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猫日記  作者: 田山歴史
13/24

第拾参話 猫と正義の試練(前編)

 発端。それは、ほんの少しだけ昔の話。



 誰にだって子供時代というものが存在する。目を背けたくなるような、それでもそれがなければ今の自分は存在しないだろうと思わせるもの。

 一般的にはそれは過去と呼ばれる。

 その頃の文雄は車に轢かれたばかりで、骨折やら打撲やらそういった怪我が治っていなかった。なにより『視力が回復しない』というのが退院を許されない最大の理由だった。本当は失明したわけではなかったが、文雄にとってそれは好都合だった。

 視えてはいけないものが見えるのだから。

 それでも、毎日のように学校を抜け出して見舞いに来る妹のことを邪険に追い返したりはしなかった。「一時的なものだから視力はすぐに戻るし、怪我も骨折だけで後遺症は一切ない。つまり、大したことはないんだ。看護師さんも美人さんばっかりだし、むしろ楽園」とほんの少しだけ嘘をついて、文雄はいつも笑っていた。

 当然のように、妹にはつねられた。

 当り障りのない、取り留めのない話をして、冬孤は昼食の時間が来ると学校に帰る。そんなのが日常になっていた。

 そして、冬孤が帰った後は、絶対に聞かれるのだ。

「ねぇ、山口君。なんで君たち兄妹はそんなに仲良しさんなの? 非常に不可解だわ。ウチなんて血で血を洗う抗争の真っ最中なのに」

 文雄はその言葉を忘れたことは一度も無い。思い出そうと思えば、あの少女の全てを思い出せる確信がある。銀髪に、紫の瞳。華奢なくせにしなやかな肢体は、典雅な猫を思わせる。実際の年齢は分からないが、少女は少なくとも自分よりは年下のはずだったのだが、どうみても年上にしか見えない。

「仕方ないよ、文雄くんは重度のシスコンだから。ああ、でも気持ちはよく分かるよ。僕にも妹が二人いるからねぇ」

 文雄はその言葉を忘れたことは一度も無い。思い出そうと思えば、あの少年の全てを思い出せる確信がある。灰色の髪に、漆黒の瞳。整った顔立ちはまるで天使のようだが、体は病的に真っ白だ。それが彼の神秘的とも呼べる部分を誇張している。出来損ないの体を持ちながらも、少年は文雄より年上だった。しかし、その横顔は『年上』などという言葉すらも凌駕するなにかがあった。

 少年は笑いながら語る。

「守るものがあるっていうのはいいことさ。少なくとも、自分のために自分らしく、自分の欲望の赴くままに戦うよりはずっといい」

「そう? 守る対象が妹というのは……人間としてどうかと思う」

「妹や弟を守るために、兄や姉、親は存在する。僕はそう思うよ。文雄君のことだから禁断の愛とかそういうものはノーセンキューなはずさ。告白してキスをして抱き合うことだけが人間の愛じゃないよ」

 喋るのは少年と少女だけで、文雄はなにも語らない。

 眼球と目蓋、そして包帯。

 三重に施された封印は文雄から視力を奪っていたが、文雄はそれでよかった。

 見えなくても分かってしまうのだから。見えないほうがいい。

 少女は、少年に向かって問いかける。

「ねぇ、漆磨君。君はなんで苦しいのに生きていられるの?」

「少しは自分で考えなよ。人の頭はそのためについている」

 少女は少しだけ考えて、ありきたりなことを言った。

「好きな人でもいるの?」

「生憎、僕は人間だけは好きにならないことにしているんだ」

「ふーん……それじゃあ、私はきっとダメね?」

「なんでさ? 君も文雄くんも、能力面で言えば十分人間の領域から外れてるよ」

「でも、私も彼も人間よ?」

「……一つだけ、いいことを教えてあげよう」

 少年は、口許を少しだけつり上げた。

「人間はね、醜い生き物なんだ。僕も含めて、なにもかもを知ろうともしない愚か者の集団さ。その中でも、まるで世界に嫌われたかのような異能をもつ存在、『人間外』と呼ばれる、『普通』に溶け込めない連中がいる」

