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猫日記  作者: 田山歴史
19/24

第拾九話 猫と少年と愛の試練(前編)

 その手には血を、その足には泥を、その体には傷を。

 醜く足掻いて、這いずりながら生きてゆけ。



 それは、朝に視る雑風景。

 耳にうるさいだけの■■の羅列。

 意味を成さず、潰れて果てて消えていくものたち。

 まとまらぬ意味なき無間は夢の消失と共に終極し。

 少年は事実の言葉を忘れ、絶叫を奏でる。

 其の、地獄の中で。



 体調は完璧。睡眠をたっぷり取ったおかげで風邪も治った。

 欠伸をしながら文雄はベッドから起き出し、ゆっくりと背伸びをした。

「ふあぁ……よく寝た」

 眼鏡をかけて時間を確認。いつもよりも三十分早く起床したのは、ひとえに料理が下手すぎる妹に、まず簡単な料理から教えるためである。昨日はとんでもないうっかりミスでキムチ鍋を『シュガーキムチ鍋』に変えてしまい、えらいことになった。

「いや、なんつーかもう……笑うしかないよね」

 そんな漫画みたいなことを時々やらかしてしまうのが、山口冬孤という少女の特性である。普段は完璧に振舞っているくせに、慣れないことをやらせるとすぐにボロが出る。昨日だって、材料を切るのや味付けは完璧に近い出来だったのだ。一番肝心なところでミスをしなければ、ちゃんとしたキムチ鍋になっていただろう。

「さて……と」

 手早く普段着に着替えて、冬孤の部屋に向かう。

 コンコン、とノックをしても返事はない。

「冬孤ー。朝食作るよー。とうこー?」

 何度呼びかけても返事がない。文雄は少し思いついてドアノブを捻ってみた。

 鍵は開いていた。ドアを開けると、スルリと我が家の猫ことプーが隙間から出てきた。猫は不意に足を止めて欠伸をしてから、呑気に下の階へと降りていった。

 ちなみに、猫の朝食にはまだ早い時間なので、リンダと寝不足の是雄に食事をねだった後、二人が起きなければ自分のところに請求に来るだろう。なぜか冬孤には食事をねだったことがない猫である。

 文雄は苦笑しながら猫を見送り、部屋の中を覗き込む。

 冬孤は、毛布に包まって安らかに眠っていた。

 肩をすくめて、文雄は大きく息を吸う。

「とーーーーーーこっ! 朝ごはん作るぞッ!」

「………………ふぁ?」

 山口家の全員が知っていることだが、実は冬孤は朝が極端に弱い。

 目覚ましが鳴る前には絶対に起きず、鳴ったとしても十分は鳴りっぱなし、止めてようやく起きたと思ったら、しばらくはぼーっとしている。まるで火付きの悪い超ド級エンジンのようだと思ったのは中学の頃だっただろうか。

 しかも、昨夜は夜更かししたらしい。ぬいぐるみを作るための型紙やら、布やらがテーブルの上に広げてあった。

 仕方なく、文雄はファンシー空間に踏み込む。

「ほら、冬孤。今日は一緒に朝食作るって言ったろ。さっさと起きる」

「……んー、あうう?」

「作らないの? それだったら僕が勝手に作るけど」

「……やだぁ。おにいちゃんといっしょにつくるぅ……」

「っ!? え、えぇ……!?」

 あまりの言葉に、文雄は思わず絶句した。

 まるで子供のように首を振って、冬孤はぼんやりとした瞳を文雄に向ける。

「きのう、やくそくしたもん……りょーり、おしえてくれる……って?」

 そしてそこでようやく意識が覚醒したのか……ゆっくりと目を見開いた。

 気まずい沈黙が、ファンタジー空間を完全支配した。

 喉をごくりと鳴らし、冬孤は恐る恐る口を開く。

「……兄さん。二つほど、確認してよろしいでしょうか?」

「……な、なんでしょうか?」

「もしかして、私は鍵をかけずに寝てしまったんでしょうか?」

「あ、うん。……悪いとは思ったんだけど、扉越しに呼びかけたって絶対に起きないでしょ、冬孤は」

「………はい、確かにそうです」

 こくりと素直に頷いて、冬孤は顔を赤らめて文雄を見つめた。

「あの……じゃあ、私なんか変なこと、兄さんに言ったりしませんでしたか?」

「んー……変なことは言ってたかもね」

「………………どんな?」

 冬孤は不安そうに文雄を見つめる。

 文雄はちょっと悪戯っぽく笑って言った。

「寝言で『ゴキブリが……ゴキブリと巨大ロボが……』って」

「……なんですか、それ」

「さぁ、僕に聞かれても」

 以前居間で冬孤がうたた寝していた時にそういう寝言を言ったので、あながち間違ってはいない。ゴキブリと巨大ロボにどんな関係があるのかは謎だが、寝言なのでどうでもいいことだろう。

(シュールすぎてネタにもならないしね)

