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猫日記  作者: 田山歴史
17/24

第拾七話 猫と看病と迷子の子猫(後編)

 料理という技術は人を助けまくる。 



 特売セールで手際よく肉をゲットして、長身の男は満足そうに帰って来た。

「いやー買った買った。これで今晩の鍋は安泰だな」

 皮肉げな瞳に、いつも緩んでいる口許。黙っていればハンサムと言える顔立ちなのだが、人を食った態度のせいでそうとは感じられない。灰色のロングコートの下はYシャツにスーツのズボンという訳の分からないいでたちで、その二つともよれよれである。唯一、ロングコートだけはパリっとしていた。

 そのロングコートの下に黒塗りの短刀が隠されているのを、海だけが知っていた。

 黒い舞姿の鬼装ではなく、通っている高等学校の制服(お嬢様学校のブレザータイプ)に着替えた海は、目を細めて呆れていた。

「あの……なんでお肉なんて買ってるんですか?」

「鍋するからに決まってるだろーが。すき焼きとすき煮、どっちがいい?」

「違いが分かりません」

「最初に肉を焼いておいてから鍋に放り込むのがすき焼き、生肉を鍋に放り込んで煮込むのがすき煮だ。男のハートをゲットしたかったらそれくらい覚えとけ」

「文雄君はそんなことに頓着しません」

 海は即座に反論したが、男はにやりと口許をつり上げて言った。

「やっぱり現代っ子はちょーっと考えが足りないな。料理っていうのは、男を誘惑するのに一番いい手段だぜ? そりゃ、生きてりゃ色々あるけどな、最終的に生き物がこだわるのは、睡眠欲に食欲に性欲の三大欲求だぞ」

「………………」

 なんとなく反論できない説得力を感じて、海は溜息をついた。

 それから、ポツリと言う。

「料理、苦手なんです」

「ん、そりゃ悪かった。苦手なら仕方ねぇな」

 やたらあっさりと頭を下げて、男は少しだけ遠い目をした。

 なんというか、嫌なものを思い出しているかのような目だった。

「うん。苦手なら仕方ない。美奈は食えないほどじゃなかったけど、凪子が最悪だったし、茜も料理はヘタクソだった。……あいつは論外だったし、シェラの奴は作らせれば上手かったんだが、いかんせんいっつも機嫌が悪そうだったしなァ」

「……それ、お付き合いしてる女性ですか?」 

「お付き合いっていうより、同棲。一人はあちこち飛び回ってるけど」

 男がさらりと言った言葉を疑って、女性の数を指折り数える。

 1、2、3、4、5、6……。

 海は無表情になって男から二メートルほど離れた。

「……畜生ですか、貴方は」

「畜生じゃない。最低さ。まぁ、正義だの愛だの希望だの、目に見えない概念的なものを証明しようって考えてる、お馬鹿な少女よりは最悪じゃねえけどな」

「その馬鹿の手伝いをしようとしている貴方はなんなんですか?」

「言ったろ? 最低だってな」

 男は肩をすくめて、やはりいつものようにケラケラと笑う。

「まぁ、オレくらい最低なやつは白の魔法使いくらいだろうな。あいつは本当に最低だからおじょーちゃんも注意した方がいいぜ?」

「……貴方以上に最低な人なんて想像できませんけど」

「左にお姉さん、右に幼馴染、背中を守るのは同級生とメイド。そして、あいつを守るためなら死んでもかまわねぇって女は全世界で合計四百九十五人。それぞれがどこかの国の姫だったり、図書館の司書だったり、看護婦だったり、絵画描きの少女だったりと選り取りみどり……さて、オレとどっちが最低かな?」

「なんかもう……そこまで行くとどっちもどっちですよ」

「その通り。そこまで行けば七人も五百人もそう変わらねぇ。まぁ、それでも七人と五百人じゃ当然五百人の方が断然多い。大は小を兼ねるっていうが、いくらなんでもそこまではやりたくないね」

 男は言いながら、少しだけ目を細めた。

「でもな、お嬢ちゃん。……最低が最善ってことも、ありうるんだ」

「え?」

「オレは今まで選択してきたことを全部後悔してる。若かったし、考えるだけの頭がなかったから、どうしていいのか分からなかった。精一杯考えて選んできたけれど、それでも……オレは最低になっちまった。死の権化に『成り果てた』」

 足を止めて、男は海を見つめる。

 どこまでも真っ直ぐに、しっかりと見つめていた。

「君は……自分の気持ちだけは誤魔化すなよ」

 優しく、穏やかで、どこまでも純粋に、静謐な瞳。

 まるで『死』が似つかわしくない男は、穏やかに笑っていた。



 山口冬孤は、その日ご機嫌だった。

 手にはビニール袋。もちろん中身はスーパーで購入してきた食品の数々である。

(ふっふっふ……勝機は我にありっ!!)

