第一話 猫的日々
私は猫である。
名前はファリエル=ナムサ=オーレリア。毛並みは青に近い黒。
これでも、猫神の一柱として正義を守るために生きている。
正義とは絶対ではない。正義とは流動的で人によって違う。例えば、私にとっての正義とは、私の周囲のささやかな幸福を守る程度のことでしかない。
猫は十年が経過すると猫神の第一段階である猫又に、それからは十年毎に尾が一本ずつ分かれていく。たとえ猫又のような赤子に等しい存在であっても滅多に尻尾を見せたりはしないので、私のように百年以上生きている猫は、絶対に尾を見せたりはしない。
日々を守るために戦う。尻尾とはその集大成のようなものだ。
尻尾が闘争で千切れていないということは、その猫が無敗であることを示している。現に、私の知っている黒と白の軍猫と、三毛の老猫は全ての尾を残している。私の尻尾は一本だけ昔の男に千切られてしまっているため、それはちょっとした恥だ。
猫とてささいなことで喧嘩もする。私も若かったということだろう。
そんな私の現在の同居人(決して主人ではない。猫は主人など持たない)は五名。
山口是雄、家族を支える長のくせにうだつの上がらないさらりーまん。
山口リンダ(やまぐちりんだ)、実質の長。専業主婦で山口家の支配者。
山口文雄、根性なしの息子。高校一年生。外見は黒一色。優しいところが唯一の取り柄。小説家をやっている。
山口冬孤、名は体を表すを地でいく少女。性格は冷酷無比。趣味は双子の兄を虐めること(その様は猫の狩りとよく似ている)。
山口ククロ(くくろ)、お節介な犬。
これは、つまらない私の日常を綴った物語。
山口家の朝は早い。山口家主人(偽)である是雄がまず最初に起き、その気配を察した私が次に起きる。当然のことながら空腹なので「にゃーにゃー」とうだつのあがらないさらりーまんに朝食を催促する。
媚を売るのは猫にとっては鼠を獲るよりもはるかに簡単なことなのだ。猫はプライドの高い生き物だというのが人間の通説らしいが、私たちは楽に生きるためになら努力は惜しまない。ぷらいどでは腹が膨れず、生きるためならコンビニのゴミ箱も漁りまくるというのが、私たちにとっての『当然』だ。
まぁ、私は山口家に同居してやってる猫なので、粗食でも贅沢は言わないが。
「はい、プー。それじゃあお食べ」
カリカリ系のキャットフードを皿に盛り付けて、是雄は笑う。笑顔が可愛いというのは彼の伴侶である山口リンダの言葉だが、まぁそれだけは同意せんでもない。
ちなみに、一応断っておくが私の名前は『プー』などという間の抜けた名前ではない。この名前は山口家主人(真)こと山口リンダが名づけたものだ。
言うまでも泣く、私としては全く全然さっぱりこれっぽっちも気に入っていない。私の名前はあくまでファリエル=ナムサ=オーレリアであって、
「それじゃあ行ってくる。プー、リンダのことはよろしく。帰りにスモークサーモンでも買ってくるよ」
……ふむ。すもーくさーもんか。
じゅるり。
まぁ、あれだ。たまにはプーもよいのではないだろうかと思う今日この頃である。
さて、是雄が会社に行く=私の朝食が終わるということなので、これから私は二度寝に入らなくてはならない。猫は人生の三分の二を寝て過ごすというが、それは残りの三分の一に死力を尽くしているからであって、決して怠けているわけではない。
幸いにして、今日は平日なので文雄と冬孤は学校だ。奴らが休みの日はあのお節介な犬であるククロ(素直にクロにすればいいのに、つくづくリンダの趣味は意味不明だ)の散歩に行くか、私と一対一の勝負を挑んでくるかのどちらかである。それはそれで楽しいといえばそうなのだが、平日は猫らしくゆっくりするのもまた一興であろう。
そう結論を出して、私はいつもの寝床でゆっくりすることにした。
縁側で座布団に丸まって、私はゆっくりと目を閉じる。
と、その時。
「ねぇ、プーちゃぁん。めっさひまぁ」
気持ちのいい眠りにつこうとした私を起こす、非常に不愉快な声が聞こえる。
私が薄く目を開けると、そこには茶髪の女がいた。