 などと心の中で苦笑しながら、文雄は言った。

「それじゃあ、台所で待ってるから。あんまり急がなくてもいいけど、朝食食べて学校に間に合うくらいの時間には下りてきてね?」

「……はい、分かりました」

 顔を赤く染めた冬孤に背を向けて、文雄はファンシー空間を抜けだした。

 と、不意に声がかかった。

「兄さん、おはようございます」

 いつも通りの挨拶。朝の定型句。

 文雄はいつも通りに挨拶を返そうと振り向いた。


 朝の光に照らされて、きらきらと光る長い黒髪はとても綺麗で、

 幻想の中で、冬孤は柔らかい微笑を浮かべていた。


 口許を優しく緩めて、文雄は口を開いた。 

「……ああ、おはよう」

 いつも通りに、挨拶を返して、扉を閉めた。

 ゆっくりと息を吐いて、頭を振る。

 とりあえず、拳で自分の頬を軽く殴った。

 痛かった。

「さてと……それじゃあちょっくら気合入れますか」

 少しだけ赤くなった頬を押さえて、文雄は階段を降りていく。

 いつも通りに。



 私は猫である。名前はファリエル=ナムサ=オーレリア。毛並みは青に近い黒を持つ、まごうことなき美雌猫である。

 


 時刻は午前の十時。私はククロの小屋の隣で丸くなっていた。

 うむ……暇だ。暇のついでに眠い。

 今日は実にいい日だ。暇で眠いなど、最近はあまりなかったことだし。

 しかしククロ小屋の近くは本当にいい風と日の光が入る。ククロのくせにこんないい環境にいるとは卑怯だ。いっそのこと是雄が手作りしたその木の小屋で爪を研いでやろうか。いや、研ぐべきだ。本能はそう告げている。

「……やめろ。俺が寝られんだろうが」

「それが狙いだからな」

「大人しく寝られんのか、お前は」

 眠いことは眠い。しかし爪を綺麗に研いでから寝ればさらなる安らぎが得られるのではないだろうか。いや、そうに違いない。本能はそう告げている。

「……だから、やめろと言っている。それから反語表現もやめろ」

「家の爪研ぎはもう使いづらいんだ」

「人化して爪切りでも使えばいいだろうが」

「しばらく人化はしない。今回のことは手は出さないと決めたからな」

 私が欠伸混じりにきっぱりと言うと、ククロは少し顔をしかめた。

「……やっぱり、本気なのか?」

「当たり前だ。『愛の試練』などという馬鹿馬鹿しいものにいちいち付き合っていられるか。なんかこう……『愛』とか『恋』とか聞くと全身に鳥肌が立つような感じになるしな。そういうのは若い連中に任せておけばいい」

「……いや、しかし……前のアレはかなりおおごとだったのでは……」

「あの程度、笑って済ませられる程度だ。マスターが本気になれば三十秒ほどでカタがつく」

「………へ?」

 私の言葉に、ククロは絶句したようだった。

 にやりと笑いながら、私は言ってやる。

「言っておくが、あの男は青の魔法使いにして鳥神族筆頭戦艦『断界号』の艦長だ。その手に伝説の槌である『鉄塊』を携え、飛べぬはずの翼で空を舞い、短いはずの足で世界を踏破する一羽の鳥だ。そんな男の実力が、あの程度のわけはないだろう?」

「……つまり、手加減していた、と?」

「手加減というより、手抜きだな。若い連中の力量を見たかったそうだ」

 欠伸をしながら、私は半分だけ本当の事を言う。

 もう半分は『火星を吹き飛ばすわけにはいかなかった』からだ。人口衛星程度はなんとか誤魔化せるが、いくらなんでもそんなことをすれば人間に気づかれる。だからこそ他神族にも召集をかけて、なるべく穏便に済ませたというわけだ。あれが宇宙空間内だったら一気に全部吹き飛ばしてそれで終わりである。

 まぁ、結構なおおごとには違いないが、それでも大したことではない。

「……それに、本当のおおごとというのはな、目に見えない形であらわれるものだ」

「どういうことだ?」

「病気のようなものさ。人知れず進行し、気がついた時には手遅れになる」

 欠伸を噛み殺しながら、私はゆっくりと起き上がった。

 玄関から気配。鋭敏な殺気。

 どうやら……待ち人が来たらしい。

 私は、目を細めてその人物を迎え入れた。


「……久方ぶりだな、ファリエル=ナムサ=オーレリア」


 そいつは、仏頂面で私を見据えていた。

 黙っていれば美人の部類に入る顔立ちなのだが、やたら鋭いつり目と常に放たれる殺気のせいで男どころかヤクザすら道を開ける。身長は文雄と同じ程度で、女性としては長身に当たる。腰より下まで伸ばした髪を全て三つ編みにくくり、体にフィットしたライダースーツを完璧に着こなしたその女の名前は、鬼末真おにすえまことという。