 心の中でガッツポーズをしながら、冬孤はにこにこしていた。

(あのヴァレンタインの悲劇から一年……も経ってないけど、あの屈辱を忘れたことは一度もないわ。そして、今の私には慶子というアドバイザーがいる。……完璧だわ。負ける要素など、どこにもないっ!)

 そう、料理だって口に含んでも飲み込めるくらいには上達した。慶子も『あー、まぁ試行錯誤をこらさない料理だったらなんとか食べられないこともないかもしれません。とりあえず、馬鹿でも作れる簡単な病人食教えておくから、このレシピ通りに作るんですよ? いいですか? 絶対に、このレシピ通りに作らなきゃ駄目ですよ?』と念を押して、渾身のレシピを預けてくれた。これは期待に応えなくてはいけないだろう。

 そしてなにより……病気の時に看病。

 二人っきり。

 絶好のシチュエーションである。

「ふふ……んっふっふっふ」

 思わず、口許が緩んでしまうのも仕方のないことかもしれない。ベタなことに小さな子供が「あのお姉ちゃんなんで笑ってるのー?」と無邪気に指をさし、母親が「しっ、見ちゃいけませんっ。あと、指もささないのっ。高校生くらいなれば、みっちゃんも分かるからね?」と小さく叱っていた。

 もちろん冬孤はそんな微笑ましい一面など視界に入ってすらいない。にやける口許をなんとか隠しながら、軽い足取りで家に向かっていた。

 が、

「………………」

 早くも、冬孤は機嫌が悪くなりそうになってしまった。

 犬小屋の前に、黒髪の少女が座り込んでいた。

 なんだか頭の回転が遅そうな、ぼんやりとした表情の少女だった。年齢は十歳前後。日に反射しても黒さを保つ、漆黒の髪を肩のあたりで切りそろえている。肌は白く服装は小学生が着ているような可愛らしい私服。黒の長袖と黒いスカートという、汚れたらどうしようもないような組み合わせ。誰の趣味だか今ひとつ分からないが、黒のニーソックスを着用していた。

 その少女は、ぼんやりとしながら退屈そうに欠伸をしていた。なんだか猫のような仕草であるが、そういう少女もいるだろう。

 とりあえず近づいて、冬孤は少女に聞いてみた。

「あの、お嬢ちゃん。あなたはこのお家に何の用なのかしら?」

「……待ち人」

「えっと、誰を待ってるのかな?」

「……青くて黒いおばちゃん」

 一瞬で、その人物に思い当たる。

 額に青筋を浮かべて、冬孤は少女に聞いた。

「もしかしてそのおばちゃんって、霞耶猫子って名前?」

「………………?」

 少女は小首をかしげて、犬小屋で退屈そうにしている犬を見つめた。

「………………そうみたい」

 それから、こくりと頷いた。

(なんか……ワンテンポ遅い子ね)

 冬孤はちょっと呆れながら、少女を見つめる。少女はなにも考えてなさそうな、ぼーっとした目を冬孤に向けて、それから、ふい、と目を逸らした。

 そして、また退屈そうにぼーっと空を見上げる。

(っ、い、いきなり嫌われたっ!?)

 かなりのショックを受ける冬孤であった。

 まぁ、ただの猫の習性ではあるのだが、無論そんなことを彼女が知るはずもない。

 がっくりとうなだれる冬孤を、少女は不思議そうな目で見ていた。



 家に戻って来た私は、思わず顔をしかめてしまった。

 玄関前にはがっくりとうなだれる冬孤と、ククロの隣でぼーっとしている少女。おそらくあれがタマのところの四女であろう。名前はティナ=ラウラ=クラウディア。私が名付け親だから間違いない。

 しかしなんというか……見た目通りにぽんやりとした小娘だな。

 タマでなくとも心配になろうというものだ。あれで本当に猫神になれるのか?

