最低じゃないですか、あんた」
「ああ、そうだな。否定はしないよ。オレは最低だ」
男は、ゆっくりと目を細めて少年を凝視した。
その眼は、既に笑ってなどいなかった。
「つまるところ、オレは『優しさ』を『甘さ』と履き違えた馬鹿野郎だった。義妹を甘やかすだけ甘やかして、従妹をなるべく傷つけないように振舞って、友達を恋愛対象とするのを恐怖して、災厄を傷つけるだけ傷つけた。……後から考えたら、阿呆なことばっかりやってた。今考えると……死にたくなるようなことばっかりだ」
「……なにが、言いたいんですか?」
「そんな奴でも、今のお前よりはましだってことだよ」
笑わない目と、皮肉げに緩められた口許。
殺意の込められた瞳は、どこまでも冷徹に文雄を見据える。
「嘘ついてんじゃねぇよ。誤魔化してんじゃねぇよ。お前の本業は嘘吐きか? それとも詐欺師か? 違うだろ? たかが『地獄』を直視した程度でなーに『ぼくはひとをすきになれない』とか達観してんだよ。馬鹿か、お前。その眼を含めて、その醜さや歪さも含めて、お前のことを好きになってくれた『普通の』女の子がいるんだぜ? それが……幸せでなくてなんなんだよ?」
「………………」
「オレはお前の気持ちなんて分からん。海ちゃんや冬孤ちゃんのことを本当に好きか嫌いかも分からない。だが、興味がないんだったら、せめて……きっちり振ってやれ。それが男としてのケジメだろうが?」
文雄は、目を細めていた。
それを甘んじて受けるように目を細めていた。
少年は知っていた。
男の言葉が、なによりも正しい言葉であることを知っていた。
「はい、そうですね。僕もそう思います」
少年は、怒っていた。
男に怒っていたのではなく、
自分自身に、怒っていた。
そして、
「でも、僕は死んでもそれを認めません」
少年は、自分の心を初めて口に出した。
男は目を細めて、文雄を睨みつける。
「……テメェ」
「あなたの言うとおりです。僕は二人から逃げ出すために、『竜の里』に行くことを決意しました。最後にこの世界でやるべきことをやって……全部捨てて、逃げるつもりだったんです」
男に向かって、少年は微笑を浮かべた。
寂しそうに笑っていた。
「大体、『好き』だの『嫌い』だの、本当に下らないにも程があると思いませんか? そんなものにこだわってる人間は冗談抜きで低俗すぎて吐き気がする。僕は誰も好きになりたくないのに、僕は誰も好きになれないのに、そういうことを押し付けられても困るんですよ。『愛の試練』だかなんだか知らないけど……本当に、小学生の馬鹿な思いつきくらいには下らない。そんなものに……冬孤を巻き込んだことを、僕は許さない」
「……本当に、そう思うのか?」
「はい」
「………………」
男は、無言で短刀を抜く。
少年は、無言で眼鏡を外した。
男の口許が緩んで、少年の口許が緩んでいた。
お互いに、苦笑していた。
最初に口を開いたのは、男の方だった。
「……戯言が多すぎるんだよ。この、大嘘吐きが」
「臆病ものの貴方よりは、ましですよ」
「貴方じゃない。……相川透だ。短い付き合いになるだろうが、覚えておけ、少年」
「少年じゃありません。……僕の名前は山口文雄です。脳裏に刻み付けて死んでください」
少年は笑って、男はそれに応えるように笑う。
お互いの生き方を嘲笑うかのような皮肉げな微笑を二人は浮かべていた。
「行くぜ、同類。手ェ抜いてやっからしっかり突破しろ」
「そっちこそ。せいぜい僕に殺されないでくださいね、兄弟」
そして二人は、ほぼ同時に踏み出した。
相手を、
お互いを、
自分を、
殺し合うために。
轟音が響いた。
閃光が嘶いた。
なにかが終わったような音が響き渡った。
「っ!?」
星野海は慌てて立ち上がり、鬼装をまとって刀を抜き放つ。
無業散水での殺害は、概念殺しによる一撃決殺。普通ならば、こんな爆音は響かない。なら……この爆音でもしも夢幻惨殺が突破されたのだとすれば。
それは、一人しかいない。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、と靴が地面を引っ掻く音が響く。
