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猫日記  作者: 田山歴史
10/24

第十話 猫と小さないのち

 文雄にばれないように招き入れられた二階の畳の間にはテーブルが一つと、給湯器が一つ。そして、布団にくるまって眠っている少女が一人。慶子は冬孤の技によってあっさりと気絶し、そのまま日向が用意した布団の中で眠っていた。さきほどまでは酸欠でうめいていたのだが、どうやら峠は越えたらしい。

 東野日向と名乗った少女は、笑顔を浮かべながら冬孤にお茶を振舞っていた。

「ほうじ茶と栗羊羹しかありませんけど、よかったらどうぞ」

「ああ……えっと、すみません」

 丁寧な物腰に少々引け目を感じながら、冬孤は羊羹にフォークを刺す。

 その栗羊羹には見覚えがある。文雄がよく通っている『みつや』のものだ。滑らかな舌触りと、上品な栗の甘味を味わいながら、冬孤は問いかける。

「あの……東野日向さん、でしたよね?」

「はい」

 少女は、柔和な笑みを冬孤に向ける。

 その笑顔は、なぜか人を安心させるような微笑だった。

 黒髪をショートカットにしている美少女で、整った顔立ちには猫のような大きな瞳とすっきりした鼻、そして真っ赤な唇。全体的にほっそりとしていて、女性らしい凹凸は少ない。服装はこの近くにある高等学校の制服(セーラー服)だ。

 毒気も、化け物じみた気配も、刺々しい空気もない、普通の少女である。

 冬孤はそのあまりの自然さに驚きながら、口を開いた。

「兄とは……どういう経緯で知り合ったんですか?」

燈琥とうこ……ああ、燈琥っていうのはやたら派手な私の従姉なんですけど……彼女の知り合いだったから、私とも知り合った、みたいな感じですね」

「そうなんですか……」

 ごく普通の、いたってありきたりな会話。

 しかし、冬孤は背中にむずかゆさを覚えていた。

(普通……よね)

 類は友を呼ぶ……ではないが、文雄に寄ってくる女が普通なわけがないのだ。

 油断は禁物だ。普通に見えていても、全然普通じゃない可能性もある。

 冬孤は最大警戒をしながら、日向に問いかける。

「さっき、将棋仲間って言ってましたけど?」

「週一くらいですけど、文雄さんはここに来て将棋を指すんです。相手は私だったり、燈琥だったり、黒いお姉さんだったりしますけど、相当強いですよ」

「えっと……その、失礼ですけど……それだけ、ですか?」

「はい、それだけです」

 くすっ、と日向は笑う。

「確かに文雄さんは素敵な人ですけど、少なくとも冬孤さんが思っているようなことはありませんし、させませんから安心してください」

「………はい」

 どうやら、好意を抱いていないわけではなさそうだった。

(なんか、ものすごくやりにくい……)

 今までの相手が毒がありすぎたせいか、こういう普通……というより純粋な反応にはかなり困る。なんせ、相手はこちらに敵意を抱いていないのだ。

 いつもなら、ドラク〇の魔王ばりの敵意を向けてくるというのに。

 と、

「冬孤さん。ちょっといいですか?」

 不意に日向は真っ直ぐに冬孤を見つめた。

 あまりの真剣さに、思わず冬孤は姿勢を正す。

「は、はい。なんでしょうか?」

「冬孤さんは、文雄さんが好きなんですよね?」

 言葉は、あまりに唐突だった。

「っ!? あ、え……ふぇ!?」

 思わず、吹き出した。冬孤の顔が見る見るうちに真っ赤に染まる。

「す、好きって……そりゃ、えっと、家族としては、好きですけど」

「いいえ。女性として、山口文雄という男性を愛しているんですよね?」

「………え………と」

 冬孤は思わず口ごもった。

 それは、ほとんど肯定してしまったようなものだったが、それでも冬孤は最後の抵抗を試みる。

「違います。だって、私たちは……兄妹ですし」

「関係ありませんよ、そんなこと。冬孤さんがここにいるという事実が、すでに文雄さんが好きだという証拠ですから」

「………………」

「だから、あなたにも知る権利があると判断します」

「え?」

 少女の瞳は、どこまでも真っ直ぐに冬孤を射抜く。

「山口冬孤さん。あなたは、山口文雄さんのことを多く知っている人間だと思います。同時に、彼のことを一番よく見てきたのもあなただと思います。それを踏まえた上で、はっきりと言っておかなければならないことがあります」