 まぁ、仕方ない。とりあえず人化して、私は二人に歩み寄っていく。

「すまんな、山口の娘。私の知り合いが手間をかけた」

 私の姿を見ると、ティナは口許を緩め、冬孤は露骨に顔をしかめた。

「おばちゃん……」

「霞耶猫子っ!!」

 どうやら……ものすごく歓迎されていないらしい。まぁ、冬孤の心情(多分文雄と二人っきりなのを邪魔されたくないとかそんなの)を考えれば当然のことではあるのだが、野暮用で来た客をそこまで露骨に嫌わなくてもいいような気がする。

 個人的に嫌われているので、仕方がないといえば仕方がないが。

 が、次の瞬間に冬孤は、にっこりと不気味な笑顔を浮かべた。

「用件は分かりました。母は現在留守にしていますし、現在はちょっと兄が急病で寝込んでいますので、早急に……早急に、お引取り、願います」

 うーむ、目がまじだ。頬が引きつりまくっているし。こめかみには血管が浮き出ていたりして、隣でぼんやりしていたティナが滅茶苦茶びびっている。

 ここ最近……以前にも増して禁忌的になったのは気のせいではなかったか。

 このまま家に二人きりにしておくのはものすごく危険な気がするのだが……私も色々と忙しいから、面倒ごとには関わりたくないというのが本当のところだ。

 まぁ、いいか。なんだかんだと言っても、冬孤が文雄を襲うようなことは十中八九間違いなく在り得ない。なぜかというと、山口冬孤という少女は、極めて少女的で純情だからである。……好きな男に手料理を作ってしまう程度には。

 私は、苦笑しながらティナの手を引いた。

「心配するな。私も今日は忙しいのでな、冬孤をからかってる暇はない」

「……それ、本当でしょうね?」

「嘘をついてどうなるもんでもないだろうが? それじゃあ、私たちはここで……」

 と、その場を後にしようとした、

 その時。

 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。

 家から出てきたのは、いかにもその辺にいそうな普通の少女だった。

 その少女は大きな紙袋を手に持って、私達を睨みつけていた。

「……山口冬孤って、あんた?」

 その少女が向けたのは、あからさまな敵意。不機嫌そうな口調を隠そうともせず、少女は冬孤を(ついでに私を)睨みつけていた。もちろん冬孤がその程度の眼光で怯むわけもなく、売られた喧嘩を買って出たかのように一歩前に進んだ。

「はい、確かに私が山口冬孤ですけど、失礼ですが貴女は?」

「姫宮藤野。あんたの馬鹿兄貴のクラスメイトよ」

「……いきなり人の兄を馬鹿呼ばわりとは、いかがなものでしょうか?」

 どうやら敵と認識したらしい。冬孤は姫宮藤野と名乗った少女を見据えた。

 犬でも脅えるその視線を真っ向から受けて、藤野は怯みもしない。

「馬鹿だから馬鹿って言ったまでよ。なんか悪い?」

「悪いですね。まず、その言い方は癇に障ります。それから、兄さんになにを言われたか知りませんけど、私に八つ当たりするのはやめてくれませんか? そういうのって、『私は頭が超絶悪いです』って宣言してるようなものですよ?」

「っ!!」

 あ、怒ってる怒ってる。

 というか、藤野という少女には分が悪い。最近少しは丸くなってきたとはいえ、相手は『山口冬孤』なのだ。口で勝てると思うのがおかしい。

 藤野は、目を細めて冬孤を睨みつけた。

「なに、アンタ……喧嘩売ってるの?」

「そういう言い方って本当に頭悪いですよね。腕力で解決しようなんて、まるっきり『馬鹿』の考えることですよ? 分かってますか、お馬鹿さん?」

「………………」

 姫宮藤野は、ものすごい形相で冬孤を睨みつけていた。

 が、不意に視線を逸らして、深く溜息をついた。

「……八つ当たりして悪かったわ。ちょっと不愉快なことがあっただけだから。山口とは一切関係ないし、単純に私の問題だから」

「えっと……私も、すみませんでした」

 いきなり相手に謝られるような意外な展開は慣れていないのか、素直に頭を下げる冬孤だった。

 藤野という少女は、苦笑した後丁寧に頭を下げた。

「本当にごめん。じゃ、あたしはこれで」

 藤野は私の横を通り過ぎ、玄関先に停車してあったバイクでさっさと走り去ってしまった。

 バイクのエンジン音が聞こえなくなる頃、冬孤は綺麗な笑顔を浮かべた。

 寒気と恐怖が全身を突き抜ける。

 それはまるで地獄の底から這い上がってきたような、悪魔的な笑顔だった。

「もう、兄さんってば……また新しい女性ですか。仕方ありませんねぇ」

 冬孤の目は、まるで笑ってなどいない。

「おまけに今度は家の中にまで。どうやらそろそろ本格的に矯正してあげないと、全然分からないみたいですねぇ。ええ、ちょっと友人のアルバイト先で使っていた古い仕事道具をもらってきて大正解でしたよ……本当に」