 目を細めたまま、仏頂面の女は口を開いた。

「それで……我に何の用だ? ファリエル」

「やれやれ、性急なのも変わらずか」

 私は目を細めながら、ゆったりとした足取りで歩き出す。

「とりあえず、ついてこい。色々と話したいこともあるんでな」

「……ファリエル、お前の意図がいまいち読めん」

「四の五の言うな。ちょっと年長者が説教してやろうというのさ」

「……説教など、要らぬ」

「そう思うのならば無視すればいい。こちらはお前が望むような情報を提供してやろうというのだ。しかも、タダでな。これほどの好条件が他にあると思うのか?」

「………………」

 返事がないということは、肯定ということだ。

 私は少し後ろを振り向いて、ククロに向かって言った。

「少し出かけてくる。夕飯までには戻るつもりだが……ちょっと分からないかな」

「……ああ、行ってこい。これでゆっくり眠れるというものだ」

 黒犬はぶっきらぼうに言い放って、小屋の中で丸くなった。

 ……犬の聴力ならば、昨日の私たちの会話は全て聞こえているだろう。しかし、多分ククロも今回のことに関して、手を出すようなことはしないはずだ。

 今回は……命の取り合いではないのだから。

 と、不意に、命はじーっとククロのことを見つめた。

 熱烈に、じーっと、穴が空くくらいに見つめていた。

 流石に気になったのか、ククロは体を起こした。

「客人……すまんが、俺は寝たいのだが」

「………………犬神殿。一つ、よろしいか?」

「む?」

 視線を外しながら、真は恥かしそうに顔を赤らめて言った。

「その……あたまを撫でさせてはもらえないだろうか?」

 鬼末真、好きな物は可愛いもの全般。

 特に、犬。



 軽んじるつもりはないのだが、『恋』というものは思ったより冷めやすい。

 なんのことはない。科学的に分析してしまえば、『恋』というものはある特殊な脳内麻薬によって引き出される感情である。手っ取り早く異性を好きになるために作られた機能、といっても差し支えない。

 ただ……『恋』は冷めるのは早いが、『愛』は長く継続する。

 友愛、親愛、愛情。『誰かを好きになる』という、極々単純な、それでいてなくてはならない感情。どんな存在にも、絶対にあるはずのものだ。

 たとえば、山口家の長女。

 たとえば、終末の舞姫。

 この二人が一人の少年に抱いているものはまぎれもなく『愛情』である。まだその愛が届いていないのだから『恋心』と置き換えてもいい。まぁ、そんなものは単純に言葉の違いに過ぎない。

 肝心なのは、二人が少年を好きだということだ。

 恋だの愛だの言葉を変えたところで、その事実だけは変えられない。

「問題は、冬孤は文雄の妹で、海は文雄の友達だということなわけだ。妹が恋愛対象になるかと言われれば私は首をかしげるし、友達が恋愛対象になるかと問われても私は首をかしげよう。つまり……男女の仲は複雑怪奇ということだ」

「……はぁ」

「生返事を返すな、馬鹿者。ちゃんと聞け」

 適当な事例を引き合いに出しながら、私は説教をしていた。

 場所を変えて……私はある日本家屋に来ている。

 一軒家で、縁側があって、一人の女と一人の少女が住んでいる家。

 魔法使い、東野燈琥の自宅である。

 燈琥自身は買い物にでかけ、日向は学校に行っているのでここにはいない。私は『留守番』という名目で、この家を借りている身分になる。

 家を借りた理由はいたって簡単。仲裁をするためである。

 そう……痴話喧嘩の仲裁を。

 私は溜息をついた。

「つまるところ……愛されてるだけお前はましな部類なんだ。それ以上を求めるには好きになった男が悪かったし、お前もそれは了承していたはずだろ?」

「……だって、あいつが酷いこと言うんだ」

 また……つまらん理由で喧嘩したもんである。

 真は居心地が悪そうに目を細めて、不機嫌そうに言った。

「そりゃ……我にだって悪い所はあったけどサ、あいつの態度、見ててむかつくんだもの。美奈とはべったりだし、凪子とはキスばっかりだし、茜と一緒にただれた生活したりしてるし、あの災厄の家に遊びに行っちゃうしで……。我がなにか言ったり甘えたりする暇がないっていうかね……毎日そんな感じだし」

 そんな感じ、では済まないような惨状だった。

 私は少しだけ唖然として、ゆっくりと溜息をついた。

 あの男、後で殺そう。むしろすぐ殺そう、すごく殺そう。

 この仲裁は、マッターホルンを素っ裸で登頂するくらいの難易度である。

 真の愚痴は、まだまだ続く。

「……いや、子供じゃないだから甘えたくても我慢するよ。辛くても我慢するさ。大人だもの。我も基本的には家を留守にしてるしね。……でもさ、ちょっと長旅を終えて疲れて帰って来た我に対して、美奈と凪子と茜は言うんだ『お帰り、早速だけどご飯作って』ってサ。あれはなんかもういじめとかそういう領域の話じゃないよ。駄目駄目なんだ。あいつら、アレで素なんだ。美奈だけは料理作れるけど、レパートリーが少ないし、他の二人は料理できないんだ。出前ばっかりなんだ」

「………ほう」

 独り暮らしの大学生か、その女どもは。

 しかし……段々、経緯が見えてきたなァ。

 憮然としながら、真は不機嫌そうに語り続ける。

「作りましたよ。作りましたとも。ちょうどお腹減ってたし、私にとっても渡りに船だしね。我はカップ麺で済ませてしまいたい衝動を堪えて必死で作りましたよ。完成しました。ひじきとオクラ納豆とクラムチャウダーと新米で炊いたホクホクのご飯を作りました。三人は喜んで食べてくれました。料理が美味しいと言われて我もとても嬉しかったとも。『ああ、この家に帰って来て本当によかったなぁ』、と思いました。……思ってました」