「……なんですか?」

 そして、東野日向は……、


「彼の手には、いくつもの世界の運命が握られています」


 信じられないようなことを言った。



 世界はただそれだけのものではなく、いくつもの世界が重なり合っている。人が暮らすのが当たり前の世界もあれば、猫が暮らすのが当たり前の世界もある。しかし、全ての世界に共通して言えることは『生きる』ということを前提としていることだ。

 だが……世界は単純機構ではない。『生』を望む者が大半を占める中で、『絶望』や『死』といった『害悪』を望む者も存在する。彼らは世界そのものの敵となり、世界を破滅させようとする。

 それを阻むのが、我ら神族。

 ……そして、『龍』である。

 神話の話になる。

 はるかなる古の時。世界は害悪の格好の獲物だった。生物を育み、自分の可能性を試そうとした世界は、ことごとく害悪に押し潰された。生まれては潰され、また育んでは壊されたが、世界は何度でも『生』を作り直した。そして、その度に壊された。

 まるで砂上の城のように。

 それを哀れに思った一匹の蜥蜴が世界を守ろうと立ち上がった。その蜥蜴は世界を守るために体を大きくし、翼を生やし、火を吹いて、この世の誰よりも強くなって、世界を守った。世界のことが好きだったから、蜥蜴はなによりも強くなった。自分を鍛え上げ『竜』となり、全てを極めて『龍』となった。

 伝説の『龍』となったただの蜥蜴は、こうして世界を護った。

 世界はそれに感謝し、竜に永遠の楽園を与えた。

 竜はそれに感謝し、自分の子供たちが力を極めし『龍』となった暁には世界を護ることを約束した。

 まぁ、そこまでなら美談なのだが。

「……トーコ。もう一度言え」

「だから、文雄くんが新しく生まれる竜の子の教師に任命されたの」

 トーコは、疲れたように肩をすくめる。

 私も似たような気分だった。

 竜の子供には、それぞれの子に見合った教師がどこかの世界から無作為に選出される。大抵の場合はトーコやシェラのような橋渡し役がいるのだが、中にはいきなり世界に拉致された例もいくつかある。つまり……連れ去られる者の立場などおかまいなし、なのだ。

 理由はいたって簡単。世界はあからさまに竜を贔屓しているからだ。

 まぁ……贔屓される理由はよく分かる。

 竜はいいやつばかりだからだ。温室育ちというかなんというか、とんでもなく強力な力を何の見返りなしに世界と誰かのために使おうとする、そんないいやつばっかりなのだ。人間は『必要悪』なんて言葉をよく使うが、竜にそんなものは適用されない。心から純粋に、どこまでも真っ直ぐな正義。ゆえに、十二神柱最強とされるのが『竜』の種族である。

 だから……なおのこと納得できない。

「あいつは、文雄はちょっと変わっているが、何の力もない普通の男だ。最強たる竜に教えられることなど何一つないと思うのだが………?」

「ん〜……確かに、まぁそうなんだけど……」

「トーコ。お前、まだ何か隠してるだろう?」

「隠してるけど、言わない。これはあたしのプライドの問題になるからね」

 トーコは隠し事が凶悪に下手だ。嘘をつけないというか、馬鹿正直というか、とにかく嘘が表に出やすい。

 だが、口はとにかく固い。特に他人の秘密に関しては絶対に口外しない。力づくで聞き出そうにも、トーコに勝てるだけの実力を秘めた存在を私は知らないし、聞き出せたとしてもその時には周囲が爆砕しているだろう。

 トーコは、そういう女だ。

 魔法使いは苦笑しながら、てれびの電源を入れる。

「三十二勝と千日手が四回」

「ぬ?」

「この家で指した、文雄くんの将棋の成績」

「……まぁ、あいつはやたら将棋は強いからな。才能があるんだろうさ」

 いくら強かろうが才能があろうが、本人が趣味以上にする気がなかったらそれまでなわけだが。

 と、トーコは『はぁ』とあからさまなため息をついた。

「………やっぱり、ファリエルも気づいてなかったわけだ」

「どういうことだ?」

「三十二勝と千日手が四回。それは、日向を相手にした時の成績よ」

「!?」

 その言葉が持つ意味の、あまりの恐ろしさに。

 背筋が………凍えた。

「私はなにも言わない。それは文雄くんが秘密にしていることだから、絶対に言わない。だから……ファリエルの察しの良さに期待するよ」

 トーコはビデオを操作して、映像を再生した。

 それはただの将棋の一局を映し出しただけの映像。

 しかし……それは、

 絶対にありえないはずの映像だった。



 栗羊羹を食べ終わって、ほうじ茶も飲み終わって。

 冬孤はぼーっと天井を見上げていた。

(……私の、せいよね。きっと)