その足音は聞き覚えがある。
星野海は、ゆっくりと息を吐いて、透の言葉を思い出す。
『いいか? あいつの見ている地獄は、お前の比じゃない。対峙するならまともに向き合うな。逃げ出せ。でないと……死ぬぞ』
それは紛れもなく警告だったが、海はそれを無視した。
少年の本当の姿を知りたかった。命を賭してでも知らなきゃならないと思っていた。それは多分……星野海が山口文雄のことを好いているから。
そして、彼は姿を現した。
学生服はボロボロで、あちこちが焦げている。
その目はどこまでも怜悧でありながら、冷酷だった。
口許は皮肉げに歪められ、相手を挑発するだけに成り果てていた。
いつもの穏やかさがまるでなかったかのように。
いつも通りすらどこかに置いてきてしまったかのように。
ただただ……少年は、海に向かって真っ直ぐに歩いてきた。
「………目を開けたとき、全部が終わったと思った」
文雄の目は、橙色に染まっていた。
まるで夕日の色のように、落日の色のように、綺麗な橙色に染まっていた。
それが終わりの色であることを……彼だけが知っていた。
それが世界の終わりであることを、山口文雄という少年だけが、知っていた。
定理ノ眼。その眼は、そう呼ばれる奇蹟の一つ。
魔眼としては大したことのない能力を有するその眼は、構成物質、変転力場、元素記号、定理、公式、数式、あらゆる整数負数虚数。世界の全てが数値として観測できる。目に映る全てが数値となる、そういう眼だ。
そう……人の感情すらも、脳内物質の分泌度で理解できるほどに。
虚ろな瞳で、伽藍の言葉で、少年は、己の絶望を語る。
「………この世界は、まるで地獄みたいだった」
なにもかもを皮肉って、なにもかもを嘲笑って、文雄は溜息をつく。
なにもかもに疲れ果てた、そんな吐息だった。
「正の裏には負があり、その裏には虚が存在する。世界は元素で創られて、僕にはそれが見えている。あらゆるものが視えていた。たとえば人間という生物は感覚器官を通した脳内の信号でしか世界を捉えることはできず、視覚は380〜770ナノメートルの波長の光まで、聴覚は約20〜20000ヘルツまで、嗅覚は嗅覚細胞が約2000万〜5000万個、味覚をつかさどる味蕾約8000個程度しか存在しない。指の感覚点は1平方センチあたり、触覚で9〜30、冷点は7〜9、温点で2、痛点で60〜200と決まっている。そこから伝えられる電気信号や物質を、大脳皮質の140億と小脳の1000億個の細胞で変換することでしか、世界と関われていない。……人間は、広大な世界を小さな感覚でしか理解できない」
立ち止まって、少年はゆっくりとした動作で、制服のポケットから煙草を取り出して慣れたようにくわえて、火をつけた。
「なんとも矮小で小さな世界。ちっぽけで哀れな世界の直視。これに個人の価値観を付け加えることによって、僕らは、僕らの世界を構築している」
紫煙を吐き出して、文雄は海を見つめた。
彼女は、震えていた。
恐怖に震える彼女を見つめて、少年は嘲笑う。
「能力の有無とかじゃないんだ。君の『魂魄ノ眼』は、知らず知らずのうちに『魂』にピントが合ってしまうだけなんだよ。僕には、その仕組みがよく分かる。分かってしまえば後は簡単だ。『ピントをずらせば』それでいい」
それは、軽々しく口に出すほど簡単なことではない。
しかし……なにもかもが視える少年にとっては、簡単なことだった。
見えるものが容易にその手に掴めるのと同じように。魔眼で視ることのできる其の領域に手を伸ばすこともまた、容易。
海はなにも言えなかった。
肩が震えていた。全身が震えていた。怖くて怖くて仕方なかった。
見えなかったはずのものが見えている。文雄の『眼』が解放されて、周囲から完璧に近い強さで己の本音を隠し続けていた少年の、魂の色が見えていた。
少年の胸あるのは、『塗り潰された漆黒』。
あらゆる色が混ざった色。汚れ、汚され、あまりにも汚濁に満ちた魂の色。
そんな色を……海は今まで見たことがない。そこまで汚れた魂を海は知らない。