「……それが、私たち?」

「うん、そういうことになる。僕は言うなれば誘蛾灯みたいなもんでね、変人招来体質というか、そういう『普通』の枠から大きく外れた人が近寄ってくる。……まぁ、大抵の人間は僕と話したがらないしね。言うことがキツイから」

「でも、漆磨君は綺麗だよ?」

「外面はね。内面は世界で一番歪いびつなのさ」

 少年は、嬉しそうににっこりと笑った。

「でもまぁ……君たちはまだギリギリ『普通』だよ」

「……さっきは人間外とか言ってたじゃない?」

「能力面での話さ。人間はね、愚か者ばかりだけど、心次第でいくらでも自分を変えることができるっていうとんでもない化け物でもあるからね。自分を練磨し、鍛え上げるのも、堕落して潰れるのも、その人の選択次第さ。もっとも……どうにもならないことっていうのもたくさんあるんだけどね」

 苦笑しながら、白い杖をついて少年は立ち上がる。

「僕は、君たちみたいな、頑張ってる子が大好きだよ」

「なにそれ? 告白?」

「さぁね。どう取ってもらってもかまわないよ」

 陽光に照らされた灰色の髪は、まるで白銀のように輝いていた。

 少年は、目を細めて、口を開いた。

「きついからってあきらめちゃ駄目だよ? いつか、きっと、なんとかなるはずだから。絶対に……なんとかしてみせるから」

 笑いながら、少年は二人の頭を撫でて、



 二人の人生を、決定付ける一言を言い放った。



 私は猫である。名前はファリエル=ナムサ=オーレリア。毛並みは青に近い黒を持つ、まごうことなき美雌猫である。



 バリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッバリッ。

 断っておくが、爪を研ぐ時の音である。

 別名、ストレス解消ともいう。

 爪研ぎで滅茶苦茶に爪を研ぎながら、私は欲求を発散しようとする。

「………っ!」

 ストレスが溜まっていたわけではない。最近は体調もいたって快調。むしろ、悪い所など探しても見当たらない。まぁ、普段から健康には気を使っている私だ。体調管理をおろそかにすることなどありえない。

 ただ……最近は色々とゴタゴタしていた。

 だから、すっかり忘れていたのだ。数ヶ月単位で来る『アレ』のことを。

 私がイライラしながら爪を研いでいると、いきなり背中に声がかかる。

「プーちゃ〜ん。暇暇暇の暇の三乗してる専業主婦と一緒に遊びましょー」

 いつものように、平日は家の中には私と、山口家主人(真)のリンダしかいない。

 そして、リンダはいつものように私をかまってくる。

 ……えらい迷惑だ。

「………やかましい」

「おや、つれない反応。なんか具合でも悪いの?」

「具合が悪いわけではない。単純に気分が悪いだけだ」

「病院行った方がよくない?」

「うるさい。黙れ。とりあえず、私にかまうな」

「ふーん?」

 リンダはにやにやしながら、私の背中を撫でる。

 ゾクリ、と総毛立つような、なんとも言えぬ感覚が背筋を走り抜けた。

「………にゃっ!!?」

「は、はーん。もしかして、アレですか? アレなんですか?」

 リンダの顔が、邪悪な笑顔に歪んだ。

「めっちゃえっちくなっちゃう、発情期ってやつ?」

「や、やかましいっ! 人間なんて年中発情してるようなもんだろうがっ!」

「うん、そうだね」

 言いながら、リンダの目がきらーんと輝く。

「でも、ファリエルちゃんのえっちぃ姿はものすごいレアですなー☆」

「……ちょ、ちょっと待て。頼むから、は、早まるなっ!」

「問答無用ッ! 食らえ、なでなで地獄だーっ!」

 リンダは笑いながら、私に手を伸ばす。しかし、私も猫神の端くれ。その程度は軽く回避。どうやってやりすごそうかと一瞬だけ迷って、

 その一瞬が、仇となった。

 パサ、と落ちる茶色の粉末。

 途端に体中から力が抜ける。

「奥義、またたび天国っ!」

 ……………はう。

 なんか、ものすごく懐かしい感じが……。

「そーれ、こちょこちょー」

 や、ちょ、それは、あ、だめだって。

 にゃあ……やだ、まってってば。

 んっ……やぁっ!