 聞かされた話は荒唐無稽で、証拠がないから信用するには足りない。ただ辻褄があっているだけの話だったが、それでも……確信を持ててしまうような話だった。

 文雄は、自分が助けてほしいときに、いつも助けてくれたのだ。

 いつもいつも、助けてくれたのだ。

 子供の頃、孤独だった自分に当たり前のように笑いかけてくれた。

 小学生の頃、自分の過ちを笑って許してくれた。

 中学生の頃、考えなしに当り散らした自分を叱ってくれた。

 そして今も変わらず、助けてくれる。

 助けてくれるのが当然だと思っていた。

 そんな自分に対して、怒りが湧き上がってくる。

 無自覚だった。

 あまりにも考えがなさ過ぎた。

 なぜそんな簡単なことを気づかなかったのか。

 そんなことは在り得ないと、なぜ分からなかったのか。

 そう、ほんの少しだけ頭を働かせれば分かることだ。文雄だって人間なのだ。腹が立つこともあるし、泣きたくなることだってあるはずだ。なのに、冬孤の記憶の中にある文雄の顔は、いつも朗らかに笑っている。妹に弱いところを見せないとかそういう領域の話ではなく、あの日を境に、文雄は一切自分のために怒ったり悲しんだりしなくなった。

 他人が無茶をした時に叱り付けることはあっても、自分のために本気で怒ったり泣いたりはしなくなった。自分の感情を完璧に制御して、他人には一切弱みを見せなくなった。悩んでいることや困っていることを、他人に見せなくなった。

 その理由は……もう、聞かされている。

 間違いなく原因は、自分だ。

「私は……どうすればいいんだろう?」

 冬孤は目を閉じて、拳をぎゅっと握り締めていた。

 

 

 夕日の当たる縁側で、文雄は大あくびをしていた。

 将棋盤を挟んで向かい合っているのは日向である。

(さてさて……これはどうしたもんかな)

 形勢は自分に不利。持ち駒は銀が一枚と金が一枚。

 少しだけ考えて、文雄は一手を指した。

「七8銀打。これで詰んだと思うけど、どう?」

 日向はじっくりと盤面を凝視して、それからゆっくりと溜息をついた。

「………ですね。どんなにあがいても17手以内に詰みますね。しかし、三十三敗もすると、少々どころじゃなくへこみます。ので、そろそろ香落ちくらいにしていいんじゃないでしょうか?」

「駒落ちにすると本気出さないと勝てないなぁ」

「それじゃあ、本気の平手でもう一局勝負です。負けたら駒落ちってことで」

「りょーかい」

 文雄は眼鏡を外して、目を閉じる。

「封縛輪廻、百界に依りて光黄螺旋の秘儀を一時的に解除する」

 文雄は目を開いた。

 その瞳は、薄い灰色に染まっていた。

「それじゃあ、久しぶりに本気で指します」

 文雄が一手目を指し、考える間を置かず、すかさず日向が指す。文雄はそれに対抗するように、ほとんどノータイムで駒を進めていく。

 戦況は一進一退であり、二人の技量はほとんど互角。

 そして、三十分後……。

「千日手ですね」

 将棋で言う『千日手』とは、互いに次の一手が指せなくなる状態を指す。たとえばお互いの陣形がほとんど一緒で、先に攻めた方が絶対に負けるという局面のなんかが千日手の一例だろう。お互いに攻めたくないから、盤面が膠着状態に陥る。結果…互いになにもできなくなってしまうのだ。