専業主婦こと山口リンダ。山口家の実質の主で日系二世。髪は金色。年齢は35。結婚した年齢は17で、現在、高校一年生の息子と娘(双子)がいる。性格はひたすらに気紛れ。夏に鍋焼きうどんを出したり、冬に冷麦を出したりする。専業主婦適性試験とかがあったら申請段階で弾かれそうな、そんな女である。
「遊ぼうよー。ほーら、ぱたぱたー」
………私はもう百年以上生きているのだ。気分が乗らない時は遊ばない。
大人気ない人間の気紛れに乗ってやるほど若くないのである。
いや、男に興味もあるし、子供も問題なく産める。その程度には若いつもりだ。
「ほーう、そこまで無視するか。ファリエルちゃんめ」
私の本当の名前を呼びながら、リンダはにやにや笑っている。
そう………私しか知り得ないことだが、山口リンダは猫語が話せる。この阿呆面した女が一体どういう経緯でなまりの一切ない綺麗な猫語を習得したのかは知らないが、私としてはなんとなく屈辱だ。
なぜなら、リンダは私の本名を知りながら『プー』とか名付けやがったのだ。
よって、私はこの女が嫌いだ。正直顔も見たくないとおも、
「ふっふっふ、ファリエルちゃーん。これ、なーんだ?」
………あう。
にゃーにゃにゃー。ふにゃう。
………はっ!
「くっくっく。さすがは猫の最終兵器。効き目が違いますなぁ」
おのれ、この女郎……よりにもよって、またたびを持ち出してきた!
ああ、なんていうかこの頭が痺れるような甘美な芳香。眠気が吹っ飛んでそれしか考えられなくふにゃう………って違うっ!
私はまたたびを断ったのだ。そもそも、前の男と別れて尻尾を失った原因というのがまさにまたたびなのだ。過剰なあるこーるが人間を駄目にするように、過剰なまたたびは猫を駄目にする。そう、まさに禁断の果実っ! ああ、でもふあああ………ってうおおおおぉぉぉぉいっ!
このままでは正気を失うと確信した私は、リンダから脱兎のごとく逃げ出した。
「あ、こらー! 私と遊びなさーい!」
リンダの声が響くが冗談ではない。これ以上付き合ってたらふにゃふにゃになってしまう。
逃げ出す先は当然リンダの手の届かない場所。つまり外だ。
こうして、一人の女の気紛れによって、家の中で夕方まで寝るぷらんはあっさりと破綻したのだった。
まぁ、一つのぷらんが破綻すればもう一つのぷらんを持ち出すのは当然のこと。私は近所の猫に適当に挨拶をしながら(時折身の程知らずに喧嘩を挑んできた猫を一蹴しつつ)、悠々と歩いていた。もちろん、ゆっくりと眠れる場所を探すためである。
うむ、こんないい天気の日は木陰で眠るのが一番であろう。路地裏も涼しくて悪くはないがあそこは少し汚いところが多いため、後の毛の手入れが大変なのだ。
と、その時だった。
「あ、あの、困ります。私、そんなつもりじゃ……」
「なら、この手紙は一体なんだと言うの?」
聞き覚えのある声が耳に届く。
ほう、融通のききやすい若い猫の縄張りをなにも考えずにてきとーに歩いてきたが、どうやらここは文雄と冬孤の通う高等学校らしい。
「いえ、ですから。これは、その……」
「私はあなたのためを思って言っているのよ?」
校舎裏で、二人の少女が言い争いをしている……というより、一人の美女が、一人の美少女を脅していると表現すべきか。とりあえず分かることは、美女のほうが我が家の暗黒冷女こと山口冬孤ということだけだ。
山口冬孤。髪は長く色は黒。顔立ち、容姿、共に完璧で文句のつけどころがない。まさしく大人の風格ただよう美女なのだが、唯一の欠点として胸が薄いことがあげられる。
容姿と頭脳の性能と引き換えに思いやりとかそういう人間として大事な物をどこかに置き忘れてきた少女。それが、山口冬孤である。
「いい? 確かに恋はいいことかもしれないわ。でも、山口文雄だけは本当にやめておきなさい。これは兄妹としての意見じゃなくて、一人の女の意見よ」
「い、いえ。ですから………」
「あいつは胸が小さいのが好み、ぶっちゃけロリごほげふんなのよ。部屋には腐るほど■■■■■■■の本があるわ。しかも■■■■にも多大な興味を持っている。はっきり言って変態よ。でも安心して。私があいつをちゃーんと葬っておくから」
………………。
冬孤の部屋にも男同士の恋愛模様が描かれた、腐敗臭漂う小説が無造作に本棚に置かれていたりするのだが、それは指摘してはいかんのだろうか?