「くっくっく、愛い奴よのう。はむ」

「っ! 耳を噛むなぁっ!」

 だから、お腹とか、首筋とかは今ちょっと敏感に……。

 な、んっ……ちょ、まって。尻尾は、尻尾はだめ。

 や………もう………っ!

「いい加減にしろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

 ゴスッ!

 一瞬で人間に転化し、私は本気のぐーぱんちをリンダに叩き込んだ。

「鬼か、貴様はっ! 体中敏感肌みたいになってるんだから本気でやめろっ!」

「……だからって本気で殴るのはどうかと思うよ」

 頬をさすりながら、リンダは私を睨みつけた。

「まったくもう、咄嗟に後ろに飛ばなかったら絶対に痣になってたよー」

「専業主婦がそんな技量を持ち合わせるな。素直に殴られて逝け。っていうか死ね」

「うっわ、本気で不機嫌なんだね」

「さっきからそう言っているだろうが。ったく……ろくなことしないな」

 私は気分を落ち着かせるために息を吐く。

 人間に成っても体の熱まではどうしようもない。私は元々人間ではあるが、猫でいた期間の方が圧倒的に長い。業に入っては業に従え、というわけではないが、私の体は猫の本能に従うようなっている。

 なんのことはない。私は本質的に猫の生活が気に入っているのだ。

 ……まぁ、これさえなけりゃ最高なのだが。

 と、なぜかリンダは不思議そうな表情を浮かべていた。

「ねぇ、プーちゃん」

「プー言うな」

「昨日からたっくさんの雄猫がこの辺りをウロウロしてギャーギャー騒いでるのは、もしかしたらプーちゃんがえろっちくなってるせいなのかなって思って」

 ……なんだってこいつはこう、勘が鋭いのだろうか?

 私は深々と息を吸って、思い切り吐き出した。

「仕方なかろう。人間でも猫でも、強い存在に惹かれるのは当然のことだ。私の場合は伴侶もいないし、老いてもいない。若い連中が目をつけるのもある意味当然と言えば当然のことなんだ」

