第拾八話 猫と鍋パーティ
人間は、自分自身という世界を構築する。
少女の目には、生まれた時から見えてはいけないものが見えていた。
胸のあたりに、小さな光が見えていた。
人によって様々な色を持つそれは、分かりやすく言えば『魂の色』であった。十人十色、多種多様な色合いをもつその光は、少女にとっては当たり前のものだった。
まるで、塵のようなものだった。
その光は年月が経つごとにその色を変えていく。最初は純粋な原色だったものが、成長するにつれ他の色が混じり、最後にはまるで見るに耐えない、汚らしい色に成り果てるのが関の山だった。
輝石のように輝いているくせに、その光はどこまでも薄汚い。
そして、その光は少女が触れればたちどころに消え去るものだった。幼稚園の頃、戯れに一人の少年の光に触れてみたところ、光はすぐに消えてしまった。
少年はその場で倒れて、そのまま帰らぬ人になった。
あまりにあっけなさ過ぎて……同時に背筋が震えた。
少女が『自分以外の存在を壊す』ということに快感を覚えたのはこの頃からだった。
しかし、少女は自分を抑え込んだ。どんなに下らない世界であっても、壊すのが容易な世界であっても、『本当に美しいもの』が存在する事を知っていたからだ。
彼はぼろ雑巾のような老人で……少女に舞を教えてくれた師だった。
『よいか? お前は確かに少々、生きて行くのには厄介な力を持っている。しかし、世界というものは思っているよりも広く、そして美しい。絶望せずに……少しずつでも精進なさい。そうすれば、きっといつか、いいことがあるはずだよ』
そう言った少女の師は、胸に『血』の輝きを持っていた。
黒くて醜い赤なのに、その輝きは絢爛にして峻烈。
だから少女は、最後の最後まで師にだけは逆らわなかった。その輝きを美しいと感じてしまったから……最後まで、美しいと思っていたから。
だが、その師も死んだ。あっけなく。
老衰だった。
それから少女は当たり前のように生きた。何事もなかったかのように、至って普通に、普通の少女として生きた。師に言われた修練だけは毎日欠かすことはなかったが、それは実に平凡で退屈でどこまでもどこまでもどこまでも。
下らなくて、惰性で、つまらなくて、まるで死人のような毎日だった。
そのつもりだった。
だが、そんな退屈極まりない日々は。
『……人を助けるのに、理由なんて要るの?』
理解不能な少年と出会って、終わってしまった。
すき焼きという料理は、とても簡単な料理である。
馬鹿男曰く『すき煮』らしいのだか、そんなことはどうでもいい。各種肉、野菜等を醤油、酒、みりん、少々の塩と砂糖で味付けした汁に入れてじっくり煮込むだけ、という馬鹿でも作れる料理である。
グツグツグツグツクパクパクパクパと煮え立つ鍋からはいい匂いが漂ってくる。猫の時には熱すぎて食べられないが、人間となった今はなんとか食べられる。
……まぁ、猫舌だけはどうにもならんのだが。
「しっかし……なんつーかお前も苦労性だよな」
血の魔法使いこと浅上壱檎は、日本酒をちびちびやりながら私に言う。
「まぁ、この子を預かるのは別にいいけど、猫神の連中を説得するのはファリエルの役目だからな。いくら俺が猫に顔が利くと言っても、そこまで面倒見られないし」
「分かっている」
「本当に分かってんのか? お前は時々無茶やらかすからなァ……」
などと言いながら、壱檎は野菜中心に鍋をつつく。
浅上壱檎。綺麗な顔立ちに錆びた鉄の色を持つショートカットの、中学生男子にしか見えない大学生であり、色々と厄介な経歴を抱えている魔法使い。ぶっちゃけて言えば『男らしい少女』。性格は世話焼きで、困っている人間を見ると放って置けない典型的なお人好し。一時期、文雄が世話になっていたらしい。
その魔法使いの椀に、長い髪の女が肉を放り込む。
「壱檎。肉も食べないと大きくなれませんよ?」