 真は、『ギリッ』と歯を噛み締めた。手は怒りで震えている。

 そして、血を吐くかのような不機嫌さで、語った。

「……でもね、あいつは帰って来て『あ、帰ってたんだ? まずったな……今日は寿司にするつもりでもう買ってきちゃったんだけど……。ってよく見ると明日でも食べられるものばっかりじゃんか。じゃあここは生もの優先ってことで、とりあえず寿司にしよう』って言いやがったんだよっ!!」

 ドゴッ! と真の拳が畳にめり込んだ。

 血走った目で、八つ当たり気味に私を睨みつけて、真は叫んだ。

「疲れてる時に必死で料理作って、ようやく完成したのに『じゃあ明日ね』とか言われたら、いくら温厚な我だってキレるよっ! っていうか酷すぎるしあんまりだよっ! せっかく美味しく作れたから食べてもらいたかったのにっ!!」

 ものすごい勢いでキレる真だった。

 まぁ……そら確かに納得できんわな。

 しかし怒りの最たる原因が『美味しく作れたから食べてもらいたかった』というのは、真があの馬鹿男に惚れているという紛れもない証明だったりする。

 ……さーて、どうしようか。

「……真、とりあえず落ち着け。畳がもうズタズタになってるから」

「畳なんてどうでもいいっ! 落ち着けって言うんだったら、ファリエルはどうなのさっ!? 結婚してた時に、そういうのってなかったのか!?」

「………………」

 はて……結婚してた時か。

 あの頃は確か……とても健康的な生活を送っていた。

 朝、二人で適当に人間のおこぼれをちょうだいした後、二度寝。

 昼、大抵の場合、二人でだらだら睡眠。

 夕方、二人で適当に人間のおこぼれをちょうだいし、夕食。

 夜、鼠など野生動物を適当に狩って遊んでた。

 うむ、実に猫らしい生活。享楽と昼寝の日々である。

 しかし『喧嘩なぞほとんどしたことなかったし、始終べったりだった』と言ってしまうと確実に真はぶちキレる。自分が不幸な時ほど、他人の幸福は妬ましいものだ。

 うーむ。どうしたもんだか……。

「どうなんだ? ファリエル。あったのか? なかったのか?」

「えーとな……」

 私が返答に窮していると、不意に部屋の襖が開いた。

 そこにいたのは、きっちりとしたスーツを完璧に着こなした金髪の超絶美女。両手には買い物袋が二つぶら下がっている。

「ただいまー……って、どうしたの? この惨状」

 その人物は、この家の主である東野燈琥だった。どうやら口論に夢中になって二人揃って気づかなかったという、なんとも間抜けな話らしい。

 燈琥はかりんとうの袋を開けながら、少し顔をしかめる。

「あーあ。畳にこんなに穴開けちゃって。マコちゃん、ここは宇宙戦艦とは比べ物にならないくらい脆い日本家屋なんだからあんまり暴れちゃ駄目じゃない?」

「……いや、宇宙戦艦の一室を吹き飛ばしたのはトーコだよ」

 真のつっこみに、燈琥は不敵に笑う。

「過去は過去。人は未来あしたを見据えて歩くのよっ!」

「格好いいこと言って誤魔化そうとしたって無駄だからな」

 一応、ツッコミは入れておく。

 しかし、この馬鹿女につっこみが通用しないのはいつものことである。かりんとうを齧りながらあぐらをかいて、燈琥はにやりと笑った。

「ほんで? 一体どういう話なの? おねーさんにも一口噛ませなさいよ」

「真が『せっかく作った料理を食べてもらえなかった』とかいう下らない理由で、あの馬鹿男と喧嘩しただけだ」

「……くだらなくない」

 頬を膨らませる真は、不機嫌な子供そのものだった。

 やれやれ……本気で強情だ。

 一応、燈琥にかいつまんだ説明をしておく。燈琥はかりんとうを齧りながら話を聞き、聞き終わる頃にはかりんとうを食べ終わっていた。

 そして、欠伸しながら感想を言った。

「ふーん。またつまんねぇ理由で喧嘩したわねー」

「……つまらなくない」

「あのね、マコちゃん。よーく考えなさいよ? 相川くんにしてみれば『作ってあった料理を明日にしようって提案したらいきなり貴女がぶち切れた』っていうわけのわからないことになってるのよ? しかも、貴女がどれだけ疲れていたのか、そういうことの説明は一切抜き。それでマコちゃんが怒って出て行くっていうのはちょっとおかしいでしょ?」

「………………」

 おー、さすがバツ1。言うことに説得力がある。

 呆れたように溜息をついて、燈琥は続ける。

「確かに、相川くんは最低だよ。でも、そういう道を選んで……ってこの表現だとちょっと違うか。……そういう道を『選ばざるを得なかった』彼を支えようと思ったのは、マコちゃんでしょ? その人の最低さも好きになって、それで支えようとしてたんでしょ?」