 聖母のような微笑を浮かべながら、冬孤は鞄の中からあるものを取り出す。


 それは、猛獣を調教する時に使われる、黒い鞭だった。


 ………………。

 私はなにも言えず、不気味に笑う冬孤を見つめるだけだった。

 いや……本当にどうしよう。久しぶりに対処に困るぞ、これは。

 と、不意に服を引っ張られる感触。

「ねぇ、おばちゃん。……あれ、なに?」

「……ティナももうちょっと大人になれば分かる。だから、今は見なかったことにしろ。な?」

「……?」

 不思議そうに首をかしげる子猫は、とても純粋な目をしていた。

 ああ、今すぐこの子をこの家から離れさせなければならないような気がしてきた。

 というか、私が離れたい気分だ。さすがに鞭を握り締めてくつくつと笑っている生命体には近寄りたくないというかなんというか。

 いや、ここはさっさと立ち去っておくべきだろう。子猫の情操教育に悪すぎる。これからティナを預けようとしている場所も情操教育にはいいとは言えないのだが……それはそれとしておくことにしよう。

 うーむ。私の知り合いってこんなのばっかりか。嫌だなぁ。

「と、とりあえず私たちはこのへんで失礼させてもらう。じゃあな」

「ええ。もう二度と来ないで下さいね」

「ばいばい、おねーちゃん」

「うん、またね」

 子供と動物には優しい冬孤は、ティナには優しい笑顔を向けた。

 それはなんというか、裏表のないとても魅力的な笑顔だった。あれが素で出せれば女に免疫のない文雄などとっくの昔に落とせているだろうに……。まぁ、落としたら落としたで色々と厄介なことになるのだろうが。