「もってもてだね」

「大迷惑だ」

「でもさぁ、そんなにもてるんだったら、彼氏さんの一人くらいはいないの?」

 さりげない話題だったが、ほんの少しだけ心が痛んだ。

「……彼氏、ね」

「ほほう? 昔話ですかな?」

「嬉しそうにしても、面白い話ではないぞ。昔……妙に気が合ったやつがいてな、そいつの子供を産んだというだけのことだから」

 私の言葉に、リンダは目を丸くした。

「へ? ファリエルちゃんって……子供いるの?」

「私だってただの猫だった時はある。子供くらいはいるさ」

 私の子供。

 その言葉はあまりにも胸に痛い。

「四匹産んだ。でも……色々あって三匹死んだ。運がなかったし、私の力不足だったとも言える。リンダが生まれるより前の話だがな」

 今なら、なんとでもなるだろう。

 でも、あの時は私はまだ猫だった。

 十年生きてもいない。尾が分かれてもいない。ただの猫だった。

 ただの猫だったから……思ったのだ。

 このような理不尽が許されてもいいのか、と。

 頬を掻く。場の空気を誤魔化すように、私は苦笑した。

「だからまぁ……もう子供が死ぬのが嫌だから、私は猫神をやっている」

「……そっか」

 私の気持ちを察したのか、リンダは深くは聞いてこなかった。

 代わりに、差し出されたのは煮干が入った袋。

「食べる?」

「もらう」

 小魚をパリ、と噛み砕く。

 薄味だがしっかりとした旨味が口に広がった。なにより、何回も噛んでいると気が紛れるのが嬉しい。この時期は猫にとっては本当にきついのだ。

 というか……本能を理性で制御するのが困難になる。

 ま、性欲なんぞは食欲や睡眠欲と比較すれば大したことはないが。

「うん、なかなか美味いじゃないか。やっぱり干物は小魚に限る」

「プーちゃんはつくづく猫だね」

「プー言うな。それだったらククロの名前もちょこにしろ」

 犬のよくある名前順位第一位の名前をつけられれば、あいつも本望なはずだ。いや、100%混じりっけなしの嫌がらせではあるのだが。

 リンダは少しだけ悩んで(悩むな)、不意にポン、と手を打った。

「あ、ククロちゃんで思い出したけど、最近散歩に行ってないや。文雄ちゃんも冬孤ちゃんも忙しそうにしてたし……是雄ちゃんも最近は残業ばっかりだし」

 どうやら……是雄の残業についてはちょっとお冠らしい。

 リンダは若干不機嫌そうに、ポツリと言った。

「文雄ちゃんも冬孤ちゃんも、ちょっと大人になりつつあるから、私としてはものすごーく退屈なわけですよ。是雄ちゃんは残業だし」

 やはり、是雄の残業がネックになっているらしい。

 ……べた惚れか。

 と、不意に疑問が頭をかすめた。

「そういえば……お前と是雄はどういう敬意で知り合ったんだ?」

「え?」

「いや、なんとなくリンダと是雄の出会いが想像できなくてな」

「んー……ちょっと説明が難しいかな……」

 リンダは苦笑しながら、煮干を齧る。

「……私の実家って、ものすごい貧乏だったの。両親もぐうたらで働くのを嫌がる人ばっかりでね、私は家族を養うために色々バイトした。朝は新聞配達。昼は学校で内職しながらマッサージして小銭稼いで、夜はピンクチラシ貼ったりなんて序の口で、体を売ったりしないタイプの水商売もやった。成績は褒められたもんじゃなかったけど、勉強してる暇なんてなかった。でも……結局教師にそれがばれちゃって、高校中退したの」

 それは……なんというか重い初耳だ。

 苦笑しながらリンダは遠い目をしていた。

「で、色々あって、私はなにもかも放り出して逃げ出して、最後には包丁持って学校の前に立ってた。『あの教師がなにもかもの原因だ』みたいに考えて、本当は家族になにも言わなかった自分も悪かったのに被害者面して、是雄ちゃんに復讐しようとしたの。……自分勝手に、わがままにね」

「………………」

「でも、是雄ちゃんは刃物を向けられても、動じたりしなかったのよね」

 本当に、心底嬉しそうに、リンダは語る。

「『君がやっていたことは社会的には褒められたことじゃない。でも、それしか選択肢がなかったことを僕は知らなかった。知らないまま、学校に報告した。だから君の復讐は当然のことだし、君には僕を刺す権利があると思う。でも、僕は死にたくない。そして……君を見捨てることもしたくない』って、言われて……あとは成り行き。是雄ちゃんの所に住み着いて、一緒に寝起きしてるうちに情が移ったっていうか、惚れちゃったんだね。それから色々あって、是雄ちゃんは教師をやめて会社員になって、私と結婚した。あ、でも結婚するまではプラトニックな関係だったんだからね?」

