第拾弐話 猫と釣りと少女の決意(後編)
涼やかな風を感じながら、私は木陰で人を待っている。
男を待っているわけではない。待っているのは困っている少女。
私と同じようで……全く違う少女だ。
「ファリエル=ナムサ=オーレリア。お前は……どこまで猫の領分を越えてお節介を焼けば気が済むのだろうな?」
自問自答に意味は無い。ただの戯言だ。
分かっている。私は、冬孤を通じて自分に説教がしたいだけだ。
ほんの少し昔のこと。私が生まれて十五年。
私はその時、猫神でも人神でもなく、ただの愚かな少女だった。
運命を覆すことはできないと納得していた、ただの馬鹿女だった。
愛というものに定まった形があると思っていた、ただの馬鹿だった。
「やれやれ……いつもながら、愚かだな。私は」
涼やかな風を感じながら、私は木にもたれて目を閉じる。
猫の時の習性か、すぐに私は眠りに落ちた。
そして、夢を観る。
それは愛の記憶。愛された夢。
私がお兄ちゃんを殺してしまった、あの時の記憶。
桂木唯。ポニーテール。猫のような楕円の目。顔立ちは精悍。常に甚平を着用。背中には『一撃必殺』の文字。長身。男にはもてないが女にはもてる。剣術家。棒切れを持たせるとヤクザですら叩き殺さん勢い。一方的ないじめが病的に嫌い。正義の味方気取り。骨董趣味。煙草は煙管派(20歳未満の喫煙は法律で禁止されている)。鉄腕アルバイター。酒には滅法弱い(20歳未満の飲酒は法律で禁止されている)。人と距離を測るのが抜群に上手い。趣味は旅行。
以上、桂木唯という女の特徴である。
「すまなんだ。バイトのシフトがきつくなってな」
苦笑する唯にエプロンを渡しながら、冬孤は口許を引きつらせた。
「本当にね。まさか遊びに来てバイト手伝わされるとは思ってなかった」
「そう怒るな。可愛い顔が台無しだぞ?」
「そーやって誤解されるようなこと言うから、誤解されるのよ」
「……違いない」
痛いところだったのか、唯は少しだけ顔をしかめたが、すぐに気を取り直して真顔になった。
「ところで、悩みは解決したか?」
「……解決なんてしないわよ」
「だろうな」
煙管に火を入れて、唯は紫煙を吐き出す。
「人は人を愛する。それは、自然で当然なことだ」
「………なにそれ? ギャグ?」
「真面目な話さ」
煙草を吸う唯は、目を細めて冬孤を見つめる。
「たとえば、世界一優しい人間がいたとしよう。誰より優しく、誰より強く、他のどんな人間よりも努力をし、見捨てず脅えず甘えず屈さず、どんなことにも顔を伏せず、どんな苦難にも愚痴一つこぼさず立ち向かう。……そんな人間を好いてくれるのは、一体どんな人間なんだろうな?」
優しい人間を好いてくれるのは……。
冬孤は少し考えて、結局肩をすくめた。
「……よく分からないけど」
「答えは簡単だ。私のように、弱い女がそういう奴に惚れる」
「唯は弱くないでしょ? 合気道の師範やってるし、背も高いし、なんていうか現代のサムライって感じだし。弱きを助け悪しきを砕くを地で行く人間を『弱い』とは表現しないと思うんだけど?」
「ならば冬孤。『弱い』とは、なんだ?」
簡単なようで難しい疑問に、冬孤は即答する。
「強くないってことよ」
「その通りだ。……人間は強くて弱い。強い面もあれば、弱い面もある。そして弱い面を突かれれば、人間は意外と簡単に壊れる」
「………………」
「冬孤。私はね……『私のせいで人が傷付くくらいなら、私が傷付いて死んだ方がまし』って思っているんだ。そういう……馬鹿な女なんだよ」
紫煙を吐き出しながら、唯は口許を緩める。
「お人よしのお節介。余計なお世話の焼きたがり。人を黙って見守れないってのが、私の弱さ。残念なことに……私は、冬孤みたいな厳しさや容赦の無さは持ち合わせてない」
「……厳しさや容赦の無さが、いいことだとは思えないわ」
「でも、悪いことではない」
煙管を灰皿に叩きながら、唯は言葉を紡いだ。
「自分に厳しいから自分を制御できる。容赦が無いから、自分の感情が『甘え』だということも理解できる。文雄に対する気持ちを表に出さないのも……表に出してはいけないと痛感しているからだろ?」