「………そうだけど、サ」

 なんとも煮え切らない態度であるが、それも仕方ないような気がする。

 確かに、燈琥の言ってるのは正論だ。『男の駄目なところもまとめて好きになって支えることも決意したのに、そんな下らないことで怒るのはおかしい』と言っているのだが、人間は論理ではなく感情で動く生き物である。納得はしづらいだろう。

 まぁ、こういう男女同士の喧嘩というものは日頃の鬱憤が爆発したようなものだからこそ……なお始末が悪いのだ。

 特に、女の執念はおっかないと男は語る。元夫の受け売りだが。

 俯いて目を伏せる真に、バツ1の美女はにっこりと笑いかける。

「……そんなに嫌なら、別れたら?」

「……………え?」

「あ、うん。それでいいかもね。相川くんはなんかもー世界で二番目くらいには最低だし、マコちゃんがそんなに悩んでるんだったら別れてもいいじゃない? むしろ別れちゃえ。男なんてこの世界にそれこそ腐るほどいるんだから」

「あ、いや……それは」

「連絡は私からしておく。大丈夫、あとくされないように、きっちりと、ぜーんぶ、ご破算にしておくから。そういうところは抜かりないわよー、私は」

 真のとまどいをあえて無視しながら、燈琥は携帯電話を取り出した。電話帳であいつの電話番号を検索して、ぼたんを押そうと指を伸ばし……。


 その手から、携帯電話が消失した。


 燈琥は口許を緩めながら、真を見つめる。

 真の手には、燈琥の携帯電話が握られていた。

 目を伏せて、俯きながら、それでも携帯電話をしっかりと握り締めていた。

 苦笑しながら、燈琥は口を開いた。

「……嫌なんでしょ?」

「……………嫌だ」

「だったら、そう言わなきゃ駄目じゃない?」

「………だって、言えなかったんだもの!」

 バキリ、と嫌な音が響く。

「野宿ばっかりですごくすごく疲れてて、やっと家に着いて、みんながお腹空かせてたみたいだったから……だから辛いの我慢してご飯作ったよ! みんな美味しいって言ってくれて、それがすごく嬉しくて、嬉しくて泣きそうになって、我はここにいてもいいんだって思ってたのに……喧嘩しちゃって、『ただいま』も言えなかった!!」