直視するのすらおぞましい色を持つ少年は、空虚に笑いながら、語り続けていた。
「最初、君を見たとき本当に安心した。『ぼくとおなじようなおんなのこ』がいたことに心底感謝した。『この地獄の中にいるのはぼくだけじゃない』そう思うことができたから。……でも、君が見ていた世界は、僕ほどじゃないんだ」
文雄は、一歩を踏み出す。
「なのに、僕よりもましな世界を見ているくせに、僕よりもはるかに恵まれているくせに、『絶望』なんて下らないものの甘言に弄されて世界を滅ぼそうと思い立った」
「……ふみお、くん」
「正義だの愛だの希望だの、そんなものはあるに決まってるのに」
少年は、歪な怒りを少女に向ける。
「おまけに、冬孤をさらってまで僕の本音を聞き出そうとしてる」
「だって……だってそれはあなたがっ!」
「うるせぇ、馬鹿野郎っ!」
少女の体が、ただの一喝で凍りついた。
少年は、初めて少女を怒鳴りつけた。
「さぼってんじゃねぇっ! 下らないことで時間潰してんじゃねぇよっ! 僕のことなんてどうでもいいだろうがっ! 僕のことに構う暇があるんだったら、まず自分の事をなんとかしろっ! 『世界を壊す』とか意味不明でつまんねーことを考えるより、自分の能力の有効な使い道でも考えろっ! こそこそ卑屈にすねやがってっ! そういうの、一番むかつくんだよっ!」
「……っうるさい!」
海は、思わず怒鳴り返していた。
少年の言葉は、どれもこれもが痛かった。
いつものような優しさをかなぐり捨てて、いつものような穏やかさを完全に置き去って、少年は激痛を伴う言葉を少女にぶつけていた。
少女は、少年の放つ言葉が痛かったから、叫び返した。
「文雄くんこそなにも言わないじゃないっ! いっつも微笑んでるだけで、いっつも私が困ってる時に手助けしてくれるだけでっ! なにも言わずに、なんにも聞かずに、私になにを考えてるのかも伝えずに! 貴方が優しいってことは分かってたけど、そんな貴方がなにを考えているのかまるで分からなかったっ! ずっと……『自分が望んでいる他人の姿』と話しているみたいんだったっ!!」
切っ先を少年に向けたまま、少女は叫んだ。
「だからなにも言えなかった。友達だって思ってたし、なにより貴方のことが好きだったからなにも言えなかった。でも……でも、文雄くんは『竜の里』に行ってしまうから……。私になにも言わずに、私の見えないところに行っちゃうからっ!」
それが悔しくて、悲しかった。
なにも言えない自分と、なにも話してくれない彼が。
あまりに、腹立たしかった。
理解できなかったから、好きになった。
話してくれないのが、不安だった。
無制限の優しさが、怖かった。
本当は……世界なんてどうでもよかった。
正義や愛や希望なんて、本当にどうでもよかった。
ただ……山口文雄という少年に会えなくなることが。
星野海にとって、なによりも耐え難いことだったから。
文雄にとって、それは手に取るように理解できた。眼鏡をかけている時ならまだしも、今の文雄には心の動きそのものが目で見える。
数値で理解できる。
だから言い放った。
「僕は、お前のそういうところが大嫌いだ」
「…………ぅ」
きっぱりと言い放たれた言葉は、少女を停止させた。
星野海が一番聞きたくない言葉、それを……少年はきっぱりと言った。
「不幸なのは自分だけだって思い込んで、だから自分が認めたもの以外は認めない。そういう考え方が嫌いだ。無意識に自分がえらいと思い込んでるところが大嫌いだ。魔眼の力で『自分が優位に立っている』って常に余裕たっぷりなのが嫌いだった」
「…………っぅぅ」
「壊したいなら壊せばいい。壊すのは得意だし、好きなんだろう? 我慢することなんてない。君にはその力がある。つまんねー世界を面白おかしく変える力がある。なら使えばいい。簡単なことだ。……まず最初に、目の前にいる『理解不能』を殺せばいい。そうすれば、後腐れなく世界を壊せるだろ?」
「……っぅぅぅぅ」
「ほら、やってみろよ。君は魔眼の力でいつでも人を殺せるんだろ? なら躊躇なくやってみろよっ。『理解不能』なんて目の前にあっても、目障りなだけだろ?」