「……そうね」
「それがお前の強さだよ。冬孤、お前はきっといい女になれる」
その言葉はあまりにも老人くさい。
冬孤は、思わずくすっと笑った。
「……同年代の言葉とは思えないんだけど?」
「そうだな、私もそう思う」
「……あはっ」
「…ふっ」
少女たちは、しばらくの間、くすくすと笑い合っていた。
いたって普通に。歳相応に。
「なにが『暇だから遊びに行かない?』ですか。あの女、本当にいつかぶっ殺してやります」
美味しい井戸水を入れたペットボトル(一本二リットル)をビニール袋に五本ずつ入れて、両手で持っているのは、健康的な地味少女。田辺慶子だった。
「この前も私を忘れて帰りやがるし。あの金髪のお姉さんがめっちゃ怖くて思わずちびりそうになりそうでしたよ。日向先輩がとりなしてくれなきゃ、私は存在すらしてなかったに違いありません。あ、でも先輩が作った銀鱈の煮付けは絶品でした。…………うー、重たい」
両手が悲鳴を上げている。
それを誤魔化すために独り言をぶつくさ言いながら、少女は溜息をつく。
いくらなんでも左右に十キロずつは重すぎた。
しかし、その労苦もほどなく終わる。石段を登り切って、慶子は屋台で煙管を吹かしている長身の女に声をかけた。
「姉御ー、水汲んできましたー」
「お、ご苦労。あと、姉御はやめておけ。同年代なんだから」
「いや、物腰といい態度といい、そうは見えませんけど」
慶子の言葉に、唯の目が少しだけ細まる。
「それはなにか? 私が老けているように見えると?」
「っていうか、大人びてるって感じですね。老成しているように見えてそうでもなく、さりとて若いわけでもないですし。日本酒とか呑んでたら完璧です」
「どっちかっていうと酒は苦手なのだが……」
「でも、女の子にはもてるでしょ?」
慶子の言葉に、唯は複雑な表情を浮かべて肩をすくめた。
「なんで分かる?」
「そりゃ姉御が、漢前だからですよ。女子も男子も、かっこいい人には弱いのです。世界法則の一つですよ? まぁ、姉御くらい漢前だと男の人の方が引いちゃうかもしれませんけどねー」
「………………」
「あれ? えーと、なんかちょっと怒ってますか?」
「いいや、おねーさんは怒っていないよ? ちょっと図星を言い当てられたからって怒るような人間じゃないんだよ? ところで井戸水が足りないからもう一往復してもらえると、とーっても助かるんだけどね?」
「……えーっと」
慶子は後ずさりしながら必死で思考する。
(そうだっ!)
頭の上に電球がきらめき、慶子はその天啓を口走った。
「姉御。男の子、紹介しましょうか?」
「む?」
「や、弟とその親友にフリーな子がいましてね。なかなか見目も麗しく、姉御の好みにもぴったり当てはまるんじゃないかと思いますよ?」
「ふむ……」
唯は少しだけ考えて、にっこりと笑った。
「うん、なかなか話せるじゃないか、冬孤の親友」
「こう見えてもネットワークはそこそこ広いんですよ、私」
「で、どんなやつだ?」
「それはですね……」
弟とその親友をあっさりと売りながら、慶子はほっと胸を撫で下ろしていた。
『ぶえっくしぇいっ!』
盛大なクシャミをかまして、二人は同時に相手を睨む。
「真似すんな」
「そっちこそ、馬鹿みたいなクシャミはやめてくださいよー」
「二人とも、喧嘩しないの」
文雄はとりあえず始と麻衣をいさめながら、のんびりと欠伸をした。
「なんていうか……平和だね」
「退屈って気がしないでもないけどな。簡単に釣れるしっと」
新しいニジマスを釣り上げて、始はそれを網の中に放り込む。
養殖のニジマスは警戒心が薄い。よって、簡単に釣れる。
「それにしても、私の美貌も捨てたもんじゃないですねー」
くふふ、と嬉しそうに笑う麻衣は、にやけながら文雄を見つめる。
「猫子さん、あれ絶対に騙されてましたよー」
「…………まぁ、騙されてるだろうね」
若干疲れた様子で、文雄は溜息をついた。
獅子馬麻衣。
……性別、男。
「くふふふふ。性別をばらした瞬間にどんな顔をするのか、楽しみでなりません」
「そのエグい性格をなんとかしろよ、てめーは」
「なんとかしたら、始くんのおねーさんに手を出していいのですかー?」