 文雄はゆっくりと息を吐いて、盤面を見つめる。

「うーん、やっぱり本気になられると勝てないなぁ」

「こっちの台詞です。まったく……あなたのような性悪な指し手には出会ったことがありませんよ、本当に」

「まぁまぁ、それよりもう一局打とうよ、先輩」

「それもいいのですが、その前に一つ、よろしいですか?」

「なに?」

「心は決まりましたか?」

「………………」

 文雄は口を閉ざして、日向の目を見つめた。

「……決まってたら、もっと気楽だよ」

「そうでしょうか? 決めていたら、もっと心は重いはずですが」

「……そうかもね」

「好きな女の子でもいるんですか?」

 唐突な言葉に、文雄は目を丸くして、それから苦笑した。

「……いないよ。僕は、一生人を好きになることはないと思う」

「文雄くん。それは、生物として、人間としておかしいことですよ?」

「自覚はしてる。でも……相手のことをなにもかも知って、それで相手を丸ごと包み込むなんて、そんなことは僕にはできないと思う」

 苦笑しながら、文雄は目を閉じた。

「僕は結局……怖がりなんだよ。誰かに当り散らすのが怖い。誰かを悲しませるのがおっかない。『人には見えないものが見える』から、それを見るのがとても怖い」

「……臆病なんですね」

「はい。多分、世界で一番」

 再び目を開けた文雄の瞳は、元の黒色に戻っていた。

「師匠やトーコ師、シェラさんがいなかったら、きっと僕はとっくの昔にどうでもいいことになっていたと思う。人の醜さに失望して、人の綺麗なところを全部否定して、自分以外の全てを愚痴りながら生きてた。真っ直ぐに前を向いて歩くことを教えてくれたのは……みんなのおかげなんだと思う」

「……そうですか」

 日向は、口許を緩めて、文雄を見つめた。

「一年前、初恋をしました」

「え?」

「普通の男の子を好きになって、でも……その人の側にはもう大切な人がいました。私にも、彼のことを好きだと言えない理由がありました。だから、私はその人の前では恋をしていないふりをして、結局なにも言わずに、初恋を自分自身で終わらせました」

「………………」

「文雄くん。あなたには、心残りがあるんでしょう? 好きな人がいるから、竜の楽園に行くことを迷っているのでしょう?」

「……………………」

 思いつかない。

 全然さっぱりまったく思いつかない。

 自分の好きな人、それが、全く思い浮かばない。

「好きな女の子なんて……本当にいないよ、先輩」

「本当ですか?」

「本当ですとも」

「それじゃあ、他に大切なものがあるんじゃないですか?」

「うーん……思いつかない。小説はどこでも書けるだろうし」

 口ごもる文雄に、日向は笑って問いかける。

「なら、なぜ文雄くんはいつも妹さんを守ろうとしていたんですか? 自分よりもっと大切な存在だからじゃないんですか?」

「いや、冬孤を守るっていうより、冬孤がもたらす被害から周囲を守るためだよ。いつもいつも僕の予測を遥かに越えたことを平気な顔でやっちゃうし。人並み越えて、天才もぶっちぎって、料理以外はなんでもできるくせに、それを変な方向にしか発揮しないやつだから。協調性もないし、なにより一度火がつくと周囲のことが全然頭に入らなくなるし。見てて危なっかしいというか……えーと」

 言ってて、罠にはめられたことに気づいた。

 自分の言葉は、言い訳でしかないことに気づいた。

 にっこりと日向は笑っている。とても愉快に楽しそうに。

「たぶん、それが文雄くんの心残りなんですよ。『恋』なんていう、脳内麻薬が引き起こす一種の幻覚作用を一切信用してない君の……文雄くんの唯一の心残りが『家族』のことなんだと思います」

 日向の言葉に、文雄は思い切り顔をしかめた。

「や、確かに家族のことは嫌いじゃないけど………僕は『恋』が幻覚だとか脳内麻薬だとか一切信用してないだとか、そこまでひねくれてないよ」

「それじゃあ、好きな女の子の一人や二人、当然いるんでしょうね?」

「……それは、いないけど」

「………BLですか?」

「そうじゃなくて、単純に僕の周囲にいる女の人が滅茶苦茶で恋愛対象にならないっていうか……強いやつと戦うことにしか興味のない黒の魔法使いさんに、ものすげえ美人と同棲してる血の師匠に、駄菓子を阿呆みたいにもっしゃもっしゃ食べてる超絶美女に、プロ野球選手並みの剛速球を投げる青い髪が綺麗な母さんの友人に、日々とんでもないことをやらかしてくれる妹に、漫画研究会所属でオタクさんな中学の後輩に、人の弱みを握って強請ってくる性格の悪い女に……えーと、あとは先輩くらいかな」

「もってもてですね」

「……全く嬉しくないんだけど」

「皮肉ですから」

「………………」

「これは『文雄くんに寄って来る雌ブタどもが許せない。皆殺しにしてやる☆』みたいな純然たる嫉妬心か、それとも『ギャルゲーみたいな生活送ってんじゃねぇよこのスケコマシのクソ虫が☆』とかいう純然たる怒りなのか、判別がつき難いです」