「……っぅぅぅぅっ!」
なにもしない。少女は、顔を伏せていた。
切っ先を少年に向けながら、唇を噛み締めながら、それでも動かない。
山口文雄は、少女に向かって、言い放った。
「……世界を壊すなんて、できもしないことを言うんじゃねぇ」
それは、致命傷だった。
酷く残酷に心をえぐっていく言葉だった。
「ぅあああああああああああああああああああああああっ!」
少女は絶叫する。喉が潰れんばかりに叫んだ。叫んで、走り出す。
目の前の少年が恐ろしかった。
魂の色を理解できるはずなのに、彼の本質が理解できなかった。
自分以上の地獄を見ながら、生きているのが理解できなかった。。
曰く、『定理ノ眼』を持つ者は、例外なく己で自らの命を絶つという。
彼の眼に映るものはあらゆる意味で『世界の汚濁』以外のなにものでもない。夢や幻想を廃絶し、数値と公式のみの『現実』をその眼に映し出す。人の心など手に取るように認識し、本来なら分からないはずの『自分自身』すらも、世界すらも完璧に把握する。それが……山口文雄の直視する世界だった。
かつて『人間は現実だけでも夢だけでも生きていけない』と断言した少年が見ていた世界は、ただの『現実』だけだった。愚かで醜く、あらゆる人間が直視するのを避けている、どうしようもない『現実』だった。
「あああああああああああああああああああああああっ!!」
叫びながら少女は、黒刀を振り上げる。
少年は、ただそれを見つめていた。
そして、終わりの言葉を紡ぎ上げる。
「真に願うはただ二つ。其のために光黄封縛の秘儀を解封する」
「其の願いに意味はない。それでも僕は全てを捨て去ろう」
「この願いが尊いものであると信じている」
「……故に、この世界に別れを告げよう」
少女は剣を振り下ろす。その剣速は少年の目に捉えられるものではない。
少年は目に見えぬ剣を見据えながら、最後の言葉を解き放った。
「其の世界は、全ての定理で構成される」
絶句する海の表情は、信じられないものを見ていた。
剣が止まる。本来なら触れただけで鉄を両断するその剣を、文雄は受け止めた。
刀身を掴んで、己の手で受け止めたのだ。
「…………なん、で?」
「これが……これが、僕の世界だっ!!」
煙草を吐き捨て、少年は叫んだ。
一歩踏み込んで、文雄は拳を放つ。もちろん普通の少年の拳が海に当たるはずもない。海はそう判断して、回避動作に入ろうとした。
が、
「っ!?」
文雄の右拳は、海の肩を打ち据える。当たるはずのない拳は、次々と海の体に打ち込まれていく。その速さは尋常ではない。明らかに人間の速度を越えていた。
刀の腹でなんとか一撃を受け止め、海は間合いを離した。
「………なんなのよ、それは?」
「単純なことさ。人間以外の生物は、人間以上の力を容易に引き出す。なぜなら体を構成しているたんぱく質が違うから。……なら、『置き換えてやれば』いい」
体を構成している物質であるたんぱく質を合成し、変換し、置換する。
それによって人間の限界を越えることが可能となるが、無論体への負担は半端ではない。ただ、『定理ノ眼』がそれを可能にしているというだけである。
にやりと笑いながら、文雄は海を見据えた。
「ちなみにさっきの斬撃を防げたのは、体内の炭素を組替えて、盾にしてやっただけのことさ。漫画にも載ってる簡単な仕組みだよ」
「………………」
「星野。僕は君を殴る。絶対に嫌だったけど、君を殴ることに決めた」
拳を握りながら、文雄は海を見つめる。
「思い知らせてやるよ。君に、『世界は壊せない』ことを」
「……できるものなら、やってみなさいよ」
安い挑発に海は顔をしかめて、剣を地面に突き立てた。
そして、拳を握る。
「ハンデをあげる。文雄くんみたいな『もやしっ子』に私が負けるわけないけどね」
「もらえるものはなんでももらっておくけど、それで負けたら恥かしすぎない?」
「言ってなさい。前々から、文雄くんの顔を殴ってやりたいと思ってたわ。……そのポーカーフェイスに、一発かましてやりたかった」
「……やれやれ」
溜息をつきながら、文雄は拳を握り締める。
刹那。
ゴッ!