「いいんだよ。どーせ……中学高校と成長期なんて来なかったしナ」
「好き嫌い言ってないでちゃんと食べる。牛乳も飲みなさい」
「あれを飲むくらいだったら、俺は舌を噛み切ります」
「じゃあ、いつもみたいに口移しで飲ませてほしいんですか?」
「……お願いだから、お客が来てる時は誤解を招くことは言わないでください」
女のとんでもない言葉に、壱檎は素直に頭を下げた。
女の名前は九棟真弓。壱檎と同じ大学に通っている女で、身長は確か百七十二センチ。女性らしいふっくらとした体つきをしており、なぜか壱檎と同居しているかなりの美人。この中で私を除けば唯一まともな人間である。
しかし……新聞の勧誘に来た男から洗剤だのビール券だのを散々せしめた挙句の果てに、相手をぶち殺しそうな笑顔で『テレビはその時の気分で見るんで、全然全くさっぱり要りません』と、言い放つ女を『まとも』と定義していいものかどうか。
などと、悩んでいると、私が狙っていた肉を別の方向から来た箸が掠め取った。
「おい、駄目少女。その肉は私のものだ。返せ」
「鍋にそんな原則はありません。知性のない動物ですか、貴女は」
星野海と名乗った、銀髪紫眼の少女は不機嫌そうに鍋をつついている。
「まったく……そこに転がってるストーカーに、いきなりこんなところに連れてこられたんです。いい迷惑ですよ、ホント。隙間風は吹き込んでくるし、キッチンはやたら狭いし、テレビは小さいし」
海の不満そうな声に、真弓はこくこくと頷く。
「本当ですよね……そろそろ生活改善が必要です。ね? 壱檎?」
「いや、その……」
壱檎はなぜか真弓から顔を逸らしていた。
言うまでもなく……買い換える金がないんだろう。『猫探偵』とかいう、くそたわけた副業がそれほど儲かるとはとても思えない。それに確か、あの古いテレビは文雄が昔使っていたもののはずだ。
ああ、世知辛い。人の世は金がないとなんにもできん。
まァ、猫には関係ないがな。
と、私が皮肉げに笑っていると、海は呆れたように溜息をついた。
「全く、なんでこんな場所に住めるのか理解できませんよ」
「くっ………………」
悔しそうにしながらも反論できずに目を逸らす壱檎。
そして、こくこくと頷きながら、真弓は言った。
「そうですねぇ。せめて広いベッドが欲しいですよ。ね? 壱檎?」
「贅沢言うなよ……」
「あら、ベッドがあれば色々なことができるのに……」
「なんだよ、色々なことって?」
壱檎の疑問の声に、真弓はにやりと悪魔的な笑顔を浮かべた。
「そうですねぇ。たとえば……■■陵■とかですね」
食卓が凍りついた。
一瞬で、壱檎と海の顔が真っ赤に染まる。
私はとりあえずティナの耳を塞いでおいた。ティナは不思議そうな顔をしていたが、なにも言わずに黙々と箸を動かして鍋をつついていた。
………危なかった。紙一重だった。
今のは明らかに、子供には聞かせてはいけない言葉である。
■■陵■とやらを簡単に説明すると、基本的人権とやらを笑顔で踏みにじった挙句の果てに、唾を吐きかけるようなことである。少なくとも、人間として生きるからには絶対にやってはいけない行為であることだけは間違いない。
カッチ、コッチと、時計の秒針が時を刻む音だけが部屋に響いていた。
凍った時の中で、にっこりと笑いながら真弓は壱檎に体を寄せる。
「で、壱檎……ベッドはいつ買うんですか?」
「か……買うわけねーだろっ!! なんぼなんでもそんな邪悪な使用をさせてたまるかっ!? っつーか、明らかに俺が標的じゃねーかっ!」
「じゃあ、せめて私が買ってきた服を着て下さいよ。フリフリなやつ」
「着れるか、あんなもんっ!」
顔を真っ赤にしながら、最大声量で叫ぶ壱檎だった。
むう……こういうのは仲が良いとか微笑ましいと表現するべきなのだろうか? いや、しかし二人の間からは、冬孤以上の禁忌的な雰囲気がビシバシ伝わってくる。どう考えても深く突っ込んではいけない気がするのだ。