と、まぁそれはさておき。追い詰められた美少女は顔を真っ赤にして叫んでいた。
「だから、私、文雄くんのことなんてなんとも思ってませんっ!」
「なら、背中に隠したその手紙を寄越しなさい」
「っ!」
美少女が言葉に詰まる。冬孤はこういうところは本当にあざといと思う。
……ホント、性格さえ腐っていなければ引く手数多だと思うのだが。
「分かっているのよ。あなたがウチの兄さんを狙っていることくらい」
「………ふふ、なるほど。さすがは『最終最後の砦』ってことですか」
美少女が不敵に笑う。あれは、見たことがある。
あれは……己の敵を見つけたときの目だ。
「合点がいった。ってところかしら。文雄くんってそこそこ人気あるんだけど、あなたのようなブラコン女が常に一緒にいるんじゃ、手出しできないわね」
「はン。あなたのような女に兄さんをくれてやるわけにはいかないのよ」
二人の背後に炎が燃え上がる。
それは、戦いの狼煙であった。
「あれを虐めていいのは、私だけよ!」
「上等っ!」
ドゴメスッ!
美少女の拳が冬孤の顔を打ち抜き、冬孤の拳が美少女の腹を打ち抜く。
お互いの力量は互角。顔を打ち抜かれた冬孤は不敵に笑い、腹を打ち抜かれた美少女は陰惨に笑う。それは、互いに譲れぬものを賭けた女の顔であった。
「おりゃああああああああああっ!」
「せいやあああああああああああっ!」
二人の拳が交錯する。
鈍い音を背後に聞きながら、私はその場を立ち去ることにした。
うむ。やはり若いというのはいいことだ。
……人間としてはどうかと思ったが、それこそまさに無粋というものだろう。
家に戻ると、リンダは夕飯の準備で忙しく動き回っていた。どうやら今日は鳥の唐揚げらしい。是雄にたかれば多少はおこぼれをもらうことができるだろう。
「あ、お帰り。プーちゃん。外はどうだった?」
どうもこうもない。いつも通り平和であった。あと、プーって呼ぶな。
「そうだね。やっぱ平和が一番だね。ファリエルちゃんが本気で動くようなことにならないのがやっぱり一番いいよね、うん」
なにを納得しているのかはよく分からなかったが、リンダはこくこく頷いていた。
と、奴は不意に意地悪そうな表情を浮かべた。
「文雄、帰ってきてるから甘えてきていいよ」
にやけながら、リンダは的外れなことを言う。
別に甘えているつもりは微塵も無い。ただ、アイツの部屋はとても寝心地と居心地が抜群なだけに過ぎない。
それだけだ。
「なんなら、人間形態になって誘惑してきちゃえば?」
阿呆か、貴様。発情期でもないのにそんなことができるか。人間に『成れ』ば誘惑自体は可能だが、そもそも私は子供は趣味じゃない。
「相変わらず自分に素直じゃないのねー」
ほう? ならお前、私が本当に誘惑したらどうするつもりだ?