海の拳が文雄の顔に、文雄の拳が海の鳩尾に叩き込まれる。
痛みに顔をしかめるものの、二人は再び拳を振るう。
相手の攻撃をガードし、打ち払い、拳を互いに叩き込む。
互いの速度はほぼ互角。振るう力もまったくの互角。
差は二つだけ。一つは、文雄は自分の傷を『体細胞の合成置換』で治せるが、海にそんな芸当はできないということ。そして二つ目は、
「ごほっ!」
「どうしたの? さっきからずいぶん息が上がってるけど?」
「はン、ちょっとしたハンデだよっ!」
叫びながらも、文雄は限界が近い事を悟る。
(やばいな……そろそろ、限界か)
眼は際限なく情報を脳に送り続けている。脳は送られてくる情報量に悲鳴を上げる。体は無理な変化で微細ながら崩壊を始めていたし、体に叩き込まれる衝撃が尋常なものではない。このまま無理をすれば……間違いなく、死ぬ。
それでも、逆転の手などない。
いや、ないこともないが、文雄は拳を振るう。負けの確立が90%を越えている『喧嘩』だったが、それでも踏みとどまって戦い続けた。
殴り、殴られ、あざだらけになりながらも、殴るのをやめなかった。
が、限界は唐突にやってきた。
ドッ!
「……う、ぐ」
海の拳が腹に決まり、文雄はその場に膝をついた。もう力が入らなかった。
荒い息をつきながら、あざだらけになりながら、海は不敵に笑う。
「だいぶ、粘ったみ……たい、だけど。これで、私の勝ち、よね?」
「……はは、残念。こっちにはまだ100%中の100%が……」
「なら……このまま、続行?」
「………当然、だよ」
文雄は無理に起き上がろうとして、腕に力を込めた。
体は鉛のように重く、頭は火のように熱い。
限界などとっくに越えているが、それでも文雄は立ち上がった。
不敵に笑いながら、立ち上がっていた。
「さぁ、やろうか。今度は本気でいくからな」
立ち上がったものの、その瞳はどこか遠くを見つめている。当然のことながら彼は限界を越えている。明らかに喧嘩ができる状態ではない。
海は、ゆっくりと溜息をついた。
「……ねぇ、文雄くん」
「ん?」
「貴方、私の顔と下腹部を一度も殴ってないでしょ?」
「気のせいだよ。ほら、戦いの最中って脳内麻薬が活発になるから」
口許を皮肉げに緩めるのは変わらず、しかし少年は少しばつの悪そうな顔をした。
ゆっくりと溜息をつき、海は苦笑しながら言った。
「……あのね。一つだけ言っておくわ。私、貴方のそういう女の子に極端に優しい所は嫌いよ。なんか、特別扱いされてる気がするから」
それは、なんの気構えもなく言い放たれた言葉だった。
星野海という少女の、本音だった。
文雄は一瞬だけ眉をひそめ、そして、ゆっくりと息を吐いた。
待ち望んでいたのは、たったそれだけの言葉。
文雄は口許を緩めて、海を優しく見つめた。
「……言えるじゃないか。言えたじゃないか、星野」
「………………え?」
海は、呆けたように文雄を見つめていた。
文雄は、にっこりと、穏やかに、安心したように笑った。
いつもの、優しい笑顔だった。
「……それだけ言えりゃ十分だよ。人になにかを伝えたいんなら、臆病になってちゃ駄目だ。もっと……君は人に頼ってもいいんだ」
「文雄くん? ……なにを、言ってるの?」
「本音を、吐いているのさ」
優しい少年は、穏やかに微笑しながら言う。
「……最初から、出会った時から分かってた。君は『人を怖がってる』から僕を好きになった。『同類』なのに『幸せそう』だから、僕を選んだ。『理解不能』だから……僕を好きになった。違うかい?」
「………………」
言葉に詰まった。即答できなかった。
そんなことは一言も言っていないのに、態度に出してもいないのに、文雄は海の心の一番奥深いところに、言葉を届かせた。