まぁ……いいか。どうせ私には関係ないし。
と、他人のふりしてみた。
しかし、それは許されなかった。
「ほらほら、ファリエルさん。壱檎ってばこんなに可愛い服を買ってきても、全然着てくれないんですよ? 女の子なんだからちょっとはお洒落しなきゃ」
「いや、その……食事中だし、そういうのを出すのはちょっと控えた方がいい気がひしひしとするんだが……。あと、そういう服は『お洒落』という言葉からはかなりかけ離れているような気がするぞ」
私は『フリフリドレス』から必死で目を逸らしながら、鍋に集中するふりをする。
その服は壱檎の体にぴったりなことは言うまでもない。
「なんとかして壱檎にコレを着せたいんですけど、なかなか着てくれないんですよね〜」
「ああ、まぁ……そうだろうな」
曖昧に答えながら、私はちらりと壱檎のほうを見る。
疲れたような表情を浮かべて、こっそりと溜息をついていた。
どうやら、苦労しているらしい。
私もこっそりと溜息をついていると、真弓は名案を思いついたようにパンッ、と両手を打った。
「そうだ! ねぇ、ティナちゃん……この服、着てみない?」
「………………」
「絶対似合うと思うんだけど。どう? よくない?」
「………………」
ティナは箸を止めてじっと真弓の持っている服を凝視し、
「……………や」
一言、小さな声で、きっぱりと拒絶した。
しかし、真弓はちょっと顔を引きつらせながらも、食い下がる。
「えっと……ちょっとでいいんだけど……」
「や」
明らかな拒絶に、空間が凍結し、時間が凝固し、ついでに真弓の笑顔が泣く寸前の顔になる。どうやらかなりショックだったらしく、そそくさと服を紙袋にしまうと、先ほどの騒がしさが嘘のように大人しく鍋をつつきはじめた。
……なんだか、気の毒なくらいの落ち込みようである。
一応、ティナに聞いてみた。
「なんで嫌なんだ?」
「……動きにくそうだから」
なるほど、実に分かりやすく猫らしい明確な答えである。
私は口許を緩めて、ティナの頭を撫でる。
ティナはなにも言わずに、私と同じように口許を緩めた。
夕食も食べ終わり、私は満足しながら木造アパートを離れることにした。ティナのことに関しては壱檎に任せようと思う。あいつならティナを間違った方向に伸ばしはしないだろう。後は……猫神族の長どもを説得するのは、私の役目だ。
まぁ、それはそれとして、だ。
「しかし、お前も悪い男に付きまとわれてるな。同情する」
山口家に帰る途中、星野海に私は言った。
はっきり言って話しかけたくなかったのだが、二人で夜道を無言で歩くのも寂しいのかもしれないので、一応話題を振ってみたというわけだ。
別に返事がなくても私としては一向にかまわなかったのだが、意外なことに星野海は苦笑して答えた。
「……ええ、ストーキングされましたね」
「まぁ、意識的だか無意識だか周囲に流されてだか知らんが、常に女の尻を追いかけているようなやつだ。気にせんのが一番だ。いっそのこと斬り殺してもかまわんし」
私が口許をつり上げて笑うと、海もクスクスと愉快そうに笑った。
その笑顔は、年頃の少女のように見える。
「それはそうと、お前、この前手加減しただろ」
「手加減はしてません。あれが舞手としての私の精一杯ですよ」
「なに、お前が『魔眼』を使っていたら私はとっくに死んでいたさ」
茶化すように、私は言った。
星野海という少女が有しているのは、人間を構成する『肉体』、『精神』、『魂』の三要素の内、人間の根本たる魂を完全にコントロールする能力である。魂を奪って己のものにすることも、魂を操り意のままにすることも、魂を破壊してしまうのも……全てが、思いのままだ。
それは、『魂魄ノ眼』と呼ばれる『完全たる輝石にして奇蹟』である。