「………………う」
始は思い切り顔をしかめた。
「やめてくれ。お前と血縁にだけはなりたくねぇ」
「戸籍では繋がってませんよー?」
「……っていうか、どんな形であれ、お前と親友以上の繋がりを持ちたくねぇんだが」
「んー……始くんは本当にいい子ですよねぇー」
「……あんだよ?」
なにを言われてるのか分からない始は顔をしかめるが、麻衣は答えずにっこりと笑うだけだった。
苦笑しながら、文雄は二人のやり取りを見つめている。
人目をはばからず親友ときっぱりと言えてしまう始。
それを好ましく思っている麻衣。
(なんていうか、いい奴なんだよね。二人とも)
釣り糸が引いて、文雄は竿を引き上げる。綺麗なニジマスが釣れた。
「そういえば、そろそろお昼時ですねー」
「あと三十分ってところかな。でも、霞耶さんが来るまでちょっと待とうか」
「なら、それまで初恋話でもして盛り上がりましょうか」
にこにこと、楽しそうに麻衣は笑っている。
「ちなみに、私は慶子さんLOVEなんですけどねー」
「……やめてくれ。まじで」
「慶子さんって……始のお姉さんだっけ?」
「まーな。両親が離婚したから名字は違ってるけど」
「ふーん……」
文雄は適当な相槌を打ちながら、深くは突っ込まないようにしておいた。
なんとなく、その手の話題には触れない方が賢明だと思ったからである。
そんな文雄の気遣いには誰一人気がつくことはなく、会話は進行していく。
「で、始くんは、教育実習に来た新人の教師さんだったんですよねー?」
「……まーな」
「それで年上好みってのも、安直ですよねー」
「うるせ」
「まぁ、それはどーでもいいことなんですけどねー」
「人の初恋をどうでもいいとか言うんじゃねぇよ」
「私が知りたいのは、どっちかって言うと先輩の初恋の方ですけどねー」
「え?」
いきなり話題を振られたので、文雄は虚を突かれた。
麻衣はにこにこと楽しそうに笑っている。
しかし、その笑顔はイタズラ心が満載になっていた。
「中学の時も高校の時も、文雄先輩の浮いた話って一つも聞かないんですよねー。周囲にたっくさん女の人がいるわりには、なんか興味なさそうにしてますし」
「えーっと……」
「で、初恋はどんな人だったんですか?」
「……そうだなぁ」
文雄は少しだけ考えて、くすっ、と笑った。
「世界一真っ直ぐな人、かな」
「へ?」
「腰まで伸ばした黒髪を、ぶっとい三つ編みにしてる人でね。並みの男なら百人がかりでも敵わないほど強い人だった。でも、思ったより世間知らずで、寂しがりやだけど、それを我慢してるみたいな……意地っ張りな人だった」
「……なんか、マニアックですねー」
「そうかもね。でもまぁ……あの時は、子供だったし」
「今は違うんですか?」
「今は……」
苦笑しながら、文雄は竿を引き上げる。
「今は、ちょっとやらなきゃならないことがあるからね」
「やらなきゃならないこと?」
「うん」
綺麗なニジマスが、釣れた。
「まぁ、色々とね。やらなきゃいけないことがあるんだよ」
猫が首輪を嫌がる理由。それは、己に絶対の誇りを持っているからだ。
犬が首輪を嫌がらない理由。それは、守るべきものを持っているからだ。
そして、その時のわたしは……きっと、人だったのだろう。
人が首輪をつけない理由。それは、誰にも所有されたくないから。
首が舞う。血が地面を濡らす。叫び声が耳に届く。
愚かだったわたしは、お兄ちゃんを止めることもできなかった。
怖かった。
怖くて怖くて仕方がなかった。
お兄ちゃんは猫と犬を殺し始めた。
わたしを人間に無理矢理『戻して』、お兄ちゃんは復讐を始めた。
やめてと叫んでも、なにをしても、お兄ちゃんは殺戮を続けた。
……わたしは、なにもできなかった。
なんでみんなを殺すのか分からなかった。
なんで猫と犬を殺すのか分からなかった。
確かに、辛いこともいっぱいあったけど、わたしは幸せだった。
友達もできた。一人で生きていくことも覚えた。
お兄ちゃんが側にいれば、それで幸せだった。
なのに、大好きなお兄ちゃんは……猫と犬を殺す。
わたしは……わたしは、どうすればいいの?