まるで、海に嫌われることを前提としてるように。
まるで、海に恐がられることを当然としてるように。
文雄は優しく、それでも真っ直ぐに、『本音』を言い放つ。
「僕は、君に嫌われたくなかった」
「だから、今までずっと黙っていた」
「見て見ぬふりを、していたんだ」
寂しそうな笑顔。しかし、文雄はそれでも笑っていた。
「でも、やっぱり見捨てることはできなかった。このままなにもせずに『竜の里』に行くのは簡単だったけど、僕にはそれができなかった。最後に……君に伝えなくてはいけないことがあったから」
ゆっくりと息を吸う。
そして少年は笑顔のまま、優しく言った。
「君は、優しい女の子だよ」
トクン、と心臓が揺れる。
海は、汗ばむ手を握り締めた。
「私は………優しくなんて、ない」
「優しいよ。だって君は……誰よりも『人殺し』を後悔してるから」
それは、絶対に知られたくないことだった。
言葉に出して欲しくないことだった。
なのに、文雄は最初から知っていた。知っていて黙って、笑って海と付き合ってくれた。……友達でいてくれた。
震える手を、文雄はゆっくりと握る。
「後悔するなとは言わないよ。それは僕が絶対に口出しできない、他の誰でもない『君の傷』だから。……でも、それでも、君は正面を向かなきゃならない。甘えるんじゃなく、逃げるんじゃなく、すがりつくんじゃなく、救いを求めるのでもなく、自分一人の力で、立って、前を向かなきゃいけない。『絶望』に屈さず、『地獄』に負けず、君自身の『世界』を抱えて、生きていかなきゃならない」
「………………」
「後悔すらも抱えて、生きていかなきゃいけない」
真っ直ぐに、真剣に、少女をしっかりと見据えながら、少年は断言する。
彼女のことなどおかまいなしの、『本音』を断言する。
「正義に甘えるな。愛に逃げるな。希望にすがりつくな。誰かに救いを求めるな。君が後悔していることを胸に抱えて、後悔しながらしっかり生きろ」
それは、其の言葉は、少年の放った言葉は。
少女の心に、深く突き刺さる。
それがあまりにも痛かったから、少女は叫んだ。
「私は……私は、後悔なんてしてないっ!」
「じゃあ、今ここで僕を殺してみなよ」
それは、あっけなく、まるで普通の言葉のように言い放たれた言葉。
「ひとごろしが楽しいというのなら、今ここで僕を殺してみろ。後悔していないと断言できるなら、今ここで、この場所で、一寸の躊躇なく、僕を殺してみろよ」
文雄は真っ直ぐに、どこまでも一直線に、海を見据える。
海の肩が震える。少年の言葉は……あまりにも真っ直ぐだった。
魂はとっくの昔に汚れきって真っ黒なのに。
少年は、優しさと強さを持って、少女を見つめていた。
その目は、怖かった。
しかし、目を逸らすことはできない。
その目はあまりにも真っ直ぐで……心地良かった。
思えば、あの時の少年もそうだった。誰もが海の銀色の髪と紫色の瞳を怖がっていたのに、その少年だけは怖がることなく、逆にからかってきた。海にとってそれはうざったいものだったが……決して悪くは思ってはいなかった。
本当は小さな仕返しのつもりだったのだ。悪戯半分で、海は少年の魂に触れた。
あっけなく………本当にあっけなく、少年は死んでしまった。
ゆっくりと口許を緩めて、文雄は海の手を握り締める。
「君にはせかいもひとも、殺せない。……それは僕が保障する。もしも君が世界も人も殺せる女の子なら、そんなに必死で自分を押さえ込む努力なんてしない。人を殺したことを後悔してるから……君は、人を殺さなかった」
文雄は、優しく、海に微笑みかけた。
「だから安心していいよ。君がいくら世界の破滅を願ったとしても、人を殺したことを後悔している君は……きっと、人を殺さない。世界を壊さない。僕がいようといまいとそんなことは関係なく、ね」