「……先輩、とりあえず『☆』をつけてもその前に雌ブタとか皆殺しとかスケコマシのクソ虫とか言ったら全部台無しだよ。殺意が全然誤魔化せてない」

「スケコマシってどういう意味なんでしょうね?」

「いや、僕に聞かれても困る。そういう言葉使ったことないし」

「語彙が貧弱なんですね?」

「……一応、僕、プロなんだけど」

「プロなのに語彙が貧弱って最低じゃありません?」

「ファンタジーでスケコマシは使わないし………」

「『それは流れる星のように』、でしたっけ? なかなか面白かったですよ」

「なんでペンネームも出版社もばらしてないのに分かっちゃうかなぁ………」

「それは、乙女の秘密です」

 日向は、にっこりと笑う。その笑みは明らかに面白がっている。

 文雄は溜息をつこうとしたが、代わりに欠伸が出た。

「ふぁぁ……」

「眠いんですか?」

「昨日は…いや、一昨日から徹夜だったからね。ちょっと眠くなってきたから、僕はそろそろお暇させてもらうよ、先輩」

「はい。今度は遊びに来て下さいね? お土産も忘れずに」

「はいはい……」

 文雄はおざなりに手を振りながら、襖を開ける。

 と、

「心は決まりましたか?」

 日向は、先ほどと同じ質問をした。

 文雄は、今度ははっきりと答えた。

「とりあえず、保留します。二年くらい」

「二年ですか? また、中途半端な時間ですね」

「まぁ、そりゃそうなんですけど……」

 文雄は、肩をすくめて苦笑した。

「高校も卒業してない奴が、先生やっちゃいかんでしょう?」

「それもそうですね」

 くすくすと笑いながら、日向は楽しそうに目を細めた。

「文雄くん」

「なんですか?」

「私、あなたのことはけっこう好きですよ」

 沈黙。

 文雄は唖然として、言葉を失った。

 日向は、そんな文雄を見つめてイタズラっぽく笑う。

「どうしました? 機銃の一斉掃射を食らったみたいな表情ですが」

「いや、その……」

「人間は、生きていくからには覚悟を決めなければいけません。生きる覚悟。死ぬ覚悟。殺す覚悟。そして、語る覚悟。………今のように一言で通じることもあります。万言尽くしても伝わらないこともあります。でも、大抵のことは万言を尽くさなければ伝わらないのです」

 不意に真剣な表情になって、日向は言った。



「大切なものを守りたいなら、誤魔化してはいけませんよ?」



 外に出ると日は沈みかけていて、あたりは茜色に染まっていた。

 玄関を出て、文雄は足を止める。そこには、見覚えのある人物が立っていた。

「……冬孤?」

 長い黒髪の少女は、顔を伏せていた。

 怒っている。文雄はそう判断して、刺激しないように言葉を紡ぐ。

「えっと……なんでこんな所にいるのかなー? とか思ったりするおにーちゃんだ」

「……別に」

 言葉数が明らかに少ない。これは怒っている。ものすごく怒っている。しかも怒髪天寸前どころか金色に髪が逆立つのも間近に違いない。やばい、殺される。

 冷汗が頬を伝う。文雄はそれを拭いながら、なんとか誤魔化そうとして思考をめぐらせるが、回転回し蹴りで首筋を蹴られている所しか浮かばなかった。

(人生五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻ゆめまぼろしの如くなり……か)

 織田信長が好んだ敦盛の一説である。

 実際にはその二分の一にも満たない歳で死ぬことになるわけだが。

 文雄はゆっくりと息を吐きながら眼鏡を外す。とりあえず、いつでも逃げれるようにしておかなければならない。

 と、冬孤は沈痛そうな表情のまま、口を開いた。

「日向さんに、大体のことは聞きました」

「えーと……大体って?」

「兄さんが今置かれている現状についてです」

 全身に一気に緊張が走った。

 一番知られたくない相手に、知られてしまった。

 それでも気分を落ち着かせて、言葉を選んだ。

「や、やだなぁ冬孤。先輩は大嘘吐きで有名なんだよ? 人の話を素直に信用しちゃいけないって小さい頃に教わっただろ?」

「……いつもそうなんですね、兄さんは。曖昧に笑って誤魔化して……っ」

 冬孤は顔を上げる。

 その目には、涙が浮かんでいた。

「ええ、そうですとも。それに気づかなかった私が阿呆なんでしょうっ! あまりにもタイミングよくいつもいつもいつもいつも助けてくれるもんだから、それが当たり前のように思えて、疑問にすら思わなかった私が愚かだったんでしょうねっ!!」