「そんなに暗い顔をしていたら、可愛い顔が台無しだよ?」
顔を上げると、そこには幻想がいた。
真に純白な白銀の髪。その瞳は金色で、服装は白装束。
右手には銀の万年筆。左手には金の短剣。
鋭い目を優しげに細め、穏やかな微笑を浮かべている青年。
あまりの美しさに目を奪われて、わたしは問いかけた。
「あなたは、だれ?」
「僕? 僕はただの正義の味方さ」
きっぱりと言い放った言葉は、まるでおとぎ話のようだった。
「僕はただの人をやめて、誰かを守るために自分を作り変えた存在。その右手に世界を変える銀の筆を、その左手に無限の愛を秘めた金の短剣を携え、絶望と悲しみを終わらせるためにやって来た白き光。希望という名の薄明」
おとぎ話と夢物語を、形にしたのが彼だった。
にっこりと笑って、彼は首輪と鎖で拘束されていた私を、あっさりと解き放った。
「……なんで、わたしを?」
「僕は全世界共通で、女性を優先的に助けることにしているんだよ。なにより、君はいい女の子だ。見捨てる道理はどこにもない」
「………でも、わたしには助けられるほどの価値なんてありません」
「いいや。君のお兄さんがやっていることに罪悪感を抱いている君こそ、全てを投げ打ってでも助け出す価値があるんだと、僕は確信するよ」
白の男は、わたしの言葉を一瞬で否定した。
そして、彼は私に問いかける。
「君はなにを想う?」
「え?」
「君はなにを願う?」
「………」
「君が救いたいものはなんだ?」
「………………」
「君が守りたいものはなんだ?」
「……わたしは」
「君が助けなければならないものとは?」
「…わたしは」
「問おう。……君が真に望むことは、なんだ?」
その言葉には力があった。一人で立ち上がり、己の成すべきことの後押しをしてくれる、そんな言葉だった。
「わたしは……止めたい」
全世界最弱にして最新の言ノ葉が、わたしを押し上げていく。
「わたしは、お兄ちゃんを止めたい。どんなことをしてでもっ!」
叫ばなければならなかった。
止められなかったのは、わたしの罪だから。
わたしが臆病だったから、たくさんの命が失われた。
そんなのは……もう、嫌だった。
「好きだけど、愛してるけど、だから許せないっ! お兄ちゃんがやってきたことをわたしは許せないっ! なにより……それを止められなかった自分が許せないっ!」
心の底から絶叫して、わたしは泣いた。
泣いて……全てを断ち切ることにした。
「……心は、決まった?」
「はい」
即答する。迷っているけど、即答する。
もう誰も殺させない。
ここでわたしは……私になる。
お兄ちゃんを止められる、正義の味方になってやる
私は正義の味方を直視する。正義の味方も、私を見据えていた。
私は、全世界で最高の正義に問いかける。
「私の想いは、私の心は、誰かを守ることができますか?」
「僕は、君が正義である限りそれが可能だと肯定する」
「私はあきらめるということを捨てることができますか?」
「僕は、君が努力を続ける限りそれが可能だと肯定する」
長い時間をかけて考えて、私は最後に問いかけた。
「私は、誰かを幸せにすることはできますか?」
正義の味方は、不敵に笑った。
「僕は、君が君である限りそれが可能だと肯定するっ!!」
差し出された右手は、どこまでも強く、気高い。
私は、その力強い右手を取った。
そして、私も彼と同じように、笑った。
「ならば、私は貴方の手を取ろうっ! ただ一つの正義としてっ!」
後悔はするだろう。迷いもするだろう。
それでも、なにもせずにいることはもうできなかった。
どんなことがあろうとも……その決意だけは。
正しいものだと信じている。
夢から覚めて、私はゆっくりと目を開けた。太陽を見ると既に昼時。どうやら、ほんの少しだけ寝過ごしてしまったらしい。
「目、覚めましたか?」
声に反応して身を起こすと、私の隣で冬孤が不機嫌そうな顔をしていた。