 携帯電話を握りつぶしながら、真は泣いていた。

 つまらないことで、泣いていた。

 つまらないことで喧嘩している自分を恥じて。

 どうでもいいことで怒ってしまった自分に嫌悪して。

 ……好きな人たちに嫌われてしまったと思って、泣いていた。

 燈琥は苦笑しながら、ゆっくりと真を抱き寄せた。

「はいはい。大丈夫だって。あの家に住んでる人はお人好しばっかりだから、きっと怒ってなんかないわよ。そんなに意地張らなくたって、出迎えてくれるってば」

「………玄関吹き飛ばしたのに?」

「大丈夫よ。あたしは酔っ払った時に物置吹っ飛ばした」

 あはは、と笑いながら、燈琥は真の顔をハンカチでぬぐってやる。

 そして、ゆっくりと座布団に座らせてから言った。

「心の準備ができるまではここにいていいよ。でも、心の準備ができたらちゃんと相川くんに謝ること。いいわね?」

「……うん」

 今度は素直に、真は頷いた。

 燈子は、にっこりと笑って真の頭を撫でた。

「それじゃあ、ちょっと暖かい飲み物でも持ってくるから」

 立ち上がり、燈琥は部屋を出る。私もそれに習って部屋を出た。

 東野家の台所は狭い。しかもオーブンもないため、飲み物はやかんで沸かすことになる。燈琥は牛乳をやかんの中に入れ、火をかけた。

 口許を緩めながら、私は口を開く。

「……で、いつから聞いてたんだ?」

 ぎくり、と燈琥の肩がはねあがる。

「………ばればれですか?」

「ばればれだな。いくらなんでもタイミングが良すぎる」

 口許を緩めて言った私だったが、実はかまをかけただけである。

 しかし、タイミングが良すぎたのも事実だ。

 私が二の句を告げなくなった瞬間に、燈琥は家に帰って来たのだから。

 燈琥はゆっくりと息を吐き、頭をかいて言った。

「……弱点、だよねぇ」

「ん?」

「結婚してた時のことってさ」

「……そうだな」

 同意しながら、私は少しだけ目を細める。

 とりあえず、今は思い出さないようにしておく。

 燈琥は暖まったミルクをカップに移しながら、口許を緩めた。

 ほんの少しだけ、寂しそうに。

 なにを思い出していたのかは私には思いもよらなかったが、それは多分燈琥にとっては楽しく、幸せで、少し辛い記憶だったのだろう。

 不意に、燈琥は話題を変えた。

「そういえば……文雄くんはどうなってる?」

「いつも通りさ」

「……そっか。いつも通りなんだ」

 苦笑しながら、燈琥は口許を緩める。

 それもまた……寂しそうだった。

「お前が気にすることではない。文雄の責任は、全て文雄のものだ」

「……あれ? もしかしてファリエルちゃん、もう全部分かっちゃってる?」

「詳しいことは知らんし興味もない。だが、想像はできるさ」

 背負っているものや、誤魔化しているもの。

 全て理解はできないが、推測から想像することはできる。

「だから、今回は私はなにもしない。せいぜい傍観させてもらうさ」

「……それでいいのかな?」

「当たり前だ」

 きっぱりと、私は断言する。

「生きていれば、誰しもがぶつかる壁だ。それを越えなくては成長はない」

「まぁ、そりゃそうかもね……」

 溜息をつきながら、燈琥は少し泣きそうな顔になっていた。

「……どうした?」

「洋服はブランド物で、ハンカチもそうです。携帯電話は握りつぶされて、あたしは明日から一体どうすればいいのかなーって思ってねェ」

「最近は、データ集積回路の小型化が進んでいると聞いたが?」

 俗に言う、みにえすでぃーというやつである。

 肩をすくめて、燈琥は大きく溜息をついた。

「携帯電話買うお金を、日向がくれると思う?」

「……ちがいない」

 私は、苦笑しながら窓の外を見上げる。

 いつも通りの、綺麗な青空が広がっていた。



 空は快晴。時間は午後の一時。

 今は授業をやっている時間ではあるが、冬孤は屋上にいた。基本的に学校の屋上は進入禁止区域なので、もちろん無断侵入である。

 風が心地良く吹いているが、髪が乱れるのでわずらわしいだけである。

「……それで、私に何の用なんですか? こんな手紙まで出して」

 冬孤の手にあったのは『羅無霊侘阿』と書かれた手紙である。

 差出人は不明。ただ、午後の一時に屋上に来いと指定があった。

 もちろん、冬孤は行く気などさらさらなかったが、『追伸、来ないと君のお兄さんを口八丁手八丁で引っ張りまわした挙句ゲイバーに置き去りにする』と書かれてあっては行く他なかった。

 屋上の真ん中に立っていた男は、振り向いて真剣な表情で言った。

「君が好きだ。付き合ってくれ」

「……呼吸をやめてくれたら考えましょう」

「をを、なかなか痛烈な返事。いいねぇ、そういうのは嫌いじゃない」

 満足そうに、男は笑っている。

 作業服に安全靴といった風体の男は、見た目には配管工かなにかに見えるが、冬孤は油断せずに鞄の中からスタンガンを取り出した。

「それで、私になんの用ですか? 場合によっては不審者として警察に突き出しますけど?」

「んー、それは困る。オレだって国家権力は怖い」

「……貴方が本当に用があるのは、兄さんじゃないんですか?」

「その洞察力には感服するけど、今回に限っては君に用事があるんだ」

「帰っていいですか?」

「まぁまぁ、そう邪険にしなさんなって。それにしても……」

 ケラケラと笑いながら、男は冬孤を見つめる。

「なるほどなるほど、君はものすごくいい少女らしい。人に厳しく自分に厳しく、人からはあまり好かれる性格ではないが、友達ができたらとことん好かれる性質を持っている」

「………そりゃ、どうも」

 男の言っていることは当たっている。確かに、冬孤には友人が少ない。

 しかし一方で少ない友人とはうまくやれているのだ。慶子は恋敵のはずなのにいつの間にか親友のようになってしまっているし、中学時代敵対していたはずの唯のことについてもそうだ。

 男は空を見上げながら、ゆっくりと溜息をついた。

「なんつーかさァ、気が引けるよな。こーゆーのって」

「……勝手に一人合点しないでくれますか?」

「じゃあ……少し真面目に話そうか。真面目なのは苦手なんだけどな」

 男は目を細める。

 たったそれだけで、冬孤は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 真っ直ぐに見つめられただけで、心が震えた。

「まずは……昔話から始めよう。それはつまらない話だが、君にとってはほんの少しだけ重要なことだ。少しだけ聞いて欲しい」

 ゆっくりと口を開いて、男は語り出す。



 単純な話をしよう。単調な話をしよう。つまらない話をしよう。

 不幸な少年のはなしをしよう。

 それは、ごくごく世界中で普通に起こっている話だ。

 昔々あるところに少年がいた。

 少年には守りたいものがいくつかあった。そのために強く、優しくなった。

 しかし、少年はある日、ほんの些細な偶然から、世界災厄に見初められてしまった。

 よくある話だ。人間外に惚れられて、少年は化け物になった。

 それでも少年は人間らしさを捨てなかった。捨てずに、拾って愛し続けた。愛すべき義妹、守るべき従妹、尊敬すべき同類、そして世界災厄ですらも、少年は見捨てなかった。見捨てずに守り続けた。

 捨てられた猫を見捨てるだけの強さが、少年にはなかったから。

 だからこそ……それと出会った時には背負うことすらできなくなっていた。

 少年が恋を知ったとき、彼女以外のものをあまりに背負いすぎて、あまりにも自分の事をないがしろにしすぎていたから……彼女と正面から向き合うことはできたけど、彼女と一緒に逃げることはできずに、最後には別れることになった。