「冬孤………」

「文句も愚痴も言わない。当たり前のように笑って、他人とはあまり触れ合わないでそれでも自由に、自分らしく生きているなんて……そんなの、卑怯です」

「………………」

「なんで兄さんは、そんなふうに生きられるんですか? どうして、そんなふうに笑っていられるんですか? 野球ができなくなったのも、変なものが見えるようになってしまったのも、全部私のせいなのに。なんで……私を、責めないんですか?」

 冬孤は、涙で潤んだ瞳を向ける。

 どこまでも真っ直ぐに。文雄を見つめていた。

 その目は……昔、一回だけ見たことがあった。

(……誤魔化すな、か)

 突きつけられた言葉は、まるで刃のように。

 心を突き刺し、切り裂き、痛みを与える。

 それでも、文雄は前を向いた。

「冬孤」

「………なんですか?」

「君は、いつもいつも僕の予測を遥かに越えたことを平気な顔でやっちゃうし。人並み越えて、天才もぶっちぎってるくせに、それを変な方向にしか発揮しないし、協調性もないし、なにより一度火がつくと周囲のことが全然頭に入らなくなるし。はっきり言って、見てて危なっかしい。でも……それでも」


 文雄は、いつものように


「僕は、君がいなければよかったなんて思ったことは一度もないよ」


 当たり前のように、笑った。



 どうやら、杞憂だったらしい。

 泣きじゃくる妹を慰める兄を見つめながら、私は嘆息した。

 しかし、無駄足だったのはいいことだ。文雄のやつが厄介なことに巻き込まれていたとはいえ、それはあいつが決めるべきことであって、私が口を出すべきことじゃない。それに……文雄は、自分で決めて選択をしたのだ。

 守りたいものを、守ることを。

 前を向いて、歩くことを。

「……やれやれ」

 まぁ……それでも不安は尽きぬわけだが。

「あら、ファリエルさん、いらっしゃい」

 縁側に腰掛けて、日向はにっこりと笑う。手には三色チョコレートケーキが乗った皿を持っている。

「ああ、久しぶりだな、マギ」

 その横で丸まりながら、私は返答する。

「しかし、お前が文雄と知り合いだとは知らなかった」

「袖すりあうも他生の縁、ですよ」

「……その言葉の意味は、前世からの因縁のことだが?」

「知ってます。でも、前世や来世なんて存在しませんけどね。あったとしても意味はありませんし」

 くすくすと楽しそうに笑うのは、

 ちょっとだけ普通じゃない少女。

「でも、因縁っていうのは信じてみたくなりますね。私の知り合いに、あんなに将棋を指すのが上手な人がいるんですもの」

「……文雄のことは好きか?」

「ええ。人間としても、男性としても、指し手としても、好きです。いつか『本気』で指してみたいですけど……私の本当の姿を知られたら、やっぱり嫌われちゃいますよね……」

 東野日向は笑う。

 ただ、その笑顔には、ほんの少しだけ寂しさが含まれていた。

 縁側で沈む夕日を見ながら、私は言う。

「そんなことはなかろうよ」

「……そうでしょうか?」

「ああ。自信を持っていい。お前はいい女だ」

 口の端を緩めながら、私は不器用な少女を見つめる。

 東野日向。本当の名前はMAGIUS・SYSTEM・ver2・83。ペンギン族筆頭戦艦『断界号』のメインコンピュータであり、三千世界でただ一つ、心を成しえたシステムである。

 その『断界号』は現在修復修繕作業の最中であるのだが、その最たる原因の一つが彼女の成長速度に『断界号』自体がついていけないからだとか。とんでもなく高性能なソフトウェアを積んでいる古いぱそこん、もしくは古くなった服を無理矢理着ているような状態、と言えば多少は分かりやすくなるだろうか。

 改装と改修に三年はかかるらしく、それまで遊んでいるわけにもいかないので、彼女は『東野日向』をやっている、というわけだ。

 だからこそ、私は驚いた。

『断界号』には及ばなくとも、『東野日向』の体はこの世界の機械工学の粋を尽くしても絶対に作り出せないようなオーバーテクノロジーだし、MAGIUS・SYSTEMは全世界の中でもっとも優れたシステムである。多少実力は落ちているとはいえ、そんな技術と将棋を指して勝ってしまうような文雄がとんでもないのだ。