単純なことだ。人間は魂では脆い存在だから精神と肉体で己を守っているが、この少女は生物の根本たる魂に直接触れることができる。
私とて……例外なく。
しかし、星野海は苦笑しながら肩をすくめた。
「私に関して色々と調べたみたいですが、その手には、乗りませんよ」
「ほう?」
「猫神ファリエル。人神族の中で三番目に戦闘経験が多く、猫神族の中でもっとも修練を積み重ねたことで有名ですよ。そんな貴女が、『魔眼』の対策くらいしてあって当然だと、私は思ってます」
うーむ……やはり、この少女やりにくいぞ。
せっかく大ぱんちで殴れると思ったのに、残念。
確かに、魂を操られてしまえば私に成す術はない。しかし……単純な話として、『魂を操られなければ』どうってことはない。
この魔眼の最低限の発動条件として『肉体に触れる』というのが大前提になる。『魔眼』そのものに見えているのは『魂』そのものだ。しかしそれは肉体、精神、魂の繋がりをショートカットして直視しているだけに過ぎない。肉体を見るだけで魂をも同時に見ているのだ。分かりにくければ、『ブドウの形を見ただけで種の形も分かる』という解釈でいい。
この眼はその繋がりを利用して、魂を引きずり出す。これはまぁ、『サツマイモの収穫』のようなものだと解釈してもらえればいい。
つまり、この魔眼に限っては体に直接接触させなければ対応が可能。簡単に言うと『全身を服かなんかで包む』みたいな古典的な手段で防げてしまったりするのだ。
卑怯と言うなかれ。これも戦いである。
そんな私の心中を見抜いたか、星野海はあからさまなため息をついた。
「正直、純粋な戦闘では貴女に勝てるのなんて魔法使いと一部の上級神族くらいじゃないでしょうか? まだいくつか奥の手を隠し持ってそうですし」
「そうでもないさ。例えば……あの馬鹿には、私は絶対に勝てん」
「あの馬鹿って……貴女のパンチ一発で伸びちゃった、あの人ですか?」
「そうだ。あいつが本気になれば、私はなにもできずに死ぬ。さっきのは単純に『殴らせてくれた』のさ。あの男は女に甘いことでも有名だからな」
今度こそ、忌憚のない事実を語る。
あの女に優しい馬鹿が……夢幻惨殺だということを。
「無駄だと思うが、一応解説しておく。あいつの能力は『感知』。そのものズバリ、相手を感知する能力で、能力半径はおおよそ500きろめーとる。視線、気配、音、感情、といった違和感をあいつは容易く感知する。不意打ちは不可能。遠距離からの狙撃も無理。罠をしかけてもたやすく見破り、力押しをすれば『無業散水』の一振りで殺される」
「……むぎょう、さんすい?」
「あいつが所有している黒塗りの短刀は、人が成しえた奇蹟の一つにして、概念殺し。アレの前では核すらも無意味だ。一振りで距離すら超越し、『存在』していたことすらもなかったことにする。世界に現存する唯一の『ルール違反』さ」
「そんな……無茶苦茶な」
あまりのことに、海は絶句しているようだった。
肩をすくめて私は続ける。
「無茶苦茶だよ。そんな凶悪な剣が、あらゆるものを感知できる男の手に渡っているのだから始末に負えない。鬼に金棒どころの話じゃないのさ」
どんなに逃げようとも一振りで殺す。
どんなに足掻こうとも無慈悲に殺す。
どんな手段を使おうとも瞬時に殺す。
距離すらも越え、どんなものでも斬殺する。
だからこそ……あいつは、『夢幻惨殺』なのだ。
私は、ちらりと海を見て、ゆっくりと溜息をついた。
「だからこれ以上は本当にやめておけ。あいつは『敵』と認識したからには確実にお前を殺すぞ。殺しはしなくとも、再起不能にはなるだろうな。あの男は……本当に『敵』には容赦しない」
「………………」
私の忠告は耳に届いたはずだ。
しかし、星野海はゆっくりと首を振った。
「……できません。私は、正義と愛と希望が証明されるのを見たいんです」
「……そんなことに、意味などない」