 お互いに好き合っていたのに、別れることになった。

 これはただそれだけの……不幸で哀れな少年のはなし。


 似たような話をしよう。

 不幸な少年のはなしをしよう。

 それは、ごくごく世界中で普通に起こっている話だ。

 昔々、あるところに兄妹がいた。

 少年は普通の少年で、少女はちょっとだけ普通じゃなかった。

 少女は少年の『普通』であるところに嫉妬していた。普通に人に好かれるのが悔しくて仕方がなかった。少年は少女の『ちょっと普通じゃないところ』に嫉妬していた。当たり前のように少年ができないことをやってしまうところが悔しくて仕方なかった。

 同族嫌悪だった。

 しかし、時間は流れる。少年は成長し、諦めることを覚えて、少女にできることと自分にできることを区別し始めた。少女のステージで戦っても意味がないと知っていたから、それ以外で『普通であること』を武器にして戦い始めた。

 面白くないのは少女だ。敵視していたライバルが、いきなり戦うことをやめてしまった。しかし少女はそれを認めることができずに、少年を敵視し続けた。

 ……そして、悲劇は起こる。

 それは、ただの事故だった。

 傷が治れば終わってしまったことになる事故だった。

 だが、少年にとっては悲劇の始まりでしかなかった。

 苦痛と罪悪と歪曲を受け入れて、少年は『普通』であることを捨てた。

 なによりも、誰よりも少女の事を思いやっていたから、『普通』をやめた。

 これはただそれだけの……不幸で哀れな少年のはなし。

 

 

 冬孤は、絶句していた。何も言えなかった。

 男が昔のことを知っているということもあったが、それよりも目の前にいる男は、なにか決定的なことを語っているような気がしたのだ。

 皮肉げに口許を緩めながら、目を細めて男は淡々と語る。

「さて、考えてみようか、冬孤ちゃん。君は昔とんでもない間違いを犯した。それは文雄くんが自分勝手に君を守ったことなんだが……君にとっては過ちだ。周囲の人間がどんなことを言おうとも、君は君自身を許しはしない。だからこそ、それは罪悪だとオレは言っておく。君自身が自覚無自覚に関わらず、背負うことを決意した責任だ」

 嫌そうに顔をしかめながら、男は語る。

「でも、過去は過去だ。今の自分を構成しているのは間違いなく過去だが、そんなものは一切関係なく、君は文雄くんに惚れてしまった。『責任』とか『罪悪』とか、そういったものは一切抜きで、君は文雄くんが好きになった。じゃあ………それはなぜだろうな?」

「………………」

「理由なんてない、と言い切るのは簡単だ。……ああ、本当はオレもそれでいいとは思うんだ。『恋に理由なんてない』ってのはいい言葉だ。いい言葉を使ってしまいたいとオレは思うんだが……今回の場合はそうもいかない」

 冬孤を真っ直ぐに見据えて、男はきっぱりと言った。

「なぜなら、君の想いはこのままでは絶対に叶わないからだ」

「……そんなことは百も承知です」

「ああ、そうだろうね。君は覚悟が出来る人間だから。でも……そうじゃない」

 真っ直ぐに少女を見据え、男はゆっくりと息を吐いた。

「兄妹だとか、そういう倫理的なことはこの際忘れてくれ。この世界に兄妹で愛し合ってる人間なんてわりと腐るほどいるから、そーゆーのは心底どうでもいい。問題なのは、そう……問題なのは、『君が山口冬孤だから』という、ただその一点だ」

「……………え?」

 背筋に寒気が走るどころではない。

 体が震えて、耳を塞ぎたくなる。

 男が言っていることは、絶対に聞きたくないことだった。

 絶対に、考えたくないことだった。

 なのに、体が動かない。

 男は、ゆっくりと溜息をついて、口を開いた。

「なぁ、冬孤ちゃん。少しだけ現実的な話をしよう。言い方は悪いけど、人間は逆ギレする。自分が悪いのに、勝手に周囲のせいにしてしまって、自分勝手に怒りまくる生き物だ。まぁ……それは誰も彼もが同じことなんだけどね」

「なにが言いたいんですか?」

「うん、だからさ」

 男は、まるで日常会話のように、あっさりとした口調で言った。


「文雄くんは君を助けて……それで、なぜ君を恨まなかったのかな?」


 それは、一度は考えたことだった。

 恨まれているんだと思っていた。

 でも、文雄はいつも当たり前のように笑って……。

「考えてみればおかしな話だ。君のお兄さんは至って普通の、そのへんにいる普通の男の子だ。妹を助けて自分がズタボロになって、ボロ雑巾になって……君も知っているとは思うが……眼がおかしなことになってしまった。それまで当たり前のように見ていた世界が、それこそ一変したんだ。……それを恨まないってのは、いくらなんでも話ができすぎだよ。はっきり言って、不自然だ」

「………でも、でも兄さんは」

「だからね、不自然なんだよ。彼は不自然なんだ。それに気がつかない君じゃないとは思うんだけど……?」

 男の口調は、冬孤を責めているようですらあった。

「どう考えてもおかしい。なぜなら文雄君は君を許しているんだから。君は君自身を絶対に許せないのに、彼は冬狐ちゃんを許してしまった。なぜだろうね? なんで彼はそんなに簡単に君を許せてしまったのかな? なんで彼は、そんなに君に優しくできるのかな?」