 冬孤に別れを告げて角を一つ曲がる。

 と、ティナは不意に足を止めて、無表情のままぽつりと言った。

「文雄おにーちゃんに……会いたかった」

「今は風邪を引いて寝ている。お前に移ったら、多分あいつは悲しむぞ」

「……でも」

「それに、お前の人化は完璧には程遠い。自分の能力を制御できるように修行してもらわないと色々と困るのでな。文雄の前で子猫に戻ったら、困るのはティナだぞ?」

「…………う」

 どうやら、そういうことは考えていなかったらしい。

 苦笑しながら、私は人間になった子猫を見つめる。

 正面から、しっかりと。

「ティナ。最初に聞いておくが、お前はなぜ家を出た? 多少抜けているところはあるが、タマのところにいれば巣立ちまでは安全なんだぞ?」

「……うん」

「タマには黙っておいてやる。理由があるなら話しておけ」

「………………じゃったの」

「ん?」

「ねぐらの近くに住んでた……男の子が死んじゃったの」

 ティナは顔を伏せて、それでも私の手をしっかりと握り締めて、口を開く。

「ちっちゃくて、細くて……すぐにでも死んじゃいそうで、すぐに死んじゃったけど、それでも……悲しかった」

 男の子、というのが人間なのか猫なのか、それは分からない。

 ただ……きっとそんなことは関係ないに違いない。

 少女は、顔を上げて、正面から私を見据えて力強く語った。

「だから……だから、強くなりたいの。強くなって……守りたいの」

「正義の味方は、病気まではどうにもできんぞ?」

「……うん、分かってる。でも……守りたいの」

 正義の味方は、どうしようもないほどに無力だ。

 助けられるのは善悪問わず、たくさんの命だけ。その中に偶然大切なものが混じっているだけに過ぎない。病気や餓えで死ぬ子供を助けることなど、絶対にできない。

 それでも、それを知っていても、やらねばならぬことがある。

 なにもしないのは……耐えられないことだから。

 私はゆっくりと溜息をついて、少女に向かって笑いかけた。

「正義はきついぞ? はっきり言って医者になったほうがいいかもしれん」

「……私は、せいぎのみかたがいい」

「そうか」

 少女の即答に、私は思わず笑ってしまっていた。

 子供らしい正義感。子供らしい理想。子供らしい純粋さ。

 本来なら、唾棄すべき理想論だと言われるのだろう。少女が信じる世界はあまりに輝かしく、それは現実とはまるで異なる。

 しかし……理想を信じずして、なにが正義か。

 正義を心に。理想を叫んで戦え。ただ純粋に、ひたむきに。

 世界を創るのは他の誰かで自分ではないだろうが、その世界を守ることはできる。

 他の誰かを、世界を創り上げていく誰かを信じて戦う。

 大切なものを守るために戦う。

 それが、『正義の味方』だ。

 私は少女の手を握り締める。そして、真っ直ぐな問いかけをした。

「ティナ=ラウラ=クラウディア」

「……はい」

「今からお前を魔法使いの家に預ける。耐えてみせろ」

「はい」

 返事は簡潔。それで十分だった。

 さて……タマには悪いが、これでティナの意志は確認できた。私が言えることなど何一つないことが、よく分かった。

 それよりも……気になることが一つ。

「ティナ、そういえば、お前どうやって山口家まで来たんだ?」

「………変なおにいちゃんに、助けてもらいました」

「変なおにいちゃん?」

「……いっぱい、笑ってた」

 ………………。

 ………………。

 ………ほう。

「ティナ、もう一度確認するが、そいつはいやらしく、にやにや笑ってたんだな?」

「………………うん」

「なるほどなるほど……好都合だ」

 あの馬鹿か、それともあの阿呆か、どっちかは知らんがいい機会だ。

「くっくっく、千載一遇とはこのことか。今度こそちゃんと叩き潰してやろうさ」

「……お、おばちゃん?」

「なんだ?」

「な……なんでも、ありませんっ」

 ティナは即座に顔を逸らして、ついでに恐怖に頬を引きつらせる。

 なんだか早速後悔しているようであったが、私は気にしないことにした。

 この程度の恐怖、今のうちから慣れておいてもらわないと困る。

 なにごとも、経験だ。



 冬孤が家の扉を開けると、出迎えてくれたのは静寂だけだった。

 いつもならプーかリンダが出迎えてくれるのだが、どうやら今日は本格的に誰もいないらしい。そのことに若干の寂しさを覚えながらも、冬孤は真っ先に台所に向かった。

 理由は至って簡単。戦果を確認するためである。

 テーブルの上には、お椀が四つと甘ったるい匂いのするマグカップが一つ。どうやら、椀の二つとマグカップの一つは冬孤が作っていったものではないようだ。

(……もしかして、本格的にカノジョかなんかなのかしら?)

 頭の中を、不吉な予感が通り過ぎるが冬孤は頭を振ってその考えを追い出した。

 これでも長い付き合いだ、文雄の好みくらいは把握している。とりあえず、ああいう馬鹿っぽい女は苦手だったはずだ。

 文雄があの馬鹿っぽい女を怒らせたのか、あるいはあの馬鹿っぽい女が文雄を怒らせるようなことをしたのか、どちらにしろ『文雄が自分以外の女の子を怒らせる』など想像の範疇を越えることだったので、冬孤はそこで考えるのをやめた。

(ま、多分あの女が兄さんになんかちょっかい出したんだろーけど)

 奇妙な信頼を寄せながら、冬孤はテーブルに乗ってる椀を確認する。

 椀の中身は全て空だった。どうやら、文雄はちゃんと自分が作ったものを食べてくれたらしい。

 ほっと胸を撫で下ろす。

「……よかった」

 慌てて作ったので味見をするのを忘れてしまったのだが、思ったよりは上手く作れたらしい。内心で安堵しながら、冬孤は頬を緩ませる。

「うん、ちゃんと成果は出てたんじゃない。これならもう他のメニューにチャレンジしても平気そうね。そろそろクッキーにでも挑戦してみよ」

 と、そこで不意に、自分が作った梅粥の鍋が目に付いた。

 中身を覗くと、さすがに全ては食べ切れなかったのか、椀で一杯ぶんくらいのお粥が余っていた。

「ま、流石に風邪引いてる時に無理して全部は食べられないわね。じゃあ、ちょっと一口味見……」

 冬孤は冷めてしまった梅粥を、何の躊躇もなく口に運ぶ。


 一瞬、目の前が真っ白になった。


 冬孤は慌てて流し台に駆け込む。

 そして水をコップに注ぎ、一気に飲み干した。

「……げほっげほっ……な、なにこれ?」

 なにもくそもない。まぎれもなく冬孤が作った梅粥だ。

 まず塩加減が間違っている。鷹の爪を入れたせいか、かなり辛い。煮干の腹でだしを取ったせいか微妙に生臭く、なにより梅干の種が細かく砕かれて入っているため、お粥の分際でボリボリとした、痛い食感を生み出していた。