「まったく、人を呼び出しておいてぐっすり寝てる人を初めて見ました」
「……ああ、それは悪いことをしたな」
眠気はまだ残っていたが、私は欠伸をしてそれを追い出した。
冬孤は、腕を組んであさっての方向を向いていた。どうやら相当怒っているらしい。
「……それで、話というのはなんなんですか?」
私は苦笑しながら、ゆっくりと木陰に寝そべった。
空は青い。蒼穹はどこまでも青く広い。
辛気臭い話をするには、最悪のシチュエーションだ。
「言っただろ? 経験者は語る、というやつさ」
「………………」
冬孤は口を閉ざし、私を睨みつける。
私は、苦笑しながら言った。
「冬孤。お前はどうして文雄のことが好きなんだ?」
「……人を好きになるのに、理由は要りますか?」
「人を好きになるのに理由は要らんさ。しかし……人を好きでい続けるには理由が要る。そして……少なくともお前は、自分の感情は把握できていると思う」
「………あなたは、どうなんですか?」
「ん?」
「『経験者』って言いましたよね? あなたは、どうだったんですか?」
どうだと聞かれても、答えなど一つしかない。
「私は、兄のことが好きだった」
どんなことがあっても、私を撫でてくれたあの人を、
誰よりも好きだったと断言できる。
「私は、あの人の優しさが好きだった。いつも私のことを大切に想ってくれた、兄の優しさだけは……本当に心の底から大好きだった」
それでも……どんなに好きでも。
「でもね、冬孤。ただ『好き』だというだけじゃ、なんにもならないんだ」
「………………」
唇を噛む冬孤を見つめて、私は語る。
「正確には血は繋がっていなかったが、私たちは兄妹だったと思う。兄は私を大事にしてくれたし、私はそんな兄のことが好きだった。それが『甘え』だと自覚することなく、ただ『好き』で『愛している』ということが『愛』だと思っていた」
でも、どんなに愛していても、どんなに好きでも。
私はあの人を許すことも、私自身を許すこともできなかった。
「私は兄の愛に甘えていただけだったし、兄はなにもかもを許してくれる私に依存してるだけだった。そんな関係は……最初から、破綻していたんだ」
「………………」
「もたれ合うんじゃ駄目なんだよ。支えあわなきゃ駄目なんだ。人を好きになるのは簡単だけど、人を好きでい続けることは難しいから」
だから、私は聞いた。
感情を継続させることはとても難しいから問いかけた。
その人を好きでい続けることは難しいから、聞きたかった。
『お前はどうして、文雄のことが好きなんだ?』、と。
「………………」
冬孤は黙っていた。俯いて、目を細めていた。
やがて、なにかを吹っ切るように、顔を上げた。
「私は、兄さんが優しいから好きでした」
「………………」
「兄さんだけは、私を絶対に認めてくれるから、好きでした」
「………………」
「でも、今はそれだけじゃありません」
冬孤は、前を向いてきっぱりと断言した。
「私は、山口文雄を愛しています」
優しさに甘えるのではなく、
なにかに依存するのではなく、
その人のことを正面から見て、
誇りを持って、
文雄を愛していると言った。
「そりゃ、私たちは兄妹です。この想いが報われないことも知っています。それでも……私は退くことはできません。今までのように、簡単にあきらめることもしません。いつかこの想いが単なる思い出になるとしても、私は、私のことをあの人に認めさせなきゃいけないんです」
「認めさせる?」
「ええ。せめて……あの人が守りが必要なくなるくらいに、強くて優しい女になる必要があるんです。今の私は、ただのわがままな小娘ですから」
「………………」
「私は兄さんと対等になりたい。そう思っています」
守られる必要がないくらいに強くなって。
愛していることが当然なくらいに優しくなって。
それで、ようやく対等なのだと、冬孤は言った。
そんな気高い決意が、あの時の私にできただろうか?