 あの時……包帯でぐるぐる巻きの文雄が『冬狐が無事で本当によかった』と言って本当に嬉しそうに笑った時から……冬孤は文雄が好きになった。

 本当に嬉しそうな笑顔だったから、好きになった。

 その想いが決定的になったのが、つい最近。

 夕日の中で、文雄はやはり笑っていた。『僕は、君がいなければよかったなんて、一度も思ったことはないよ』ときっぱりと言い切って、笑っていた。

 いつも通りに。

 笑っていた。

「おかしいんだよ、彼の『優しさ』は」

「………………」

「君を助けて、それで自分はどうなったってかまわない。そんな『正義の味方』みたいな思考をオレは認めない。君のことがなによりも大切だったって思考も認めない。どんな人間だって自分は大切だし、なにより後悔くらいはするんだ。憎んで恨んで当然なんだ。大なり小なり、彼は君を憎んで当然なんだよ。でもそんな様子は全くない。山口文雄は実に自然体に君をあっさりと許した。許してしまった。君は自分が許されないと分かっていたのに、彼に許されてしまった」

 頭が混乱していた。

 なにを言われているのか分からない。

 分かるのは、それが、男の話す抑揚のない言葉が。


 自分にとって、決定的な事実だというだけ。


 男は口許を緩めない。笑わない。真っ直ぐに冬孤を見つめるだけ。

 まるで……真剣な時の山口文雄のように。

「オレにはね、彼の気持ちがよーく分かる。これ以上にないってくらいよく分かる。なぜならオレたちは似たようなもんだから……『同類』だからね。彼が見たモノがなにかは分からないし、オレが見ているモノがなにかなどお互いには理解できない。でもね、なにを見たかはこの際問題じゃない。問題なのは……『見てしまった』という事実。この世界が天国になって、山口冬狐という存在がなによりもかけがえがないと思わせるような……そんな地獄を、彼は見たんだよ」

 そして、男は。


「さて、冬孤ちゃん。文雄くんはどんな『地獄』を見たと思う?」


 事実を、突きつけた。

 その顔は笑っていない。ただ、笑っていない目を細めて。

 ただの事実という残酷な言葉で。

 冬孤のことを糾弾していた。

 冬孤は答えられない。答えられずに、唖然としてた。

 男はそんな冬孤を見つめて……口許を緩めた。

「ところで冬孤ちゃん。ずいぶんと隙だらけだけど、それはいいのか?」

「…………え?」

 気がつくと、男はいつの間にか冬孤のすぐ側まで接近していた。

 にやりと笑って、男はひょい、と呆然としていた冬孤からスタンガンを奪い取る。

「じゃ、話の続きは、また次回にってことで」

 バチッ、と小さな音が響いて、冬孤は意識を失った。

 最後に見た男の顔は、やはり笑っていなかった。


  

 夕方。いつものように真っ直ぐ帰ろうとしていた文雄は、ロッカーを空けて見慣れないものが入っているのを見つけた。

 それは、一通の手紙だった。差出人の名前は当然ない。

 目を細めて手紙を開いて……文雄は口許を引きつらせた。

「……くそったれ。あの馬鹿」

 誰にも見せたことのない、皮肉げな笑み。

 静かに毒づきながら、文雄は手紙を鞄に放り込む。

 舌打ちしながら学校を飛び出して、見慣れた原付に跨った。

 ちょうど持ち主が玄関から出てきた。

「ちょ、山口ィ! あんたなにやってんのよっ!」

 聞きなれた怒声は姫宮藤野のものだ。それを無視しながら、文雄はポケットから取り出した細いが頑丈そうな金属の棒を2本無理矢理鍵穴に突っ込んで、ガチャガチャと三回揺らし、蹴り上げた。

 エンジンは一発でかかった。

「姫宮っ! 悪い、ちょっと借りるっ!」

「ちょ、馬鹿かあんたっ! あたしも今夜色々と用事っていうか付き合ってる男と逢引きっていうか、今夜行かないと本気で別れそうっていうか……つーか今どうやってロック外したっ!?」

「企業秘密っ! あとごめんっ!」

 きっぱりと断言しながら、文雄は原付を発進させた。

 走りながら、文雄は目を細める。

 走りながら、ゆっくりと周囲を見つめた。

 笑いながら歩いている女子。騒ぎながら走っている男子。車で帰ろうとしている疲れた教師。高校の近くのパン屋では部活で腹を空かせた連中がたむろし、おばちゃんが笑っている。外回りを走っている運動部。ガクランで怒鳴っている応援部。ちらりと後ろを見ると、真っ赤な顔をして怒鳴っている大嫌いな女の子。

 誰にも聞こえないように、自分にも届かないように、文雄は呟いた。

「……じゃあね。だいすきなぼくのせかい」

 皮肉げに口許を緩めて、文雄はヘルメットをかぶった。



 そして少年は、一つの覚悟を決める。



 to be continued 『猫と少年と愛の試練(後編)』

たしかなものを見つけたとき、少年は嘘をつきました。

憧れの誰かの真似をして、嘘をつき続けました。

その代償が何かも考えず、みんなを騙していました。

自分を、騙していました。

次回、猫日記第弐拾話『猫と少年と愛の試練(後編)』

目を開けると、そこは光に満ちた世界だった。

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