「……うーん。やっぱり作ってる途中で塩の袋を鍋にぶちまけちゃったのが悪かったかしらね。変な調味料を入れたのもまずかったし、母さんが残してた煮干を入れたのも敗因だったかしら。あとは……オリジナリティを出そうと思って梅の種の中身まで使おうと思ったのが駄目だったかしらね……」

 途方に暮れた顔をしながら、とりあえず冬孤は梅粥を生ゴミに捨てた。

 それからゆっくりと自分のふがいなさを噛み締め……ポツリと呟いた。

「……母さんに習おう」

 それは、少女にとってはある意味屈辱の決断だった。

 普段ぽややんとしているリンダは、家事全般は完璧である。冬孤にとってそれはちょっとしたコンプレックスだったのだが、ここまで料理が下手となると手段を選んでいる場合ではない。なんとかして料理が上手くならないと、人間としての価値が損なわれることになる。

 と、そこで冬孤はとんでもないことに気づいた。

 テーブルの上に置かれた椀は全て空だった。おそらく一杯ぶんはあの奇妙な女に出して、まるまる残したのが鍋の中に残っていたのだろう。

 しかし、たっぷり四杯ぶんは作っておいたはずだ。

 4−1=3。

 三杯ぶんの生ゴミは、どこに消えたのだろうか?

「………ぜんぶ、食べた? あれを?」

 戦慄が背筋を這い上がっていく。

 そして次の瞬間、冬孤は身を翻して走り出した。

 呼吸も忘れて階段を駆け上がり、ノックもなしに文雄の部屋の扉を勢いよく開いた。

「兄さんっ! あの梅粥、全部食べた……ん」

 語尾が尻すぼみになっていく。

 上着を脱いで、今にも着替えようとしていた文雄は、いつも通りの笑顔で冬孤を出迎えた。

「あ、お帰り。寄り道なしで帰ってくるなんて珍しいね」

 鍛えられ、引き締まった体が目に入った。

 冬孤の顔が、一瞬で真っ赤に染まる。

「あ……あう。その、えっと、すみませんでしたっ!」

 慌ててドアを閉めて、冬孤はゆっくりと息を吐く。動悸が収まらず、ドクンドクンと脈打つ胸を押さえるのに必死だった。

(落ち着け。落ち着きなさい、山口冬孤。中学生の頃は一緒にプールに行ったりしたでしょうが。この程度はなんてことはないわ。そう、体育系の部活にも所属してないのに、なんでそんないい体してるのかとか……クラスのだんしと比べると、なんか男らしいなぁ、とかそんな感想なんて、えっと)

 思い出して、さらに顔が赤くなる。

 と、閉めたドアが不意に開いて、文雄が心配そうに声をかけてきた。

「どうしたの?」

「な、なんでもありませんっ! ちょっと走って疲れただけですっ!」

「ならいいけど……あんまり無理しちゃ駄目だよ。風邪引くから」

「……兄さんには、言われたくありませんよ」

「まぁ、そうだね」

 文雄は苦笑する。

 その機を逃さずに、冬孤はたたみかけるように言った。

「そうです。あれほど無茶はするなと毎回のように言ってるのに、連日徹夜を繰り返して、学校では眠り放題。どーせネタが思いついたら夜中でも起きて書き連ねてるんでしょう?」

「……う」

「少しは、自分の体のことも考えて下さい。それから着替える時は部屋に鍵くらいかけておいてください。色々と困ることもありますから」

「さっきまで寝てたし、別に見られて困るようなもんでも……」

「こっちが困るんですっ!」

「あ……うん。分かった。善処する」

 いつものように、文雄は無防備な苦笑を冬孤に向けた。

「っ!」

 いつもの笑顔。その笑顔は、近くにあって当たり前だった。

 しかし、冬孤はなんとなく気恥ずかしくなって顔を逸らした。オーバーヒートしそうになる頭の調子を、とにかく無理矢理に押さえつける。

「そ、それで……あの女の人は、兄さんのなんなんですか?」

「女の人? ああ、姫宮か」

「なんか怒ってましたけど、喧嘩でもしたんですか?」

「喧嘩……ねぇ」

 文雄はゆっくりと溜息をついて、目を細めた。

 なんだか、不機嫌そうに。

「あいつの名前は姫宮藤野。僕の席の後ろの席の女子。身長は低からず高からず、体格も至って普通。今時の女の子らしく流行やお洒落には敏感。数学はそれなりに得意そうだけど、地理関係は滅法弱い。学校はサボったりサボらなかったり、なんかいっつもお金に困ってる印象がある……特徴としては、そんなもんだよ」