「む……まぁ、状況にもよるけど双方合意の上ならいいかなーって思うケド」
合意だろうがなんだろうが猫と人間じゃ釣り合わん。
「嫌いじゃないでしょ?」
長い付き合いだしな。
「それだけ?」
それだけだ。
「ふーん………ま、嫌いじゃないならそれでいいけどね」
………………。
なにやら意味ありげなリンダの言葉は無視することにした。
とりあえず、私はいつも通りに文雄の部屋に向かうことにする。あいつの部屋は六畳一間の部屋で、この家で唯一安らげる場所でもある。いつもの寝床はリンダが意味もなく遊びに来るので最近は安心できないし、他の場所で眠ると冬孤がやたらうるさいのだ。
カリカリ、と文雄の部屋の扉を引っ掻くと、いつも通りに扉が開く。
「お帰り、プー。今日は久しぶりに外に行ってきたの?」
山口文雄は柔和な笑みを浮かべて、私を迎え入れた。
黒縁眼鏡を鼻にひっかけて、黒を基調とした服を着ている男は、誰にでも優しく、誰にでも厳しいという、浪漫の欠片もない女のような男だ。そんな地味な男の部屋は質素でこざっぱりとしていて、私の頭脳を持ってしても解読が難しそうな本が所狭しと並べられていた。
文雄は眼鏡を指で押し上げながら、口元を緩めた。
「そっか。今日も平和だったの。良かったね」
そう言って、文雄は私の背中を撫でる。
頭を撫でられるのはそんなに嫌いではない。
でも、背中を撫でられるほうが好きだ。
「いい一日だったみたいだね」
ごろごろ、と知らずに喉が鳴っている。
いいにおいがする。昔から馴染み深いにおいでありながら、一番安心できるにおい。
戦いに疲れたときに、いつも私を助けてくれたにおい。
傷付いた私を助けて、家に迎えてくれたにおい。
「今日も1日ごくろうさま」
文雄はそれだけを言うと、ぱそこんに向かった。文雄はなにやら『ぷろの小説家』というやつらしい。人が感動できる文章を書いて、お金をもらう仕事をしているらしい。
言い換えれば人類の最強の概念兵装である『言葉』を使い、人に生きる意志を与えている。
なかなか、いい仕事なのではないだろうか。
………ふあぁ。
よく考えると今日は昼から全く眠っていない。おかげで夕方なのにものすごく眠い。
私は文雄のベッドに飛び乗ると、丸まって寝る準備を整える。
いつもよりも眠いのであっさりと意識が落ちた。
「おやすみ、ファリエル」
面白い幻聴を聞いたので、私はそれに笑って返答した。
おやすみ、文雄。今日も一日良い日であった。
追記。
うっかりと夜中まで寝過ごしてしまったので唐揚げどころか、楽しみにしていたすもーくさもーんもリンダに食べられてしまい、その落胆たるや並大抵のものではなかった。
猫に曰く、早寝は十文の損、である。
ちなみに、その後ささやかな復讐としてリンダの秘蔵の高級菓子に小さな穴を開けておいた。
三日後を楽しみにしているがいい。
猫が嫌いな方でも楽しんでいただけたら幸いです。
そして、この小説を読んでくれた人全てに感謝を。
2008/06/17:改定
忙しくなって放り出した。
たまに読んでみて後悔した。
後悔したので1から修正。ネット小説の強みってのは、発表した作品に改定を加えられることだと今日になって実感した。
発表から2年。ちょいと長い時間が経過してしまった。
改定後に続きを執筆するのかも少し微妙だけど、それでもやらねばならない。
まず、猫がなにをしたかったのか思い出さなきゃいけない。
頭のタンスをこじ開けろ。