「はい、ありません。でも……」
うつむいて、唇を噛み締めて、吐き出すような声で。
本当に辛そうに、少女は語った。
「そうでもしなきゃ、私……この世界を壊したくなる」
「………………」
その言葉は、若者特有の「世界なんて退屈だから壊れちゃえ」という安易なものでないことだけは、私にも分かる。
過去、私は『世界の敵』となった魔眼使いの集団と対峙したことがある。その敵の中に『魂魄ノ眼』を持つ少年がいた。彼は世界の破壊を望んでいたが、それは決して世界のせいではなく、極めて個人的な欲望からだと断言した。
その時の言葉は一言一句、間違いなく思い出せる。
『魂が壊れるのは、たまらなく綺麗なんです。現実や虚構や、そういった本来なら大切なものがどうでもよくなるくらいに、綺麗で、甘美で、どうしようもなく心奪われる。なら、世界が壊れる時は、人一人を壊した時とは比較にならないくらいに……楽しいはずですよ』
年端もいかぬ少年が、楽しそうに言い切ったのだ。
世界が壊れるのを見てみたいという欲望に抗えない、と。
魔眼というものは不便なものだ。あまりに強い奇蹟であるからこそ、あまりに強く人を歪ませる。自分に限らず、周囲にも知らず知らずのうちに影響を与える。普通の人間は本能的に魔眼所持者に恐怖を感じ、そうでない人間もいるが、その中には『魔眼』を狙ってくる連中だっている。……過ぎた力は、自分の身すら危うくさせるのだ。
星野海という少女は、明らかにそういった修羅場を踏み越えながらも、ぎりぎり『人間』であることを放棄していなかった。
少なくとも……私のように、開き直ってはいない。
少女は世界の崩壊を望みながらも、それを拒んでいた。
苦笑しながら、拒絶していた。
「私のように破壊を望む人間は、死んだ方がいいとも思いますしね」
「……安易に死ぬな。文雄が困るぞ」
「死にませんよ。死ぬくらいなら全部壊します」
あはは、と無邪気に笑いながら、星野海は空を見上げた。
「本当は壊したいんですけどね、文雄君がいますから、壊せません」
「……惚れてるのか?」
何の気なしの言葉に、少女は眩しい笑顔を返してくれた。
「はい。彼は私にとって、唯一の『理解不能』ですからね」
「……そうか」
その笑顔に、私は普通の笑みを返した。
そして、星野海が山口文雄に惹かれた理由を理解した。
理解不能。
魂の色で人の本質を識ることができるのに。
本質が理解できない存在があるという事実。
それは、単純怪奇で複雑明快な、ごく自然な矛盾だった。
足を止めた。
「あれ、どうしたんですか?」
星野海は不思議そうに聞いてきたが、私は答えない。
少し考えて、私は口を開く。
「正義の次は……愛の試練、だったか?」
「ええ、そのつもりです。もしも気に食わないと言うのなら今ここで、力づくで私を止めてみますか?」
「確かに、気に食わん……が」
苦笑しながら、私はきっぱりと断言した。
「今回は傍観させてもらう。一切手は出さん」
沈黙が落ちる。
海は唖然として私を見つめ、私は苦笑するだけだった。
苦笑いを浮かべながら、私は軽い口調で言った。
「どうやら、今回は私向けじゃないらしい。適材適所という言葉に従って、真正面からぶつかって勝てる人間に、完全無欠に勝利してもらうとするよ」
私の言葉に、海は挑発的に笑った。
「ずいぶんと余裕ですね?」
「余裕さ。楽勝な戦いほど余裕なものはないだろうさ」
「……文雄君は『好きな人なんかいない』って言ってます。人を好きになれない人が、愛を語る資格があるとでも言うんですか?」
少女の目は真剣だった。真っ直ぐに、私を見据えてくる。
私はその目を真っ直ぐには受けない。目を逸らして、一足飛びで上昇し、民家の屋根に着地する。鬼装を纏っていない海には追って来れない距離だ。
そして、口許を皮肉げに緩めた。
「一つ教えておいてやる、星野海」
「……なんですか?」