「……ほう」

 あまり信憑性はないが、その辺りを突っ込んではいけないような気がした。

 結果的に二人は幸せにやっているのだから、どうでもいいことだろう。

 実際に、リンダは幸せそうに笑う。

「今は、楽しいよ。毎日が」

「そうか」

 見てて思わず口許を緩めてしまう笑顔が、そこにはあった。

 私は少しだけ満足しながら立ち上がる。

「少し、散歩してくる」

「どうしたの? 急に」

「なに、夫婦水入らずというのを邪魔するのも無粋なのでな」

「え?」

 リンダがきょとん、とした顔をすると同時に、車が家の前を通過した。

 是雄の車だ。いつも会社に通勤する時に使う車。その車はじっくりゆっくりとばっくをして、見事に車庫に収まった。

「と、いうわけだ。私はククロと適当に時間を潰してくるから、その間は適当に乳繰り合うなり、生殖活動に勤しむなりするがいい」

「……なんか、言い方が卑猥」

「やかましい。人間形態のまま居座ったろか?」

「あー、うん。ごめんね」

 やたら素直に頭を下げるリンダだった。

 私は苦笑しながら、玄関に適当にひっかけてあるククロの散歩紐を手に取って外へと向かう。

 と、

「ファリエルちゃん」

「ん?」

「ファリエルちゃんの好きな人って、どんな子だった?」

 リンダは、最後に答えにくい疑問を投げつけてくれた。

 私は肩をすくめて、答える。

「優しいのが唯一の長所。そんなやつだったよ」



 散歩紐に繋がれながら、ククロはとても肩身の狭い思いをしていた。

(……落ち着かない)

 いつもなら楽しい散歩。ストレス解消に縄張りのチェック。やることは色々あるのだが、その全てがおざなりになっている。理由は至って簡単。紐を引いているのが、あの青い猫だからに他ならない。

 その青い猫ことファリエル=ナムサ=オーレリアは歩きながら言う。

「さて……どこで暇を潰すべきかな。ククロ、どこか暇つぶしの場所はないか? できれば三時間くらいが望ましいのだが」

「知らん」

「じゃあ、三時間歩き回るか。お前が人化できればこんな面倒なことにはならなかったのだがなぁ……」

「人化くらいはできる。しかし人間の世界で暇を潰すには金が要る」

「私の力なら簡単に偽造できる」

「……人の世界に関わるのはあまり良くない」

 ククロの言葉に、ファリエルは肩をすくめた。

「真面目なのはいいが、真面目すぎると女にもてんぞ?」

「真面目なのは犬の性分だ。強ければ強いほど群れの中では優遇されるのでな。無論、そのぶん責任も重くなるが」

「……犬は面倒だな」

「猫が気楽なだけだ」

「違いない」

 ファリエルは苦笑して、そのまま歩き始める。

 どうやら歩いて三時間ほど潰すことにしたらしい。その歩みに迷いはないが、ククロの散歩コースからは大きく外れていく。自分の領域テリトリーから外れることによって、自分たち……というより、ファリエルに視線が集まる。

 視線を放っているのは猫、犬、そしてスズメカラス。種族を越えて、この辺りの雄生物の全てがファリエルに注目していた。

「……ファリエル。ものすごく目立っているぞ」

「人化して正解だったな。もし猫のまま出歩いてたら面倒なことになっていた」

「いや、そうではなくてだな……」

「そうだな。確かに、注目されるのは面倒だ」

「………………」

 青の猫は、自分がどれほど魅力的に映っているのか自覚していない。

 伝説となった生き物は、その体に神気を宿す。神気といっても、触れただけで浄化されるわけではない。そういう生物もいるにはいるが、それは生まれついてのものに限定される。神気とは、たゆまぬ練磨の末に磨き上げ、練成してきたその神族が持つ『圧倒的存在感』というやつだ。

 生物は美しいもの、格好いい存在に惹きつけられる。それがどんな質のものであっても、神気を宿した生物は存在するだけで注目を集める。

(まぁ……こいつの場合はそれだけではないのだが)

 ファリエルは『あらゆる生物に成る』ことができる数少ない神族の上、伴侶も存在しない。実は、この辺り一帯の雄生物には、常日頃から目をつけられているのだ。山口家までそういった生物が押し寄せてこないのは、ひとえにククロが陰ながら追い返しているおかげである。ククロも犬神族の端くれである。その辺りの雑魚を追い返す程度は楽勝であるが……今は少々事情が違う。