 と、不意に日向は口を開く。

「もっと詳しいこと、聞きますか?」

「む?」

「文雄くんが選ばれた経緯とか、彼の能力とか」

「……いらんさ」

 そう、必要ない。

 今は知らずとも、いつか知ることもあるだろう。

 それになにより、

 男の決断に、口を挟む必要はない。

 私の言葉に日向は微笑を返した。

「……そうですか。じゃあ、チョコレートケーキ、食べますか?」

「猫にチョコは厳禁だ」

「知ってます」

 日向は笑う。私も笑う。

 緩々と、時間だけが流れていった。



 追記


 帰り道。私は公園で墓を見つけた。

 墓標もなにもないが、それは紛れもなく墓であった。

 名も知らぬ異種族に、敬意と愛を込めて作られた墓であった。

 私の目に見えた光は四つ。散った命の数も、四つであった。

「居場所……か」

 兄妹は元の居場所に戻り、私もそこに戻ろうとしている。

 それは……その場所が、大切なものだからだろう。

 しかし、

「いつかは、その居場所を捨てなくてはならない時が来るのだろう。捨てたくなかろうとも、いずれはその居場所を離れなくてはならんのだろうさ……」

 文雄はいずれあの家を離れるだろう。

 世界の命運など、心の底からどうでもいい。何人死のうが自分にはどうしようもない。世界を守るのは我ら神族や『龍』といった身の程も弁えぬ『大馬鹿』であって、人間は自分の両手に抱えられるものを守るのが精一杯。

 少なくとも、文雄は己の程度は弁えている。

 だが、文雄は大切な場所を離れることを選ぶのだろう。

 それはきっと、その手にある小さな命を離せないからこそ。

 たった一人の小さな竜の子を、見捨てられないからこそ。

「………転化転生の秘儀、ここに成したまえ」

 私は、人に成る。

 普段人に成る時の服装ではなく、猫神として正式なものだ。

 舞装。舞うために作られた白い着物。そして、首と両手足につけられた五つの鈴。

 武鈴と呼ばれる、猫の神器。

 両手には、天輪剣と呼ばれる双剣が握られていた。

「馬鹿者が。猫が死した後は舞を舞って魂を送るのが通例だというのに、勝手に埋葬してしまって……本当に、困るのにな」

 しかし、そのまごころには、感謝してもし足りぬ。

 その優しさと甘さに、心からの感謝を。

「月と星と黒よ、光輝たる御霊に安らぎを。

 精霊よ、彼のものを安らぎの場所まで誘いたまえ

 汝らに安らぎを。精霊の祝福を。

 猫として誇らしく、気高き母としての生に敬意を。

 人の舞神として祈ろう。

 汝らに大いなるぬくもりがあらんことを」


 鈴が鳴る。

 白き衣が翻る。

 重ねられるのは双剣。

 我は十二の舞踏を踏みしめる。


 そして、私はいつも通りに舞を舞った。



 三連作『猫と大切な場所』…END




 小劇場。


 注、ここからの展開は時系列、作品の本編の展開、その他諸々とは一切関係ないかもしれない小劇場でございます。それでは、はりきってどうぞ。


 〜開幕〜


「……次回、脳漿とか内臓とかぶちまけちゃいます」

「あのね、コッコさん。嘘予告なら嘘予告らしく、もっとちゃんとやろうよ。あと、脳漿とか内臓とか、グロすぎるから」

「坊ちゃんが昨夜激しくしすぎるからいけないんです」

「え? いや……一緒に格闘ゲームで遊んだだけでしょ?」

「少しは手加減してくださればいいのに。むきになって責め立てるんですもの。こっちは初めてで加減が分からないのに……しかも、あんなことまで」

「いや、ちょっと調子に乗って20HITコンボとかやっただけだし。それに、コッコさんは手加減するとすぐに見抜くんだもん。あと、その言い方はやめて。僕がとんでもねぇ鬼畜野郎に見えてしまうから」

「坊ちゃまが鬼畜なのは、今さら言う必要もないような当たり前のことですけどね」

「……どうも、一度とっくりと話し合う必要があるみたいだね、コッコさん? 主に有給休暇とお給金のことについてなんだけど」

「まぁ、それはともかく、今回でようやく長丁場の話が終わったみたいですよ?」

「また露骨に話を逸らすし」

「今回でようやく長丁場の話が終わったみたいですよ?」

「……まぁ、いいけどね。でも、長丁場っていうか……この三作だけ連作になってるだけなんだから、分かりやすく前中後編にしておけばよかったんじゃないの?」

「はい、全くその通りです」

「……また簡単に肯定したね」

「えーと、なんでも作者の言葉によると、『それぞれの話で核になっているキャラクターが違うから』だそうですが、私は『文章投稿の際に『前編』って書き忘れて、仕方がないのでそのまま開き直った』というふうに邪推します」