「…………文雄、くん」
「僕は、そういう君がけっこー好きだよ」
優しい言葉は、傷を抉った。
優しい抱擁は、心を打った。
優しい笑顔は、魂を揺さぶった。
地獄の中で、煉獄の果てで、『現実』という世界を誰よりも強く直視しながら、少年は泥にまみれて汚れながらも、どこまでも果てしなく優しかった。
誰よりも汚れていたから、誰よりも優しかった。
誰よりも強く、生きていた。
「……っ、ごめんな、さいっ」
自然に涙が溢れていた。
山口文雄という少年が人を好きになれないというのは、当然のことだった。あらゆるものが数値や定理として観測できるということは、つまりその人の全てを理解できることを指す。嘘を容易に見抜き、虚飾を看破し、ありのままの姿が見えてしまう。
なのに、少年はありのままの自分を見てくれた。
ありのままの『星野海』に、優しくしてくれた。
それがどれほど苦痛を伴うものなのか、なぜ理解できなかったのだろうか。文雄は苦痛を笑って堪えて、それでも海に優しくし続けた。
なぜ気づかなかったのだろう。なぜ分からなかったのだろう。
自分は……こんなにも『愛されていた』というのに。
泣きながら、少女は拳を強く握り締めた。
「……ごめっ……ごめんなさいっ。私、わたし……っ」
「謝らなくてもいいよ。むしろ、僕が謝るべきことだから。最初に見た時から知っていて、なにもしなかったのは……僕だから」
文雄は後悔を噛み締めるように、苦笑した。
「今も昔も……僕は、サボってばっかりだから」
「……そんなことないよ」
「いや、あるんだよね……これが」
文雄はゆっくりと息を吐いて、上を向いてにっこりと笑った。
「ね? 冬孤」
手際よく手錠を外し、脱出を試みた冬孤が最初に見たのは、殴り合っている文雄と変な銀髪の女だった。とんでもない勢いで、骨が砕けるような殴り合いを止めるようなことはせず、冬孤は一番最適の選択をすることにした。
兄を助けるのだ。
冬孤の決断は早かった。どんな理由があろうとも兄が女性を傷つけるようなことはしない。ならば悪いのは女の方で、兄は甘んじて殴られているのだと思った。なぜなら女は容赦なく殴りまくっているのに、兄は顔や下腹部といった女性にとって大事な箇所を絶対に殴らないのだ。ならば……悪いのは、女の方だ。
だから、最高のタイミングで横合いから殴りつける。
聞こえてきた会話は心の中で滅殺する。
文雄の優しそうな笑顔が女に向けられるのは腹が立ったがそれも堪える。
いつの間にか握り拳から血が流れていたが気にならなかった。
自分のふがいなさを後悔するのは後にする。
兄から全部聞き出すのも、後だ。
「兄さんになんつう顔させんのよ……あの女」
冬孤は、単純に怒っていた。
優しい兄が、『本音』という切り札まで使って説得している。
その様子はとても辛そうで、見ていられなかった。
口論が収束していく。女は完全に取り乱し泣いている。文雄は苦笑しながら、彼女の頭を撫でていた。どうやら、大体は終わったらしい。
今がチャンスだった。
天井に引っ掛けてあるワイヤーにタオルを巻きつけ、アスレチックにある滑車を使った遊具のように、一気に滑り降りた。
そして、ちょうど二人の真上で手を離す。
(死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!)
重力加速度の恩恵を受けながら、冬孤は稲妻のような蹴りを繰り出した。
その時、
文雄は上を向いて、やれやれと言わんばかりに苦笑した。
そして、ちょっとだけ銀髪の女を押して、自分は半歩前に進んだ。
それだけの動作で、あっさりと目算が狂った。
ドゴキッ!!