「人はな、嘘を吐くんだ」
それだけを言い残し、私は身を翻した。
大昔、ただの猫の時にやったように、屋根の上を一足飛びで駆けて行く。
空を飛ぶように走りながら、私は月に祈っていた。
せめて、孤独な少女の必死の声が、
ほんの少しでも彼のココロに届きますように。
to be continued 『猫と少年と愛の試練(前編)』
追記。
家に戻ると、なんだか台所が妙に鼻につく異臭を放っていた。仕方ないので居間で眠るのは諦めて、文雄か冬孤の部屋で眠ることにする。
二階に上がると、なにやら文雄と冬孤が話している。文雄はちょっと真面目な顔をしながら真剣に話しており、冬孤はなんだか照れながら、それでも文雄の話を嬉しそうに聞いていた。どうやら明日の朝食の話らしい。いつも文雄かリンダに任せきりにしている冬孤にそういう話を振るというのも珍しいことだ。
まぁ、いい。せっかく開いているのだから今日は冬孤の部屋で眠ることにしよう。私は二人の足元をスルリとすり抜けて、冬孤の部屋のお気に入りの場所である『ぬいぐるみの群れ』の中で眠ることにした。
最近、面倒なことばかりなので、眠る時くらいは安らかに寝よう。
お休みなさい。
おまけ
ある日の山口冬孤の日記、三ページ目。
もう駄目だ。
これまでも色々な失敗をしてきたけど、今日のは本格的に致命傷だった。
そう、ちょっと浮かれていたのは事実だと思う。だって兄さんと一緒に料理とか、そんな新婚っぽいことをやっていたわけだから、ほんの少しだけ動揺してしまうのは健全な女子としては間違っていないと思う。手元がちょっとだけおろそかになって指を切ってしまったのもご愛嬌ってやつで、指は切ってしまったけど、ちゃんと材料はきっちり切ることができたことは、私としては成功だったと思う。
その後も、兄さんの指示に従ったことでおおむね完璧にできた。調味料を入れることも覚えたし、ちゃんとレシピに従っていればそうそうまずいものはできないというのも学んだ。そもそも初心者が一人前気取って『自分独自の味付け』なんてものをやろうとしたのが、一番最初の間違えだったのだ。まったくもう、なんで誰も指摘してくれなかったのかしら? 友人は私の料理を見せただけでドン引きするし。
でも……最後の最後に、やらかしてしまった。
よりにもよって、最悪なことを。
キムチ鍋に、隠し味の砂糖をぶちまけてしまった。
赤い魔王に白い聖女が立ち向かっていくかのような無謀さでキムチ鍋に投入された大量の砂糖は、あっというまに溶かされて鍋の中に飽和することになってしまった。味身をしてみたけど、異様な甘さが口に広がったと同時に辛味のダブルパンチがヘビー級ボクサーのストレート並みの威力で叩き込まれる味に仕上がっていた。もしくは口の中は震度七くらいの大災害になること間違いなし。当然のことながら、できあがりを待たずに生ゴミに投棄することになってしまった。
なんかもー……どうしようもない。
ここまでヘコんだのも久しぶりだ。
あーもう……せっかく教えてくれた兄さんに合わせる顔がない。いつもの調子でにこにこ笑ってたけど、アレは絶対に怒ってた。つーか、私ならそいつの頭をダンベルでどつくくらいには怒ってる。間違いない。
ホント、明日からどうし
………………。
えっと、今日はいい日でした。
明日は頑張って目玉焼きを作ろうと思う。
あと、ぬいぐるみに埋もれて眠るプーは可愛すぎると思った。
それでは、おやすみなさい。
……でも、なんで兄さんは。
あんなにも、人に優しくできるんだろう?
と、いうわけでこれからはちょっとだけシリアスです。もちろんギャグ要素も忘れませんが、ちょっとだけシリアスです。
少年がたった一つだけ心に決めたこと。
それは、残酷な決意でした。
笑顔を浮かべながら、少年は叫び続けます。
次回『猫と少年と愛の試練』
おおかみなんて、いなかったんだよ。