「コッコさん……」

「『本当だよ、本当だってばっ! 本当に話の核になってるキャラクターが違うだけであって、決して『前編』って書き忘れたわけじゃないんだっ! 信じてよっ!』とか書いてしまうと、もう言い訳ができなくなってしまいますよね。………事実はどうあれ」

「……そーゆーことすると、せっかくできた小劇場すらなくなるよ」

「いいんですよ。今回で最終回ですから」

「へ?」

「と、いうわけでお待たせしましたっ! 長いんだか長くないんだかの沈黙を経て今、解禁っ! メイドの私と坊ちゃんの生活を描いた、『ぼくの家族のコッコさん つヴぁいっ!』をとうとうお送りしまーーーーすっ!」

「……えーとね」

「いやー、とうとう私たちにもスポットライトが当たるんですよっ! やりましたね、坊ちゃんっ!」

「あの……コッコさん?」

「これも皆さんの応援のおかげですっ! 本当にありがとうっ! YEAHっ!」

「……連載は、まだされないそうだよ?」

「へ?」

「なんか、レポートで忙しいからまた今度ね☆。っていう連絡が今届いたけど」

「………………」

「………………」

「………………ちゅいーん」

「ちょ、コッコさんっ!? 森林伐採用の大型チェーンソーなんてなにに使うのっ!? とりあえず落ち着いてっ! あと、そのチェーンソーは『ちゅいーん』なんて呑気な効果音出してないからっ! どっちかっていうと『ギュオオオオオオオオオオオオオオッ!!!』って感じでっ!」

「いやDEATHねぇ、坊ちゃん。コッコはとっても冷静DEATHよ? そう、新しいガンプラを買ってもらった子供や、借金で首が回らなくなって借金取りから逃げ回っている大人と同じくらいにはっ!!」

「それ、ちっとも冷静じゃないっ! むしろ明らかにテンパってるからっ! お願いだから語尾を『DEATH』にしないでっ! ちびりそうなくらい怖いからっ!」

「いいから離してください、坊ちゃんっ! コッコは、コッコは諸悪の根源を誅殺するために全力を尽くさねばならないのDEATH!」

「うわ、コッコさ……。くそっこうなったら、黒子さんたちっ! 出番ですっ!」


注、黒子:舞台にいる黒い人。見えざる存在。在るようで無い存在。


「あれ? あなたたちは一体……ってちょっとっ! 私をどこへ連れて……」



 見えていても見えない黒い人に引きずられて、閉幕。





 〜舞台裏〜


「ぼ、坊ちゃん………この二人は一体なんなんですか? 私が手も足も出ませんけどっ!?」

「ああ、今期新卒で採用した黒霧冥さんと黒霧舞さん。とっても仲のいい双子さんで、特技は園芸なんだってさ。屋敷の惨状を見て、採用試験に来てくれた人たちでね、とりあえず二ヶ月は仮採用ってことになるんだけど……」

「普通に説明しますかっ!? しかも特技が園芸って……!?」

「ねぇ、コッコさん?」

「な……なんでしょうか?」

「味が似たようなものなら、人は高級料理より、ファーストフードを食べるよね?」

「ちょ……え? 坊ちゃん? それは一体……」

「とりあえず、仕事してくださいね」

「あの、ちょっと、なんかものすごく不安になりそうな笑顔でコッコを見るのはなんとなく嫌なのですが。っていうか、この二人何気に胸もありやがるんですけどっ! 坊ちゃんの趣味ですね? 趣味でしょう!?」

「ふふっ」

「あはっ」

「あーっ! こいつら笑いましたよっ! 笑いやがりましたよっ! 坊ちゃん、先輩を笑うようなやつは不採用ですよっ!」

「じゃあ、とりあえず来週から来て下さい。これ、一応マニュアルです」

「分かりましたー、ご主人様」

「了解しましたー、ご主人様」

「無視? 無視ですか!? それはちょっとひどすぎませんか? ねぇちょっと…あっ、カメラまでフェードアウト? いくらなんでもこの扱いはちょっ……」



 小劇場『メイドとクロコ』END。



「納得いきませぇぇぇぇぇぇぇぇんっ!」

と、いうわけでいきなりキャラが増えた三連作、いかがだったでしょうか? 次回からは伏線その他の色々なしがらみは捨てて、新たな気持ちで頑張ります(笑)

次回、猫と釣り。もしくは猫となにがしをお送りします。お楽しみに。

ちなみに、新しい連載は2005年11月ごろ始められたらいいな…と、思っております。応援、よろしく。

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