 まぁ……ぶっちゃけて言えば。

 発情期においてのファリエルの魅力は、普段の3倍にパワーアップしているのだ。

 知らぬは本人ばかりなり。男を狂わせるフェロモンを発散しまくっている青の髪を持つ人間は、腕組しながら憮然としていた。

「ふむ、しかしなんというかいささか注目されすぎだな。ククロ、お前何かこの辺で色々とやらかしたのではないか?」

「……このあたりはお前の縄張りじゃないのか?」

「いいや、このあたりは兎神族のシロウ殿の縄張りのはずだが……。やはり挨拶に向かった方がいいだろうか?」

「やめておけ。いちいち事を荒立てる必要もあるまい」

「私とて道理は弁えている。荒立てることはしないさ」

 確かに、ファリエルは道理の分かった猫である。鼠以外の他種族、特に十二神柱には敬意を払っている。

 だが、ククロは小声でポツリと呟いた。

「……お前がどうであろうと、向こうが正気ではいられまい」

「ん? なにか言ったか?」

「なにも」

 ククロは、その兎を知っていた。親友でもある。

 兎神族十三柱、シロウ=エクスキュロット。若いがその実績と功績、そしてなにより比較的大人しい兎神族の中では珍しく、戦上手である。兎神族は戦いを好まない一族で、結界や盾といった能力に特化している。逃げ足、隠行にかけてはどの神族もかなわないほどである。その中でも、シロウという兎は結界や盾を発展させた『罠』という能力を有している。待ち伏せに関しては誰よりも強いのだ。

 基本的な性格は温和な彼だが、魅力的な雌の取り合いに関しては誰よりも厳しい。今のフェロモン垂れ流し装置と化しているファリエルなど見せようものなら、即座にククロと殺し合いになるだろう。

 そういうことを懸念していたのだが、ファリエルは思ったよりもあっさり退いた。

「そうだな。ふむ……ならば」

 ファリエルは散歩紐を離して、口許をつり上げた。

「たまには、全力でも出してみるか」

「む?」

 手足の筋を伸ばしながら、ファリエルは息を吐いた。

「お前もなまっているだろう?」

「ふん、猫と一緒にするな」

「なら問題ないな」

 二人は、口許だけでにやりと笑う。

 そして、次の瞬間。

 人と犬の深い足跡を残して、二人の姿は消失した。

 


 世界を一周して、体も適度にほぐれて、私は山口家に戻っていた。

 遅れること五分。疲労困憊になったククロが到着する。

「……がっ、はぁ、まだ、まだ……俺は負けてないぞ……負けて、ごふっげはっ」

「いや、負けだろう。どう見ても」

 苦笑しながら、負けず嫌いの犬に水を差し出してやる。ククロはなにも言わず、少し呼吸が整ってから、水を少しづつ飲み始めた。

 ……一気に飲むのが体に悪いとはいえ、健康に気を使う犬というのもどうだろうか。と思ったが口には出さない。面倒だし。

 ククロの隣に座って伸びをしながら、私はゆっくりと息を吐く。

「うむ、いい運動になった。たまには世界一周もいいものだ」

「……そんなことを思うのはお前だけだ」

「お前の鍛え方が足りないだけだ。そんなことでは女にもてんぞ?」

「生まれてこの方、女に不自由したことはない」

 問題発言……ということはない。

 犬は群れて生活しているので、雌を見つけるのが容易なのだ。どんな醜悪な顔の男でも力さえあれば群れのリーダーにはなれる。ククロのような冴えない男でも、馬鹿な雌犬は喜んで尻尾を振ったであろうよ。

 見ると、ククロは憮然とした顔をしていた。

「……なにか、とんでもなく失礼なことを考えてないか?」

「いや、単純にお前が女に困ってない風景を想像できなかっただけだ」

「俺はそこまで情けないキャラではない」

 なにやら、ククロは遠くを見つめていた。

「まぁ、なんだ、その……昔、ちょっと色々あってな」

「その表現ではなにがなんだか分からんが?」

「つまり……すとーかーというやつだ」

「愛されてるじゃないか」

「冗談じゃねぇっ!」

 ものすごい剣幕で詰め寄られた。

 というか……びっくりした。

 若者みたいな言葉づかいもできたのか、ククロ。

「あの馬鹿狐のおかげで俺がどれほどの迷惑をこうむったかファリエルに理解できるわけがねーだろっ! 付きまとうなど既に常識、行く先々で現れてはくっついて離れないっ! まるで白いシャツとカレーうどんのような相性だった! あいつのおかげで俺の犬生プランはもうこれ以上にないくらい破壊されて……」