ちょうど五メートルの高さから飛び降りたのと同じ威力がそのまま文雄に突き刺さる。ちなみに、冷蔵庫くらいだったら軽く破壊できる威力である。
ドサ、と重い音を立てて、あっけなく文雄は倒れた。
「……………あれ?」
「………………え?」
沈黙が落ちる。
沈黙が落ちた。
二人は唖然としながら、見つめ合っていた。
遠くからそれを見ながら、私は口許を緩めていた。
うむ、なかなかやるではないか、少年。
その通りだ。傷は傷。後悔しながらそれでも生きていかねばならない。
後悔ならいくらでもしよう。それが明日の糧になるのならば。
それが、大切な人を助けることに繋がるのならば。
しかし………。
「青年、お前結局なにがしたかったのだ?」
「えーと………ですね」
少し焦げた前髪を気にしながら、透は言った。
「なんていうか、『保護』のつもりだったんだけどな」
「保護?」
「狙われてると、思ってたんでね」
透は目を細めて、ゆっくりと息を吐いた。
「海ちゃんの絶望は……ちょっと特殊だったからな」
狙われているというのはおそらく……絶望の種子である『ODIO』に、か。
実は、『ODIO』は開花するまでに、3段階の順序を踏む。
以前に火星に出現した『黒の蟲』は尖兵に過ぎない。それはあくまで第一段階であり、そうすることによって『ODIO』は世界に死という絶望を撒き散らす。
だが第二段階では、絶望の種子である『ODIO』は発芽と同時に自分に同調する存在を見つけ出し……その生物の絶望を増大させ、爆発させ、侵食する。
増大させ、密度の増した絶望を食らって……『ODIO』は開花するのだ。
透は少しだけ息を吐き、私を見つめる。
「この世界に『ODIO』の本体がいることは間違いない。オレの感覚に敏感に引っかかってくるし、世界災厄のあいつが断言してる。だが……いまいちつかみ所がないというか……のらりくらりとかわされるというか」
「つまり、分からんのだろ?」
「そういうことだな」
「……狙われるとしたら、夜中だな」
「夜中?」
「『ODIO』は夜中に活動が活発になる。……なんだ、そんなことも知らんのか?」
「あいにく、俺が駆けつけたときには、最終段階に突入してたんでね」
疲れたように溜息をつき、透は肩をすくめた。
「ま、正直今はそんなことはどうでもいいさ。問題なのは……」
「問題になるのは、いつだって男女のもつれ、か?」
「……まぁ、そういうことだ」
「……ちゃんと謝っておけよ。馬鹿男」
「それは重々承知してるよ。シェラに帰って来てもらわないと、オレが家に入れてもらえないことになるからな。結託した女連中ほどおっかないものはねーしな」
あーあ、と呟いて透は地面に座り込んだ。
「……ったく、あの小僧。つーか、電撃はねーよな、電撃は。勇者じゃないんだからさすがにそれは卑怯だろ。ステータス異常『痺れ』じゃ済まないっつうの」
「頑張ってる少年に、余計なお節介を焼いたお前が悪い」
「……ったくよう」
青年は、相川透は、呆れたように、呟いた。
「あの小僧、オレみてーな女垂らしにならなきゃいいけど」
それは、紛れもなく本音だろう。
自分みたいな最低になってほしくないという、青年の呟きだった。
苦笑しながら、私は言ってやる。
「お前はいい男だよ、相川透。最低だが……いい男だ」
「だといいけど……なっ、と」
立ち上がり、透はゆっくりと口元を緩めた。
「ファリエル」
「ん?」
「……ありがとよ」
穏やかで優しい、底抜けの笑顔。
それは文雄にそっくりな、
殺人鬼と呼ばれた青年の優しい笑顔だった。
to be continued 『猫と愛の証明者(表)or猫と愛の証明者(裏)』
いつも通りに幸福で、いつも通りに笑顔で。
その生き方に、いつも憧れていた。
大切な誰かの為に、戦おうと思った。
次回猫日記『猫と愛の証明者(表)or(裏)』
同じように生きて、違う道を歩んだ。