私は、肩をすくめて微笑んだ。
「お前は強いな、冬孤」
「強くなんてありません。私はただ、兄さんの態度にものすごく腹が立っただけです。『君がいなければよかったなんて、一度も思ったことはない』なんて言われて、兄さんが、本当に誰よりも優しいことが分かって、それでこれまでのように安穏と暮らしていけるほど、私は呑気じゃないんです」
不機嫌そうに唇を尖らせながらも、その顔は笑っていた。
必死で考えたのだろう。
悩んで、苦悩して、ずっと考えていたのだろう。
なら……私が言うことなど、なにもない。
冬孤がそこまで考えているのならば、私が言うべきことなどない。
ほんの少しの助力ができれば、それで十分だ。
「それだけ聞ければ十全だ。頑張っていい女になれ」
「言われなくてもなってやりますよ。とりあえず、貴女を越えますから」
「……やれやれ。野球の時にあれだけプライドを粉砕してやったというのに、まだ歯向かう気があるとはな。つくづく懲りない女だ」
「ふん、言ってなさい」
私は体を起こす。欠伸をしながら立ち上がり、空を見上げた。
空は青く。どこまでも広い。
……今日はいい日だ。本当に。
「それでは、私は釣りに戻る。せいぜい遊びだかバイトだかに勤しむがいい」
「ええ。貧乏高校生はバイトで小銭でも稼ぎますよ」
嫌味たっぷりの冬孤の言葉を聞きながら、私は歩き出す。
なぜか口許は綻んで、気分も悪くはなかったが、それを隠して私は歩く。
と、不意に。
「ありがとう」
そんな言葉が、耳に届いた。
足を止めて、私は頬をかいた。
「礼を言われるようなことはなにもしてないが?」
「いいんです。私が勝手に思ってるだけですから」
「そうか。なら……今日だけは素直に受けておこう」
「そうしておいてください」
真っ赤になっているだろう冬孤の顔を見ることなく、私は歩き出す。
嬉しさのあまりに頬をつたうものがあったが、気にしないことにした。
追記
昼はニジマスの塩焼きを平らげ、釣りに飽きたら少年どもと子供の頃にやったような遊び(缶蹴りや鬼ごっこ)で異常に盛り上がり、気がつくと日が沈みかけていた。
家に戻ると予想通りに機嫌のいいリンダと是雄がいて、なんとなくむかついたのを覚えている。
リンダの機嫌がだいれくとに影響したのか、私の夕飯はニジマスを焼いたものを白メシと一緒に煮込んだもので、私は熱さにちょっと苦戦しながらそれを平らげた。昼にたらふく食べたのだが、やはり白身魚は飽きない味をしている。少なくとも、きゃっとふーどよりは美味いだろう。
まぁ、それはそれとしてだ。
今日は朝と昼に騒いだのでとても眠い。
寝床で丸くなりながら、私はうとうととしていた。
と、
「お疲れ様」
山口家の主は私の隣に腰掛けた。
「なんか、色々面倒なこと押し付けちゃってごめんね?」
リンダはそういいながら悪びれもなく、微笑んでいた。
私は少しだけ顔を上げて、口許を緩めた。
「なに、別にかまわんさ。今日は子供の口から、とてもいい言葉が聞けた。だから……今日はきっといい日なのだろうさ」
「うん、とってもいい日だったね。久しぶりに是雄ちゃんとダラダラできたし」
「……仲がいいのもたいがいにしておかないと、子供らに呆れられるぞ?」
「まぁ、そうだけど……惚れちゃったしね」
微笑みながら、リンダは言った。
「ねぇ、ファリエルちゃんは、好きな人っていた?」
「………………ああ。昔な」
答えながら、私は思い出す。
どう考えても不幸で苦しかったけど、それでも少しだけ幸せだった頃。
私が、わたしであった時。お兄ちゃんが側にいた時。
私は……あの時の痛みと幸福を一生忘れることはない。
「もしかして、初恋?」
「ああ。セオリー通りに実らなかったがな。それでも、私はあの人が好きだった」
それだけは、はっきりと言える。
わたしは、おにいちゃんを愛していた。
「色々あって……私はその人を殺すことになってしまったが、それは私が背負うべき罪だ。その罪を背負って、生きなければならないんだ」