「ずいぶん詳しいんですね?」

「うん。僕は姫宮のことが嫌いだから」

 あっさりとした、ともすれば聞き逃してしまいそうな一言。

 だが、それは冬孤にとって意外なものだった。

「えっと……嫌いなんですか?」

「うん。女の子じゃなかったら即座に殴り倒してるくらいには嫌いかもしれない。なんていうか、こう……水と油っていうか、猫と鼠っていうか、とにかく相性が悪い。多分姫宮の方も僕を嫌ってると思うよ」

「なんでそんな人が家に来るんですか……?」

「暇つぶし」

 何の根拠もないが、文雄はきっぱりと断言した。

「あいつは自分の気紛れで、他人を容赦なく踏み潰せる人間に違いないと僕は勝手に思っている。っていうかさ、人が風邪の時に押しかけてきて、散々部屋を荒らしまわった挙句の果てに、昼飯たかっていくっていうのは人間として間違ってるだろ!?」

「……なんか、昼食を作ってもらったような痕跡がありましたけど」  

「甘いよ。それすらも策略に違いないと僕は思う。っつーかあいつ勝手に僕のプレス〇2と最近買ったばっかりのワンダと巨〇を持っていったんだよっ! もうこれはほとんど空き巣だろ!?」

「………………」

 久しぶりに真面目に怒る兄を見つめながら、冬孤はこっそり溜息をついた。

「えっと、兄さん。ちょっとクールダウンしましょう」

「あ……うん。ごめん」

「それから、警察に連絡を」

「それはやりすぎだよ」

 文雄は笑って、冬孤もつられてくすっと笑う。

「なんか、安心しました」

「ん?」

「兄さんってあんまり人のこと悪く言わないじゃないですか。なんか……久しぶりに兄さんの本音を聞いたような気がします」

「……うーん。そうかなぁ? 僕は結構素直に生きてるよ」

「じゃあ聞かせてください。昼ご飯に作っていった、梅粥の味はどうでしたか?」

「え………………」

 沈黙が落ちる。

 冬孤は笑顔のまま文雄を見つめ、

 文雄はひたすら冷汗を流して言葉を探していた。

 そして、ゆっくりと口を開く。

「お……お、おいし、おいしかって……うん、オイシカッタヨ」

「無理はしなくていいですよ。不味かったのは事実ですし」

「じゃあ、『豚の餌未満生ゴミ以上』って素直に言っていいんだね?」

 

 ドゴッ!


 文雄の横っ面に、冬孤が持っていた鞄が炸裂した。くるくるとまるでフィギュアスケートのように回転し、地面に倒れた。

 顔を上げると、冬孤はまるで菩薩のような笑顔を浮かべていた。

 当然、その目は一切笑っていない。

「無理はしなくていいですけど、せめて『人を思いやる』気持ちは忘れて欲しくないなって思います。切実に」

「うん……ごめん。ちなみにその鞄の中はなにが入ってるのかな? なんか、やったら重い衝撃が脳の中まで伝わってきたんだけど」

「左右で合計六キロのダンベルですけど。ちなみに、教科書でプラス一キロ」

「………死ぬよ」

 死ななかった幸運に感謝しながら、文雄は立ち上がる。

 体の調子はそこそこ。どうやら、風邪薬が効いたらしい。症状もほとんどなく、咳や鼻詰まりも収まっていた。これなら明日は学校に行けるだろう。

 が、その前に。

「ねぇ、冬孤。僕が言うのはかなり気が引けるんだけど、君は極悪に料理が下手だ。一応上達はしてるけど、このまま独力でやっても産廃を量産するだけだと思う」

「………分かってますよ」

 ふて腐れたように顔を背ける冬孤に、文雄は言った。

「料理、教えようか?」

「………………え?」

「や、だからさ、このままだとあんまりだし、きちんと初歩から教わったほうが上達が早いかなって思って。母さんに言えば料理当番くらい喜んで代わってくれると思うよ。まぁ……嫌なら無理にとは言わないけど」

「………………」

 冬孤は、少しだけ考えた。

 デメリットとしては、文雄に自分の弱みを大いにさらけ出すことがあげられる。料理というのは今のところ自分にとって一番のウィークポイントだ。文雄なら教え方も上手いし、絶対に上達できることは言うまでもないのだが、なんとなく惚れている男に弱みを見せたくない。