 と、不意にククロは我に返ったらしい。

 なぜか顔を赤らめながら、ススス、と微妙に私から離れる。

「あー、つまり、そういうことだ。それ以来、雌を娶るようなことはしてない」

「それはなんというか、大変だったな」

「……分かってくれるか?」

「で、もしかして……その狐というのは赤毛に丸い目の、見たところそこそこ目立つ風貌をしている、なかなかの美人じゃないか?」

「え?」

 そこでようやく、ククロは異常に気がついたらしい。

 ゆっくりと犬小屋を……つまり、自分の自宅を見る。

 そこには、

「お久しぶり、ククロっ!」

 赤毛に丸い目の、見たところそこそこ目立つ風貌をしている、なかなかの美人の狐が、満面の笑顔でククロを出迎えていた。



 東野日向はその日、そこそこ優雅な生活を満喫していた。

 知り合いから譲ってもらった紅茶に、自作のクッキーを頬張りながら、大好きな波動砲を撃つ宇宙戦艦が活躍するアニメ映画に見入っていた。

 本当は文雄を誘って、おすすめのDVDでも借りてこようかとも思ったのだが生憎連絡がつかず、冬孤や慶子を誘おうかとも思ったが用事があるからと丁重に断られた。……というわけで、暇つぶしに新しいお菓子に挑戦してみたというわけだ。

「ちょーっと作りすぎちゃったかな……」

 皿に山盛りになったクッキーを見つめて、日向は肩をすくめる。つい調子に乗って作ってしまったのだが、まぁ余ったら配ればいい。死ぬほど不味いということはないので、甘党の文雄なら大喜びして食べるだろう。

 などと日向が考えている時、


 ピリリリリリリリリ。


 と、いうごく普通の着信音が流れた。

 もっとも……それは、日向にとっては特別なものである。

 それは……『緊急事態エマージェンシー』の合図だからだ。

 日向は即座に周波数を合わせ、改修中の本体と接続。今この場において、東野日向は己の任務を全うするために世界を渡る戦艦のメインコンピュータとして機能する。

『俺だ、マギ』

 耳に届いたのは、聞き慣れた声でありながら懐かしい声。

 それは、彼女を助け生きる術を教えてくれた、ある一羽の鳥の声。

『緊急事態だ。今すぐ動ける神族全てに召集をかけろ』

 日向は、その言葉の是非は問わず、状況のみを告げる。

「この義体では、オーレリア様の付近までが精一杯ですが?」

『かまわん。ファリエルがいるならかえって好都合だ。あいつは一番危険な任務で、最も力を発揮する女だからな』

「私はどうすれば?」

『断界号のオーバーホールは終わっていない。すまんが、その場で待機だ』

「了解」

 日向は即座に応じる。

「マスタ」

『む?』

「ご武運を」

 電話の向こうで、自分の主人が笑うのが分かった。

『安心しろ。いつも通りに楽勝してやるさ』

 プツ、とあっけない音を残して電話は切れた。

 いつもとなんら変わりない、不敵な声だった。

 日向は少しだけ目を閉じて、その声を反芻する。

 懐かしさがこみ上げるが、望郷の念に駆られたのは一瞬。次に目を開けた彼女は、『断界号』メインコンピュータ。MAGIUS・SYSTEMとしての行動を開始する。



 今、この時、この世界に。

 危機が迫っている事を、正義の味方に知らせるために。



 後編に続く。

今明かされるククロの恋愛事情。その恐怖と苦痛に顔をひきつらせるファリエル。そして、世界に迫る最大の危機。世界はこの危機を乗り切れるのか? そして、文雄のそばで笑う少女は一体!?

次回、第拾四話『猫と正義の試練(後編)』

今目覚める、世界最終の猫!


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