「……重いね」
「重いが絶対に譲らぬ。これは、私の責任だ」
忘れるのでもなく、吹っ切るのでもなく、
受け止めて前に進んでやるさ。
神ではなく、ただの猫として。ただの人として。
「さてと……それじゃあ、私はそろそろ寝る。今日は少し疲れた」
「うん、ご苦労様……じゃ、お休み」
言葉少なに、リンダは立ち上がる。今にも睡魔に負けそうな私に気を使ってくれたのかとも思ったが、即座に否定する。あの我がままな主婦が、そこまで他人に気を回すことはしないだろう。
とりあえず……今日は寝よう。眠い。
「ありがとね、ファリエルちゃん」
たぶん気のせいだとは思うが、
夢うつつに、なんだか嬉しい言葉を聞いたような気がした。
私は夢を見る。それはきっと、楽しい夢。
楽しいことは儚くとも、私はそれを忘れはしない。
そう、忘れられぬことが在るからこそ、人は強く生きられる。
守りたいものが在るからこそ、人は強く在れるのだ。
「私の兄よ。唯一の家族よ。……貴方が壊そうとした世界は、こんなにも美しい」
後悔もしよう。迷いもしよう。
悩んで悔やみ続けよう。
それでも………。
私は、私の正義を貫こう。
早朝。時間にしておおよそ午前の五時。私は少しだけ早く目を覚ました。
朝の清浄な空気が心地いい。私はゆっくりと背伸びをしようとして、
バババババババババババババババババァァァァァァァァァァァァン!!!
大轟音と閃光。ついでに大量の煙が撒き散らされた。
私は寝床から思わず飛び起きて、すぐさまその場所に向かう。
煙が上がっているのは、文雄の部屋からだった。
「な……な?」
どうやら、怪我はないらしい。文雄はけほけほと煙を吐き出しながら部屋から出てきた。寝ぼけているのか、眼鏡はかけていない。
「えっと……ドッキリ?」
「朝からそんな面倒なドッキリを仕掛ける人間はいません」
きっぱりと言い放ったのは、部屋から顔を出した冬孤だった。
「昨日、『明日は絶対に五時に起こしてくれ』と言われたので、私なりに工夫してみました」
「冬孤……なにをしたの?」
「爆竹を大量に仕掛けただけです。面白いし笑えるし兄さんもちゃんと起きることができる。ほら……一石三鳥じゃありませんか?」
「いや、その……色々言いたいことはあるけど、起こし方がちょっと過激すぎない?」
「兄さんのことを思っての行動ですよ」
にやりと邪悪な笑みを浮かべて、冬孤は言った。
「……それより、原稿はいいんですか? 昨日『すみません、明日仕上げますからちょっとだけ待って下さい。いや、本当に大丈夫デスよ? キリエさんが来ると妹が怒るんで本当に勘弁して下さーい。大丈夫、僕はまだまだ兵器でーす。ちょーっと緑色の妖精とか見えちゃっただけで。くはっはっはっは』って必死な口調で危ないこと口走ってたのはどこのどちら様でしょうかね?」
「……それはまぁ、深夜仕事の奇妙なハイテンションってやつで」
「そもそも、〆切りがまずいなら、釣りに行くべきじゃないと思いますけど?」
「い、いやそれは……ちょっとした息抜きってやつで」
「漫画家はちょっとした息抜きで印刷所の休日をことごとく潰しまくってるらしいですけど、小説家はどうなんですか?」
「あ、あははははははははは……」
文雄は空笑いを浮かべながら、自分の部屋に引っ込んだ。
どうやら今回は本当に洒落にならないらしい。
そんな文雄を見送って、冬孤はゆっくりと口許を緩めた。。
その笑顔は、とびっきりのイタズラを思いついた子供のようだった。
「さーて……それじゃあ、迷惑にならない程度に、せいぜい遊んでやりますか」
とても楽しそうに、誰もが見惚れてしまうような笑顔で、
冬孤は、笑っていた。
かくていつも通りに、二人は元の場所に戻ったのだった。
第拾弐話『猫と釣りと少女の決意』…END
注、ここからの展開は時系列、作品の本編の展開、その他諸々とは一切関係ないかもしれない小劇場の続きの裏舞台でございます。それでは、はりきってどうぞ。
〜舞台裏〜
「さて、メイドさん。そろそろ君には退場してもらおうか」