 メリットとしては、料理が上達する。そして、

 普段小説の仕事で部屋に引きこもりがちな文雄と一緒にいられる時間が増える。

 決断は早かった。

「お願いします、兄さん」

「うん、分かった。じゃあ早速一番最初のアドバイスを」

「はい」

「ある少女は言いました……」

 文雄はにっこりと笑ったまま、きっぱりと言った。

「『料理に必要なのは腕だ。愛情といい食材がそれに続く』、と」

「つまり?」

「愛情込めなくていいから、レシピ通りに作ろう」

「………………」

 冬孤は、文雄の言っていることが正論だと分かっていた。

 分かっていたけど、腹が立ったので、にっこりと笑って鞄を握り締めた。

 そして次の瞬間、合計七キログラムの鞄が文雄の頭を直撃していた。



 古びた木造アパートの一階に、そいつらは住んでいる。

 浅上壱檎という猫探偵と九棟真弓という世界一口の悪い女が住んでいる。しかし、そこは魔法使いの家でもある。

 浅上壱檎。またの名を血の魔法使いイチゴ=ブラッディレイ。私よりも高位の人神族でありながら、世界のあらゆる血継を受け継ぐ女。

 私はアパートの扉を開けて、にやりと笑っていた。

 部屋の中には三人の女に一人の男。そいつらが囲んでいるのは鍋である。

 一人はぱっと見では中学生の男子にしか見えない女。

 一人は長い髪を持つ女。笑顔を見ると癒されるようなやつ。

 一人は銀色の髪と紫色の瞳を持つ少女。

 そして、最後の一人。

 よれよれのスーツに、パリッとしたコート。にやけた笑いは、いつ見ても私を苛立たせる。どこかの誰かはそいつのことを『夢幻惨殺』だとかたいそうな事を抜かしていたが、私はそいつの本名を知っているため、そうは呼ばない。

 そいつは、私の顔を見て思い切り顔を引きつらせた。

「……お、オーレリアさんではナイデスカ。いや、き、奇遇だね」

「ああ、ずいぶんと久しぶりだなぁ、相川透」

 相川透。世界で二番目に馬鹿な男の名前だ。

 私は、にたりと笑いながらゴキリと拳を鳴らす。

「小便は済ませたか?

 神様にお祈りは?

 部屋の隅でガタガタ震えて命乞いするココロの準備はOK?」

「ちょ、ま、待てっ! 正義の味方がいきなりそれはねぇだろっ!?」

「はっはっは。お前を倒すことが私の正義。というわけで死ね。藁のように死ね」

「おまっ……セリフパクりまくりじゃねーかっ!」

「透。昔の人はいい言葉を残してくれたよ……。今からお前もその仲間入りだ」

「いや、ちょ、頼むから冷静になれっ!」

「なに、『痛いのは最初だけだ』と世界中の女垂らしも言っている」

「意味が違うッ!!」

「仕方がないな。それじゃあ、お前の女垂らしっぷりをお前の女どもにばらそう」

「………ごめんなさい。それが一番怖いんでやめてください」

 透は、あっさりと土下座した。角度といい、媚びへつらい方といい、実にいい感じに嗜虐心をそそってくれる土下座だった。

 私はゆっくりと溜息をついて、相川透の隣に座った。

「さて、説明してもらおうか。なーんでお前はここにいるんだ? これまでとこれからと、今までの経緯を全部含めて、洗いざらい喋ってもらおうか?」

「いや、えっと……そのですね」

 恐怖のあまり、敬語になっている女垂らしは、ちらりと他の三人に視線を向ける。

 全員、こちらと視線を合わせることなくティナのことを可愛がっていた。

 諦めの境地に達したか、透はとうとう白状した。

「なんつーか……その、色々あるんだけど」

「言ってみろ」

「えっと……実は……」

 男の言葉は、ごくごく普通にある話だった。

 だが、それは無量に存在する言葉の中でも、最悪に属する言葉だった。


 私はにっこりと笑う。

 これ以上にない笑顔で、笑っていない目で、透を見つめる。

「透。右の頬と左の頬、どちらを殴られたいか今すぐ選べ」

 そして、拳をしっかりと握り締めた。



 次回『猫と鍋パーティ』に続く。 

それは、ごくごく些細な物語。ありきたりで呆れてしまうくらいに小さな話。なんでもできてしまう孤独な女の子が、優しいだけの男の子を好きになった話。

それは、ごくごく些細な物語。ありきたりで呆れてしまうくらいに小さな話。なにも理解できない女の子が、全てを理解できる男の子に恋をした話。

次回、猫日記第拾八話『猫と鍋パーティ』

かくして、少年の試練は始まりを告げる。

お楽しみに。

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