「……貴方は、なんなのですか?」
「そうだな……箴言奏者とでも呼んでもらおうか」
「……呼びにくいです」
「まぁ、呼んでくれなくてもいいよ。君の出番は今回で終わりだ。伏線は伏線のまま、裏事情は裏事情のままに、自分たちの物語へ持っていくといい。なに、たいした伏線は張っていないんだから心配することはないよ。せいぜい、地球のへそで愛を叫んでくるといいさ」
「あの、その言い草だと死ぬんですか? 私」
「人によって世界の中心は違うものさ。それが、奇抜な庭を持つ屋敷だろうが、ある最強さんの隣だろうが、エアーズロック(オーストラリアにある世界最大の一枚岩のこと。ドラク〇3ではでっかい鳥を復活させるのに必要な道具が置いてあった)だろうが、それは人それぞれだろう?」
「……それはそうかもしれませんね」
「まぁ、僕はあの映画大っ嫌いだけどね」
「その言い草は、ファンに刺されますよ?」
「知ったことじゃないよ。大体、僕は『誰かが悲劇的に死ぬことで人を泣かせる』ようなエンターテイメントは嫌いなんだよ」
「それは、偏見ですよ」
「偏見だよ。……でもね、『死ぬこと』が悲しいのは『当たり前』なんだよ。『死』を大げさに盛り上げるだけ盛り上げて、それで悲しいことに『共感』させて泣かせるだなんて、ちょっと虫が良すぎたりしないかい?」
「……それはそうですけど」
「『感動』を否定する気はないし、『共感』したことを批判するつもりもない。それは人間として素晴らしい感性だと思うから。でも………死ぬのは誰だって怖いし悲しいし見ていられない。僕みたいに、『明日は我が身』の人間としてはね」
「………………」
「だから僕は…全てのバッドエンドを否定する」
「ひねくれてますねー」
「人間、ヒネてなんぼ。そうした方が味が出るし、なにより面白い」
「そういう問題ですか?」
「僕にとってはね。……さて、そろそろいいだろう」
「え?」
「準備はできている。君は、君たちの物語を語るといい」
絶叫するような苦しみと悲しみの中で、少年は目を開けた。
神は見えない。そんなものが見えたら人生がある意味終わるだろうと信じていた少年は少しだけほっとした。しかしその代わりに見えたのは灰色の髪を持つ、セーラー服を完璧に着こなした女子高生だった。
その特徴的な灰色の髪は肩のあたりでばっさりと切りそろえられていて、髪と同じような色の灰の瞳は少年を見つめている。
少年は問いかけた。
「貴女は……だれ、ですか?」
「私? 私はただの女子高生。そして、全世界で最も強い剣よ」
「そんなたいそうな人が、なんでここにいるんですか?」
「私がここにいる理由。それは『いつも通り』を始めるためよ」
「……『いつも通り』?」
「そう。恋物語でもなく、ファンタジーでもなく、探偵物でもなくホラーでもなく、さりとて文学と気取ってるわけでもない、少しおかしくて平凡な日常を」
にっこりと笑って、世界最強の女子高生は、少年の頬に手を添える。
指先は、ひんやりとしていた。
「今までご苦労さま、坊ちゃん。ここからは、私たちに任せて」
「へ?」
「貴方の物語はここから始まるのよ。『いつも通り』に」
少女はにっこりと、少しだけ意地悪っぽく、笑った。
少年は舞台から消えて、剣の女子高生は一人で笑う。
「それでは、ささやかな物語を始めましょう」
「それは、ごく普通の物語」
「恋も愛も存在する、ちょっとだけ愛しい話」
「いたって平凡な日常の物語」
「それはただ……一人の少年と一人のメイドの話」
少女はにっこりと笑って、指揮者のように手を振り上げる。
その手には、煌く宝剣が握られていた。
「では……開幕しましょう。平和で優しいおとぎ話をっ!」
小劇場最終回『それでは物語を始めます』…END。
to be continued 『僕の家族のコッコさん つヴぁいッ!』
かくて少女は決意を固め、次回からは本格的なコメディに戻ります。小劇場は最終回ですが、新しい連載にご期待ください(^0^)